大変申し訳ございません。
また、今回より作品のタイトルが変わりました。
迎えた日曜日、愛里寿たちとともに猫カフェへお出かけに行く当日。
場所は、昨日メグミが桜雲とともに下見をした猫カフェ。
「そうです、まずはゆっくりと指を近づけて・・・」
「うん・・・」
メグミの優しい言葉通りに、愛里寿はおずおずと白くほっそりとした人差し指を伸ばす。
その先にいるのは、茶色い縞模様―――茶トラの猫。愛里寿のことをきょとんとした目で見上げている。
愛里寿も猫と接したことがほとんどないせいか、猫に対しては少し怯えている様子だ。
「大丈夫、怖くありませんよ」
そんな愛里寿にメグミは優しく言葉をかける。2人のそばに座るアズミとルミも、愛里寿のことを静かに見守っている。
その言葉に背中を押されたのか、愛里寿はそーっと指を茶トラへ近づけていく。
茶トラは、視線を愛里寿の顔からその指へと移し、音もなく匂いを嗅ぐ。
やがて警戒心が解けたのか、顔を愛里寿の指に擦り付けてきた。
「わ、わ・・・っ」
初めての感触に愛里寿が戸惑いの声を洩らすが、その茶トラを拒みはしない。そばに経験者のメグミがいるのと、猫が気持ちよさそうにしているからだろう。
「もう大丈夫です。この子は警戒してませんよ」
「本当?」
「はい」
警戒していない、という言葉に愛里寿はほんの少し嬉しそうに声を弾ませた。こういうところは年相応だと、メグミたちは思う。
「それじゃあ次は、顎の下を軽く指で掻いてみましょう」
「顎の、下・・・?」
「そこは猫にとって気持ちのいいところですから」
そこに触れること、そこが猫にとって気持ちいいところというのが少し理解できないのか、愛里寿は小首を傾げる。
しかし、言われた通りに顎の下を掻くと、茶トラは実に気持ちよさそうに目を細めて、喉をゴロゴロと低く鳴らし始めた。
「ゴロゴロ鳴きだした・・・?」
「リラックスしてるんですよ。隊長の指が気持ちよかった証拠です」
「そうなんだ・・・」
喉を鳴らす理由を伝えると、愛里寿は嬉しそうに微笑む。
顎から指を話して、小さな手を茶トラの頭にそっと置いて優しく撫でる。茶トラはまるで笑うかのように目を細めて、愛里寿の手を受け入れた。
とりあえず基本的な猫との触れ合い方は教えたので、まずはひと段落と言ったところだ。
メグミは一旦アズミとルミとともにそれぞれ猫カフェを楽しむことにした。もちろん、視界には愛里寿を収めておきながら。
「しっかし、こんな近場にいいお店があるとはね」
「隊長も気に入ってるみたいだし、ナイスよメグミ」
「ありがと、アズミ。ここは結構最近オープンしたみたいでね、でも気に入ってもらえてよかったわ」
アズミとルミも、メグミがさっき愛里寿に教えていたのを聞いていたのか、多少まだぎこちなさはあるものの、2人とも猫と軽く戯れていた。
愛里寿も入店した時は緊張した様子だったが、今となっては猫を怖がっているようにも、気を悪くしているようにも見えない。メグミはそんな愛里寿を見てホッとした。
すると、メグミの下に一匹の猫が近づいてきた。グレーの毛並みのその猫は、昨日自分の膝の上に乗って、一緒に遊んだのと同じ猫だと、メグミは直感的に気付く。
グレーの猫は、メグミを見上げると『みゃ~』と小さく鳴く。
(昨日ぶりね)
心の中でそう挨拶をしてから、メグミはそっと人差し指を猫の鼻に近づける。すぐに猫は指に顔を擦り付けてきて、さらにメグミは顎の下を優しく掻く。
そして、昨日と同じく猫はぴょんと身軽そうに飛び上がってメグミの膝の上に乗ってきた。
「あらら・・・」
猫はメグミの胸に前脚をかけて、『みゃ』と甘えるように鳴く。メグミがそんな猫の背中をそっと撫でると、猫は安心したように膝の上で丸まって寝転がる。
