予めご了承ください。
岐阜県・関ヶ原演習場。そこが、大学選抜チームとくろがね工業が試合を行う場所だ。
愛里寿が隊長になってから確実に強くなっている大学選抜と、関西地区2位の実力を誇るくろがね工業。かつては天下分け目の戦いが繰り広げられたとされるこの地で、今注目を集めている2つのチームが戦うとは、何とも奇妙な感じだ。
『間もなく開会式が始まります』
観戦席の正面に設置されている大型モニターを見ていた桜雲の耳に、女性のアナウンスが聞こえてくる。
天候は快晴、そのおかげで8月の熱気と陽光が容赦なく地上に降り注がれている。観戦席には屋根が設置されていて直射日光は避けられるが、それでも座っているだけで汗が噴き出してくる。
『それではこれより、大学選抜チーム対くろがね工業の試合を開始します。礼!』
『よろしくお願いします!!』
モニターの前に審判、両チームの隊長、そして戦車の車長たちが並んで挨拶をする。そして隊長同士で握手を交わすと観客席から拍手が送られた。
開会式が終われば、両チームともに戦車に乗りこみ試合開始地点へと移動する。その間に大型モニターで改めて試合の概要が説明された。
ルールは殲滅戦。どちらか一方のチームが全滅するまで試合が続く。
この関ヶ原演習場は草原、荒野、山岳地帯を有しており、遮蔽物がそこまで多くない。
車輌数は両チームとも20輌。
大学選抜の主力戦車はパーシング、それにチャーフィーとT28、そして隊長車のセンチュリオン。これは桜雲も知っている。
対するくろがね工業の主力戦車、というかほぼ全ての戦車がIS-2だ。長射程・高火力の重戦車で、近づくことも難しい。隊長車はT-34/85とこれも手堅く、簡単にはいかなそうだ。
「さて・・・」
その概要を聞きながら、桜雲はスマートフォンとイヤホンを取り出す。ラジオのアプリを立ち上げて、これからの試合の公式実況を聴くのだ。
桜雲は今日まで、戦車の公式戦をその場で直接観たことがない。
試合を会場で直接観るとなれば、テレビとは違って解説や実況もなく、モニターの映像だけを頼りにするしかない。しかしそれだけでは初見の桜雲は分かりにくいから、ラジオの解説と実況で情報を補おうとしているわけだ。
『さて、今回くろがね工業と戦う大学選抜は、今年度からめきめきと力を伸ばしているようですねー』
『ええ、今の隊長になってから明らかに強くなってますね。現隊長の島田愛里寿さんは、「忍者戦法」と呼ばれる流派・島田流の後継者で、飛び級して大学に通っているとのことです』
『なるほどー、社会人相手にどんな戦いを見せてくれるのか、期待が高まりますねー』
実況の男性と、解説の女性の声が聞こえてくる。試合が始まるまでの間に、両チームの振り返りをするらしい。桜雲はそのラジオを静かに聴く。
そんな桜雲の首からは、猫の模様が入ったロケット付きのペンダントが提げられている。メグミとのデートでプレゼントされ、これを着けて応援すると誓ったものだ。
(頑張って・・・メグミさん)
ロケットを祈るように握る桜雲。この場で応援するのは当然大学選抜チームであり、中でも桜雲はメグミのことを強く応援する。
それでも桜雲にできることは、勝利を祈ることだけだ。
勝ってほしいと、ただ切実に願いながら試合開始の時間を待つ。
メグミは戦車の中で、首から提げているペンダントを手にして見つめていた。
会場入りする前に、桜雲から『観戦席で観ているよ』とメールが届いた。それには、今メグミが着けているものと同じお揃いのペンダントの写真も添付されていた。
桜雲は自分で言った通り、メグミを応援するためにここまで来て、そしてペンダントを着けてくれている。
自分を応援するためにそこまでしてくれるだけで、メグミは嬉しい。そして、桜雲が応援してくれるこの試合に勝とうという意志が強くなる。
ロケットを強く握るメグミ。
「そのペンダント、どうしたんですか?」
試合前の調整を終えた平戸が話しかけてくる。その疑問は他の乗員たちも思っていたらしく、メグミの近くにいた対馬もまたメグミの方を振り返っていた。
「これ?これは、まあ・・・・・・お守りかな」
「ほー・・・」
ちょっとばかりの笑みと共にメグミが告げた言葉に、対馬は何かを察したように頷いた。
「試合中は見えないようにしなよ」
「分かってるわよ」
対馬に言われた通り、ペンダントをシャツの中に仕舞う。そして、自らの膝を叩いてメグミは気持ちを切り替えた。
「さて、あんたたちは大丈夫?」
「問題ない」
全員に対する問いかけに最初に答えたのは深江。手をぽきぽきと鳴らし、ストレッチをしている。
「こっちもOK」
「いつでも行けます」
生月と平戸も頷く。
「私も。あとはあんた次第よ、メグミ」
対馬がメグミの顔を指差す。対してメグミは、にっと笑う。
「私はノープロブレム。行けるわ」
