その日、連合王国は思い出した。
自分たちが相手にしているのは、あの帝国だと言うことを。
著者不詳『ロンディニウム空襲』
統一歴1947年 某日
連合王国首都ロンディニウム郊外
「…
取材が始まって早々、老将軍、アーチー・ハリス退役元帥は憎々しげに吐き出した。
「忌々しい、ですか」
「忌々しいほどに効果的で、賢い兵器だったと言うことだ」
溜息と共に、彼は我々に語ってくれた。
「
「そう言えば、あの時期の空軍は、防空部隊の拡充が最優先だったような…」
「そのとおり。…なんだい、君、従軍していたのかね?」
「いいえ、閣下。そのころの私は駆け出しの記者でして」
「なるほど。つまり、コソコソ嗅ぎまわって気づいたと」
「ジャーナリズムの仕事を真面目にこなしていただけですよ」
「フン。…まぁ、あの時期、空軍のお偉方は慌てふためいておったからな」
「それほどの衝撃だったのですか?」
「まぁな。今となっては隠す必要も無いから言うが、空軍総司令部は大混乱だったよ」
なにしろ――、と老将は溜息を洩らした。
「世界初の
ライヒ連邦首都ベルン
外務省・外務次官執務室
「――実を言えば、陸軍も上層部の一握りしか知らなかったよ。空軍がそのような『隠し玉』を持っているなど」
「レルゲン閣下ですら、ですか?」
「…いや、私は多少知っていた」
「何故でしょう?」
その質問に、レルゲン
エーリッヒ・レルゲン。
あの大戦当時、帝国陸軍参謀本部に揃った俊英の一人にして、
実際、『レルゲン回顧録』のこともあってか、会って最初に抱いた印象は、『軍人上がり』ではなく『成長した文学青年』、であった。
「…君、『アレ』の正式名称は知っているかね?」
「ええ、『26年式対空標的機』でしたか」
「そのとおり。では、通称は?」
「『VOB』でしょう。我々連合王国人にとってはトラウマに近い響きです」
「それは悪いことをしたね」
その瞬間、かの御仁の愛想の良い顔が崩れたように感じた。
――油断するなかれ、目の前の御仁は
「では、その前の名称は?」
「確か、『V
「然り。直前まで『V1
つまり、とレルゲン氏は苦笑する。
「私が散々苦労させられた、『V1』の改良型、と言うことになっていたのだ」
「苦労、ですか?フランソワ共和国軍を打ち破る切り札となったと聞いておりますが?」
「…確かに、アレの速度と到達高度は素晴らしいものがあった。しかし君、防護服無しでは扱えない、埃が入るだけで爆発を起こし、鉄橋ごと貨物列車を消滅させた代物を、素面で扱える人間がいると思うかね?」
「自分だったら遠慮したいですね」
「全く同感だよ」
そう首を振るレルゲン氏の表情を見ていると…。
…以前ウーガ中将に聞いた、『苦労人』と言うのが正しい評価なのかもしれない。
「だが不幸なことに、私は『V-1』の製造、実戦投入に深く関わっていた」
「それは何故です?」
「…恐らく、陸軍参謀本部作戦課の人間で、一番若かったからだろう」
要するに、体のいい使い走りだな、とレルゲン次官は苦笑した。
――そうではあるまい。
取材にあたり、我々はレルゲンという人物について、可能な限り調べた。
曰く、俊英。
曰く、苦労人。
そして、多くの人間が口を揃えるのは――
『両次長閣下の忠実なる部下』
ハンス・フォン・ゼートゥーア、クルト・フォン・ルーデルドルフ。
当時の帝国軍二大巨頭にして、
「あるいは頭が柔らかかったからかもしれん。…比較的、だが」
「と、言いますと?」
「あの時代で音速の1.5倍で飛ぶ代物だぞ?私とて実際に飛ぶのを見るまでは半信半疑だったくらいだ」
「なるほど」
「そして、秘密を知る人間は少ない方が望ましい。だからこそ、『V-1』の改良型と言うことになっていた『V-1b』、改称して『VOB』のことを知る、数少ない人間に選ばれてしまった訳さ」