どうやら、昨日一緒に過ごしたのもあって顔を覚えられ、懐かれてしまったようだ。
「すごいわねぇ。もうそんなに手懐けるなんて・・・」
「意外ねー。あのメグミが」
「まあね」
アズミとルミが感心したように、膝の上に寝転がるグレーの猫を見ながら口々にそう言う。メグミは適当に返事をするが、まさか昨日もここへきてこの猫と遊んだからとは言えない。
「・・・・・・いいな」
と、そこで愛里寿が、その膝の上で寝転がるグレーの猫を見ながらそう呟いた。先ほどまで愛里寿と接していた茶トラの猫は、既に去って行ったらしい。
そこでメグミは、昨日桜雲から教わった通りに、左手を尻尾の付け根、右手を首の後ろに添えて抱きかかえて立ち上がる。
「よろしければ、隊長もどうですか?」
「え、でも・・・」
抱きかかえたグレーの猫をそっと愛里寿に近づける。愛里寿は少しだけ迷ったようだが、グレーの猫が愛里寿の顔をじっと見ており、その猫の眼を見て決心がついたのか。
「・・・それじゃ」
ゆっくりと、控えめに、愛里寿は腕を広げる。メグミはそっと猫を差し出して、自分が桜雲から教わった通りの抱き方をそのまま教える。
「まずは左手を尻尾の付け根に・・・そう、そうです。そして右手は首の後ろあたりに・・・はい、OKです」
「わぁ・・・・・・」
自らの腕の中にいる猫を見て、愛里寿は瞳を輝かせる。グレーの猫も愛里寿の顔を見上げると『みゃ』と小さく鳴く。
思わず愛里寿は、そんな猫の頭にそっと自分の頬を寄せて、猫の毛の感触を確かめるように頬ずりをした。
「すごい・・・ふわふわ・・・」
そんな愛里寿の仕草と表情が、どうしようもなく可愛らしくて。
(((眼福だわぁ~!!!)))
心の中で悶絶していた。しかしそんな暴れるような感情は面にはひとかけらも出さず、静かに紅茶を飲んだり、猫を撫でたりしつつ、愛里寿のことを見て静かに微笑む程度に抑える。
(メグミ、ホントにグッジョブよ!あんな隊長の姿なんて普通じゃ絶対見ることができないんだから!)
(今日のMVPは間違いなくあんたよ!今夜は一杯奢ってあげるわ!)
(私だってここまで可愛い隊長が見れるなんて思わなかったわ!これを肴に今日は一杯やりましょう!)
素早く3人は距離を詰めて、愛里寿やほかの客には聞こえないような絶妙な声量で、
早口で語り合う。
「みんな、どうかしたの?」
そんな3人が少し不審に思えたのか、愛里寿は猫を抱きかかえながら訊ねてくる。
その瞬間、3人は何事もなかったように元の位置に戻って柔らかい笑みを浮かべる。
「すみません隊長、ここの次はどこへ行くかを考えてました」
「そうなんだ・・・。あ、それなら来る途中で見かけたペットショップが、ちょっと気になるな・・・」
「ペットショップですね?わっかりました、次はそこへ行きましょう!」
愛里寿の提案ならば『NO』とは言わない。満場一致で次はペットショップへ行くことになった。
それからまた、各々で猫カフェを楽しむ。愛里寿は猫を抱っこするのが気に入ったのか、抱きかかえているグレーの猫の頭を撫でたり、たまに頭に頬ずりをしたりしている。猫も嫌がっている様子はない。
ルミを見れば、にへら~と緩み切った表情で白猫にキャットフード(別途料金がかかる)をあげている。
アズミは、メグミが言っていた通り三毛猫を抱っこしているが、どうやら母性本能をくすぐられているらしく、春風のような笑みを浮かべていた。
そんな3人の様子を見てメグミは、安心していた。3人とも、猫カフェに対して不満を抱いているわけでもないようだし、猫と接することにも抵抗はない。
そして3人は、戦車に乗っている間は見られないような和み切った表情をしている。
それだけで3人とも、リラックスできているのが分かった。今回のお出かけは、成功したと言っていい。