「まあ、彼氏が観に来てるからね。当然か」
「だから彼氏じゃないって・・・・・・・・・まだ」
対馬が茶化し、メグミは嘆息する。
だが、最後のメグミの『まだ』という言葉に乗員全員が小さく笑った。いずれはそうなりたいとメグミが望んでいるのだから、それが実に可笑しい。
んんっ、とメグミが咳払いをする。
試合前のミーティングでも、メグミの中隊のメンバーに変わった様子は見られなかった。アズミとルミの中隊も同様、愛里寿だっていつも通りだったからコンディションは万全だ。
それに加えて、メグミが首から提げているペンダント。桜雲も同じものを着けて応援してくれているのだから、今のメグミには恐れるものなど何もない。不安など、感じやしない。
「さ、気合入れていくわよ!」
『はい!』
4人が威勢のいい返事をする。
そして、試合開始を告げる号砲が鳴り響いた。
両チームの戦車が動き出すと、観戦席がにわかに盛り上がり出す。桜雲の周りにいる観客たちが、前のめりになってモニターを観ている。
(やっぱり人多いなぁ・・・)
そんな観客たちを見て、桜雲は心の中で思う。
前に愛里寿たちと昼食を共にした時、『最近は戦車道が注目されつつある』という話題になったことを覚えている。なんでも、今年の高校生全国大会の結果が番狂わせ極まるものだったようで、桜雲も後に調べると感嘆の息が洩れるほどのものだった。
ともあれ、その全国大会のおかげで衰退気味だった戦車道も再び盛んになり始めているらしいのだ。この観戦席がほぼ満席なのも、そのおかげだろう。
戦車道がこうして盛り上がるのは喜ばしいことではあるが、熱気がすごい。
『さて、注目の大学選抜は荒野からのスタートですが、くろがね工業はやや高めの丘からスタートですねー』
『戦車の試合は高いところの方が有利ですからね。最初のフィールドアドバンテージはくろがね工業にあるかと』
『なるほどー。IS-2は射程も長いですし、序盤は大学選抜にとって脅威となりますねー』
実況を聴きつつモニターを観る。進軍を始める両チームの距離は縮まりつつあるが、まだ離れているので接敵まではまだ時間がかかりそうだ。
『大学選抜は、チャーフィーを1輌先行させていますが、これは偵察ですかねー?』
『恐らくそうですね。大学選抜からはまだくろがね工業が見えていないと思います。チャーフィーは機動力も高いので偵察向きですし、見つかったとしても撤退は可能ですから』
モニターがドローンからの空撮映像に切り替わると、確かにチャーフィーが大学選抜の本隊よりも先を進んでいた。
大学選抜の内訳は、パーシング15輌、チャーフィー3輌、T28とセンチュリオンがそれぞれ1輌だ。
バミューダ3姉妹の中隊それぞれにパーシングが5輌ずつ、アズミとルミの中隊にチャーフィーが1輌ずつ配備されている。メグミの中隊にはチャーフィー1輌の代わりにT28がいる。残りのチャーフィーは、偵察と遊撃、攪乱がメインだ。
チャーフィーの乗員は機動力を活かした役割を負うことが多いため、乗員―――特に操縦手は戦車の操縦に長けている継続高校やアンツィオ高校からスカウトした者ばかりだ。
『敵本隊、丘陵地帯を南下中。接敵まで推定10分』
「・・・偵察を続けろ」
『了解!』
偵察に向かわせていたチャーフィーの車長・
「アズミ中隊は西方、ルミ中隊は東方へ展開し、敵本隊を東西から挟み込め」
『『了解!』』
アズミとルミ、2人の中隊が東西に分かれて展開する。
「メグミ中隊はそのまま私の後ろに続け。正面から叩く」
『はい!』
チームで一番力をつけてきているメグミの中隊は、センチュリオンの後ろにつける。足が遅いT28がいるので素早い動きを要求するのは難しいからだ。なので、隊長車の後ろからの援護も兼ねて戦闘に備えさせる。
「くろがね工業は基本に忠実な戦術を執る。その分対処のしようはある」
「はい!」
誰に向けたわけでもない言葉に、砲手の大和が返事をする。愛里寿は小さく頷き、キューポラから戦場を臨む。
今は太陽の日照りとそよ風が心地良い場所だが、間もなくここは戦場へと変わる。
『大学選抜チームは左右から挟み込むようですねー』
『正面からぶつかるよりもこちらの方が奇襲的な意味もありますからね』
簡略図で大学選抜がくろがね工業を東西から挟み撃ちにしようとしているのが示されている。
その2つの中隊の編成を見て、桜雲はアズミとルミの中隊だと分かった。どちらにもメグミの中隊にいるはずのT28がいないので、消去法だが。
このまま東西から奇襲し、愛里寿とメグミの中隊が正面から叩けば優位に立てるだろう。
だが、相手は手練れの戦車乗り集団。そう簡単に事は運ばなかった。
『あっと、ここでくろがね工業が隊を二分させましたねー』
『どうやら、大学選抜の動きを読んでいたようですね・・・これは正直、マズいかもしれません』