「空軍の秘密兵器だったと仰いましたが?」
「射程距離の関係で、大西洋沿岸まで鉄道輸送する必要があった。…で、西方方面軍絡みの鉄道ダイヤと競合を起こして大問題になったという訳だ」
なにしろ、西部方面軍からすれば堪ったものではなかった。
近い将来起こるであろう、敵の『大陸反攻』。
それに備えて陣地構築と部隊装備の充実――消耗著しい東部戦線への割り当てが最優先された結果、遅々として進んでいなかった――に努めねばならないというのに、突如として起こった『物動の遅延』である。
大慌てで原因を探した彼らは、その理由が「空軍高射砲部隊」の手配した大量の「
「『標的をそれだけ運ぶ必要がどこにあるのだ!?』と、西方軍は激怒していたな。
…空軍は空軍で秘密兵器の情報を開示しようとしないから、板挟みになった国営鉄道の人間がノイローゼになっていたよ。可哀そうに」
「それで、閣下が?」
「ああ。『標的機』の正体を知るルーデルドルフ閣下の代理として。それとウーガ中将もだな。彼は当時鉄道部にいたから、ダイヤ調整を担当してもらった。『こんな仕事はこれきりにしていただきたい』と愚痴られたがね」
「それほどだったのですか?」
「そうだとも」
ウーガ中将のことは、我々もよく知っていた。
今でこそ…、いや、戦前から人格者だったと評判のかの御仁こそが、帝国陸軍の鉄道輸送を、ひいては帝国の戦争遂行を支えた『陰の功労者』だと言うことは、その筋の研究者の間ではよく知られたことである。
『彼がいなければ、帝国は戦争を継続出来なかっただろう』
あのゼートゥーアをしてそう言わしめたほどの『鉄道屋』が、愚痴るほどの難事。
それは――
「――なんと言っても、
――ミリタリー・戦史マガジン『歴史●像』
――Jun.2018 №149 より
―巡航ミサイルの誕生――ロンディニウム航空戦(前半)
統一歴1927年12月31日。
その日は、戦史上においても重大な節目として記憶されている。
世界初の巡航ミサイル『VOB』。
その第一波が連合王国首都ロンディニウムに着弾した日として。
文=山本 玲
追い詰められる帝国
統一歴1927年12月初頭、
その支配域は、西はドードーバード海峡沿岸、東はドニエプル川に達し、また黒海の要衝セバスチャン・ト・ホリを攻略し、その制海権を手中に収めていた。
また、軍事攻勢的視点で俯瞰すれば、帝国空軍爆撃隊がクリーミャ半島からルーシー連邦の動力源たるバクー油田に甚大な損害を与えていた。
このため、多くの帝国臣民は「勝利は目前である」(当時の帝国国内新聞より)と浮かれきっていた。
――だが、その内実はお寒いものであった。
1923年から続く大戦によって、帝国はあらゆる分野で疲弊しきっており、国家財政の9割近くを軍事費が占め、増え続けるそれを戦争国債によって調達する異常事態に陥っていた。
軍単体を見ても、戦前には全く想定されていなかった総力戦、作戦領域の広がりは『――参謀本部作戦局、戦務局を問わず、兵站と良質ガソリンの残存備蓄量が話題にならぬ日はなかった』(『ハンス・フォン・ゼートゥーア回顧録』)とあるように、27年初頭には帝国軍の行動に制約を課しつつあった。
この問題への取り組みも行われていた――詳細は『歴史●像』№129号の、拙稿「帝国の兵站」を参照されたい――が、その解決が不完全なままだったことは過去に論じたとおりである。
更に西方の空に目を転じれば、劣勢に立たされているのは帝国の方であった。
フランソワ共和国を巡る戦いに敗れ、ドードーバード海峡航空戦、大西洋通商破壊戦で窮地に立たされた連合王国であったが、このころになると態勢を立て直し、積極的な反攻作戦を発動していた。