(何かお礼をしないとね・・・・・・)
だからこそ、この猫カフェの下見に付き合い、猫との触れ合い方を教えてくれた桜雲には何かしらのお礼がしたいと思っていた。
自分たちの当初の目的である『愛里寿を楽しませる』という目的は成し遂げられた。そして、愛里寿とメグミたちとの間にある年齢の差によって生まれた壁も、ほんの少しだけ低くなったように感じる。
それに愛里寿に加えてアズミとルミも、戦車道のストレス、疲労から解放されてリラックスしている。
この成果の裏にあるのは、桜雲が自分の頼みごとに付き合ってくれたからだ。だからメグミは、何かしらのお礼がしたいと思っているのだ。
そう思っていたメグミの足下に、黒と灰色の縞模様―――サバトラの猫がやってきた。メグミが人差し指を差し出すと、顔を擦り付けてくる。
そのサバトラと戯れながら、メグミはどんなお礼をしたらいいだろうと考える。
『友達になってください』
確かにお礼として桜雲はそう言って、メグミも頷いたからそれで十分なのかもしれない。
だが、それだけではメグミの気が済まないのだ。もっと何か、具体的な形でお礼がしたい。
そのお礼を告げられる直前、自分が『期待』をしたのもメグミは忘れていないが、今はとにかく桜雲に対するお礼をどうするべきかを考えながら、右手でサバトラと戯れる。
カチ、カチと時計の秒針が回る音が部屋の中に響く。カーテンの隙間からは傾き始めた太陽の光が差し込み、少し開けた窓から風が流れてカーテンが揺れる。
桜雲はそんな過ごしやすい自分の部屋で、コーヒーを傍に置き読書をしていた。
桜雲の休日はと言えば、猫カフェに行きつつ街を散策したり、サークルのメンバーと一緒に出掛けたり、あるいは部屋でのんびりまったりと過ごすぐらいだ。
今日は、特に予定もなかったので、悠々自適に部屋で1日を過ごしていた。
いや、悠々自適とは少し違う。
「・・・・・・はぁ」
本を閉じ、コーヒーを一口飲んで息を吐く。正直、本の内容は半分程度しか頭に入っていない。
こうして1日を自室で過ごしていたのは、自分の気持ちを整理したかったからだ。外に出ると、目だの耳だのから入ってくる情報が多すぎて落ち着かないから。
その整理したい気持ちとは、自分の中で無視できなくなるほど大きくなり、それでいてなぜか心地よい感情だ。
と、そこでテーブルの上のスマートフォンが電話の着信音を鳴らす。
手に取り、画面に表示されている『着信:メグミさん』の文字を見て息が止まりかけ、目を見開く桜雲。そして、『応答』を努めて冷静にタップする。
「もしもし?」
『ああ、桜雲?今、ちょっと大丈夫?』
「うん、大丈夫」
電話越しとはいえメグミの声を聞いて、桜雲の心が温かくなる。
それはともかく、今日は愛里寿と一緒に猫カフェに行くと言っていたが、どうしたことだろう。
『さっき愛里寿隊長たちと解散して、何事もなく終わりました~』
「そっか。よかったよかった」
どうやら、話を桜雲にも伝えていたから、知らせておくべきと思っての事後報告だったようだ。そして平穏無事に事が終わったようで安心する。
だが、そのメグミの言葉を聞いて桜雲は引っ掛かりを覚えた。
「『愛里寿隊長“たち”』?」
『あ、言ってなかったかな・・・戦車隊の友達2人も今日は一緒だったの』
確かにその話は聞いていなかった。
すると、それまで何とも思っていなかった桜雲が今更になって不安感に駆られる。もしもそのメグミの友達2人が猫カフェに気を悪くしていたら、どうしようと。
『その2人も、愛里寿隊長も「楽しかった」って言ってくれたわ』
「本当?」
『ええ』
だが、そんな桜雲の心を見通していたかのようにメグミが教えてくれた。それが本当のことなのか社交辞令なのかは分からないが、今はそのメグミの言葉を信じることにしよう。
