アールズにトトリとミミがやってきてから三日目の朝。二人が寝泊まりするメルルのアトリエには、パイの焼けるいい匂いが漂っていた。
それにつられたように目が覚めたミミは、手早く身だしなみを整えロフトから降りていく。すると、案の定朝から錬金釜をかきまぜるトトリの姿があった。
「おはようミミちゃん。今朝はプレーンパイだよ」
「おはよう。毎度思うけど、なんでかき混ぜてるだけなのに焼けたような匂いがするのよ?」
「さあ、なんでだろ」
なぜ小麦粉と塩と水を釜に入れてかき混ぜるだけでこんがり焼けたパイができるのか。錬金術の不思議に律儀にも突っ込むミミだが、錬金術士当人にもてんでわからないことだった。
ミミも本気で気になったわけではないのか、手慣れた様子で食卓、椅子、お皿など朝食の用意を整えていく。程なくパイの調合が完了し、穏やかな朝食の時間が始まった。
「いよいよ今日だね。メルルちゃんの即位式」
「ええ。歴史的瞬間に立ち会えるんだから、光栄なことよね」
「そうだよね……あれ?」
トトリはこてんと首をかしげる。
「てっきり『あの子の即位式なんて興味ないけど、ついでだから見てあげるわ』とか言うと思ったのに。調子悪いの?」
「はっ倒すわよアンタ」
ミミはトトリなどの近しい者にツンケンした態度をとり、そうでもない者には当たり障りのない柔らかな態度で接する。たった数日の付き合いだがメルルとはそれなりに仲良くなっていたので、『素直じゃないモード』になるかとトトリは予想していた。
ミミは小さくため息をつくと、遠い目で窓の外を眺める。植え込みに隠れて見えないが、その先にはアールズ王城がある。
「実際大したものよ、あの子。誰も知らないような王国を、たった五年でここまで大きくした。錬金術の腕だけじゃなくて、冒険者としての腕っぷしも一流。人望だってある。それだけの偉人の即位式に立ち会えるのは、本当に幸運よ」
「ミミちゃんがここまで言うなんて……本当にすごい子なんだなぁ、メルルちゃん」
一冒険者であるミミから見てもメルルの功績はすさまじい。開拓地に必要な物資を錬金術で調合し、手ずから届けに行くだけでなく、危険な魔物を独力で討伐して回ったというのだ。肉体労働の面もある錬金術を毎日こなしながら魔物の討伐まで一人で済ませるというのは、双方の大変な点を知っているミミからすれば超人の業だ。国民の口ぶりや直接会って話した印象からして王の器もある。文句のつけようがない。
「あんたから見ればどうなの? アーランドの一流錬金術士さん?」
「い、いちりゅう……えへへ。えっとね、コンテナの中の調合品を見たんだけど、すごい腕前だと思うよ。たぶん、ロロナ先生と同じかそれ以上だと思う。正直すごすぎてよくわかんないけど」
自由に使っていいと言われたアトリエの設備の一つ、コンテナ。調合品や素材の保管庫で、中に入れておけば経年劣化を完全に無効化できる、錬金術士の必須道具だ。
その中身はトトリにとって宝の山だった。見たことない素材、特性、調合品の数々。特に調合品の出来栄えは舌を巻くほかなく、メルルが年下なことも相まってトトリの上達意欲を高めていた。
いよいよ完璧超人じみてきたわね、とミミが考えていると、「でもね」とトトリが続ける。
「ちょっと変なところがあるんだ」
「変なところ?」
「コンテナにはアイテムが大体二千個入るんだけど、その半分以上が
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即位式は王城前の広場で実施された。
英雄メルルの即位には十万の住人のうちほとんどが興味津々だったが、無論全員は収まらない。練度の高い兵士たちが五千人程度の参加者たちを誘導し、式の始まりに備える。
トトリとミミはメルル姫が自らスカウトに赴いたVIPとして、最前列の席に着席していた。
厳粛な空気の中、音楽隊が勇壮な演奏を披露すると、現国王デジエが特設ステージに登壇する。