その主力となったのが、アーチー・ハリス連合王国空軍大将率いる戦略爆撃機群、通称『千機爆撃軍』である。彼が提唱、実施した夜間・大規模・無差別・絨毯爆撃は今日でも賛否の分かれるところであるが、欧州本土に大規模な地上部隊を送る余裕のない連合王国が取りうる最も効果的な手法であったことは、多くの研究者が首肯するところである。
これに対抗する帝国空軍の状態はと言うと、お世辞にも十分とは言い難かった。
なるほど機材の分野においては、帝国空軍はいまだ欧州随一の戦力を有し、新鋭機、誘導弾などの量産配備も続いていた。
問題は、それを扱う「兵員」にあった。
すなわち、その養成に歩兵のそれとは比較にならぬコストと時間を要する空軍パイロットの補充が、この時期になると追いつかなくなりつつあった。その対応として訓練時間、飛行時間の切り詰めが行われたが、却って未熟なパイロットを増やすことに繋がった。
当時の熟練パイロットが回顧録で「新規補充パイロットが着任してまず行うことは、まともに飛べるかどうかのテストであった」(『ガーランド大将空戦録』)と嘆いたのにはこういう背景がある。
帝国は欧州列強の中でいち早く哨戒レーダーに目を付けており、その開発と量産配備、夜間戦闘機の充足そのものについては熱心に取り組んでおり、特に西方航空戦は「西方防空戦」と呼ばれるほどであったから、それら防衛兵器がいち早く配備される環境にあった。
しかし、敵機来襲を察知したところで、迎撃機に乗り込むパイロットの技量低下、良質ガソリンの供給削減が祟り、妨害はともかく、阻止することは日に日に難しくなっていた。
対する連合王国は、合州国からのレンドリースで齎される潤沢な高オクタン燃料を余すことなく飲み干し、夜間爆撃をエスカレートさせていった。
これにより、帝国の西方工業地域、低地工業地域はじわじわとその生産力を低下させていった。疎開工場や地下工場への移転、構築が本格化するのもこの時期からである。
『V作戦』
無論、このような状況を座視する帝国ではなかった。
ドードーバード海峡航空戦終結後は削減される一方であった防空部隊の増強、レーダー哨戒体制の強化、新型高射砲の緊急生増産などが図られた。
また、「攻撃は最大の防御」の原則に則り、連合王国空軍基地への「送り狼」による襲撃も複数回実施された。
しかし、これらの対処方法を講じるにせよ、常にネックとなったのが先述の『熟練パイロットの損耗』であった。特に「送り狼」攻撃は、最初の一回こそ成功を収めたものの、連合王国側が速やかに対処法を講じたことで、以後は損失の割に打撃を与えられなくなって、結局4回しか実施されなかった。
この様な状況を好転させるべく立案されたのが『V作戦』である。
なお、計画名の「V」はライヒ語で「報復」を意味する「Vergeltung」の頭文字から取られたものであり、VictoryのVではないことに留意されたい。
なお、1970年代に発見された一連の「ツェツィーリエ文書」の分析、研究の進捗により、本計画は陸軍参謀本部、空軍総司令部によるものではなく、――俄かには信じがたいことであるが――当時即位したばかりの帝国皇帝ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルン自らによる起草であったことが判明している。
特に、本作戦で実戦投入された世界初の巡航ミサイル自体、実戦投入に際して空軍に移管されたものの、設計、開発にツェツィーリエ帝が深く関与したことが判明している。
――では、なぜ陸軍王国たる帝国の皇帝が、当時は飛行爆弾と呼ばれていた「巡航ミサイル」を着想し、実戦投入を決意するに至ったのか、本稿ではそれを取り上げることとしたい。
飛行爆弾
連合王国にとって皮肉なことに、後の皇帝ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンが「飛行爆弾」、後のVOB、巡航ミサイルの構想を持ったのは、統一歴1914年3月11日に
