アーランド共和国アールズ領は発展した。
五百にも満たなかった王国の人口はすでに五十万を越え、かつて持て余していた膨大な国土には整備された農地と大都市、豊かな自然が共存し、それらを舗装された街道がつなぐ。首都のアーランドのみならず海を越えた先にさえ交易の網を伸ばし、共和国全体の益に大きく寄与している。はじめてアールズを訪れた首都出身の旅人や商人たちは、長年辺境の小国と噂されていたアールズの変わりように目を疑うという。
アールズの発展は、共和国に合併される直前の王国時代に始まった。
もとより国土が広く土壌は豊か、立地もよく国民のフロンティアスピリッツはあふれんばかり。発展に必要な要素はそろっていた。それらを先頭に立ってまとめあげ、アールズを世界有数の大国として堂々共和国入りさせた英雄がいる。
メルルリンス・レーデ・アールズ。当時の国王の実の娘にして、アールズ最後の王族。天真爛漫な性格で民からの覚えは極めて良好、自ら前線で指揮をとり杖を振るう無鉄砲さで兵士たちからは戦女神とあがめられた。合併後王位を失ってからも長らく最強のプリンセスとして親しまれ、その勇名は大陸全土に轟く。ある天災錬金術士によって本人に無断で数々の逸話が書籍化されており、その知名度たるや『アーランドの首長の名前は知らないけどメルル姫なら知ってる』と国民が口をそろえるほど。近年、アールズを発展させた錬金術を広めるため広く弟子をとったことで海を越えた先にさえ名が広まった。
つまりメルルはまごうことなき偉人、歴史に名を残す大英雄なのである。
そんな彼女、メルルが今――天寿を全うしようとしていた。
「しっかりしてください師匠!」
「師匠、そんなっ、私まだたくさん師匠に教えてもらいたいことが……」
「師匠の錬金術なら、こんな病気なんて……なのにどうして!」
「師匠!」
旧アールズ王城、メルルの寝室。メルルは豪奢な天蓋つきのベッドの上にぐったりと横たわっている。年老いてなお活発な心に影響されてか、齢百を超す割にメルルの体は若々しい。
それでも生きている以上、いつか終わりは来る。幼馴染で世話係のケイナ、教育係のルーフェス、錬金術の師匠の師匠と師匠、父親、たくさんの友だち――みんな先立っていった。自分の番が来ただけだ。
もちろんメルルに師事する錬金術士の卵たちにとって、メルルの死は受け入れられることではない。少年少女たちが大粒の涙を流しながらすきまなくベッドを囲んでいる。
「メルル姫ー! あんたが死んだら俺も死ぬぞ!」
「嫌だよ姫様! 生きて、生きてよぉ……!」
窓の外からは老若男女入り混じった悲鳴が聞こえてくる。王城の前にはデモよろしく民衆が詰めかけていた。王城を守る兵士たちも民衆にまじって男泣きしているが、王城になだれこむようなことはない。メルル姫を困らせたくないからだ。
(なんだか申し訳ないなぁ)
口を動かす気力も残っていないメルルは、小さく苦笑する。
メルルの寿命は後数分で尽きるが、錬金術を使えば何十年、何百年と延長することができるし、なんなら永遠の命さえたやすい。文字通りの万能薬や人工の太陽、命まで調合できるメルルには造作もないことだ。
しかしメルルは延命の道を選ばなかった。
(ごめんねみんな。私、もう疲れちゃった)
メルルは疲れていたのだ。
最強のプリンセスとして頼られ、最高の錬金術士として讃えられ、英雄として敬われることに、ではない。何の肩書もないただのメルルとして接してくれる相手が一人もいなくなった現状が、寂しかった。
せめて自分がいなくなっても大丈夫なよう、後進の育成に全力で取り組んでいたけれど、小さな弟子たちとの別れも結局さびしい。
メルルの脳裏に走馬灯がめぐる。父に直談判してトトリ先生に弟子入りした。父はわがままを許してくれて、素敵な思い出がたくさんできた。そうして最後にまたわがままで弟子たちを泣かせている。
わがままに生きて、わがままに死んでいく。弟子たちの泣き顔を前にメルルは自嘲の笑みを浮かべた。
「……みんな」
「師匠っ!」
絞り出すような声だった。
弟子たちは一語たりとも聞き逃すまいと耳をすませる。
「――ありがとう」
それは英雄の遺言と呼ぶにはあまりにも平凡な、しかしまっすぐな感謝の言葉だった。
呆けたように身構え続ける弟子たちだが、すでに続きはない。
「師匠?」
「先生……!」
メルルは安らかな微笑をたたえ、永遠の眠りについていた。
最強のプリンセス、最高の錬金術士にして大英雄、メルルリンス・レーデ・アールズ。享年百十五歳。
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と、いう夢を見た。
「うひゃあっ!?」
アールズ王国王城、メルルの寝室。つい最近十歳の誕生日を迎えたメルルは、悲鳴とともに飛び起きた。
窓から差し込む月明かりからして時間は深夜。シーツとネグリジェが汗に濡れ、ストロベリーブロンドの豊かな髪が肌に張り付いていた。
「こ、ここ、怖かった……!」
まるで本当に百十五年間生き抜いて英雄になった体験をしたかのようだった。徐々に視界が暗くなっていく最期の感覚も夢とは思えないリアリティで、最悪の夢見だ。
しかしいいこともある。夢の中で見聞きしたことを一つ一つ細かく記憶しているため、夢を見ただけなのにとても賢くなったような気がするのだ。頭も普段より冴えている気がする。
とはいえ汗をかいて気持ち悪いし、のどもかわいた。まずは服を着替えよう。