実況と解説を聴き、桜雲の肩が少し震える。
簡略図が空撮に切り替わり、くろがね工業が隊を東西に分割させてアズミとルミの中隊を迎え撃とうとしている様子が映された。
まずい、と心の中で叫ぶ。
『おぉっとここでくろがね工業発砲したー!』
実況が嬉しそうに声を上げる。
IS-2が発砲した様子が映されて、歓声が湧き上がる。
「中隊各車、右に旋回!急ぎなさい!」
中隊を率いて西に展開していたアズミが指示を下す。
IS-2の初弾は幸いにも外れ、こうして指示を出す時間を得られた。これで真っ向からの衝突は避けられる。
「各車、退避しつつ応戦!」
それに、ただ尻尾を巻いて逃げるだけではない。せめてものと砲身をくろがね工業に向けてこちらからも発砲する。撤退しながらの発砲と撃破は難しく、やらないよりはマシなレベルだ。
アズミから見えるIS-2の数は、退避している間にも増えていく。砲撃も激しくなってくる。逃げながらのアズミ中隊の砲撃は良くて掠るだけで、命中には至らない。
『7号車行動不能!』
ついに味方が1輌やられた。
だが、この程度で取り乱しては中隊長など務まらない。アズミは極めて冷静に判断を下す。
「中隊各車、東の林に撤退。今は退くわよ」
この状況で正面から勝負を挑んでも勝ち目はない。今は体勢を立て直すべきだ。
アズミの中隊は応戦しつつも林へ逃げ込む。IS-2も途中までは追ってきたが、深追いはせずにある程度距離が離れると撃ってこなくなった。
「中隊、撤退には成功した模様です。アズミ中隊はパーシング2輌、ルミ中隊はパーシング3輌、計5輌の損失です」
センチュリオンの通信手・信濃が被害状況を報告する。早くも全体の4分の1を失ってしまった。
くろがね工業も、自分たちが基本に忠実な作戦を執ることを自覚していたのだろう。だから、大学選抜が奇襲を仕掛けてくることを予想して、先ほどのような奇襲返しをしてきた。
しかし、愛里寿にとってこれは想定の範囲内だ。
最初の奇襲で手傷を負わせられれば御の字だったが、この戦闘でくろがね工業には奇襲が通じないことが分かった。それだけでも十分収穫である。
味方が倒されたことを嘆く暇で、後の戦いに活かせる情報を見つけて作戦を考えるべきだと、愛里寿は考えていた。
「次の段階へ移る。各車―――」
撤退したアズミとルミの中隊に、合流する座標を伝える。
大学選抜は、その地点に向けて進みだした。
『まず序盤はくろがね工業がリードした感じですかねー』
『示威行動としては上々だと思いますね。大学選抜もここからどう巻き返していくのか、気になります』
大学選抜が撤退を終えたところで、桜雲は小さく息を吐く。
最初に奇襲がバレて返り討ちに遭ったところも、心臓に悪かった。応戦する大学選抜の戦車が撃破される度に、血管が縮み上がるような感覚になってしまった。
観ているだけでこれなのだから、実際に戦っているメグミたちは本当にすごいんだと改めて実感する。こんな状況でも慌てふためくことなく冷静に反撃し、撤退したのだから。
そんな彼女たちを、桜雲は純粋に尊敬した。
『大学選抜は一度体勢を立て直すようですねー』
『くろがね工業は2輌偵察に向かわせています』
『偵察がIS-2って言うのも中々贅沢ですねー』
空撮映像には、くろがね工業の本隊から先行するIS-2が2輌映されている。
そのうちの1輌は、大学選抜から程よい距離を保ったところで停止するが、もう1輌は停止せずに大学選抜へと進み続けている。偵察にしては、近づきすぎだ。
『おっと・・・あの偵察のIS-2は近づきすぎな気もしますが・・・これは何か意図があるのでしょうかー?』
『奇襲でしょうかね・・・。いくらIS-2でも1輌だけではあまり効果は得られないと思いますが・・・』
実況と解説も、そのIS-2の動きを不審に思ったのか疑うような声を洩らす。
すると今度は、IS-2が砲塔を旋回させて、砲身を大学選抜とは反対方向に向けてしまった。観客たちも流石に変に見えてきたのか、ざわつき始める。
『完全に砲身を逸らしてしまいましたし、これは交戦する意思がないと言うことですかねー』
『そうですね・・・それでもなお大学選抜に近づいていきますし・・・。まさか、寝返りですかね?』
解説が告げた不穏な言葉に、桜雲の目がぴくっと動く。
そんな行為が許されると言うのか。
『それは戦車道のルール的にはアリなんでしょうかー?』
『戦車道の規定には明記されてはいないのでセーフと言えばセーフです。しかし、犯してはならない暗黙のルール的なものですね』
『なるほど、グレーラインと言った感じですねー』
桜雲と同じ疑問を実況も抱いていたらしい。
ルールに記載されていないからやってもいいというのは、ルールの網を潜り抜けるようであまり好意的には受け取れないが、仮にあれが本当に寝返りであっても失権にはならないのだろう。
