その日、一匹の黒装束が非情な現実を前にして呆然と立ち尽くしていた。
「…仕事がない?」
「あぁ。この通り、見事になにもない。」
受け付けの老人はマグカップを片手に笑ってみせた。
ここはアルディコ連邦一犯罪件の多い町、インディゴス。
そんなインディゴスの、ドブ掃除から幽霊退治まで請け負う賞金稼ぎ組合に仕事が一件もない?
そんなことあり得るのか?
いつもならそれらの書類作業で忙しないギルドの事務所が、夜逃げした後のように閑散としている。
窓口の老人の他には、暇を持て余し、デスクに突っ伏している男が一人いるだけだ。
職員だけじゃない。賞金稼ぎの姿も一つとしてない。
「10年に一度、こういう潜伏期みたいなものが来るんだよ。」
少し前まで所狭しと貼られた依頼書さえ、今は一枚も見当たらない。
賞金稼ぎは自営業だ。仕事がなければ当然、収入もない。
金に困っている訳じゃない。
ただ、俺には他にすることがないだけだ。
だからこそ、今のこの状況は俺にとってひどく残酷な仕打ちのように思えた。
「安心しな。数週間もすれば活きの良いゴキブリどもがバカみたいに溢れてきやがるさ。」
一方の老人はこの状況を楽しんでいるように見える。
「……」
彼に返す言葉も思い浮かばず、その「数週間」をどう生きるか。今はそのことしか頭になかった。
「いい機会じゃねぇか。この町にはまだ馴染めてねぇんだろ?お気に入りのバーだとかベーカリーだとかを見つければいい。」
「……」
老人の言うように、俺は数ヵ月前にフリーの傭兵を止め、故郷を捨て、アルディア国の、インディゴス州に拠点を移した。
町と周辺の地理こそ把握したが、未だに俺の「生活」はそこに根ざしていない。
だが―――、
「必要ない。」
俺にとって「生活」は二の次でいい。
俺に必要なのは生きるための「資金」と「作業」。それだけだ。
「影」として、腐らなければそれで構わない。
すると、普段は眉間に皺を寄せながら寡黙に仕事を捌く老人が乾いた声で笑い、俺に説教をし始めた。
「ボウズ、そういうキザなセリフは女相手に使うもんだぜ?」
ボウズ…、言われ慣れない言葉だからか。いまいち自分に向けられた言葉のように感じることができなかった。
「テメエが誰とも関係を持たねえようにしてるのは分かってる。だがよ、テメエらは何時死ぬとも分からねえ賞金稼ぎだ。」
「……」
「そこにテメエが求めるような”意味”はねえだろうよ。でもな、常に”意味”を追いかけて生きようとするのは人間の悪い癖だ。そうは思わねえか?そんな辞書か聖書みてえな人生を、振り下ろされる剣を目の前に思い返して、テメエは満足できると思うか?」
「……」
「それに、”平和”ってやつを知っておくのも悪かねえぜ?」
「……」
「…まあ、強制はしねえさ。テメエの人生だからな。好きにすればいい。」
老人の言葉を、頭で理解することはできたが、それを「影」と照らし合わせることができなかった。
そうして彼の言葉に対処できず立ち尽くしていると、
「だが…、そうだな。」
見かねた老人は立ち上がり、戸棚から客用のマグを取り出してきた。
「ワシと一杯付き合うくらいの義理はあるだろう?」
そう言うと老人は傍らにあるポットからコーヒーを注ぎ、立ち昇る湯気に満足そうな表情を浮かべた。
俺はそれを黙って受け取り、部屋の隅にあるソファに腰掛けた。
…てっきり説教を続けるための口実かと思っていたが、老人も俺もその一杯を飲み終えるまで一言も口を利かなかった。
「取り敢えず、また来週、顔を出しな。仕事が入ったら取っておいてやるよ。」
俺は老人に礼を言ってギルドを後にした。
外に出て空を見上げると、雲が、いつもよりもゆっくり流れているように見えた。
俺は迷っていた。
アルディアは広い。
連邦の中で最も治安が悪いと評価されるインディゴスに仕事がないからといって、連邦全体から犯罪がなくなった訳ではない。
そう。探せばあるのだ。
…だが果たして、探すほどの価値があるのか?