『桜雲のおかげよ』
メグミがそう言ってくれる。
だが、桜雲はその言葉は素直には受け取れない。
「でも、今日実際に島田さんたちと出掛けたのはメグミさんだし。僕はお礼を言われるようなことなんて何も―――」
『何言ってるの』
桜雲の言葉を遮って、メグミがさらに言葉を重ねてくる。それには桜雲も口を閉ざすしかない。
『昨日あなたが下見に付き合ってくれて、猫との遊び方を教えてくれたから、今日は上手くいったんだから。あなたのおかげでもあるのよ?』
桜雲は何も言わない。何も言えない。
『だから、ありがとう、桜雲。あなたのおかげで、私たちは楽しかったわ』
その言葉はメグミからすれば、本当に何てことのない、さも当たり前のような気持ちによるものだろう。
だが桜雲からすれば、その言葉は自らの心を大きく揺り動かすには十分すぎるほどのものだった。
「・・・どういたしまして、メグミさん」
そして最後には、『また大学で』とお互いに言い合って電話が切れた。
桜雲は少しの間スマートフォンを見つめていたが、やがてまた小さく息を吐いてコーヒーを飲む。淹れてから少し時間が経ってしまったので、大分温くなってしまっていたが。
さて、桜雲が今日1日部屋で気持ちを整理していた理由だが、それは先ほど電話を交わしたメグミという1人の女性に、桜雲が恋をしていると気づいたからである。
生まれて初めて抱いた恋心と向き合うために、桜雲は今日1日は気持ちの整理に努めた。
だが、それだけの時間を取ったところで結果は変わらず、自分はやっぱりメグミのことが好きなのだと再認識した。
「・・・・・・はぁ・・・」
昨日の下見で、自分とメグミが2人で歩く姿は周りから見ればどう映っているのだろうと気になり、メグミが猫カフェで猫と遊んでいる姿に見惚れて、彼女との距離が詰まった時は胸が高鳴った。
極めつけに、メグミからかけられたあの言葉。
『私はあなたのこと、すごい素敵な人だって思う』
その言葉で、桜雲はすとんと恋に落ちてしまったのだ。我ながら単純な気がしないでもないが、それでもメグミのことが好きになってしまっていた。
だから先ほどのメグミとの電話だって、かかってきた時は緊張し、話している最中も気を付けなければ噛んでしまうかもしれないぐらい一杯一杯で、何よりも嬉しかった。
まったくもって、自分も単純だと思う。まだまだ青いなぁと思う。
温くなったコーヒーを飲み切ってから、夕食の時間まで本の続きを読もうと決めた。
ただし頭には、メグミのことが浮かんだまま。
日曜が過ぎて、週の始まりとなる月曜日。メグミはグレーを基調としたタンクジャケットを着て愛機・パーシングに乗っていた。
この時間は大学選抜チームでの練習だが、今はチーム内での模擬戦に向けて各戦車の調整をしている時間だった。戦車ごとに車長が主体となって、目視点検や機器類の調整をする。
メグミが車長を務めるパーシングはその作業もほとんど終了し、残りは細かいチェックだけとなる。
調整の時間が終わるのを待つだけ、となったあたりでメグミは装填手の対馬に話しかけた。
「対馬、ちょっといい?」
「なにー?」
この調整の時間の装填手の仕事と言えば、戦車の目視点検と弾薬の数を確認するぐらいだ。対馬は決まってその後に軽いストレッチで体をほぐしていたが、それも終わったようなのでメグミは声をかけたのだ。
この戦車の乗員は皆メグミが大学選抜チームに入ってからの付き合いだが、対馬はさばけた性格をしているのでメグミとも馬が合う、気軽に話せるやつだった。
「お世話になった人にお礼をする時って、何をあげたらいいと思う?」
「え?また急な話だね・・・」
対馬が苦笑するが、メグミは至って真面目そうな顔だった。なので、対馬も自分なりに考えて『あー』とか『えーと』とかもごもご呟いてから、答えを見つけた。