『しかし、なぜあのIS-2は大学選抜に付こうとするんですかねー?』
『それは、正直不明ですね・・・メリットは無いように思います』
「1輌前進してきますが、攻撃の意思は見られません。何が目的は不明ですが、恐らくは寝返りかと」
向かってくるIS-2を双眼鏡で捉えながら、メグミが愛里寿に報告する。
寝返りというケースは頻繁とまでは言わずとも、過去にもあったという話は聞いていたから、多分それだとメグミは思った。
そして、寝返る理由は島田流に関する何かだろうと予想する。
大学選抜が島田流を母体としているのは周知の事実だし、島田流という流派の規模も大きい。あのIS-2の乗員の誰かが恐らく島田流の元門下生で、島田流に恩義を感じているのかもしれない。
『メグミ、やれ』
「はい」
だが、それはこちらの知ったことではない。仲間を裏切り寝返るような輩を何の抵抗もなく受け入れるほど大学選抜は敵に寛大ではないし、受け入れたところでこちらに得はない。
愛里寿からの冷淡な指示を受けると、メグミは平戸に発砲命令を出す。砲撃音が轟き、弾は一直線にIS-2に向かって直撃し、白旗を揚げさせた。
『IS-2重戦車1輌行動不能』
攻撃する意思を見せなかったIS-2には桜雲を含め観客たちも首を傾げていたが、大学選抜がどんな形であれ巻き返したのを見て、歓声を上げた。
『大学選抜、ようやく1輌撃破できましたねー』
『そうですね。ですが、相手は攻撃するつもりがなかったようですので、まだまだ喜ぶのは早いかと』
桜雲は、IS-2が撃破されたのを見て、ほっとした。もし、万が一、大学選抜がIS-2を引き入れて共闘したら、どんな顔をすればいいのか分からなかったから。
『さて、たった今入った情報によりますと、どうやら撃破されたIS-2の車長・
『なるほど・・・もしかすると小早川選手は、島田流に何か恩義を抱いていたのかもしれませんね・・・。大学選抜チームは島田流が母体ですし』
『寝返りの原因はそれですかねー』
実況と解説を聞いて、桜雲は小さく嘆息する。
先のIS-2はほぼ確実に寝返りだと言うことが判明して、それが規定違反にはならないというのが驚きだ。知識として戦車道は知っていて、興味も多少あったけれど、これは初耳だ。
つくづく、戦車道は奥が深いとむしろ感心する。
そしてモニターでは、大学選抜が2輌目の偵察のIS-2(こちらは攻撃の意思あり)を撃破したところだった。
『各車前進』
愛里寿の指示を受け、大学選抜チームが前進を開始する。寝返ったIS-2を撃破したのち、本来実行する予定でいた作戦を決行するのだ。
内容はざっくり言うと、ジグザグに走行しながら敵本隊に肉薄するというもの。
敵の主力であるIS-2の搭載弾数は少ないので、向こうも無駄弾を撃つことは極力避けたいだろう。
そこで大学選抜は、左右に車輌をずらしながら接近し、照準を定めにくくするのだ。勿論それをノロノロやっていては狙われる可能性も高くなるので、素早くやる。大学選抜の練度があればそれも可能だ。動きの遅いT28も装甲が厚いゆえ問題ない。
それに、これだけで敵が沈黙することは無いだろうが、惑わせることができれば御の字だ。
「会敵した時にすぐ撃てるように、平戸と対馬は準備しておいて」
『はい!』
最初の戦闘でアズミとルミの中隊から落伍車が出たと聞いた時、メグミはショックを受けていた。こちらの損失はゼロとまでは言わずとも最小限に留めたかったから、序盤で一気に5輌も失った時は『勝てるのだろうか』と不安になってしまった。
試合中に自信を少しでも失ってしまうと、戦いにそれが響いてしまうというのに。
おまけに先ほど、メグミは初めて『寝返り』を見た。話でしか聞いたことがなかったハプニングに直面し、それをメグミが撃破したのだから驚きだ。
この試合は明らかに、これまでの試合とは違う。相手がこれまでとは違う強豪だからなのもあるが、寝返りに限ってはそういう話じゃないだろう。
(・・・頑張らなきゃ・・・)
そしてメグミが焦る理由は、桜雲がこの試合を観てくれているからだ。だから、無様な姿は見せたくない。かっこいい自分を見せたい。そう思ってしまっているから、メグミは焦っている。
「メグミ、大丈夫?」
そんな思考で頭が埋め尽くされているところに、対馬が声をかけてきた。
メグミは、眉間を指で押さえて首を横に振る。
「・・・ん、大丈夫」
「無理な話かもしれないけど、あまり神経尖らせすぎない方がいいよ?」
それは本当に無理な話だ、とメグミは呆れたように笑って見せる。
そこで自分の中隊を見ると奇妙な光景を目にした。
「?」
1輌、他よりも速度を上げて前に進んでいるパーシングがいた。まだ今は隊列を組んだまま前進するだけなのだが、その戦車は明らかに隊列を乱していた。