俺は仕事の内容に特別な感情を持ったことはない。
ただ、日々を生きる糧と無為な時間を喰い潰してくれる作業。「仕事」はそれを同時に与えてくれる。
それだけ。
……本当に、それだけなんだ。
そんな時だ。
ソイツは都合よく現れた。
「アン?シュウじゃねえか。こんな昼日中にブラブラしてるなんて珍しいな。テメエもとうとう廃業か?」
ソイツは、時折ギルドで顔を合わせる小汚い同業者だった。
これと言った特徴はなく、親しい間柄でもない。
この悪態も、インディゴスの人間にしてみれば何のことはない挨拶のようなものだ。
だが、それに対する俺の返答は、コイツにとってよほど異常なことらしかった。
「休暇だ。」
「……」
ソイツは口をポカリと開けると、横切る俺をただただ見送ることしかできないでいた。
「いやいや、おいおい。そりゃあ、本気で言ってんのか?」
「…何か問題か?」
同業者の間で俺が「仕事をする機械」のように思われているのは知っていた。
だが、それに関して俺は特に気に留めてこなかった。
大金を稼ぐ俺を妬んでいるだけで、俺自身に特別な感情を抱いている訳ではないとわかっていたからだ。
だが、どうやらコイツは違ったらしい。
立ち尽くしている自分に気付いたソイツは慌てて俺を追いかけ、隣に並ぶと妙に親しげに話し掛けてきた。
「いいんじゃねえか?化け物にだって休息は必要さ。」
「化け物?」
「自覚しろよ。別にいいけどよ。」
そう思われていることは知っている。だが、敵でもない人間から面と向かって言われるとは思ってもいなかった。
何がそうさせたのか俺には理解できないが、ソイツは俄然調子のいい声色で俺に付き纏ってくる。
「ところでよ、その面を見るに、せっかくの休みだってのに遊び方が分からねぇって感じだな。」
「……そうだな。」
「お前には関係ない」という言葉が真っ先に浮かんだが、コイツから解放されたからといって何かが解決する訳でもない。
自分でどうにもできないのなら、その筋のプロに任せてみるのも悪くない。
そう、思い直した。
「へへへ、俺に任せな。」
――――酒場”葡萄酒の成る木”
インディゴスには昼でも営業している酒場は多い。
”葡萄酒の成る木”もそういう店の一つだった。
店内に入ると、陰気なマスターがこちらをチラリと見遣り、俺の隣の男を認めると挨拶代わりの皮肉を寄越してきた。
「クーガー、ツケも払えねえ三流の賞金稼ぎが俺の店に何の用だ?」
そこは然して広くもない店だが、賞金稼ぎや浮浪者などの賤しい人種も分け隔てなく受け入れるマスターの心情を慕って訪れる客は少なくない。
その日もまだ陽は高いというのに、すでに席の半分が埋まっていた。
「どこの誰が三流だって?そういう口の利き方は控えた方がいいぜ、ビリーさんよ。」
クーガーは事前に回収しておいた俺の「受講料」を、あたかも働いて稼いだ金であるかのようにマスターに投げ渡した。
「一人前扱いされたきゃ”ツケ”なんて見っともねえ真似はしねえことだな、クソガキ。」
「バーカ。払えねえんじゃねぇよ。たまたまその時、金を持ってくるのを忘れただけだ。そんなもん、”酒飲み”と”博打うち”には常識だろうがよ。」
「…口ばっか達者になりやがって。だからこの町には営業妨害しかしねえクソッたればかりいやがるんだ。」
そういった遣り取りを続けながらウォッカを二、三杯ほど飲み、若干の酔いを覚えた辺りで俺たちは早々に切り上げた。
「酒に溺れて一日を無駄にするのはバカのすることさ。」
男は声を高くして言った。
「遊びといえど、意味のねえ一日ってのはハズレた宝くじよりも罪深いのさ。」
…遊びの達人だと自負するこの男は、倍以上も長生きしているあの老人とは正反対のことを言っていた。
「どうだ。いい言葉だろ?」
俺は思った。
コイツもまた、誰かに「遊び方」を習ったんだろう。
俺よりも5、6つ年下なのに不自然に完成された弁が、別の人間の臭いを感じさせた。
「言ってみりゃあ、酒ってのは一日の何もかもを最高にしてくれる魔法の薬みたいなもんさ。」
「そうか。」
「そうさ。それで楽しめねえとすりゃそれは”酒”のせいじゃなくて、ソイツのケツが臭えからさ。ママに拭いてもらわなきゃ糞の一つも満足にできねえようなガキに”酒”は早過ぎんだよ。法律でもそう決まってんだろ?」
その「誰か」と「老人」は同じ世界を生きているはずなのに、生きることに対して違う答えを見出している。
同じ人間なのに。
「影」にはそれが理解できなかった。
この違いは何なんだ?