「これより、アールズ王国第〇〇代女王、メルルリンス・レーデ・アールズの即位式を執り行う!」
宣言とともに式のプログラムが順々に消化されていく。アールズ王国の偉い人たちのスピーチ、アーランド共和国からやってきたたぶん偉い人たちのスピーチ、国歌斉唱――最初こそ緊張で固くなっていたトトリだが、退屈になってきた。
「ぐぅ……」
「バカっ!」
「あいた!」
舟を漕いだとたんミミにつっつかれる。いけないとは分かっていても眠いものは眠く、その後何度も起こされた。
(メルルちゃんが『女王になります』って言うだけかと思ってたのに……)
居眠りと覚醒を繰り返し、ついに深い眠りの入り口に片足を突っ込んだその時、ようやく救世主が――
「続きまして、メルルリンス・レーデ・アールズ様の所信表明――なんだ!?」
現れるかと思われた。
しかし式はそこで中断される。地震だ。立っていられないほどではないが、はっきりと揺れていることが分かる程度の揺れが、アールズを襲っている。
「トトリ!」
寝ぼけ眼でわたわたしているトトリを庇うようにミミが抱く。
「地震だ!」
「逃げろ、崩れるぞ!」
「こら待て!」
静かな空気とは一転、パニックに陥る参加者たち。兵士たちは慌てて制止するが、この状況で声が届くわけもない。
ただ一人、彼らに声を届けられるとすれば――
「みんな落ち着いて!」
メルルを除いて他にいなかった。
メルルの声は地響きがやかましい中でも不思議と遠くまで届き、群衆がピタリと動きを止めて振り返る。そこには、きらびやかなドレスを身にまとった紛れもないお姫様が立っている。
「揺れはすぐに収まるよ! 慌てると危ないから、姿勢を低くしてじっとしてて!」
ただ、揺れる地面にしっかり直立し、堂々としているその姿は到底お姫様の域に収まるものではない。群衆は自然とその場で身を低くして動きを止める。
数秒か、数十秒か。メルルの行った通り、揺れはすぐに収まった。兵士たちはすぐさま「けが人と被害状況の確認急げ!」と動き出す。
一方メルルは、兵士に促されてもその場を動かず、再び堂々と口を開く。
「みんな聞いて! この揺れの原因はヴェルス山の噴火だよ!」
ヴェルス山とは、アールズ北方に位置する火山のことだ。ふもとにはアールズ第二の都市とも呼ばれるユヴェル村がある。
メルルの言葉を裏付けるように、遠く見えるヴェルス山の頂からはもうもうと噴煙があがり、雲のような火山灰で周囲が薄暗くなっていく。
群衆に不安が広がった。火山なんてどうしようもない。噴火はいつ治まるのか。これからも地震はあるのか。
「噴火を起こしているのは、火山に住んでる悪い魔物なの! その魔物を倒せば噴火は治まるよ!」
「しかし姫様! 相手は噴火を起こすほど強大な魔物! 倒せるのですか!?」
「大丈夫!」
群衆の一人からの疑問に、メルルは胸を張った。
「こんなこともあろうかと! その魔物に効くアイテムをたっくさん調合しておいたんだ。さっさとやっつけて来るよ! みんなは家に帰って、このことを広めてほしいな!」
群衆がワッと湧く。メルルはいつでもこうだった。開拓に必要な物資を「こんなこともあろうかと!」という言葉とともに取り出し、惜しげもなく国民に施す。危険な魔物が出ても杖を振り回したり、錬金アイテムをぶん投げたりしてあっという間にやっつけてしまう。未来予知に近い慧眼と、未来に対応できる実力。これこそ我らがメルル姫。
メルルはスカートを翻してステージから降りると、歓声を一身に受けながら城へ戻っていった。
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さて、威風堂々と王城の私室へ舞い戻ったメルルだが、
「どうしよー!? 早起きすぎるよー!」
割と本気で慌てていた。
今回の噴火を起こした魔物の名は火竜・エアトシャッター。普段は溶岩の中で眠り、およそ百年ごとに溜め込んだ熱エネルギーを噴火によって放熱するはた迷惑な魔物である。噴火のたびにアールズは甚大な被害を受けており、アールズが小国どまりだった原因の大半はこの魔物だ。