当時、ツェツィーリエはわずか7歳であったが、「既に至尊の座を継ぐに足る」(『ルーデルドルフ戦争録』)「年齢詐称のオールドレディ」(『チャーブル回顧録』)と言わしめるほど利発であったらしく、ちょうどこの時期にロンディニウムを外遊で訪れていたことから、この実験を見学したと推測される。
――何よりの皮肉は、このとき案内役を務めたのが、後に『撃ち込まれる』側となったチャーブル外務次官(当時)その人だったということであろう。チャーブル自身、後に「我が人生における最大の蹉跌」(『チャーブル回顧録』)と述べている。
話を飛行爆弾に戻そう。
意外なことに思われるだろうが、実は「無人飛行機」「無線操縦技術」の発想は1900年前後には既にあり、1910年頃には各国が盛んに研究開発に取り組んでいた。特に後者については、ニコラ・テスラが1888年には特許を取得している。
その背景には当時の航空機が「危険極まりない、乗るのも命がけ」だったことがある。
技術も経験も不足していた当時、現代のエンジニアから見れば恐ろしく不安定な機体が設計され、それを動かすエンジンも出力と信頼性に欠けていたのだから当然ではある。
このため、それまで「魔導師」に限られていた空から俯瞰、攻撃する手段を飛躍的に発展させうる「飛行機」という新技術に各国軍隊は着目しつつも、その危険性と脆弱性に懸念を抱き、そして無線技術による遠隔操縦に活路を見出そうとしたのである。
ちなみに、我が秋津洲皇国においても諸列強に比して劣る戦力を補うべく、新兵器=魚雷に多大な期待をかけ、その最大の弱点である射程の短さを克服するべく、フランソワ共和国から購入した「滑空魚雷」の改良に取り組んだ時期がある(『皇国海軍百年史』)。
しかし、当時の無線技術、航空機技術は現代のそれとは比べ物にならぬほど稚拙であり、文字通り「人の手を離れて」飛ぶ飛行機を量産することなど不可能だった。
加えて、技術進歩によって「飛行機」自体がまともな乗り物へと進化したこと、急降下爆撃や航空魚雷の実用化、命中率向上によって無人航空機の必要性は乏しくなり、各国とも研究は下火になっていった。
先述の「滑空魚雷」についても、実のところ、フランソワ共和国が匙を投げたものを秋津洲皇国に売りつけたというのが真相であり、皇国もまた、後に酸素魚雷の開発に成功するや、命中精度劣悪――Uターンして戻ってくることがしばしば(!)だった――な本兵器に見切りをつけている。
そんな中、「無人飛行機」「無線操縦技術」に研究予算を投じ続けた稀有な例外があった。
言うまでもなく、「帝国」である。
このこと自体、皇女ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンの強力な指導があったと言われており、彼女が周囲の反対意見を跳ねのけ、「今は未熟極まりない(中略)が、これは可能性の獣である」と帝室官房費を投じ続けたからこそ、帝国は『世界初の誘導爆弾(Ⅹシリーズ)』『世界初の飛行爆弾(VOB:巡航ミサイルの祖とも)』の両方を手にしたのである。
話を統一歴1914年に戻す。
連合王国から帰国するや、皇女ツェツィーリエは帝都中央大学にとある人物を訪ねた。
その名は、「
この時点で、既に『高射砲訓練用無人小型飛行機』、
なお、彼の回顧録に書かれている「当時は失敗も多かった。いや、失敗続きだったといっても良い。――だのに何故か、研究予算だけは潤沢にあった」理由は、先述の帝室官房費であろう。
しかしながら、ここから『VOB』への道のりは決して楽なものではなかった。
何しろ、ゴスラウ教授が実用化した件の標的機は『操縦席の無い、まっすぐ飛ぶだけの小型機』と言うほかない代物で、当の高射砲部隊から速度が遅すぎて訓練にならないと苦情が出る始末だった。
