――――誰も、殺したくないの。だから、放っておいて。……お願い。
金髪の魔女の、行き場のない憎しみに睨まれ、リッツは慄いてしまった。
彼女の瞳に映った自分が、醜くて弱々しい餌に見えた。
瞬きをしない彼女の瞳に、彼女の遣う化け物たちに喰らわれていく自分が見えた。
恐いっ!
逃げ出してしまった。
本能に突き動かされるまま、振り返ることさえできず。
自分を護ってくれる誰かを探した。
手足の震えが止まらない。この恐ろしい化け物を殺してくれる誰かを。
嘘を吐く彼女を―――。
どうして僕は……
魔女の村を出て、ようやくリッツは振り返る。弱い自分を詰るように顔をくしゃくしゃにして。
「役に立つ」と言ったばかりなのに…。
「お姉ちゃんは悪くない」、そう言ったのはこの口なのに…。
僕は護れなかった。
罪のない自分を追い込もうとする彼女を。
僕にだって……
寒く澄み渡った青空の下に、自分を信じ切れない子どもがいた。
年若く、野良犬にさえ噛み殺されてしまうような非力な子どもは、化け物と闘う想い人を護りたい想いだけに突き動かされ、何もできないでいる矛盾に憎しみさえ覚えた。
僕が、「坊や」だから?
…違うよっ、僕にだって!
僕にだって、僕にだって……
力のない「若さ」が憎く、力のない「人間」であることが憎かった。
せめて彼女と同じ「血」を引いていればと罪深い言い訳にすがっていた。
――――リーザの家
無意味だと知りつつも諦められず、少年は魔女の家に引き返した。
当然、そこに彼女の姿はない。
静まり返った他人の家。ついさっきまで死闘が繰り広げられていた場所。
隅に積もる埃でさえ、彼の訪問など望んでいない。
そう感じながら、少年は部屋の中を見渡した。
「……あ。」
そこに、自分の上着が掛かっていた。
誹謗中傷に倒れ、陽の光を忘れた独房の中の彼女の肩に掛けた自分の上着が。
「お姉ちゃん…」
ポツリと零した呟きは知らず識らず彼の鋳型に赤い血を流しこんだ。
少年はもう一度だけ信じることにした。
その鋳型が、想い人を救うこの世にたった一振りの『剣』になることを。
部屋から防寒着がなくなっていることに気付き、彼女たちは山に向かっているのだと考えた。
そうして見つけた「人間のものでない足跡」を頼りに、少女の目指す敵の本拠地へと直走る。
彼女の瞳に映った自分の姿を、もう一度確かめるために。
自分が、彼女の世界に受け入れられる存在であるために。
――――霊峰アルパス中腹
雪山に入ってからの追跡に苦労はなかった。
彼女の連れる化け物たちが大量の雪を掻き分けてくれたお陰で、十分すぎる「道」ができていたからだ。
さらに、除雪され幾分か平坦になった道は、山歩きに慣れていないリッツにとって細やかな助けになっていた。
むしろ今、注意を払うべきは一行とは別の存在だった。
少年が持っている武器といえば、家から持ち出した手頃なサイズのフルーツナイフくらい。
そんな叩けば折れてしまうような刃物より何倍も役に立ったであろう「石ころ」は厚い雪の下に隠れ、未熟な戦士の助けを拒んでいる。
「……」
恐ろしくないはずがない。
兄弟ゲンカでさえ一度も勝ったことのない彼にとって、化け物はまさに『化け物』そのものに感じられた。
その上、まともに雪山に登った経験もない。
「ハァ、ハァ…」
いくら体力のありあまっている子どもとはいえ、道が踏み均されているとはいえ、それでも足は僅かに沈むし、雪の結晶たちは容赦なく陽射しを照り返す。
吹き降ろす冷気はまるで獲物で遊ぶ肉食の獣のように、少年を嬲っては生死を窺うように付かず離れず厭らしく纏わりついてくる。
「ハァ、ハァ…」
そして――――、
「あ…」
遂に、恐れていたものがやって来てしまった。
今はまだ、それは豆粒程度にしか映らない。
けれども、ソレらは明らかに彼を目指して真っ直ぐに駆けてくる。
「あ、あ…、」
戦う心構えはしていたはずだった。
彼女のため。少しでも自分を想ってくれたあの人のために僕は闘うんだ。そう決意したはずだった。