「先行しているパーシング、列に戻りなさい」
無線でメグミが伝える。大学選抜のパーシングは中隊長車を除いて識別番号やパーソナルマークの類はない。だから、誰がどの戦車に乗っているのかが見分けられないのだ。
しかしそのパーシングは、自分が先行していると気付いていないのか、止まらない。
どころか、砲塔を右に旋回させ始めた。
そして、発砲した。
「!?」
今更になってメグミが事の重大さに気付く。
あのパーシングは、右方向にいる愛里寿のセンチュリオンに向けて発砲した。そんな指示など出していないので、完全に命令違反だ。
「え、今の何?」
「撃ったのか」
「なんで?敵?」
生月たちも動揺するが、メグミは双眼鏡で辺りを見回す。生月の言う通り近くに敵がいてあのパーシングがそれを狙ったとも考えられたが、敵の姿は見えない。
どうやら、あのパーシングはセンチュリオンを狙っていたらしい。
「何してるの!早く戻りなさい!」
それが分かると、何をバカなことをしたんだと半ば怒鳴るように無線機に告げるメグミ。
今度は返事が来た。
『すみません・・・メグミ中隊長』
この声は、5号車の
『私・・・実は言えなかったことがあるんです・・・』
「?」
『私は・・・・・・くろがね工業から内定を頂いています』
突然の告白に、メグミは困惑する。
「ちょっと、それが一体―――」
『あちらには恩義があります・・・だから私は・・・・・・戦えません』
「だからって、私たちの隊長を狙うのは―――」
『私を拾ってくれたくろがね工業に・・・恩返しがしたいんです!』
通信が途切れる。
明智の言っていることは滅茶苦茶だ。例え相手が内定先の企業であっても、それで自分の仲間に牙を剥くことがまかり通るはずはない。
「ど、どうする!?」
「撃っちゃいますか・・・!?」
対馬と平戸も困惑しているようだ。先ほどの明智の言葉は少なくともこのパーシングの乗員全員には聞こえていた。
メグミの額に汗が浮かぶ。
想定の遥か外側の事態に、ただメグミは困惑するしかない。
一方で観戦席は、異様に湧き上がっていた。
『おおっと、これはどうしたことかー!大学選抜チームのパーシング1輌が、隊長車のセンチュリオンに向けて発砲したー!』
『まさか大学選抜でも寝返りが起きるとは、これは想定外ですね・・・!』
実況が興奮気味になっており、解説も動揺しているようだ。観客たちはドローンの空撮を観て歓声を上げている。
そんな中でも桜雲は、実況を聴きつつ、空撮を観ながら、なぜこんな状況になってしまったのかが分からない。初めて観た試合でこんなことが起きてしまうのに、困惑するほかなかった。
だが、盛り上がる観客たちを黙らせ、困惑する桜雲をしゃんとさせるように、『ズバァン!!』と鋭い砲声が鳴り響いた。
『全車輌停止』
その通信を聞いた瞬間、大学選抜の車輌14輌が一斉に停車する。
メグミのパーシングももちろん止まったが、その少し後方では明智のパーシングが黒煙を上げて擱座している。あれは、愛里寿のセンチュリオンが仕留めたものだ。
「・・・・・・・・・」
そして今、メグミは恐怖していた。
まだ作戦途中にもかかわらず、愛里寿からの停車指示、これは作戦にはないものだ。
明らかに、明智の背信行為を見てのことだと分かる。
何より、指示を下した愛里寿の声がいつにも増して低く聞こえた。それは他の乗員たちも思っていたらしく、誰もが息を呑み、呼吸さえも忘れそうなほど緊張していた。
『全車輌に告ぐ』
全体通信の愛里寿の声は、全ての車輌に届いているはずだ。
『先ほど、私たちのチームから寝返ろうとした者が現れた』
恐ろしさすら感じるような語気の言葉。
間違いなく、愛里寿は怒っている。
『この場でハッキリと言っておく。私たちが今向かい合っているのは敵ではなく、戦車道だ。礼節を弁えるべき伝統ある武芸だ』
その言葉から分かる。
愛里寿は、戦車道を誇りに思っている。
『たとえ相手が恩人だとしても、勝負の世界に私情はいらない。そして、仲間を裏切り敵に与することは、仲間からの信頼や評価を全て無にするも同然な、無責任な行為だ。戦車道には相応しくない、愚の骨頂』
愛里寿は、大学選抜から絶大な信頼を得て隊長の座に就いている。
『そして、戦車道における裏切りとは・・・自分を信頼する仲間を、正々堂々と戦う相手を、戦車道を侮辱するこれ以上ないほどの愚行だ』
愛里寿は、戦車道を愛している。
『そんな輩に戦車道を歩む資格など、無い』
だからこその怒り。
愛里寿の戦車道に対するその言葉、熱意は、大学選抜のメンバーは今初めて聞いた。そして、これほど雄弁な愛里寿は見たことがない。
これが味方の寝返りが露見した直後というシチュエーションでなければ、隊員たちは鬨の声を上げていただろう。
しかし今、この戦場を支配しているのは静寂と重苦しい空気だけだ。