だが、センサーもコンピュータもない当時、これ以上の性能を出せる無人機の量産は不可能であり、しかも標的機という「消耗品」に高出力エンジンを積むのはあまりに無駄が多すぎた。
そんなところに
「今後10年を目途に、500キロ~1,000キロの爆弾を搭載し、敵地爆撃を行う無人爆撃機、又は飛行爆弾を開発する」
という目標が、しかも皇女殿下直々に提示されたのである。
「無茶、無謀、素人の浅はかな考え。その他、ありとあらゆる罵詈雑言が私の脳裏をよぎった」と教授がのちに述べた通り、余りに当時の技術水準と隔絶した要求であった。
しかし、ここからがツェツィーリエの真に恐ろしいところであった。
数日後、再び現れた少女は、とある「エンジン」とその開発者を引き連れていたのである。
パルスジェット
当時の飛行機のエンジンは、「レシプロエンジン」に分類される。
即ち、シリンダー内でガソリンと空気の混合気を爆発させてピストンの「往復運動」を発生させ、ついで「回転運動」の力学的エネルギーとして取り出す方法である。
この方法は産業革命、蒸気機関車誕生以来から続く、いわば使い慣れた技術ではあったが、反面、航空機エンジンとしてみれば「出力を上げようとすればするほど、その構造は複雑緻密となり、もはや工業製品ではなく工芸品となるに至らん」(ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルン著『航空機技術に関する一考察』)。
この問題は「無人標的機」「飛行爆弾」においては特に深刻であった。
即ち、性能を上げるには高性能のエンジンを積む必要があるが、「使い捨て」が基本となるこの手の機体にそのようなエンジンを積むのは、余りに非効率的過ぎた。
この問題を解決した、まさにブレイクスルーと言うべきエンジンが「パルスジェット」である。
これはコンプレッサーもタービンもない、1本の導管から成る『間欠燃焼型ジェット推進エンジン』である。
その作動原理を文章で示せば、「エンジン前端近くに自動的に開閉する逆止弁(シャッター弁)があり、ラム圧(エンジンの前進)で弁が開くと吸入空気がエンジン内部に入り、噴射燃料と混合して着火燃焼する。燃焼で燃焼室内の圧力が高まると前方の逆止弁が閉じるため、燃焼ガスは排気ノズルから後方へ噴出され、推力を生ずる」となる。
その構成部品は実にシンプルで、極論すれば『外筒』『逆止弁(シャッター弁)』『燃料噴射ノズル』『点火プラグ』で成立してしまう。
当然、極めて安価に製造でき、それでいて推力300キロ、レシプロエンジン換算でおよそ750馬力相当の出力が出せた。
当時の帝国軍レシプロエンジンが1000馬力級であったことを思えば低い出力だが、その簡易な構造を踏まえれば、ゴスラウ教授が歓喜に打ち震えたのも納得である。
なにしろ、彼が開発した「標的機」のエンジンはたったの
とは言え、このエンジンには問題も数多く存在した。列挙すれば――
⑴自力始動ができないため、カタパルトなどで初速を生じる必要がある。
⑵過給機もないため、時速約300キロ以下になるとエンジンが停止する。
⑶同じ理由で高度1000m以上になると酸素不足でエンジン出力が低下し、2000m以上ではほぼ確実に停止する。
⑷飛行開始30分から45分で逆止弁(シャッター弁)が燃焼熱、ないし1秒間に数十回繰り返される開閉動作によって疲労破壊を起こす。
…とまぁ、「有人」飛行機のエンジンとしてはこれでもかと言うほど欠陥の多いエンジンであったが、「使い捨て無人機のエンジン」としては、以下のことから問題とはみなされなかった。
⑴そもそも『飛行爆弾』である以上、カタパルトで狙いをつけるのは想定内。むしろ移動式カタパルトを用意すれば、どこからでも運用できる。
⑵着