けれども、いざそれが迫ってきていると知ると、躍動感のある殺意が目の前までやって来ていると知ると、自分が武器を持っていることすら忘れてしまっていた。
「餌」は、抗うことを考えられなかった。
「……あ…」
恐怖のあまり、立っていることもできず尻もちをついて座り込んでしまった。
胸が機関車のようにドクドクと脈打ち、混乱している少年をさらに急き立てる。
雪の冷たささえ忘れるほどに、少年の頭は止まらない蒸気で真っ白に塗り潰されていく。
「……ダメだ。」
少年はノソリと立ち上がり、ようやく懐にしまっている唯一の得物を抜くことを思い付いた。
視界は頭に溜まった熱でハッキリとしない。
機関部の喚きは止まらない。
遂には少年に、どこから湧いてきたのかも分からない「勝利」の可能性を感じさせてしまうほどに暴走し続けた。
「お姉ちゃんは闘ってるんだ…。」
あろうことか、兄の数倍は大きい狼を迎え撃とうとしていた。
「グルルルル……」
黒い鬣はマントのように翻えり、雪山を滑空する三匹の狼は瞬く間に少年を取り囲んだ。
「フッ…フッ、フッ…、」
興奮で息が乱れ、ナイフを構える少年の手は筆を握る老人のように震えていた。
ソレらを視界に入れてはいるものの、いったい何を映しているのか分からなくなっていた。
一方、黒い狼たちは牙を十分に濡らし、何時いつでも獲物を斬り刻む準備をすませていた。
「小僧、目的はなんだ。」
「…え?」
狼たちとの睨み合いに気を取られ、そこに別の何かが現れたことに全く気付けなかった。
「こんな雪山に何をしに来たのかと聞いている。」
それは呪術師の風体をした老婆だった。
「あなたは―――、ウワッ!」
少年が聞き返そうとすると狼がズイとにじり寄り、目を釘付けにする正真正銘の「殺意」で少年を威嚇した。
「次はない。ここに何をしに来た。」
「僕は…、」
少年は迷った。もしかすると、彼女は仲間になってくれるかもしれない。
女が何か『特別な力』を使っているのは明らかで、なにより、リーザと同じ「狼」を連れている姿に少年は希望を感じた。
しかし、視線を落とすと、握りしめたナイフが少年に淡々と死を囁き続けていた。
「……」
少年はそれにボソリと答え、より強くナイフを握りしめる。
呪術師は少年の煮え切らない様子に嘆息を一つ添えると、気怠げに『命令』した。
「…殺れ。」
少年の背後の狼が、踏ん張りの利かない雪上をものともせず、ミサイルのごとく小さな体へと体当たりした。
狼の半分以下の体重しかない小さな体は軽々と吹き飛び、雪の上に落ちてからも数メートル転がった。
呪術師は全身から「赤」を吐き出す少年の傍らに立ち、あからさまに億劫さを顔に表し、尋問を続けた。
「大体の予想はついている。…あの小娘を追ってきたのだろう?」
「…ウッ!」
『力』を増幅する杖の石で少年の柔らかな体を容赦なく殴りつける。
「…やっぱり……」
「なんだ、話す気になったのか?」
杖に触れた少年は痛みに震えながら、呪術師の顔を見上げた。
どう見ても似ても似つかない容姿をしている。それでも、杖から伝わってくる『感覚』は確かにあの時、睨まれた瞳と同じような『魅力』を感じさせた。
「…ホルンの、人、なんだよね?」
認めたくはない。
認めたくはないけれど、そんな気がしてならない。
もしもそうだったら、この人ならお姉ちゃんを助けてくれるかもしれない。
すると呪術師は目を見開き、初めて少年の言葉に応えた。
「この『力』が分かるのか?…クックック、”子ども”とは、かくも感受性に優れているものなのだな。」
「…ち、違うの?」
聞いていながら、分かりきった答えに失望を覚えていた。
結局、あの小さな魔女に救いの手を差し伸べるのは自分しかいないのだと。
非力な自分しか……。
「知ってどうする。私があの小娘の身内だとして、私がキサマを見逃す理由になるのか?ましてや、身内が身内を助けなければならないという決まりがこの世のどこにある。」
「……」