メルルが生まれる数年前に覚醒するが、デジエ、ジオ、メルルの叔母にあたる錬金術士ソフラによって撃退される。そして傷を癒やした後、メルルが十九歳の折に再び噴火を起こす――はずだった。
今のメルルは十五歳だ。つまり、メルルが夢で知っているより四年も早く目覚めたことになる。
「こんなこともあろうかとって言っちゃったけど、まだ準備が……」
アールズ発展における最大の脅威であるエアトシャッターに対し、当然メルルも準備はしていた。しかしまだ完全とはいえない。
今できている準備と言えば、素材用に作っておいた千個以上もの『溶けないレヘルン』だろう。特殊な無限錬金術の技術を組み込まれたその爆弾は幾度爆発しても消えることなく、無限に再利用できる。その性質をどうにか圧縮するオリジナルレシピ『超濃縮無限レヘルン』をこれから作る予定だった。
そのアイテムを使えばエアトシャッターを一撃で永久凍土に封じ込めることが理論上可能。オリジナルレシピの作成とアイテムの調合でちょうど四年、メルルが十九歳を迎える年に完成するはずだった。
「どうしよ、今からレシピ作るんじゃ間に合わないし……レヘルンだけでどうにかなるかな?」
時間は残されていない。ヴェルス山のふもとにはユヴェル村がある。火砕流の危険はないだろうが、近くの山が四六時中爆発していたら怖くて生活どころじゃないだろう。
「ううん、どうにかしなきゃダメなんだ。自分の蒔いた種だもん!」
即断即決。準備ができていないなら、できてる分だけでどうにかする。
メルルは駆け出した。
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アールズ王国郊外。一人で魔物討伐におもむくメルルの見送りは、トトリとミミ、お世話係のケイナの三人だけだった。メルルが護衛もつけず一人で出かけることはよくあることで、特に目立つことはない。
「一人で魔物を討伐してるとは聞いたけど、本当に一人で行くのね」
「大丈夫? 私もついてこっか?」
「あはは、ありがとうございます。でも平気ですよ」
式典を中断した翌日、火山灰に覆われた空は黒く染まり、周囲は薄暗い。住民たちはいつもどおりの生活を送っているが、普段とは違う環境でやはりどこか落ち着かない様子だ。
落ち着かないのはアールズ周辺の魔物たちも同じようで、朝から見張りの兵士たちが忙しく動き回っていた。メルルが一人で行動する理由はこれである。
アールズが発展するにつれて土地は肥え、人が増えた。それに比例するように魔物たちの強さも上昇し、少数精鋭である兵士たちや冒険者たちは街の防備で手一杯。豊かな土地は人だけでなく、強い魔物も惹きつけたらしい。時折出現する、兵士たちでは相手にならない強力な魔物だけをメルルが受け持つ。
住民にとっては今回のエアトシャッターもその一環。日常の一部だ。
「メルル……」
楽観的なメルルたちとは対照的な、暗く沈んだ表情のケイナがメルルの手を取る。
「なんだか嫌な予感がします……」
「ケイナは心配性だなぁ。いつもと同じだよ。ぱぱっと魔物をやっつけてすぐに帰ってくるから。トラベルゲートを使えばヴェルス山も一瞬だもん」
「だといいのですが……約束してください。必ず帰ってくると」
「約束する! 帰りはユヴェル村でキノコのお土産買ってくるからね!」
「ふふ、楽しみにしてます」
こうしてメルルは旅立った。
いつもどおりの魔物退治の旅。メルルの強さを知っている兵士たちや、無敗神話が囁かれている住民たちの中には誰一人、メルルの勝利と無事を疑うものはいなかった。どんな魔物が相手でも当然のように無傷で帰ってきて、「やったね、アールズが発展したよ!」と輝く笑顔を見せてくれるのだと信じていた。不思議な錬金アイテムで移動しているから、きっと今日中にでも帰ってくるだろうと。
しかし、メルルは一週間たっても帰ってこなかった。