皇女戦記   作:ナレーさんの中の人

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…いやぁ、カレンダー通りのお休みなんて何か月ぶりだったでしょう(シミジミ


皇帝の肖像

統一歴1990年刊行

『レルゲン回顧録 補筆修正版』より

 

 

――『レルゲン回顧録』は、本書を手に取られる多くの方々もご存じのとおり、未だに謎の多いかつての大戦について、その当事者が記した第一級の史料である。

一方で、レルゲン退役准将(執筆時)という「当事者」によって書かれていることから、安易に鵜呑みにすることは危険だ、と言う指摘も根強い。

事実、近年行われた氏の遺品、遺稿の再調査において、いままで一度も書籍化されていない未定稿が多数発見された。氏が最初の回顧録――本書もまた、それを底本としている――を執筆するにあたり、「推敲」を重ねていることは氏自身も述べており、回顧録を研究材料とする諸氏は、その事を十分念頭に置く必要があるだろう。

 

そこで今回、我々は新発見の未定稿を可能な限り整理の上、「補筆修正版」として刊行することとした。

残念ながら一部の原稿については散逸、汚損が激しく所収することが叶わなかったが、本書の刊行が謎の多い帝国の歴史、大戦研究の一助となれば幸甚である。

 

 

 

――なお、以下の稿については、筆跡、内容からしてレルゲン氏自身の執筆ではない可能性がある。

しかし、その内容が非常に興味深く、また示唆に富んでいることから、問題点を承知の上で所収するものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『皇帝とは、絶対的な君主である』

 

そう、我々戦前の帝国人は無意識的に刷り込まれていたし、「連合国」の人々は、今日でも無意識的にそのように認識しているだろう。

 

――しかし、あの大戦から幾年かが経った今、物事を客観的に振り返ってみると、それこそが大いなる誤謬であり、無理解であり、我々帝国人も陥っていた陥穽であった。

 

…戦前にこんなことを言えば、特別警察のご厄介になることは避けられなかっただろう。なるほど、その点で見れば戦前の帝国における皇帝権威は「神聖」にして「侵すべからざる」ものだったに違いない。

しかし国家体制、行政府としての帝国を俯瞰して見たとき、そこに「皇帝という個人」が絶対的な権力を振るう余地は、少なくとも、開戦時点には存在しなかった。

 

 

考えてみれば当然のことではある。

「帝国」という巨大な国家を、一人の人間が差配できるはずがないのだから。

 

国家という総体は「行政機関」「司法機関」「立法機関」等に分掌され、その中でも職掌ごとに「省」や「庁」が置かれ、実務は「官僚」と「公務員」に委ねられる。

およそ近代的な国家というものはそのようにして動かされるものであり、帝国とてそれは例外ではなかった。

 

 

 

 

ではなぜ、『皇帝とは、絶対的な君主である』という幻想が産まれたのか?

 

…思うに、初代皇帝と二代皇帝の印象が強すぎたのが原因であろう。

 

 

 

初代皇帝については言うまでもあるまい。

その軍事的才覚と勝利によって敵対勢力を打ち倒し、諸列強の介入を跳ねのけ、有史以来初の「ライヒ」統合に成功。その建国伝説は、クライマックスというべき敵国王宮での戴冠式で「神話」の域に昇華された。

帝国に産まれたものは、男も女も一度はその神話を夢物語に育ち、美術館や博物館で必ず目にする『戴冠式』に目を輝かせて大人になるのだ。自分たちの「帝国」、その輝かしい建国神話を。

 

――帝国最大の過失は、この成功体験を美化しすぎたことだろう。

 

なるほど皇帝が軍事的天才だったことは事実だろう。実際、劣勢を跳ねのけて勝利を手にした戦いも、多く記されているところである。

 

しかし、軍事的勝利だけで「帝国」ほどの大国が成立しうるだろうか?

 

答えは「否」である。

 

帝国は「遅咲きの列強」と言われることからも分かるとおり、他の欧州諸列強、国民国家より遅れてスタートした国家である。

そんな欧州において、「プロイツフェルン王国」が「帝国」という強大な国家に成長するのを、他の列強が看過する道理はなかった。彼らは様々な方法でライヒ統合を挫折させんと試み、物理的な介入を行ったことすらあったのである。

 

――そんな逆風の中、どうして帝国が成立しえたのか?