そうしてメルルがクローゼットに向かおうとすると、ベッドに誰かが突っ伏しているのに気づく。
「ケイナ? ケイナってば。こんなとこで寝てると風邪ひくよ?」
「ううん……メルル?」
それはメルルの幼馴染にしてお世話係のメイド、ケイナだった。
変なところで寝ていたせいでメイド服にシワがよってしまっている。
「ケイナがこんなとこで寝ちゃうなんて珍しいね。どうしたの?」
「メルルっ!」
「わあ!?」
メルルは目を白黒させるしかなかった。ケイナが泣きながら飛びついてきたからだ。
ケイナはメルルをベッドに押し倒し、もう離さないとでもいうようにぎゅっと抱きしめる。
「メルル、よかった、本当によかった……!」
「ケイナはあまえんぼさんだなぁ。怖い夢でも見たの?」
「違います! 覚えてないんですか?」
メルルが首をかしげると、ケイナは涙まじりに話し出す。
いつものようにメルルを朝起こしにいくと、やけに眠りが深い。シーツを剥ぎ取ったりベッドのマットレスを引っこ抜いたりくすぐったりしてもてんで起きない。
さすがにこれはおかしいと考えて教育係のルーフェスに助けを求めるが、それでも起きなかった。すると次第にメルルの体が熱くなり、異様な高熱でうなされるようになる。
医者を呼んでも原因は分からず、薬も効果がない状態が三日続いた。このまま目覚めることはないのではという不安が少しずつ膨らんでいく中、やっとメルルが目覚めたのだという。
「そうなんだ。心配かけてごめんね。この通りピンピンしてるから、もう大丈夫だよ!」
「メルル……」
「なーに?」
「い、いえ、なんでもありません!」
ケイナは顔を赤らめてそっぽを向く。するとメルルが何を言うヒマもなく、「王様とルーフェスさんを呼んできます」と言いおいて出ていってしまった。
それからは怒涛のごとくだった。
目の下にクマをつくって号泣する父に何度も抱きしめられ、大陸で一番偉いという医者に入念な診察を受ける。至って健康と診断されると、ルーフェスを始め、王城に勤める親しい兵士やメイドたちが昼夜の別なくお見舞いにやってきた。
念の為に安静にしているよう言いつけられ退屈していたメルルはお見舞い客一人ひとりを笑顔で迎え、元々忠誠心の高い彼ら彼女らの心を射抜いていった。
「――そして少女は決意しました。海の魔物を倒し、必ずお母さんを探し出すんだと。だって少女には、今までたくさんの旅をしてきた、心強い仲間たちがいるのですから」
「うおおお! トトリちゃーん!」
「それでどうなったんですか!?」
「……あはは、ごめんね。今日はこのへんで」
「えー!?」
「えーじゃありません」
ベッドの上のメルルを囲んでいた兵士やメイド達は、後ろから響く冷徹な声に肩を震わせる。
「本日の面会時間は終了だ。全員、仕事に戻れ」
「は、はいぃっ!」
蜘蛛の子を散らすようにはけていく見舞い客たち。
怜悧な声の主――ルーフェスはため息をつく。
「ルーフェスは時間に厳しいね」
「王に仕える身としては当然のことです。姫様、あまり長く話されていては、お休みの期間を設けた意味がありません。明日から通常の生活に戻りますが、ご病気の原因がわからない以上、再発の可能性は否定できないのです。以前のような無茶はできるかぎり控え、ご自愛いただきますよう」
「うん! 心配してくれてありがとね!」
「……恐縮です」
ルーフェスは内心の動揺を鉄面皮で抑えつけ、優雅に頭を下げた。
ルーフェスの職務はアールズ国王デジエの執務補佐と、メルルリンス姫の教育だ。教育にはメルルの嫌がるような正論や長々とした説教(ルーフェスは最大限要約しているが)が必要になることもある。そのたびにメルルは眉をへの字にしてどこかへ飛び出していってしまう。
だが今のメルルはどうか。言葉を聞き流すわけでもなくキチンと最後まで聞いて、笑顔でお礼まで言う。教育係としてここまで冥利に尽きることはない。
(熱で一時的に頭がどうかしているのかもしれません)
「あ、今失礼なこと考えたでしょ」
「……滅相もございません」
ドンピシャだった。動揺が顔に出たのか、メルルは頬を膨らませてルーフェスの元に寄ってくる。
「もー。本当に言ってるんだよ? ルーフェスが色んなこと心配して、細かいこともキチンとしてくれる。だから」
いつもありがとう、とメルルは繰り返した。満面の笑みで。
「もったいないお言葉です。さて、明日から再開する勉学では三日の遅れを一日で取り戻すことになります。今のうちにしっかりとおやすみください」
「うげっ……お手柔らかにね?」
「善処いたします。では」
ルーフェスはいくらか早口でまくしたてると、足早に出ていった。その耳は若干赤くなっていたものの、苦手な勉学の話題を出されて憂鬱なメルルが気づくことはなかった。
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翌日。
寝室から解放されたメルルは、苦手なルーフェスによる勉学の時間から逃げることなく、教室代わりの小部屋に向かっていた。
いつものメルルなら解放感に触発され城下町に遊びに行っていただろうが、今回は違う。なにせルーフェスの蔭の苦労を夢で見たのだ。
王族に必要とされる膨大な範囲の教養を習得し、誰かに教えるのはとてもたいへんなことだ。そのためにルーフェスがどれほど苦労して学び、教材一つ用意するにもどれほど時間をかけているのか、夢の中の英雄メルルは知る機会があった。
(あれだけ私のためにがんばってくれてるのに、逃げたら失礼だよね!)
