皇女戦記   作:ナレーさんの中の人

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話を纏めたいとき、さっくり進めたいときの奥の手「ドキュメンタリ-」

「…の、割には文字数がおかしいことになってるようだが」

…書きたいことを書きたいママ書きなぐったら文字数が増えた!!
(執筆開始:本日正午)

「おいおい…」


ドキュメンタリー 1992年

統一歴1992年2月5日 

連合王国首都ロンディニウム

 

みなさん、こんにちは。

司会のウィリアムです。

シリーズ『あの大戦の真実に迫る』、本日はその3回目となります。

今回はゲストをお二人、お招きしております。フォックスフォード大学歴史学部のウェンリー教授と、ロンディニウム大学政治学科のシャーロック教授です。

お二方、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

 

こちらこそ、よろしくお願いします。

お手柔らかにお願いしますよ。

 

あはは…これはご冗談を。

さて、近年、あの大戦に関する新資料が続々と発見され、従来の定説は大きく塗り替えられています。

本シリーズは最新の研究成果を踏まえ、あの大戦の真実に迫ろうとするものです。

実際、視聴者の皆様からのお便りでも、過去2回の放送について「自分たちが学校で習ったのと全然違っていて驚いた」と言う声を多数頂戴しております。

ウェンリー教授、戦後60年が過ぎた今になって、どうしてこれほど多くの新資料が見つかっているのでしょう?

 

 

理由は大きく二つあります。

一つは、当時の帝国陸軍、今のライヒ連邦国防軍ですが、そこの機密資料の機密指定が解かれたことです。

よく知られている通り、あの戦争で、当時の帝国軍関係者は殆ど処罰を受けませんでした。

それは、あの大戦の終わり方が終わり方(・・・・・・・・・)だったから、そしてその後の東西対立があったためですが、それだけでは説明できないのも事実。

実際、終戦前後に作成された帝国軍作成文書の9割近くが機密指定を受けており、歴史学者の間では『 何かがあった 』と言うのはある種定説となっていました。

それらが今回、ライヒ連邦の法規定「行政文書は、その効力を完結した日、又は作成後60年を経過した日に公開せねばならない」によって、一括公開されたのです。

2つ目は、それと相前後して一連の、所謂『ツェツィーリエ文書』が発見されたことです。

これは現在のところ、『ツェツィーリエ・スケッチ』『ゼートゥーア書簡』『チャーブル書簡』『技術局往復文書』に類別されていますが、これほど多くの資料が今まで世に出てこなかったのがあり得ないほどの情報量を有しています。

これらの資料が近年発見、再評価された結果、従来の定説が悉く誤りであったということが明らかとなってしまったのです。

 

 

なるほど。

では、今回も最新研究から明らかになったあの大戦の真実に迫って参りましょう。

第3回の本日は、ルーシー連邦の参戦からティゲンホーフ攻防戦までを辿っていきたいと思います。

映像とともに、この分野の専門家であるお二方の解説を交えてお送りしていきたいと思います。

 

 

 

 

そもそもの話として、今となっては信じられないことでしょうが、開戦に至るまでの帝国と連邦の関係は「緊張を孕みつつも、基本的には傍観する」という関係が続いていました。

のみならず、両国は短期間ながらもほとんど同盟寸前まで緊密な関係を構築した時期すらありました。

今日では公開されている『ラッーパロ条約』。

よくて中立、有り体に言って対立関係にあると思われていた両国が、実は秘密裏に軍事協定、中立協定を結んでいたのです。

その背景にはお互いが、容易に勝てる相手ではない、と認識していたためと考えられています。

 

実際、帝国と共和国の戦争が激化する中でも連邦は中立を保っていました。これにより、共和国が渇望していた帝国包囲網、包囲撃滅はついに実現しなかったのです。

 

 

ここで、大きな疑問がわきます。

 

 

何故この時、つまり帝国を共和国と挟撃できるチャンスに参戦せず、共和国敗北後の翌年春になって連邦は参戦したのか?と言う点です。

お二人はその理由をどのようにお考えですか?

 

 

歴史学会では、現在では2つの要因があったと言われています。

1つは、従来から知られていた「連合王国からの参戦要請」。

当時、連合王国は窮地に立たされていました。

 

そもそも、よく誤解されていますが、連合王国はこの戦争への参加に乗り気ではありませんでした。協商連合国の国境侵犯による大戦の勃発、これがこの大戦の始まりですが、当時連合王国首相だったチュンバレン氏は議会で中立静観を表明しています。

現在の多くの人々がイメージする「帝国に立ち向かうジョンブル魂」と言うのは、その次のチャーブル首相になってからの事なのです。

 

政権交代による方針の転換ですね。なぜ両者はこれほど真逆の姿勢を取ったのでしょう。

 