⑶低空を全速力で目標に突っ込むだけならば、高度も気にすることではない。
⑷エンジン稼働時間についても、欧州の地理条件を思えば400キロも飛べば実用域。
ちなみに⑷については、有人爆撃機だったなら往復とあわせ航続距離1000キロを必要としただろうが、片道切符の飛行爆弾ゆえに問題とはならなかった。
このように使い捨て飛行爆弾のエンジンとしては問題の無い、コストを思えば理想的と言えるエンジンであり、加えて『低オクタン価の燃料で飛ばせる』ことが決定的であった。
そもそもレシプロエンジンがオクタン価の高いガソリンを要求するのは、シリンダー内での異常燃焼(ノッキング)、自己着火性の起こし難さを求めるからである。
しかし、パルスジェットにはシリンダーもなければ圧縮過程も存在しない*1。
燃焼室の設計さえ工夫すれば「爆発、膨張するなら燃料は何でもよい」ほど許容範囲が広く、実際、ゴスラウ研究室では石炭微粉末で稼働させた例がある。
この特性は国内にその需要を賄うほどの油田を持たぬ帝国にとって福音に等しいものであった。
開戦後、ダキア大公国内のクロエシュティ油田と精製施設を獲得した帝国であったが、拡大する戦域と航空戦力に比して、供給量は十分とは言い難かった。特に高オクタン価燃料は常に不足を来している状況であり、戦闘機部隊と一部の爆撃機部隊にしか使用が許されないほどであった。
この問題は、軍内部においては戦前から指摘されており、この点に関してもツェツィーリエ皇女はとある対処法を講じていた。
それは『ベルギース法』による石炭-液体炭化水素変換技術である。
この方法は1900年頃に帝国人技術者ベルギースによって発明されたものである。
しかし戦争の影すらない当時、莫大なプラント建設費用を投じてまでベルギース法を採用する帝国企業は皆無に等しかった。距離こそ遠いが極東、太平洋の帝国植民地でも石油は産出したからである。
このまま廃れるかと思われたこの技術を積極的に採用し、更に帝国国外への移出を禁止する措置を講じたのがツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンであった*2。
これによって、帝国は領内で大量に産出する石炭、褐炭からガソリン等を産み出す――理論上、投入石炭量の半分のガソリンが精製できる――ことが出来た。その存在を知った連合王国情報部は愕然としたと伝わる*3。
しかし、この方法で作られるガソリンには重大な問題があった。
それはオクタン価の低さで、標準で85、添加物を工夫したところで94が精一杯であった。このため、標準85を陸軍の地上車両、空軍の連絡機や輸送機に回し、それによって余裕が生じたやや高オクタン価のガソリンを爆撃機部隊に、最終的に最も良質のガソリンを戦闘機部隊に回していたのが実情であった。
この点においても、パルスジェットは実に優れていたと言えるだろう。
即ち、VOBの使用燃料のオクタン価が「75」というのは、それがベルギース法で製造された人造石油ガソリン、しかもほぼ精製無しの粗悪なガソリンで動いたことを示しているのである。
――このように最大のネックであった「エンジン」問題が解決され、実用化の目途が立ったかに見える「飛行爆弾」であったが、以降の開発は非常に難航したのである。
(以下、次号に続く)
ネタが多いのは気のせいです(目逸らし
ツ「嘘着け、文字数稼ぎだぞ」
なお後半投稿時期は未定
デ「おいこら」
〇補足
ベルギース法
西暦世界のベルギウス法のこと。PDF形式の論文がネットでも手に入る(良い時代になったものだ…)
なお、この世界では皇女殿下が熱心に後押ししまくった結果、実用化が早まっている。連合王国は泣いて良い
参考文献:「旧海軍燃料廠におけるベルギウス法の研究と結果」―昭和50年5月30日受理― 関東学院大学工学部 三井 啓策