 

答えは『鉄血宰相』、その比類なき外交手腕にある。

 

その余人を以て代えがたい外交能力――遠交近攻、密約、謀略、工作、その他さまざまな手口――と「皇帝の軍事的成功」が、さながら車の両輪のように働いたからこそ、帝国は成立できたのだ。

加えて軍事的成功についても、皇帝の閃きを実現可能な「作戦」に昇華し、物資の手配を行う「皇帝幕僚団」――お察しのとおり、後の「参謀本部」の原型である――がいなければ成しえなかった。

…しかし、それらは史書において捨象された。

その方が物語になる、という面もあるかもしれないが、私には、本当の理由は「国民国家の成立」にあった様に思われる。

 

 

これを読む人には俄かに信じがたいことと思われるだろう――私自身、そのことを知ったのは大戦後のことである!――が、成立直後の帝国というのは、その実「烏合の衆」であった。

 

 

なにしろ『ライヒという共同体』自体、帝国以前には「空想上の存在」に過ぎなかった。

「帝国」という実体を得て、人々は初めて「帝国≒ライヒという共同体」、「帝国人≒ライヒ人」というアイデンティティーを獲得したのである。

当然、成立直後の帝国には一体感と言えるものはなかった。

後に問題となる「オストランド」「ノルデン」「未回収のイルドア」等の地域に至っては言語まで違ったから、これで一体感を持てと言う方が無理のある話だった。あるいは共同体イメージが固まる前だったからこそ、これら「異分子」が帝国に混入できたともいえる。

 

ゆえに、『皇帝の下にライヒに住まう諸民族が一致団結し』という建国神話でもって「帝国」という共同体を仮想のモノから現実のモノへと変化させる必要があった。

なればこそ建国に至る過程は神話の域にまで昇華され、学校教育、社会教育その他教育と名の付く機会をことごとく捉えて『帝国臣民』に『注入』される必要があった。

 

 

 

加えて、政治権力の方にも問題があった。

帝国の母体となったのは言うまでもなくプロイツフェルン王国だが、ライヒにはそれ以外にも多くの「王国」があり、貴族領があり、自治都市があった。

 

多くの人が勘違いをしているが、それらの独自性、自治性は帝国成立後もしばらくは存続していた。

…いや、残さざるを得なかったと言う方が正確だろう。

周囲を取り囲む諸列強、その介入を防ぐため、初代皇帝と廷臣たちは『早期の統合』を第一とした。すなわち、強固な反発を招くであろう「自治の剥奪」「特権廃止」を部分的なものに留め、とにかく「帝国」という既成事実を作り上げることを最優先としたのである。

この作戦が上手く行ったことは、帝国が成立したという事実こそが証明している。

残された特権は、言うなれば帝国の「宿題」であった。

 

 

 

 

 

 

 

この「宿題」を解決したのが2代皇帝といえるだろう。

…もっとも、本人にその認識があったのかは疑問ではあるが。

 

と、言うのもこの二代目、よくある「企業の二代目」の例にもれず、重臣たちと反りが合わなかった。

誤解なき様に言うと、即位当初は父である初代皇帝の覇業を支えた忠臣として尊敬し、尊重しており、重臣たちもまた帝国の二代目を担う皇帝を支えようという熱意に満ち溢れていたようだ。

…が、事あるごとに「こういう時、御父上ならば――」と言われ、何をするにしても初代皇帝と比較されるという状況は、二代皇帝の精神をささくれ立たせるには十分すぎたにちがいない。

両者の対立は日増しに激しくなり、宰相達は皇帝のことを会合で『苦労を知らぬ若造』と揶揄し、皇帝は宰相を『偉大過ぎる政治家』『国家に君主は一人で十分』と危険視していた。

 

 

 

宰相の誤算は、この二代目が暗愚どころか英邁に分類される人物――帝国の海外植民地が3倍に増えたのは彼の治世においてである――で、なにより自分たちという「教材」から学ぶ(盗む)事に長けていたことにあった。

 

 

 

宰相は日に日に追い詰められ、遂に両者の対立は、『宰相解任』と言う形で終止符が打たれた。

 

 

このときのことを、件の宰相は回顧録の中で「先帝陛下が身罷られたときに、さっさと職を辞すべきであった」と後悔している。

…もっとも、この宰相自身、秘書曰く『事実を意図的にゆがめる。知れ渡った事実まで歪曲しようとする。失敗したことには自分は関係していなかったことにしようとする』困った人物であったのだが。

 

そして、この解任劇は瞬く間に欧州全土に知れ渡った。

 