それは連合王国の状況と、二人の戦争認識、帝国認識の違いからくるものだったでしょう。

チュンバレン氏は今日では「帝国の増長を招いた」「あの戦争を止められるのに何もしなかった」と断罪されることの多い人物ですが、それはあまりに酷だと思います。

当時、連合王国…いや、全世界的にも不況の波が訪れており、そこから連合王国経済を立て直したチュンバレン氏の業績はもっと高く評価されるべきです。

また、彼が議会答弁で述べた『現在、協商連合国と帝国とで発生している武力衝突は、両国の国境紛争であり、連合王国がこれに介入する理由を見いだせない』『連合王国としては外交ルートを通じ、両国に停戦を働きかけていく』と言うのは、当時の連合王国の世論の大多数を占める論調でしたから、これを咎めるのは誤っています。

当時のタイムズ紙の言葉を借りれば、『協商連合の極右政権が暴走して大惨事を引き起こした』。これが当時の世間一般の見方だったのです。

むしろこの時点で帝国脅威論を唱え、その後の大戦を予期していた節のあるチャーブル氏のような論客の方が少数派でした。

 

チャーブル氏に先見の明があったと言うべきでしょうか。

 

それもあるでしょうし、先ほど話に上りました『チャーブル書簡』の存在も大きかったと思いますね。

 

発見当時、大論争を巻き起こしたあの文書ですね。よりによって大戦当時の連合王国首相と帝国皇帝がペンフレンドだったと言う…。

 

ええ、書簡は連合王国参戦直後の「ツェツィーリエからの決別文」で終わっていますが、公表されていないだけでその続きもあるのではないか、と言う憶測もあります。

話を戻しますと、そういう訳でチャーブル氏は帝国の次の皇帝…ああ、大戦勃発時、ツェツィーリエはまだ皇太女でした。その彼女の人となり、英明さを彼は知っていました。

『このまま帝国の国力増強を座視すれば、いずれツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンが皇帝となり、手の施しようがなくなる』…、大戦時、チャーブル首相が知人に書き送った手紙にこうあります。

 

だからチャーブル首相は帝国脅威論を唱えたのですか…。

ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンと言うのはそれほどの人物だったのですか?

 

近年の研究により、大きく塗り替えられたのはまさにその点です。

結論から言いますと、従来彼女の功績、能力はあまりに過小評価されていました。現在では「有史史上、3本の指に入る指導者」と評価する研究者すらいます。

彼女の関与は武器開発、戦略研究、ドクトリンの構築、戦後処理など多岐にわたり、その一部は現在に続いているものすらあります。

 

そ、それほどだったのですか。

と、なるとチャーブル首相の懸念は的確だったと言えるでしょうね。

 

ええ。ですが、チュンバレン首相が楽観的だった、無策だったと言う訳でもありません。

 

と、言いますと?

 

彼が帝国の戦争に対し中立姿勢を取っていたのは、連合王国の準備が整っていなかったからです。

事実、チャーブル氏が首相になり、大戦に参戦してから投入された各種武器。その開発指示、量産指示が出されたのはチュンバレン政権時代なのです。

 

なんと!それは知りませんでした。

 

ええ、あまり誰も言いたがりませんからね…。

彼は帝国の脅威を認識し、対策を講じていました。

しかし、連合王国への事前協議なしに行われた共和国の参戦と苦戦、連合王国議会選挙の時期が重なったのがチュンバレン氏の不運でした。それが無ければ、あるいは彼の政権がこの大戦の戦争指導を担っていたかも知れません。

ですが、実際には帝国がダキア公国を電撃的に下し、続けざまに協商連合を下してさらに共和国を追い詰めつつある、チャーブル氏の言う『今や帝国は全欧州の脅威となった』タイミングでの選挙となり、チュンバレン氏は「腰抜け」「無能」のレッテルを貼られて退陣することとなったのです。連合王国憲政史上、最も運のない首相でしょう。

 

それはまた悲しい話ですね…。

話を戻しましょう。先ほど教授は連邦参戦の要因は2つある、そのうち一つが連合王国の要請だったと仰いました。では、もう一つは何だったのでしょう?

 

 

それについては、シャーロック教授が専門でしょう。

 

ええ、私の専門は、クレムリノロジーと呼ばれる連邦首脳人を対象とした分析なのですが、近年ようやく公開された新資料から、新たな説を唱えております。

 

確かに連邦の秘密主義は筋金入りですからね。

私もあの国には幾度となく訪れていますが、ビザを申請するだけでも一苦労ですよ。

外務省からの入国ビザ、国境警備隊の許可、公衆衛生局への申請、国家宣伝相からの取材許可証…これらが揃ってないと入国が却下されるか、カメラを没収されるのですよ!

 

はっはっはっ!よくある話ですね。

 

私なんかは持ち込もうとした紅茶とブランデーを没収されましたよ…。それもよりによって一等上等な奴をね。

 

お聞きになりましたか、視聴者の皆様!