俺は話の腰を折らないよう、相槌だけを返し続けた。
「んで、次の遊びなんだがよ、アンタの希望はあるかい?食うか?抱くか?」
「…お前の好きな方にすればいい。」
その通りのことは知っていた。
だが、経験のない俺は知らず識らず男に尋ねていた。
「ここは?」
そこには何人もの女たちが並んでいた。
定位置から動かず、こちらに卑猥な言葉や視線を送ってくる。
まるで、天井から吊るされたバナナを取ろうとする猿のように、女たちはあれやこれやと工夫を凝らして俺たちを誘惑する。
俺の目には、それが同じ人間には見えなかった。
「は?何言ってんだよ。ここで女を買うんだよ。アンタもボーッとしてねえで、通りに立ってるのから好みのヤツを選べよ。」
クーガーはまるでウィンドウショッピングでもするように居並ぶ女を品定めし、選び終えると「じゃあ、また後でな」と言い残してさっさと建物の中へと入っていった。
「……」
俺は迷った。
自分の未熟さを認め、男の言う通りにするべきか。それとも、今のこの居心地の悪さに従うべきなのか。
そうして選んだ答えは、少なからず俺自身を驚かせた。
「どうしたの?もしかして初めて?」
彼女は俺の手を引き、ベッドに座らせると俺の目を覗きこみながら言った。
「……ああ。」
長い黒髪、背は平均的で健康的なスタイル。露出こそ控えめだが、ポルノ雑誌のモデルをそのまま写したかのような容姿をしていた。
「…そう。」
彼女はしばらく俺を見詰めると、黙って冷蔵庫から飲み物を持ってきた。
「付き合いであまりこういう所には来ない方がいいわよ。アンタたちだってお金をドブに捨てるような趣味があるわけじゃないでしょ?」
キャップを捻るとボトルは炭酸の抜ける小気味良い音を立てた。
「ほら。これ飲んだら―――、アッ。」
俺は差し出された彼女の腕を掴み、彼女をベッドに押し倒した。
「コラ、こぼれちゃうじゃない。」
彼女は器用にボトルをテーブルに置くと、逆らうことなく横たわった。
「……」
その先が、分からなかった。
知識はあっても、体が言うことを利かなかった。
「……ほらね。勢いだけで来るところじゃないでしょ?」
馬乗りになる俺の髪を掻き揚げながら、彼女は笑った。
返事ができず、俺たちはそのままの体勢でしばらく見詰め合っていた。
「名前、聞いてもいい?」
「……シュウ。」
「ファミリーネームは?」
「…ない。」
「……そう。」
彼女はソッと俺の首に両腕を回すと自分の方へと引き寄せた。
「いいよ。アタシが教えてあげるわ。」
その後に見た彼女のあられもない姿はひどく艶かしく、けれどひどく神秘的なものに思えた。
刺激的で、衝撃的な経験のはずが、どこか安息を覚えさせてくれる時間が俺を満たしてくれた。
「アナタ、インディゴスの生まれじゃないでしょ?」
「なぜ分かる?」
あらかたの行為をすませると、俺たちはベッドの上で抱き合ったまま余韻に浸っていた。
時折、ポツリポツリとお互いが思ったことを口にし、相手はそれに一言だけ答える。その繰り返しが続いた。
「目が、違うもの。」
彼女の瞳は俺の瞳だけを真っ直ぐに見詰めた。
そうして俺の目をなぞる柔らかな人差し指は頬へ走り、俺を黙らせるように唇を押さえた。
「…冷たい。でも、とてもキレイ。雲を全部拭き取った青空みたい。綺麗。だけど、どこか不自然さもある……。」
人差し指はゆっくりと唇の中へと滑り込んでくる。
「…沢山、人を殺してきたんでしょ?」
滑り込んできた人差し指は舌を捉え、優しく押さえつける。
「…でも、アナタはとっても優しい。」
人差し指を引き抜くと、彼女はソッと唇を重ねた。
だがその先はなく、彼女はベッドから降りると服を着始めた。
「ありがとう。素敵な時間だったわ。でも、もうここには来ない方がいいよ。」
その時見せた彼女の笑顔は、どこか俺を憐れんでいるように見えた。
「思ったよりも楽しんでたみたいだな。」
クーガーはニヤついた顔で俺を待っていた。
「……そうだな。」
確かに、初めての肉体関係には快感もあった。
だがそれよりも、「女」という存在を初めて認識したような不思議な感覚が―――俺の内側に、容易に指先を捻じ込んでくる彼女が―――、俺の「影」を少し濁らせたような感覚に、妙な興奮を覚えていた。
体を重ね、俺の目の奥を覗き、憐れんだ笑顔を投げかける彼女が、「影」に飼われ続けてきた俺の中の「自我」のようなものを照らしたような気がした。
……それは…、俺にとって良いことなのか?
少なくとも、気分は悪くなかった。
「あ…」
「ん、どうした?」
彼女の、名前を聞いてなかった。
「…いや、何でもない。」
そう口にした時、「口実」ができたことを密かに喜ぶ自分がまた少し、こびり付く「影」を洗い落す。
その後、クーガーは俺をカジノへと連れて行き、払った授業料を全てつぎ込んだ。
「まあ、金と女の世界ってのは分からねえ方がオモシれえってことだな。」
負けたはずなのに、クーガーはやけに楽しそうだった。
「……」
「どうだ。少しは羽目の外し方ってのが分かったかい?」
「…部分的にな。」
「ハハッ。まあ、少なくとも今朝よりはマシな顔になってるよ。」
頬に触れると、数時間前の体験がありありと蘇ってくる。
「…そうだな。」
――――常に意味を求めて生きたがるのは人間の悪い癖なのさ
そう言ってカップを傾けた静かな時間
――――意味のねえ一日ってのはハズレた宝くじよりも罪深いのさ
そう言って抱いた彼女の身体
言葉らは真逆の世界を見ているのかもしれない。
だが、世界は丸い。
その意味はもしかすると巡り巡って同じ場所を目指して歩いているのかもしれない。
……世界は丸い
それなら俺が「影」であることもまた……。
俺は、少しだけ二人の言葉を受け入れられた気がした。