アズミも、ルミも、深江も、生月も、平戸も、対馬も、誰も何も発さない。草原に吹く風が嫌に響き、戦車のエンジンのアイドリング音が都会の喧騒のように大きく聞こえる。
「・・・・・・・・・」
中でもメグミは、ひと際愛里寿の言葉を重く受け止めていた。
今回寝返ろうとした明智はメグミの中隊に所属していた。だからメグミは、自分が明智の変化に気付けていればこんなことにはならなかったのかもしれないと、後悔している。
自分がこの状況を引き起こし、愛里寿を『本気で』怒らせてしまったのだと。
『・・・・・・作戦を変更する』
間を挟んでから、続けて愛里寿の指令が飛ぶ。隊員たちはそれまでの緊張感を一度棚上げして、愛里寿の指揮に耳を傾ける。
ただ、メグミに限っては頭の中がごちゃごちゃになってしまったが。
観戦席は、先ほどとは打って変わって静まり返っていた。
突如として自軍の隊長車に牙を剥いたパーシングと、それを返り討ちにしたセンチュリオン。さらに突然動きを止めた大学選抜チーム。
流石にここまで異様な光景を見せられては、観客たちも騒ぐことなどできはしない。
『大学選抜、沈黙しましたねー・・・』
『まあ、無理もないと思います、ね。何しろ自分たちのチームからも寝返る車輌が出たんですから・・・』
桜雲の耳に入る実況と解説も、心なしか先ほどよりも勢いが落ちている。
すると、モニターの空撮映像の中の戦車が動き出した。大学選抜がようやく動き出したのを見て、観客たちも徐々に盛り上がりを取り戻し始める。
『ようやく、動き出しました大学選抜。隊長車のセンチュリオンを先頭に、くろがね工業へと近づいていきます』
『序盤とは違ってセンチュリオンが先陣を切ってますね。恐らく直接くろがね工業と戦うつもりなのでしょう』
モニターが切り替わり、簡略図になる。大学選抜とくろがね工業の間の距離は、どんどん縮まっていく。
激突は近い。
『バミューダアタック、パターンD!』
「『了解!』」
メグミの指示に、ルミは威勢の良い返事を返す。チーム内でやった模擬戦のように戦車を素早く動かして敵戦車を攪乱し、撃破していく。敵の主力のIS-2は砲身が長いので、近接戦に持ち込めばまだ有利に立てる。
「よし、次!」
視界の端でIS-2を撃破したのを確認すると、次の戦車へ狙いを定めるように操縦手の珠洲へ指示をする。
しかし、ルミの頭には1つの引っ掛かりがあった。
メグミの様子が普段とは違う。バミューダアタックの指示が心なしか荒っぽかったし、言い方を変えれば苛ついているようにも聞こえた。
その原因は十中八九、明智の背信行為だろう。
だが結論から言わせてもらえば、あれはメグミは何も悪くはない。だから気に病む必要も、苛つく理由もないはずなのだ。
それなのに彼女が怒っているのは、ルミを含めた大学選抜が尊敬する愛里寿の逆鱗に触れてしまったからなのと、メグミが好いているであろう桜雲という男がこの試合を観ているからだ。
3方向から囲い込んで、ルミのパーシングがIS-2を撃破する。
それらの要素が絡み合って、メグミは変わってしまったのだろう。
彼女の胸中がごちゃごちゃになってしまっているのは、ルミでも分かる。彼女の親友だからでもあるし、ルミ自身もあの愛里寿の話を聞いた時には総毛立っていた。
3輌並んでドリフトし、アズミのパーシングがIS-2を撃破する。
ルミは試合が終わった後、どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか分からない。
慰めること、労わること。それが重要なのは分かっているが、それを今のメグミにするのはひょっとしたら自分たちではないのかもしれないと、思っていた。
メグミのパーシングが、すれ違いざまにIS-2を撃破する。
試合が終わったら、アズミと少し相談して、桜雲をメグミの下へ来るように連絡してみよう。
今のメグミに必要なのは、彼女が好きでいるだろう桜雲なのかもしれない。
『これはすごい!大学選抜、破竹の勢いでくろがね工業の戦車を屠っていく!』
モニターの脇のくろがね工業の戦車欄にバツ印が次々と付け加えられていく。
観客たちもほとんど立ち上がっており、次々とIS-2を撃破していく大学選抜に歓声を送っている。
モニターに映されているのは、パーシング3輌の連携攻撃―――バミューダアタック。そして、敵陣に単機で突っ込み無傷で何輌も相手にしているセンチュリオンだ。
『大学選抜のセンチュリオン、くろがね工業の猛攻を躱しに躱す!そしてやり返す!これはすごい!早くも単機で8輌も撃破している!』
『これが大学選抜の力ですね。天才少女・島田愛里寿のセンチュリオンと、パーシング3輌の連携攻撃・バミューダアタック、あれこそが大学選抜の醍醐味です』
血沸き肉躍るような実況と解説。