わが連合王国民の命の源である紅茶!

それすらも取り上げられてしまうのです!!

連邦への旅行の際は、くれぐれも妙な行動を取られないように!

…っと、失礼。紅茶のことになると頭に血が上ってしまいまして。お見苦しいところをお見せしました。

 

いえいえ、連合王国民なら当然のことでしょう。

 

その通り!アカデミーを通して正式に抗議文を送らせていただきましたとも。

 

ちなみにその結果は?

 

茶葉はダメでしたが、詫びの文章とあの国でも上等なジャムが送られてきましたよ。ルシアンティーにでもしろと言う事なんでしょうね。

 

それはまたなんとも…。

さて、先ほど教授がおっしゃった新資料、それによる新たな説とはどのようなものか、教えていただけますか?

 

 

結論から申し上げますと『 集団パラノイア 』ですな。

 

 

は?今、なんと仰いましたか?

ああ、いや、集団パラノイアは聞いたことがあるのですが…、もしかすると間違って覚えてしまっていたのかと不安になりまして。説明をお願いできますか?

 

お気持ちは分かりますよ。私自身キツネにつままれたような気分でしたから。

集団パラノイアとは、ちょっと端的過ぎる説明になりますが、要するに妄想に集団が囚われてしまうということですね。このケースでは『自分たちは隣国である帝国に狙われている』、あるいは『やられる前にやらなければ』と言う強い妄想を連邦首脳陣が抱いていた、と言うことになります。

 

ずいぶんと極端と言いましょうか、恐ろしい話に聞こえるのですが…その、一体、どのような調査、研究でそのような結論に至ったのでしょう。

 

良い質問です。この説が提唱されるに至ったのは、歴史学の一つのアプローチからでした。このあたりの話は、ウェンリー教授の方がお詳しいかと。

 

ええ、まあ。私が学生時代に提唱されたやり方です。

同時代背景、資料を収集、分析していく中で、究極的には『連邦軍首脳の心理状態』『なぜ彼らは戦争を選んだのか』を知らなければ、真実には辿り着けないと言う話になったのです。

 

その心理状態が『集団パラノイア』だったと?

根拠はあるのでしょうか?あまりにも荒唐無稽な気がしてなりませんが…?

 

根拠は冒頭に述べた、帝国軍参謀本部、統帥本部情報部資料にありました。近年機密指定が解除された膨大な量のそれらを研究者たちが手分けして調べて、シャーロック教授率いるチームがようやく掘り当てたのです。

 

そこにはどのような事が書かれていたのでしょう?

 

曰く、『書記長は神懸かり。内務人民委員長は偏執狂』と結論付けていました。

極端な結論と思われるでしょうが、収集した情報を真面目かつ中立の観点から分析した専門家の仕事であり、同じ資料からでは現在でも同じ結論に行き着くであろう…と言うのが私たちの総評です。

 

いやはや、そうなると歴史を動かしたのは…集団パラノイア、と言う訳ですか。

ウェンリー教授はどのようにお考えなのです?

 

 

私も件の分析を見ましたが、事実であろうと思います。

確かに連合王国からの参戦要請はありましたが、それは以前からフランソワ共和国からも為されていたものです。

なるほど対帝国戦参戦の妨げとなる秋津洲皇国との和平仲介は、連合王国だからこそ出来たことでしょう。ですが、この話はフランソワ共和国戦末期には既にありました。

苦境に立たされたフランソワ共和国を救うため、…正確には連合王国が単独で帝国と対峙せねばならぬ状況を回避するために、統一歴1925年春には考えられていたのです。

しかし、このときのルーシー連邦首脳部はこの話に乗りませんでした。

 

それが翌年の1926年春には参戦しているのです。

考えてみれば分かりますが、共和国が健在なうちに参戦していた方が有利だったにもかかわらず、です。

この場合、秋津洲戦線が問題となるじゃないかと仰るでしょうが、近年の研究から、連邦は1926年中は極東の正面戦力を維持していた、予備兵力のみを移動させていたことが明らかとなっています。つまり、秋津洲皇国との講和条約が完全に成立する前でも参戦は可能だったという訳です。

にも関わらず、1年経ってから参戦した、この突然の豹変は理論的には説明できません。

 

なにしろ、連邦国民にすら自国の参戦が寝耳に水の事だったのです。

それどころか、国防委員会にすら集結の目的が帝国との戦争であると説明されたのは開戦の72時間前だったとされています。現場指揮官に至っては「演習地」についてから初めて聞かされたと言う証言すらあるのです。

 

ですが、仮に連邦首脳部に何らかの精神的バイアスがかかっており、それが連邦を突き動かしたとすれば。

「連合王国からの要請」と「集団パラノイア」、この二つがあって、連邦はあの大戦に参加することとなったのです。

 