今日、歴史の教科書でよくみられる『水先案内人の下船』と題する風刺画は、このとき連合王国の週刊風刺画雑誌『パン()チ』に掲載されたものである。

ちなみに、同じ題材をこの手の風刺画において遠慮も配慮も一切しない――しなさ過ぎて、爆弾を投げ込まれないか心配になる――ことで有名なフランソワ人に描かせると、「『帝国ビルディング』の屋上から、『二代目』に突き落とされる『副社長』」という、より実態に即した表現となる。個人的にはこちらを教科書に載せた方が正しいと思うのだが…。

 

 

ともあれ、欧州各国は帝国の混乱を予期し、期待したがそれは叶わなかった。

彼らの予想に反して帝国の二代目は優秀で、宰相解任を皮切りに中央集権を推し進めることに成功していくのである。

 

 

 

――いや、彼こそが『絶対君主たる皇帝』だった。

 

 

かの皇帝は政治手腕――行政手腕もだが、何より「政敵を陥れる才能」という意味でのそれ――に優れており、自分に盾突く老臣を()()()()排除していった。

それは同時に、『貴族』が有していた権力を有名無実化し、帝国を名実ともに「皇帝の名のもとに」一つに集約していくことにも繋がった。

なんとなれば、初代皇帝に仕えていた政治家の半数近くは貴族称号を有して――と言うよりも、政治家になれるほどの学習機会を与えられる非貴族というのが珍しかった最後の世代が、初代皇帝の臣下にあたる――いたからである。彼らは貴族社会の代弁者、擁護者という側面も持っていたから、彼らが排除されたことで貴族特権の剥奪を妨害するものはいなくなった。

 

同時に進んだのは「官僚政治の地方への進展」であった。

何故なら、それまで地方の統治を委ねられていた貴族が没落していく中で、その地域を国家、あるいはその地方下部組織が管理していくこととなったからである。

 

かくして、中央集権の確立という『初代皇帝の置き土産』は解消され、残された貴族は、程々の資産を有する名家か、株主ないし企業主と言う形で産業界に進出した資産家、そして軍人貴族のいずれかに限られた。

 

「貴族子弟を入れておくところ」という意味での親衛師団が成立したのもこのころである。

つまり、プロイツフェルン王国時代の『一族郎党、家臣を引き連れて国王の下に参陣する貴族』というものが没落によって完全に不可能となり、その代替として「貴族子弟の国軍入隊」が一般化したのである。

 

この様に「帝国」を完成させた二代皇帝であったが、その治世は危ういものを孕んでいた。

というのも、先に彼の治世で『帝国の海外植民地は3倍に増加した』と述べたが、このような急激な勢力拡大は他の列強を大いに刺激したからである。

この時代、帝国は海外植民地を巡り幾度となく小規模な紛争を経験しているが、その多くがいわば「代理戦争」であり、その背後には他の列強の影があった。

その戦火が欧州にまで拡大しなかったのは、ひとえにこの時代の列強間の暗黙の了解、『欧州域内においては戦争を行わない』が、辛うじて機能していたからに過ぎない。

 

 

 

 

――あるいは、この皇帝があと数年健在であったなら、欧州大戦は史実より早い段階で勃発していたかも知れない。

 

 

 

 

宰相解任からおよそ15年後、二代皇帝は急死する。

あまりに急な訃報に暗殺説も流れるほどであったが、真偽のほどは詳らかではない。

なにしろ皇帝を恨む人間は大勢いたし、当時の政府、官僚らはその逆鱗に触れることを何よりも恐れていたから、その死は歓迎されたとまでは言わずとも、少なくとも再調査を訴える人間は皆無だった。

 

その死を受けて即位したのが、第三代帝国皇帝フリードリヒである。

 

…ところで、今のライヒ連邦でこの方の名前を正確に諳んじることの出来る人間が、いったいどれほどいるだろうか?少なくとも私には不可能である。

ちなみに正解は、「フリードリヒ・ヴィクトル・アーダベルベルト・フォン・プロイツフェルン」…だったはず。

 

それほどまでにこの皇帝の影が薄い理由は単純で、ひとえに「業績らしい業績がない」ことに尽きる。

なにしろこの皇帝は幼いころから病弱で、とてもではないが親政が出来る状態ではなかった。

実は二代皇帝の子供には夭折した者が多い。個人的には遺伝子に何らかの疾患を抱えていたのではないかと思うのだが…。これもまた、戦前であれば書けなかったことだろう。

 

 

 