それを聴き、モニターの映像を見る桜雲も自分が興奮しているのが分かる。
戦車の試合を実際に観ることが、これほどまでに楽しいことだとは思わなかった。
先ほどまでは違和感ある戦局ではあったが、今の大学選抜の猛攻を見ると、初めて観た試合がこれでよかったと自信を持って言える。
それぐらいこの試合は、大学選抜の快進撃は、面白い。
『残存車両確認中!』
両チームが接敵をしてからおよそ2時間が経ったところで、アナウンスが流れる。
観客たちは、先ほどまでの歓声も潜めて静まり返っている。
『目視確認終了!』
モニターの画面が切り替わり、両チームの車輌が一覧となって表示される。くろがね工業はIS-2、大学選抜はパーシングばかりだったが。
『くろがね工業、残存車輌無し。大学選抜、残存車輌5!』
くろがね工業側には全てにバツ印が付き、大学選抜側で残ったのはセンチュリオンとパーシング3輌、T28だった。
そして、くろがね工業の戦車が全てやられたと言うことは。
『大学選抜チームの勝利!!』
審判長が試合の結果を高らかに宣言すると、観客たちは爆発的な歓声を上げた。
桜雲は周りに倣い、勝利した大学選抜と健闘したくろがね工業に称賛の気持ちを拍手で伝える。
いくつかの奇妙な出来事があったとはいえ、この試合は桜雲にとっては面白かった。初めてちゃんと最初から最後まで実際に観た試合であるし、終盤の大学選抜の猛攻も観ていて爽快感があった。
観に来てよかったと、胸を張って言える。
やがて閉会式を迎え、車長たちが挨拶を交わすと観客たちは盛大な拍手を送った。
その閉会式を過ぎると観客たちも帰り支度を始めるが、桜雲はどうしたものかと悩んでいた。
試合を終えたメグミに労いの言葉の1つでもかけてあげたかったが、今は恐らく撤収作業やら何やらで忙しいだろうし、直接会って話すのは難しいだろう。あとで、電話かメールで伝える方がいいかもしれない。
仕方なく帰ろうかと思ったところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面を点けると『新着メール:ルミさん』とあり、その内容はある場所へ来てほしいとのことだった。
「お、来たね」
「ごめんなさいね、急に呼び出しちゃって」
その場所へ来てみれば、ルミとアズミが大学選抜のユニフォームを着たまま待っていた。特に、ルミの顔には少しだけ煤がついていて、激戦の名残を感じさせる。
「試合、お疲れ様。それで、どうかしたの?」
「いやー、ちょっとね・・・」
しかし、呼び出した当のルミはなぜか呼び出した理由を言いよどむ。桜雲が小首を傾げると、アズミが代わるように話しかけた。
「ちょっと、試合でメグミが疲れちゃったみたいでね。それで、桜雲も観に来てるって聞いたから、ひと声かけてあげてほしいなって」
アズミにそう言われて、好機と桜雲は思う。丁度メグミに声をかけたいと思っていたところだったので、その申し出は嬉しい。
「・・・分かった。僕も直接声をかけたかったし」
「そっか。それならよかったわ」
そうして2人にメグミのいる場所を教えてもらい、そこへと向かう。関係者以外立ち入り禁止の場所であったが、アズミたちの助力で何とか行くことができた。
2人が桜雲に向けて親指を立てていたことは妙に気になったが。
メグミは壁に背を預けて、下を見ていた。
ただぼーっとしているわけではない。先ほどの試合のことを思い出しているのだ。
『そんな輩に戦車道を歩む資格など、無い』
あの時の愛里寿は、怒っていた。
それはもちろん、自分の部下が寝返って自分に牙を向けたのだから。愛里寿の言うように、仲間の信頼を裏切り、正々堂々戦おうとした相手を侮辱したのだから当然だ。くろがね工業からも寝返ろうとする戦車はいたが、それは今は関係ない。
今、寝返った明智は、観戦に来ていた家元の島田千代と話をしている。どんな処遇を言い渡されるのかは分からないが、ただでは済まないだろう。
それはともかくとして、今メグミが気にしていることは、あの愛里寿を怒らせてしまったことだ。それも、自分の中隊に所属していた隊員がその原因なのだから。
「・・・・・・はぁ」
試合が終わった後、アズミやルミ、他の乗員たちが『メグミは何も悪くない』と言ってくれた。理屈でもそうなのだが、メグミ自身はそれをすんなりと受け入れられない。
もっと自分が隊員のことを把握できていれば、今日のようなことにはならなかったかもしれない。
明智が寝返ったと分かったところで迅速に撃破できていれば、結果は変わっていたのかもしれない。
そんな後悔が楔の如くメグミの心に突き刺さっていて、彼女の顔も心も曇ってしまっていた。
そして、自分のせいだと思い込んでしまっているから、メグミは自分自身に苛ついている。
「メグミさん」
そうしてネガティブな考えが頭を支配しているところで、声をかけられる。