 

なるほど…。いやはや、集団パラノイアが連邦を突き動かしたわけですね。

歴史と言うのは驚きに満ちております。

さて、話を統一歴1926年4月初頭に戻しましょう。

3月14日の参戦後、モスコーへの襲撃もありましたが、連邦軍は各所で進撃し、4月7日にはこちらの図に示しておりますとおり、帝国東部を占領するに至ります。

 

【挿絵表示】

 

この中には帝国東部の大都市の一つ、ワルシワが含まれており、ルーシー連邦政府は盛んに大勝利を喧伝していました。

ところが、実際には勝利には程遠かった、と言うのが定説になっております。ウェンリー教授。

 

たしかに、地図だけ見れば連邦が攻め込み、帝国を後退させたように見えます。

ところが、こちらのグラフをご覧ください。これは両軍の死傷者の数を表したものです。近年、ルーシー連邦側の死傷者の数がようやく明らかとなったのですが…。

 

これはまた…、一方的なグラフですね。

 

ええ。帝国軍兵士1人倒すのに、連邦軍は10人以上の犠牲を払っています。

これでは勝利とは言い切れないでしょう。実際、連邦ほどの人的資源に恵まれた大国だったからこそ何とかなった損耗率と言えます。

更にこちらの資料、帝国統帥本部の作戦資料なのですが、ここに『第1後退線』『第2後退線』と、全部で4つのラインが記されています。

これを、3月から4月初旬の戦線推移と重ね合わせると、見事に一致します。

 

つまり、帝国は押されていたのではなく、予定通りに後退しただけだった、と言う事ですか!?

いや、待ってください。

それはおかしいのでは?先ほど連邦の参戦は突然で自国民にも説明されていなかったと仰いました。しかしこれを見ると、帝国は連邦の参戦を予期していたように見えるのですが?

 

良いところに気付きましたね。

結論から申し上げましょう。帝国は気付いていました。

気付いたうえで気づかぬふりをし、その実、密かに防御陣地、地雷原を入念に構築していたのです。

 

それは何故でしょう?

素人の考えだと、むざむざと相手に先手を取らせてしまい、不利になってしまうではありませんか?

 

その気持ちは十分に分かります。

しかし、帝国はそれを織り込んだうえで「先手を取らせた方が良い」と結論付けたのです。

実際、先制攻撃を主張する東部方面軍、中央軍将校に対し、統合作戦本部やツェツィーリエ自身が説得にあたったと言う資料も近年発見されています。

 

そこまでして、先手を取らせた理由は何だったのでしょう。

 

「大義名分」でしょうね。

この時代になると、『自衛以外の戦争は犯罪である』と言う考え方が、国際法学上で主流となってきていました。

帝国はこの点、いや、この大戦を通じて極めて国際法に照らして適切な行動を取り続けたと言えましょう。『国際法順守』と『国際法の解釈』。この二点において、当時の帝国ほど強かな連中はいないでしょうね。

 

つまり、帝国は戦争の大義を得るため、連邦を悪役にするために先手を譲ったと?

 

その通りです。ルーシー連邦がこの結論を認めようとしないのも無理からぬことです。

加えて言うと帝国は伝統的に『内線戦略』、つまり「各方面軍が後退しつつ敵の進行を食い止め、中央本軍の来援を待って反攻に転じる」事を基本戦略としていました。

その意味で言えば、侵攻するよりもされる方が都合が良かったのです。帝国軍の動きは建軍以来のそのドクトリンを忠実に実行しただけとも言えるでしょう。

私個人としては、この時間を利用して一般市民の疎開を着実に実行した事こそ、帝国軍最大の戦果だったと評価したいですね。

 

そこは私も好感が持てます。

そして従来のドクトリンに忠実だったからこそ、これだけのキルレシオになったと言う事ですね。

 

いえ、それだけではないでしょう。

連邦軍側の死傷者だけ、これほど一方的に多いのは帝国軍が当時世界一の火力密度を有していたのが原因です。

 

詳しく説明をお願いいたします。

 

分かりました。

この当時、各国の軍隊とも近代化…言い換えれば、歩兵銃と騎兵から、機関銃と火砲への切り替え、進化を進めていました。

帝国も例外ではなく、いえ、工業化の面で他の列強に先んじていた帝国は特に進化が進んでいました。のみならず、統一歴1917年の『武器規格統一令』により、極めて効率的な装備体系を有するに至ります。

 

『帝国のオーパーツ』の一つですね。何でも、現在のライヒ連邦工業規格のベースにもなっていると言う。

 

ええ。そのお陰で帝国陸軍は極めて進んだ装備体系を有することになります。

特に、この当時帝国陸軍が他国に先んじていた装備が二つ、『迫撃砲』と『跳躍地雷』です。どちらも射程距離や狙撃性では従来の火砲には遠く及びませんが、量産性、そして歩兵の武器、防衛武器としての適性に優れていました。

 

まさに、帝国の『内線戦略』にうってつけの武器だったわけですね。

 

仰る通り!