「その相手がどんな人かにもよるね。相手が年上でお世話になった人だったら、菓子折りとお手紙が普通だし・・・同い年だったら菓子折りまではいかなくても何かしらのプレゼント・・・かな」
「そうね・・・うん、ありがとう」
「何?誰かに入用でもあるの?」
話の流れで対馬が訊くと、メグミは苦笑しながら頷く。
「昨日、私と愛里寿隊長、ついでにアズミとルミでお出かけしたのよね」
「ああ、そう言えばそんなこと言ってたような言ってなかったような」
すると、照準器の調整を終えた砲手の平戸が、メグミの方を振り向いて会話に参加した。
「楽しかったですか?」
「ええ、大いに楽しめたわ」
「それはよかったですね」
普段から平戸は物腰が低いので、メグミと同い年であっても敬語なのは今に始まったことではない。
「でね、そのお出かけで行った場所を教えてくれた人に何かお礼がしたいなーって思ったのよ」
「へぇ、そりゃまた義理堅い」
「まあまあ」
茶々を入れる対馬と、それをなだめる平戸。
そこで、操縦手の深江がエンジンを点けたようで、『ドルルン!』という大きな音ともに、パーシングの中が微かに振動し始める。
「けど、場所を教えてくれただけの人にそこまでする必要ってあるかな」
対馬の言い分も分かる。『こことかどう?』『こんな場所良いよ』と教えてくれただけの人にわざわざ贈り物を用意して渡すというのは、多少行き過ぎかもしれない。行動に対するお礼が大きすぎると、場合によっては気を悪くしかねないからだ。
「実は・・・・・・そのお出かけした場所ってのは、猫カフェでね?」
「「猫カフェ?」」
意外な場所に、対馬と平戸が声を揃えて聞き返す。メグミは頷いて続ける。
「そこに行きましょうって提案したのは私なんだけど、まだちょっと猫との触れ合い方とか、どんな場所がいいのかとか分からなくてね・・・それで、猫カフェを探すのを手伝ってくれたり、猫との触れ合い方を教えてくれた人がいるの」
「ああ、そういう」
「それで昨日楽しめたのはその人のおかげだから、やっぱり何かお礼をしないとって思って」
「なるほど・・・それは確かに、お礼をした方がいいかもですね」
ようやく対馬と平戸も納得した。確かにそれだけお世話になったのなら、お礼はしておくべきだと。
車内ではエンジンのアイドリング音に混じって『カチカチ』という何らかのスイッチをいじるような音が聞こえてくる。それは恐らく、通信手の
「私も最初はお礼をしたいって言ったんだけど・・・その人は『友達になってください』って言ってきてね」
「「・・・ん?」」
ところが、続けてメグミが明かしたことに対馬たちは首を傾げた。
「私はそこで『もちろんいいよ』って返したんだけど、それじゃやっぱりお礼にならないでしょって思って」
「・・・・・・そうなんですか」
何だか平戸が何かを期待しているような輝いた目つきをしている。その様子が変わったのを見て、メグミは『ん?』な顔をする。
「で、その相手ってどんな人なの?」
対馬が一番重要なことを聞いてきた。それを知らないと、何を贈ればいいのか具体的なアドバイスができないからだ。
「ああ、うん。同い年の男の人なんだけど」
その瞬間、アイドリング状態だったエンジンが切れた。
無線機のスイッチをいじる音が聞こえなくなった。
それでメグミは、場の空気が一瞬で変わったことに気づいたがもう遅い。
「え、あれ?何か変なこと言った?」
「メグミさん・・・今、『同い年の男の人』と言いましたね?」
「あ、はい」
平戸の一層落ち着いた口調に気圧されて、思わずメグミは畏まった話し方になってしまう。
一方で対馬は平戸と少し目を合わせて、メグミに問いかける。
「メグミ、聞かせてほしいんだけど」