「ああ、どうやらガキを相手に無駄な話をしているな、私は。」
「……」
「それとも…、そうか。キサマはあの小娘に恋心を抱いているらしいな。」
「!?」
「…つまらん。結局、”正義”などという偶像の正体はいつも決まっている。そういうものなのだ。我々を無駄に悪に仕立て上げようとする、おこがましい怪物たちよな。」
「わ!?」
呪術師が憎らしげに杖を掲げると、三匹が同時に少年へと飛び掛かってきた。
一か八か。掘り返された雪の下から見つけた石を握りしめ、少年もまた呪術師に飛び掛かった。
「バカが。」
深緋色の装飾が鋭い光を放ち、少年に眩暈を起こさせた。出鼻を挫かれ、少年は勢いをつけたまま前のめりに倒れ込んだ。
そうして動けなくなった少年の頭を三匹が噛み砕く。
実に容易い。実に詰まらん。
「正義」は存在せず、「力」が世界を回し続けるのだ。
何も変わらない世界の真理に呪術師は吐き気を覚えた、その刹那の出来事だった。
「…ば、バカな!」
狼は少年を痛めつけるため、少年の手にある石もろとも突き飛ばした。
石は呪術師の額を強打し、少年は彼女を突き倒した。
少年はそのまま遥か後方まで飛ばされ、悶絶する。
呪術師もまた、想像もしなかった痛手に思わず杖を落としてしまう。
――――その音を、主人の呻きを、耳を欹て続けてきた狼たちは聞き逃さなかった。
「な、何をす―――!?グワアァァァッ!!」
全てが仕組まれていたかのように、狼たちは淀みなく反旗を翻した。
色めき立つ三匹は雪を蹴散らし、横たわる呪術師に群がった。
「ガァッ…!」
数十の尖った牙が、穢れ呪われた肉を解体していく。
「やめ…、キサマ…ら……っ!」
肉体強化に重きを置かれなかった呪術師の、息の根を止めるのに十秒と掛からなかった。
その惨たらしい光景を、少年は霞む目に映し続けた。
……どうして?…それよりも、早くここから離れなきゃ。
少年は鈍い手足を引き摺り、ソレらから必死に遠ざかろうとした。
だが、現場を見た獲物を彼らは見逃さなかった。
一匹が少年の前に立ち開かり、ドロドロと滴る血を見せつけた。
「グルルル…」
「……」
今の少年にはもう、拳の一つも揮う力も残っていない。
貧血と混乱でオカシクなった少年の頭でも、もはや「ありもしない奇跡」を見い出すことができない。
だというのに、少年はついさっきまで彼らに覚えていた絶対的な「恐怖」を感じなくなっていた。
ソレらが、「敵」に見えなくなっていた。
だからなのか。ギラギラ、ドクドクと脈打つ真っ赤な瞳を、喰らうことへの躊躇いを知らない瞳を、真っ直ぐに見詰めていられた。
「……」
「……」
しばらく二人は見詰め合った。
すると、狼は何を告げるでもなく少年の前から去り、仲間たちと一緒になって再び「怨敵」の肉を貪り始めた。
「…お姉ちゃんはあんなんじゃない。」
狼たちが頭を突き刺す度に呪術師の腸から血が泥水のように飛沫く。臓も骨も憎しみに噛み砕かれていく。
命は「怨嗟」という炎に魂もろとも焼かれ、この世から跡形もなく消えていく。
リッツは「魔女」の皮を被った真の「化け物」の末路から目を背け、彼女の下へと急いだ。
…一難去った。
だというのに、それを陰から見ていた「痛み」が、ここぞとばかりに少年を襲う。
経験したことのない痛みが、目に映った化け物の末路が自分に乗り移ったようだった。
恐怖に溶けた冷気が少年の内から外から凍えさせ、少年を「勇気」もろとも寄る辺のない孤独へと突き落とそうとしていた。
「…痛い、痛いよ……。お兄ちゃん、お姉ちゃん……。」
そうして零れ落ちた一粒の滴が、少年の決意を呆気なく崩してしまう。
「痛い…、痛い…、」
どれだけ涙を流しても、甘えた声を漏らしても彼が頼りにする人は現れない。
「痛い…、痛い…、」
まるでそういう機械のように少年は無駄な時間を口にし続けた。
やがて少年は力尽き、自分の血で染めた雪の上に倒れ込んだ。
「…お、兄ちゃ、ん……」
雪に抱かれ、吹き荒ぶ冷気にあやされ、ゆっくりと…、
瞼をおろした。