しかも、この当時これらの装備体系、軍を統括していたのがツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンだったと言うことも帝国にとっては幸運な事でした。

ご存じの通り、あの国は今も昔も「マイスター」、つまり職人を尊敬し、尊重する気風があります。

それ自体は素晴らしいことなのですが、反面、兵器に限っては「一点物としては素晴らしいのだが、やたらと凝ったものを作ってしまう」と言う弊害がしばしば発生しました。

今回の迫撃砲についても、高精度の照準装置とライフリングを備えた『長距離狙撃迫撃砲』なるものを試作したことが分かっています。

 

…なんとなく分かりますが、通常の迫撃砲とどう違うのですか?

 

一点物としては素晴らしいのですが、同じコストと労力で通常型迫撃砲を20個くらいは作れてしまいます。はっきり言って、歩兵携行火力としての本質を忘れています。

 

『戦争は数』とはよく聞きますが、それとは真逆の一点豪華主義になってしまっているわけですね。

 

言いえて妙ですな。その通り。

従来の帝国軍であればこういったものを採用し、更には微改良を重ねて装備体系を複雑膨大なものにしてしまうところですが…。

 

そうはならなかった。

 

ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンが提案書段階で却下したそうです。

「芸術品を考える暇があったら、理想的な量産体制のプランを考案しろ」と。

実際、その後作られたクルップ社やラインメタル社の製造ラインは、今でもほぼそのまま使われています。手直しする必要が殆どないそうで。

 

それはまた凄いですね。いや、ツェツィーリエ皇女の発想が進んでいたと言うべきでしょうか。

 

少なくとも、当時世界で最も「規格化」と言う言葉を理解し、実行した人物の一人と言えるでしょう。これは合州国の自動車王、ヘンリー・フォードが1910年に始めたライン生産方式、大量生産方式を参考にしたものと言われております。実際、両者の間に書簡のやり取りがあったことも分かっていますから。

体系的なコスト削減を強力に推進し、多くの技術革新をもたらしたと言う点でも両者は非常に似ています。

実際、『フォード書簡』と呼ばれるその手紙のやり取りの中で、二人が未来のモータリゼーションを語り合っていたことが分かっています。

…なお、やはりと言うべきか、無人運転自動車や電気自動車、ガソリンと電気の組み合わせと言った、今では実現ないし実現しつつある技術をしれっと論議しているあたり、恐ろしい文書なのですが。

 

 

…私も何度か目にしたことがあるのですが、『ツェツィーリエ文書』の内容は時々予言書になっているのですよね。しかも当たっていると言う…。

古の魔法使いは未来予知が使えたとも言いますし、もしかするとそう言った魔女の末裔だったのかもしれませんね。

話を戻しましょう。

 

多大な犠牲を払って前進した連邦軍ですが、4月7日ごろにはその進撃は頓挫します。

その理由は単純明快。

帝国が用意した堅固な防御陣地に突き当たったこと。さらに帝国空軍の爆撃により、補給網がズタズタに切り裂かれたことです。お二方、これも帝国の予定通りだったのでしょうか?

 

間違いなく、そうでしょうね。

 

何より、当時の命令書にハッキリと『第一目標、鉄道駅。第二目標、鉄道線路。第三目標、物資の山。それでも爆弾が余ったら敵部隊に投下してもよい』と明記されています。腹が減っては戦は出来ぬと言いますが、ここまで兵站を狙い撃ちにした命令書もそう多くはないでしょう。

 

対共和国戦最終段階で具現化した『火力集中型防御陣地』もさらなる進化を遂げて投入されました。こちら、番組の方で作成した、当時の帝国軍陣地を再現したジオラマですが…。なんと言いましょうか、これに突撃することを思うとぞっとしますね。

 

地雷原に鉄条網、そして機関銃陣地。これらが極めて合理的に配置されています。

しかも、共和国戦のときと違い、わざと『穴』を作ってそこに誘引すると言う方法まで実行されていました。

言うまでも無く、そこは迫撃砲や機関銃の集中する『キル・ゾーン』だったわけですが。

 

これでは連邦軍の進撃がストップするのもうなずけます。

ですが、彼らの不運はこれで終わりませんでした。

本日のクライマックス、『ティゲンホーフ攻防戦』へと話は移って参ります。

 

 

 

 

 

 

時に、統一歴1926年4月13日。

ルーシー連邦陸軍は、帝国東部の都市、ティゲンホーフへの第1次総攻撃を開始します。

 