「え、え?」
平戸に限らず対馬まで妙に改まった態度をとってくるので、余計メグミは困惑する。
「その男の人のこと、あんたはどう思ってるの?」
「どうって?」
「単なる知り合いか、普通に友達なのか、それともそれ以上の人なのかってわけよ」
『それ以上』とは端的に言って恋人ということだろう。だがそれは違ったのでメグミは首を横に振る。そして残り2つの中で自分と桜雲の関係を表すに相応しいのは。
「友達よ、友達」
「そう・・・友達ね・・・」
まだ対馬は納得していない模様。本当に一体どうしたんだろうか。
続けて平戸が訊いてくる。
「メグミさんは、その人のことはいい人だと思ってるんですか?」
「そりゃまあ、友達だし」
メグミは、悪い感じがするような人とは進んで関わりを持とうとはしない。
それと、桜雲からは悪いようなイメージなど全く感じられない。むしろその真逆で、ものすごく優しい人というのが今の桜雲に対するイメージだ。
すると今度は、通信手の生月が話しかけてきた。
「メグミはさ、その男の人と友達以上の関係になりたいと思ってる?それとも思ってない?」
「は、はぁ?どういうこと?っていうかあんた無線機の調整は・・・」
「たった今終わった。で、どうなの?」
「それ、何言って・・・」
生月は社交性が高くて、こうして物怖じしないで単刀直入にものを聞くことが度々ある。
さっきの質問もまた突拍子もないものだった。友達以上の関係になりたいということは、すなわち桜雲と恋人同士になりたいかと聞いているのと同義だ。
それをメグミは笑い飛ばして否定しようとしたが、ふと桜雲と自分が一緒に過ごした時間がフラッシュバックする。
桜雲と出会い、話をして、猫カフェに一緒に行って、猫との触れ合い方を教えてもらって、また話を聞いて。
桜雲という男と、一緒の時間を過ごして。
そのことを思い出すと、なぜか笑い飛ばすこともできなかった。
『なりたくない』ときっぱり拒絶することができなくなった。
「まあ、その・・・・・・どっちかと言えば・・・なりたい、かな」
生月は『なるほど』と頷く。
が、メグミ以外の乗員全員は、生月の問いにメグミが逡巡した時点で『脈があるな』と確信していた。
それに、白か黒かではなくぼかすような形で答えるのが、普段から割とはっきりした物言いのメグミらしくないと思う。
ともかく、これまでの問いに対するメグミの答えを聞いて、どうするべきかは決まった。
「さっきの話、どんなお礼をしたらいいかって話だけどさ」
「あ、うん」
対馬の言葉に、ようやくメグミも本題を思い出す。なぜか話が脱線したようだったが、そもそもお世話になった桜雲にどんなお礼をしたらいいかというのが発端だ。危うく見失いかけていた。
「何か手作りのものでも贈ったらどうよ?」
「・・・・・・・・・え、ぇ?」
だが、突拍子もない対馬の提案にメグミはまたしても話の流れが見えなくなりそうだ。いったいなぜそんな結論に至ったのか。
「いい、メグミ?戦車道の世界は男っ気がほとんどないわ。それに戦車乗りの女性ってのは、大体男から敬遠されがちなものなの。だから、彼氏を作るってのは中々に至難の業なのよ?その辺はお分かり?」
「まあ・・・それは分かるけど」
対馬の言う通り、戦車道は乙女の嗜み、伝統的な武芸として世間に認知されているが、女の戦う世界故に男が入り込む余地はほとんどない。
そして戦車乗りの女性とは、プロ選手として活躍し注目を集めない限りは、男性からも敬遠されがちなのが現状だった。その原因については諸説あるが、とにかく大学選抜チームの中でも男と関わりがあるチームメイトはあまりいない。彼氏持ちのチームメイトもいるにはいるが、あれは稀なケースだ。