――だが、皮肉なことにこの皇帝の虚弱さが「官僚機構の成熟」「議会政治の伸長」を齎した。

 

 

そもそも彼が即位した時点で、帝国は欧州において押しも押されもせぬ強国へと成長を遂げていた。

これほどまでに強大な国家となった帝国に対し、他の列強は生半可な覚悟で事を構えることは不可能となった。つまり、帝国から見れば『外敵の脅威』が弱まった。

内政に関しても、先帝陛下の治世下で官僚機構による統治が全土にまで行き渡っており、その他の各種政府機関、行政機構は完成されていた。

 

 

 

 

――極端な話、幼児が皇帝でも問題なかったのである。

そのことは、官僚機構の整備された古代ローマニアにおいて、『妊娠している母親の胎の上に王冠を置く』ことで即位した皇帝がいた事実が示している。

 

 

否、むしろ完成された官僚制度においては、二代目のような「自らが主導する」「強権を振るう」「自分の意に反する官僚は排除する」タイプの皇帝は害悪でしかない(二代皇帝暗殺説に、幾ばくかの信憑性があるのもこれが理由だろう)。

 

その点、三代皇帝フリードリヒは彼らにとって都合の良い君主だった。

 

しかも、幼いころから病気に悩まされていたこともあってか、この新皇帝は自らの意見をあまり表に出さない、大人しい人物だった。

皇帝は臣下の意見をよく聞いて決断を下す、あるいはその道に精通した人間を推挙させ、その人物に裁量権を与えるという方法を多く取り入れていたとされる。

この様な風土の中で、政府、軍部、宮中といった各分野、そしてはその官僚たちは自分たちの才覚を大いに発揮していくこととなる。

 

 

『官僚機構の円熟期』 

 

 

三代皇帝の長女、ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンが父の治世をそう述べたように、皇帝の指示がない「自由」な状況で、しかも病弱な皇帝を「頼ることが出来ない」以上、官僚たちにはあらゆる問題について自分たちで解決策を見出す能力と、皇帝権力を代理的に行使する胆力が求められた。

 

ゆえに、後の四代皇帝が語ったとおり、この時期の皇帝のありようはまさに『皇帝機関説』そのものであった。

 

なるほど成文上における帝国の主権者は「皇帝」であり、法解釈、統帥権もかの人物に収斂する。しかしてその実態、運用は官僚主義又は議会制であり、言うなれば「運用上の立憲民主制」というべきものであった。

 

 

 

 

――さて、ここで一つ疑問が生じる。

 

 

冒頭で私はこのように述べた。――『皇帝とは、絶対的な君主である』。そう、戦前の帝国人は無意識的に刷り込まれていたし、「連合国」の人々は今日でも無意識的にそのように認識しているだろう――と。

 

 

しかし、帝国の実態は先述のとおりであった(大戦時の皇帝は3代目と4代目である)。

なるほど4代目に限っては反動的な、もしくは軍人皇帝というべき部分があるが、それにつけてもこの『ズレ』はいったい何なのであろうか?

 

私が思うに、このズレは国外においては「情報の非対称性」、帝国においては「顕教と密教」に起因するものである。順に述べていくこととしよう。

 

 

 

まず、「情報の非対称性」について述べることとしたい。

と、言っても単純な話ではある。

戦時において敵国の実情はこちらの一般人の耳には届かず、逆もまた然りというだけのこと。

 

――問題は、ここに『意図的な情報の改変』が含まれることにある。

 

そもそもの話、正確な情報というのは伝達されにくい。

このことを当時の連合王国首相ウィストン・チャーブル氏は『嘘が世界を半周したころ、真実はまだズボンを穿こうとしている』と表現したが、蓋し至言と言えるだろう。

 

その顕著な例が「ハンブルガー大空襲」である。

当時、帝国国内においてはその被害の大きさ――特に民間人――から轟々たる非難と報復の声が上がったこの攻撃について、戦時中その詳細を知っていた連合国の一般人がどれだけいただろうか?