当時、ティゲンホーフ市は連邦軍の帝国領侵攻によって敵地に取り残された浮島のような状況となっていました。

ですが、これを以て当市が包囲されていた。危機的状況にあったと言うのは間違いでしょう。

なぜなら、同市は背後にバルテック海を抱えた港湾都市であり、海上補給路を通して帝国本土との連絡を保っていました。むしろ、連邦軍後方にあってその補給路を掣肘しうる要地であったのです。

 

実際、攻防戦が本格化する直前まで、空軍航空隊が同地の飛行場から出撃していますし、陸軍魔導師部隊もここから機動遊撃戦…要するに襲撃を繰り返していました。

まさに、連邦軍にとって「目の上のたん瘤」だったわけです。

連邦軍が同市に攻撃を仕掛けるのは至極当然の事でした。

それもまた、帝国の予定の一部だったの「かも」しれません。

 

ウェンリー教授、それはどういう事でしょう?

 

この後実施された帝国軍の大反攻作戦、『クロム計画』ですが、あれはティゲンホーフを攻撃発起地点とする、いいえ、ティゲンホーフ市しか攻撃発起地点になり得ない(・・・・・)計画なのです。

大兵力を揚陸できる港湾施設。30個師団もの兵力を前進させ、物資を後ろから送り込めるだけの鉄道網と輸送能力。東部戦線との位置関係…。これらの条件を備えた都市はここしかないのです。

 

なるほど…。しかし、そうなるとそこに敵を誘引すると言うのは矛盾しませんか?

敵が大勢集まると言うのは、反撃作戦の発起地点としてはこの上なく不都合なことと思われるのですが…?

 

ええ…、そこが謎なのです。

ですから、先ほど「かも」しれないと申し上げました。

現実には、対連合王国作戦用に開発、配備していた各種上陸用機材を用い、ティゲンホーフ攻撃中の連邦軍背後を突くことになりましたが、あくまでも結果論です。

ウィリアム氏のご指摘通り、反撃開始場所に敵を誘引するなど、普通はしないことです。たとえティゲンホーフ市が市民の避難を完了し、要塞化されていたとはいえ、です。

 

 

ここで、話に上がりました帝国の各種上陸機材について説明しましょう。

 

上陸地点の地名から、マリノフカ上陸作戦とも呼ばれるこの作戦において、帝国軍はそれまでにない、画期的な上陸兵器を多数投入しました。

まず、(Landung)ボート』

これは全長約16m、全幅3.5mの上陸用ボートであり、その特徴は何と言っても艇首が地面に向かって二段階に倒れるように開き、これをランプとして使用するよう、揚陸作業の効率化に適した形状となっていたことです。

実際、後の各国の上陸用舟艇にも必ずと言ってよいほど見られる機構ですが、当時としては非常に画期的なものでした。

更に海岸に安定して着底できるよう、船首船底はW字状に、その後ろの船底を平面に成形するという、前例のない特殊な船体形状となっていました。

また、迅速な離岸を可能とするべく、船体後部に小型の錨と巻き上げ機が装備されました。これを着岸直前に錨を投げ込んで海底に固着させておき、離岸の際には巻き上げ機を操作して、錨を引っ張る反力で船体を後退させることが出来ると言う、実にシンプルで、かつ効率的な機構をも備えています。

 

このように、帝国初の上陸用小型ボートでありながら、『上陸用舟艇の始祖』と言われるほどの高い完成度を誇るこのボート。

ただ…例によって例のごとく、どうして最初からこのような優れた機構を備えているかの説明がつかないと言う謎があるのですが…。お二方はこの点どのようにお考えに?

 

お手上げです。

 

同じく。この時期の帝国軍装備はこんなものばかりで研究者泣かせなのですよ。

試行錯誤をすっ飛ばして最適解に辿り着く。まぁ、多少の改良は試作段階で施していますが、「多少」です。本当に謎なのですよ、こればかりは…。

 

実際、未だにこの難問を明快に解き明かした研究はありません。

話を戻しましょう。

続いては先ほどの「Lボート」の母船となる『ライン級強襲揚陸艦』

当時はその性格を秘匿するため、「特殊補給艦」と言っていましたが。

「Lボート」は、波打ち際に乗り上げて将兵や装備を揚陸するために、吃水が浅く小型であるため、外洋航行力に乏しく、根拠地から上陸地点までは他の母船によって運ばれる必要がありました。

各国ともこの手の任務には通常の輸送船を当て、それにボートを搭載することで済ませることが多かったのですが、いくつかの問題がありました。

すなわち、ボートを普通の救命ボート同様に水面に下ろしたのち、将兵は母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝ってそのボートに乗り込む必要がありました。火砲や車輛、馬匹等についてはデリック…要するにクレーンで吊り降ろしていたのです。

船に乗ったことのある方なら、この時点でお気づきでしょう。

そう!とにかく時間がかかるのです!