「だから、メグミさん。せっかく同い年の男の人とつながりが持てたんですから、その人とは仲良くした方がいいですよ」
平戸が対馬に加勢するが、メグミはまだ首を素直に縦には振れない。
「いや、でも・・・」
「いつも飲み会で『出会いが欲しい』って愚痴ってたのはどこの誰だっけ?」
「う」
そこで若干ぶっきらぼうな口調で割り込んできたのは、これまで沈黙を保ってきた操縦手の深江。良くも悪くも裏表のない発言をしてくる彼女は、たまに真理を突いてくるので侮れない。
そして深江が言っていた『出会いが欲しい』という言葉には、確かに覚えがあった。
メグミは比較的酒に強い方で、酔ってもちょっとやそっとではあまり前後不覚にならない。だから酒の席でのことを覚えているのはよくあることで、そんな恥ずかしい発言をしたことだって記憶にある。
「選り好みしてる場合じゃないでしょ、現状」
「うぅ・・・」
畳みかける深江の言葉に、メグミは小さくなっていく。
続いて生月が話しかけてくる。
「メグミだって、その人のこと嫌ってないんだし、むしろどっちかと言えば友達以上の関係になりたいとは思ってるんでしょ?なら、自分から動かなくっちゃ」
どちらかと言えば友達以上の関係になりたいという言葉は、メグミの本心ではある。
桜雲のことは良い人だと思っているし、仲も良好だとは思っている。
それと、土曜日に別れる直前で『友達になってほしい』と言われた時、妙な期待を抱いていたのは事実だから、メグミは彼のことを好意的に見ているということになる。
だがその先―――メグミが桜雲のことを本当に好きなのかどうかは、まだ定かではなかった。
「・・・・・・でも、手作りったって何を贈ればいいのよ?」
「鉄板なのは弁当か」
誰に問いかけたわけでもないメグミの言葉に、深江が天井を仰ぎながら答えた。
しかしその答えに、メグミは内心で『あっ』と声を出す。
「メグミって料理できた?」
「・・・・・・できない」
対馬の問いにメグミは力なく答える。
メグミは料理ができない。自分の部屋に調理器具の類は一切ないし、日々の食事もインスタントか冷凍食品かレトルトかで、およそ女性らしくはない。正直に言えば、だらしない。
ただ、それが逃げる言い訳になるわけでもなく。
「メグミさん、料理できるようにしましょう」
「えー、でも・・・」
「好きな人どうこうの以前に、食卓事情がそんななのは女子力的な意味ではアウトです。どころか、アウト3つでチェンジです」
「だからまだ好きな人って決まったわけじゃなくて・・・」
平戸がまくしたてるが、まだ本当にメグミが桜雲のことをそう思っているとは決まったわけではないので、そこは訂正しておく。女子力云々についてはぐうの音も出ない。
「それに彼氏持ちの
「まー、確かに。料理は覚えといて損はないな」
生月と深江もまた平戸と同意見だった。
ちなみに矢巾とは、メグミが隊長を努める中隊に所属している、ヴァイキング水産高校出身のパーシング車長の1人だ。
それよりも、対馬たちから『料理覚えろ、手作り弁当贈ってやれ』と無言で訴えかけられてメグミはぐぬぬと唸る。
するとそこで、生月の近くに置いてあったタイマーがアラームを鳴らし始めた。
それは、戦車の調整の時間が終わり、模擬戦の時間がもうすぐ始まるという合図だ。
「はい、おしゃべり終わり。戦車道はきっちりやるわよ」
『了解!』
メグミが手を軽く叩いて締めると、先ほどまでのお気楽ムードは見事に隠れ、戦車の中が緊迫した空気に包まれる。
メグミは、『桜雲へのお礼は手作りのお弁当』に決まったこと、そして『そのために料理を覚える』ということを一度頭の隅に追いやって、試合に向けて気を引き締める。
今日は新しいバミューダアタックのパターンを試す予定だ。このことはアズミとルミ、そして対馬たち乗員にも伝えてある。それで我らが隊長、島田愛里寿に勝てるかどうかは分からないが、それでも自分たちはできることを成すだけだ。