戦後、幾つかの論文がこの攻撃に関して「連合王国内における情報統制」があったと指摘しているが、それこそまさしく『意図的な情報の改変』といえるだろう。

 

 

同種のことが、『帝国の政治体制に関する理解』についても言える。

…いや、あるいはこちらの方が徹底していたかも知れない。

 

なにしろ、連合「王国」なのである。

もしも帝国の交戦相手がルーシー連邦やフランソワ共和国、合州国といった「過去に王制を否定した国々」のみだったならば、「帝国という世界の敵=王政国家」というイメージを作ることは容易だっただろう。

しかし、連合国の主要メンバーには連合王国が、帝国と同様、君主を戴く国家が含まれていた。これでは先述のイメージ戦略をそのまま使うことは不可能である。

 

 

…ここからは多分に私の推測であるが、彼らはここで一計を案じたのだろう。

 

すなわち、王政を更に分類したのである。

 

「開かれた議会政治を実践する、良い王政」すなわち連合王国と、

「絶対君主が君臨する、悪い王政」すなわち帝国の二つへと。

 

議論の飛躍と捉える諸氏もおられるだろう。しかし、そうとでも考えない限り、戦後10数年が経った今日に至っても「皇帝という絶対権力者」のデマゴギーが健在であるという現実は説明できないように思うのだが、どうだろう?

この点、当時の「情報統制」の内容を示す資料が発見されることを願うばかりである。

 

 

 

 

 

 

次に「顕教」と「密教」について述べよう。

 

戦前帝国における学校教育において、帝国の子女は「皇帝陛下万歳」を枕詞に「帝国とは、皇帝陛下の下に一致団結した一つの家族である」という『教え』を徹底的に叩き込まれて育った。

これが当時の帝国における()()()()であり、「模範的な回答」である(あるいは合州国の学校における「忠誠の誓い」のようなものと理解してもらって良いだろう)。

 

しかし、それは「表向き」の教えであり、帝国の実情――官僚と政治家によって差配される――は、官僚制もしくは議会制のレールに乗ったエリートにのみ開示される「秘密の教え」であった。

 

 

――ゆえに、『顕教』(公式見解)『密教』(秘密の教え)

 

 

実に上手い例えだと思った貴方、その言葉はツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンその人に送って欲しい。

…そう、恐るべきことにこの喩えは彼女の口から飛び出したものなのである!

初めてこの言葉を聞いたとき、ゾクリとするものがあったことを私は白状せねばなるまい。後の皇帝は実にシビアに帝国の実情を俯瞰していたのである。

 

話を戻せば、帝国人の多くは『顕教』を信じて育ち、大戦においてはその教えを信じて戦い、見果てぬ勝利の夢を抱いてヴァルハラへと旅立った。

対して『密教』を知る者たちは、その多くが内地にあって大戦を生き永らえたが、多くがその秘密の教えを明かすことはなかった。

 

何故?

 

――単純な話である。

 

戦死した将兵の家族、四肢を失った軍人達に『君たちの信じていた神話は嘘でした。本当は我々がこの戦争を指導していました』と、言い得る者があるだろうか?

 

『君たちは寓話のために殺し、殺されたのだ。敗戦という結果だけ見れば、その死は犬死に他ならなかった』と、誰が言えるだろうか?

 

…それならば『神話』に安住し、『帝国(御国)のため、息子さんは立派な戦死を遂げられました』と言う方が、言う方も言われる方も救われるに相違ない。

 

――否、言う方からしてその様に信じてしまっているのだ。最早一種の自己暗示である。

 

 

 

…である以上、当事者たちは――私を含めて――この件について多くを語ることは出来ないだろう。

罪深いことだとは認識している。

しかし、我々もまた『顕教』を胸に育った帝国人であり、『密教』に接したとしてもその心は『顕教』にあったことを、つまり『神話』を棄て切れずに生きながらえている愚者なのだということを知って頂きたい。

 

 

 

 

 

――その心根(こころね)を変えぬ限り、『密教』は再び我々の前に立ちはだかるであろうし、あの大戦という惨禍も繰り返されるだろう。

だが、そう認識していながら、それでも私は「帝国」という『顕教』を捨てることが出来ないでいるのだ。

 

 

 

 

 

以上、『レルゲン回顧録 補筆修正版』より抜粋

 




◆注意書き
本作は二次小説です。そこには一切の政治的意見の表明は含まれておりません。
そんな風に見える部分があったとしても、きっと気のせいなのです。
取り合えずメチルで一杯やりたまえ。そうすれば見えなくなるからサ

◆注意点
週明けからは再びのデスマーチ=投稿未定。


◇解説等

>宰相自身、秘書曰く『事実を意図的にゆがめる。知れ渡った事実まで歪曲しようとする。失敗したことには自分は関係していなかったことにしようとする』

ビスマルクさんのこと。
調べてみるとあの人、上司には絶ッッッッッッッ対したくないタイプである。

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