奇襲上陸なんて想像すらできません。

しかも波の状態によってはボートを下ろすことも、縄梯子で降りることも、吊り降ろすことも困難となってしまうのです。

帝国陸軍が想定した連合王国上陸作戦は、その性質上、荒天の多い大西洋で、極めて短時間での揚陸完了が求められていましたから、専用母船の建造はある種必然と言えました。

実際、波高2メートルと言う悪条件下での上陸作戦に成功しています。従来のやり方ではまず作戦延期となるところです。

 

…ただ、これまたやたら完成度が高い上に、連合王国が参戦した時には図面が既にできていて、即時建造開始の上、翌年には…まぁ、幾つかの最終試験を省略したようですが、3隻を実戦配備していると言うおかしな事実があるのですが…。

 

まぁ…帝国は1910年代には連合王国を仮想敵国とした研究を開始していますから…。

 

上陸用舟艇が必要。その母船も必要、と言う結論を導き出していても不自然ではないのですが…。ええ、完成度の高さに説明がつかないのです。

最大で完全武装の兵士2,000名を収容し、それらを一度に上陸させることが出来る。2隻同時ならば、3往復でおよそ1個師団を上陸させられる。

帝国が手掛けた世界初の強襲揚陸艦なのに、これなのです。おかしいとしか言いようがありませんね。

 

 

その、頭のおかしい本船の舟艇発進方法を映像と共にご説明しましょう。

 

本船の全通式舟艇格納庫内にはローラーを利用した軌道が敷かれており、天井に設置されたトロリーワイヤーを利用して舟艇をスムーズに移動させることが出来ました。

この軌道は船尾まで伸びており、船尾スロープを経て、「Lボート」を船外に送り出しました。揚陸作業時には船尾バラストタンクに注水することで、スロープの後端が海面に接するようになっていました。ここには跳ね上げ式の水密構造大型ハッチが備えられており、上陸時以外は厳重に閉められ、また常に垂れ幕をかけるなどしてその特殊性を隠すことに細心の注意が払われていました。

これらの設備によって、軌道の上を舟艇が順次移動し、スムーズかつ迅速に「Lボート」を吐き出すことが可能でした。

この方法は既存の、信頼性の高い技術を組み合わせつつ、きわめて合理的かつ理に適った方法と言えましょう。ただし、大型ハッチからの大量浸水に見舞われると脆いと言う欠点がありますが…。

 

まあ、そもそも制海権が確保された状況で運用すると言う大前提がありますからね。

スムーズに発進させることで停船させねばならない時間、つまり無防備な時間を減らせると言う計算もあったのでしょう。

 

ここで視聴者の皆様に知って頂きたいのは、この時点では『近代的な上陸作戦をどこの国もやったことが無い』ことです。

つまり、モデルケースも戦訓もない。

その状態で帝国はのちの上陸用舟艇、強襲揚陸艦の始祖を生み出すどころか、ほとんど完成させてしまったのです!ハッキリ言いましょう!!出鱈目すぎるのです!!

 

落ち着いてくださいシャーロック教授!

お気持ちは十分に分かりますが、あの頃の帝国は「そういうもの」と割り切るしかないのですよ…。

 

…失礼、取り乱しました。

ですが、あの当時の帝国が出鱈目すぎると言うのは知っていていただきたいのです。

しかも、帝国が用意した上陸用特殊船はこれだけじゃない。

 

その通り、先ほど述べた二種類は確かに上陸用機材ですが、一つだけ問題があった。

そう、歩兵師団、軍用車両程度なら十分に運べるのですが機甲師団となると能力不足だったのです。ですが、これだけの船を作り出した帝国がそれに気づいていない訳がありませんでした。

最後にご紹介する特殊船、それがこちらの『特設輸送艦』です。

大きさは全長約100メートル、幅12メートルと言う駆逐艦サイズですが、この絵からもわかる通り、直線形状の本艦は工数が大幅に簡略されており、量産に適した構造となっていました。

本艦は「Lボート」と同様、揚陸の際には艦首の平面が前方に倒れて渡し板となり、その上を車両が走行できる構造になっていました。そして、当時の帝国軍主力戦車、4号戦車を10台程度搭載、揚陸可能でした。これを帝国陸軍はティゲンホーフ攻防戦当時16隻保有しており、その全てをこの上陸作戦に投入したのです。

 

 

連邦軍は運が無かったとしか言いようがありません。

何しろ、これより以前、上陸作戦の殆どは港湾施設に対してなされていました。この時期で言うと、同じ帝国陸軍のオースフィヨルド上陸作戦が有名でしょう。

確かに砂浜、ビーチへの上陸作戦もありましたが、それらは既存のボートやカッターを使った小規模な、歩兵主体のものでした。

ところが帝国は、機甲師団を砂浜に揚陸させると言う、前代未聞の戦術をやってのけたのです。

先のオースフィヨルドの例から、ティゲンホーフ市の港湾施設を危険視していた連邦軍も、まさか背後の、しかも砂州の多い海岸から機甲師団が襲ってくるなど、予想だにしていなかったことでしょう。