忘れるはずのないその声の主は、桜雲だった。
「桜雲、どうしてここに・・・?」
「アズミさんたちに入れてもらってね」
関係者以外立ち入り禁止の場所に桜雲がいるのが理解できなかったが、その理由を聞いてメグミの眉が顰められる。
そんな桜雲の後ろをちらっと見れば、アズミとルミが見えた。しかもご丁寧に、メグミに見えるように親指を立てている。反応するのも癪だったので見えないふりをしたが。
それよりも今、メグミは自分の気持ちを整理できていない。桜雲が来てくれたこと自体は嬉しいが、正直今はタイミングが悪い。
「試合、お疲れ様」
「ありがと・・・」
労いの言葉をかけてくれる。それも嬉しいのだが、あの試合の内容を考えればとても『お疲れ』どころではない。桜雲はその出来事を知らないのだから仕方ないのだが。
「戦車道の試合って初めて生で観たけど、すごく楽しかった」
「・・・・・・そう」
桜雲は試合を観て、『思ったままの』感想を伝える。
あの試合で、愛里寿が皆の前で本気で怒り、メグミの仲間が寝返り、それでメグミが大きく悩み自分自身に苛ついているのも知らず。
「色々アクシデントがあったみたいだけど・・・。でも、この試合が観れてよかったと、僕は思う」
―――やめてよ。
メグミにとって今日の試合は、桜雲が応援してくれると聞いて、仲間たちの力を発揮できると思っていて武者震いするほど楽しみにしていたのに、落第点もいいところだった。
それなのに、桜雲は『観れてよかった』という。桜雲自身に悪意はないとは分かっていても、皮肉にしか聞こえない。
「みんな、頑張ってた。メグミさんも、かっこよかったよ」
それで、メグミの中の何かが音を立てて切れた。
「・・・・・・やめてよ」
「え?」
震えるメグミの声に、桜雲は困惑する。
今、メグミは冷静ではいられなかった。自分の中では評価に値しないほどの試合を、桜雲は『面白かった』『観てよかった』と言って、終いにはメグミのことを『かっこよかった』とまで言ってきた。
今日の試合が普通で、メグミが普段通りの状態であれば、その言葉を素直に受け取って『ありがとう』と笑って言えただろう。
だが、あの試合での出来事は、メグミから冷静さを奪っていた。
「何も知らないのに・・・・・・・・・」
だから。
「戦車道のことなんて何も分からないくせに、いい加減なこと言わないでよ・・・・・・・・・」
言ってしまった。
絶対に踏み越えてはならないラインを、越えてしまった。
「・・・・・・あ」
だが、メグミにはまだ理性が残っていた。
そのラインを越えてしまったこと、言ってはならないことを言ってしまったことに、気づくことができた。
しかしながら、気づいたところでもう遅い。
「・・・・・・・・・」
桜雲は、笑っていた。悲しそうに。
その顔は『メグミが間違っている』ではなく『メグミの言う通りだ』と言っているかのようだった。
「・・・ごめん、メグミさん」
桜雲が謝った。謝ることなど何一つないというのに、本当に謝るべきは八つ当たりをしてしまったメグミだというのに。
「・・・それじゃ、僕は電車の時間が近いから。メグミさんも、ゆっくり休んでね」
「桜雲・・・・・・」
呼び止めても、桜雲は踵を返し、まるでメグミから逃げるようにその場を離れようとする。
無理やりにでもこの場を離れようとする桜雲は傷ついていると、メグミにも分かった。
「・・・・・・じゃあね」
そして、行ってしまった。いつ、どこで、また会えるのかも言わずに。
去って行く桜雲の背中を、メグミはただ見ていることしかできなかった。
追うことも、声をかけることもできず、ただ突っ立っていることしかできなかった。
桜雲の姿が見えなくなると、メグミは思いっきり壁を殴った。大学選抜の帽子が落ちてしまったが、そんなことはどうでもいい。
自分自身の不甲斐なさに苛ついて、自分の好きな人に八つ当たりをしてしまって、挙句に傷つけてしまうなんて。
本当に、最悪だ。
その2人のやり取りは、アズミもルミも見て、聞いていた。
桜雲が去り、メグミが壁を殴り俯いてからも、2人はその場を離れられずにいた。
アズミとルミは、悔しくもあり、悲しくもあるような表情。そして、桜雲には取り返しのつかないような申し訳ないことをしてしまったという、強い後悔の念に押しつぶされそうになっていた。
「・・・・・・ルミ、力を貸して」
「・・・言われるまでもないわ」
だが、このまま事態を投げっぱなしにするつもりなどさらさらない。
自分たちのせいでメグミと桜雲の仲が拗れ、断ち切られそうになったのならば、その関係を元通りかそれ以上にする責任が2人にはある。
すると、そこで後ろから服の裾を引っ張られるアズミ。
「・・・・・・隊長」
振り返って、そこにいた人物―――愛里寿を見て、アズミとルミは目を丸くした。