人を思いやり、感謝する心。メルルが夢から学んだことの一つだ。
小部屋の前に立ち、ノック。
「ルーフェス、来たよー!」
「お入りください」
扉を開けると、まず目に入るのは紙の束がでんと乗った机だ。その向こうには無表情のルーファスが佇んでいる。
「逃げずに来ていただいたことを嬉しく思います」
「あはは……逃げていいなら逃げたいけど……」
「ダメに決まってるでしょう」
にべもなく断られ、メルルは肩を落としつつ机に着いた。
ルーファスによるとまずは復習を兼ねた実力テストをするらしい。数学、語学、地理、近代史、古代史、経済史、帝王学、礼儀作法、その他諸々――テストの結果に応じてこの先の時間割を決めるのだとか。
「え? じゃあ成績がよかったら自由な時間が増えたりするの?」
「ええ。全科目九割以上で、自由時間を約束しましょう」
「そんなの無理だよー!」
「つべこべ言わない。始め」
問答無用で砂時計がひっくり返され、メルルは不平たらたらで問題と向かい合った。
サラサラと羽ペンを走らせていると、不意にメルルの手が止まる。
(これって――?)
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昼下がり。メルルは王城の城門を出てすぐのところでしきりに首をひねっていた。
「うーん、うーん……」
「何うなってんだよ。また病気か?」
「あ、ライアスくん」
メルルと同じ年頃の少年が声をかける。ルーフェスとよく似た切れ長の目、整った顔立ちからも分かるように、ルーフェスの実の弟のライアスだ。将来は兵士志望で、よく王城の兵士たちにまざって訓練している。メルルとは幼馴染のような気安い仲だ。
「この時間にここにいるってことは、兄貴の勉強から逃げてきたのか。ったく病み上がりのくせに」
「逃げてない! ちゃんと受けてきました!」
「じゃあ何うなってんだよ。サボリの言い訳を考えてるのかと思ったぜ」
「実は――」
テストの結果は全教科満点だった。
これには珍しくルーフェスも「バカな!?」と動揺していたが、一番驚いたのはメルル本人だ。自分でも難しいと思う問題が当たり前のように分かれば驚くのも当然。ただ、夢の中で大錬金術士メルルが直面していた複雑な錬金術の問題に比べれば簡単だったし、歴史などの知識も夢の中のメルルが覚えていた。
もちろん夢の一つや二つ見たくらいで頭が良くなるわけもない。
だとすると、病み上がりだからとルーフェスが自由時間をくれるために気を使ってくれた? あの教育の鬼みたいなルーフェスが? そんなことがあり得るだろうか? と悩んでいたのだ。
話を聞いたライアスは顔をしかめていた。
「お前、逃げてきたからってそんな適当な嘘言うなよ」
「ほんとだって! なんなら今からルーフェスのとこ行こうか?」
「……マジなのか?」
「マジマジ」
しばらくはライアスも釈然としないように首をひねっていたが、「後で兄貴に聞いてみる」ということで落ち着いた。
「それより、今から自由時間だろ? 護衛として付いてってやるよ」
「えー、ライアスくんの護衛じゃなぁ」
「なんだよ!? 俺だってちゃんと強くなってんだぞ」
「この前ぷにの体当たりで川に落とされて泣いて――」
「おま、なんで知ってんだ!?」
「あはは、なんでだろーねー!」
なぜかというと、夢の中で老境にさしかかったライアスが、酒の席で笑い話として話してくれたからだ。
メルルが城下町に向かって駆け出すと、ライアスは慌ててお転婆な姫を追いかけていく。すっかり元気になったメルルの姿に王城の兵士たちは笑みを深めて手を振った。