 

タイミングも最悪でした。

この時、4月13日からの第1次総攻撃が帝国軍の想像以上の抵抗により失敗に終わり、連邦軍は戦力再編の後、第2次総攻撃を開始していました。これが4月15日の夜明けごろの事です。

 

そして、帝国軍機甲師団が上陸作戦を開始したのもほぼ同時刻。

連邦軍の意識が前に集中していた、まさに最悪のタイミングで帝国陸軍の反撃が始まったのです。

 

これほど見事なタイミングでの背後上陸は他に例を見ません。

偶然か、あるいは連邦軍の第二次攻撃タイミングを察知していたのか…。研究者の間でも意見の分かれるところですが、結果は同じでした。

昼頃には連邦軍は壊乱状態に陥り、12時40分頃には帝国軍ティゲンホーフ市防衛部隊と上陸部隊がオルロフカで合流に成功するに至ります。ティゲンホーフの包囲は実に3週間ぶりに解除されたのです。

 

連邦軍がこれほど短時間で瓦解したのにはもう一つ理由があります。

『航空魔導師による斬首作戦』、帝国軍がこのころから多用する戦術ですが、これにより、後方にあった司令部、予備兵力が早々に壊滅させられたことも要因の一つです。

 

そもそも、この時の帝国軍のティゲンホーフへの航空魔導師集中は当時としては極めて異常なほどでした。

包囲された時点で5個航空魔導大隊、これは長期の包囲戦と2回の総攻撃で2個大隊レベルにまですり減っていましたが、その中には大戦を通じて帝国軍最精鋭を謳われた、あの『第203航空魔導大隊』が含まれていたのです。

これに加え、上陸作戦と同時に2個海兵魔導大隊、陸軍からも2個魔導大隊が増援として投入されました。

対する連邦軍、この当時はまだ魔導師に対する粛清、収容所送りが解除されておらず、航空魔導師がゼロ。

第二次総攻撃になって、ようやく合州国、連合王国から派遣された義勇軍魔導師が参戦しましたが、その数は2個大隊程度。

しかも開戦直後のモスコー襲撃戦での損害が癒えておらず、いえ、数の上では補充していましたが練度が低下した状態でした。

つまるところ、地上の戦いはともかく、制空権は帝国側が圧倒的に有利な状態だったのです。

 

魔導師以外の航空戦力はどうだったのでしょう?

 

これがまた不思議なことに、連邦軍はのちの見事な戦いぶりからするとおかしなほどに、ティゲンホーフではミスを連発しました。

信じがたいことに、第一次総攻撃の最後になって、初めて航空戦力を、それも三々五々バラバラに投入したのです!

第二次総攻撃では多少なりとも改善されていましたが、既に手の内をさらした後です。

帝国空軍はティゲンホーフ上空に直掩部隊を張り付けており、さらに連邦軍航空部隊を視認するや増援を次々送り込みました。

 

…こうしてみると、連邦軍は負けるべくして負けた、と言うことになりますね。

 

…ミスター・ウィリアム。君の言うことは正しいが、今後は連邦に行く際は十分な注意が必要だね?

 

おっと、これは困りました。

 

はっはっはっ!ちなみに東洋にはこんな格言がありますよ。

『勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負け無し』

何のことかとは言いませんがね?

 

ウェンリー教授も話がお上手ですねえ…。

さて、話は尽きませんが、お別れの時間が近づいてまいりました。

お二方、本日は長い時間、どうもありがとうございました。

 

 

…さて、次回の放送では、このティゲンホーフ攻防戦と同時に繰り広げられた、戦史上の一大転換点、『バルテック海海戦』について掘り下げてみたいと思います。

作戦行動中の戦艦を、航空機が撃沈すると言う世界初の快挙!

それがどのようにして成し遂げられたのか、一体何があったのか。

 

そこを専門家の方と共に検証したいと思います。どうぞお楽しみに。

 

 




『Lボート』
言うまでも無く「大〇動艇」。なおドイツらしく極めて角張った構造

『ライン級強襲揚陸艦』
言うまでも無く「神〇丸」以下の陸軍特殊船。なおドイツらし(以下略
ちなみに航空機運用能力はない。魔導師がいるので航空機用の設備を作るのは時間とコストの無駄と判断された。

『特設輸送艦』
言うまでも無く「二〇輸送艦」。SS艇じゃないのかって?
量産性と言う面で、あの丸々したシルエットを皇女殿下が採用すると思うかね?
つまりそう言うことだ。あと船首板の信頼性。
なお例によって例のごとくドイツらし(以下略




追伸:次回投稿が極めて未定

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