対馬たちも、先ほどの話は置いておき意識をこれから始まる戦いに向けて、試合に臨む。
ただ、頭の片隅でちょこっとだけ、『メグミが面白いことになりそう』とは思っていたが。
ちなみにその日の模擬戦では、メグミたちのチームは敗れたものの、車輌の撃破数が一番多かったのはメグミのパーシングだった。
桜雲へのお礼が『メグミお手製の弁当』と決まった日から、メグミの料理の練習が始まった。
同じ戦車に乗る対馬たちから焚きつけられたその日には調理器具と料理の本、そして食材を買って夕食を自分で作ってみた。
しかしレシピ本を見ながら作っても、これまでメグミはろくに料理などしなかったせいで焼き加減や味付けが上手くできず。
「・・・・・・うーわ」
味は筆舌に尽くしがたいほどのものとなってしまった。
しかしそれでもメグミはめげずに、トライアル・アンド・エラーの要領で練習を続けた。時には料理がそれなりにできるという対馬や平戸、生月に教えを乞い、どこがダメでどうすればいいのかを厳しく指導してもらう。
そして指摘を受ければ、メグミはそれを真摯に受け止めて次の教訓へと生かす。
すべては腕を上げるために。
感謝の気持ちを桜雲に伝えるために。
「・・・・・・おっ、良い感じ?」
そしてメグミの料理を味見して、対馬が『いいね』と言ってくれたのは、猫カフェに下見に行ってから実に5日が経った日のことだ。
「うん、これならいけると思うよ」
「ほんと?」
対馬がもう一度頷いて、メグミは大きく安堵の息を吐いた。度重なる練習の末にようやく認められたのだから、達成感は相当なものだ。
「これでようやく、弁当を渡せるね」
元々そのために料理の練習をしていたのだから、当然のこととばかりに対馬が告げる。
「・・・・・・・・・」
「って、あれ。どうしたの」
だがその途端に、メグミが不安そうに俯いてしまった。なにも変なことは言ってないはずだが、と対馬は不審に思うが、やがてメグミが顔を上げて訊いてくる。
「・・・もし、迷惑だって思われたらどうしよう」
いつになく弱気なメグミを前にして、対馬は小さく息を吐き腕を組む。
普段のメグミはここまで弱気になることも、誰かに愚痴ではなく弱音を吐くことは滅多にない。だのに、同い年の男にお礼の気持ちを込めた弁当を渡すことにここまで尻込みしてしまうとは。
メグミは、自分の感謝の気持ちが拒絶されることを恐れている。
「ねえ、メグミ」
「?」
「そのお礼がしたいっていう男の人は、そんなメグミの感謝の気遣いも『いらない』って突っぱねるような人なの?」
「それは・・・言わないと思う」
桜雲はのんびり屋ではあるが、生き物の命のことを真剣に考えて、メグミにも優しく接してくれている心優しい人だ。人の善意や厚意を切り捨てるような冷酷な風には思えない。
「なら、心配することはないでしょ?メグミがそういう人だと思ってるんなら、心配する必要もないんじゃない?」
「・・・そう、ね」
「それと、これはチャンスよ?メグミ」
対馬が人差し指を立てる。
「そのお弁当を渡してみて、その相手の反応が良ければ付き合いを続ければいいし、感じ悪い反応をしたらさよならしてもいいし」
「つまり・・・試してみるってこと?」
「そういうこと」
桜雲を試すような感じなのは、少しせこい気もする。
だが、桜雲の人柄をなんとなくではあるが知っているメグミは、対馬の言葉で拒絶することもないだろうなと、少し気持ちが上向きになってきていた。
メグミはふと、自分の作った弁当を桜雲が食べた時の反応を予想してみる。
『うん、すごく美味しいよ』
桜雲が笑ってそう言ってくれた時のことを思い浮かべると、メグミの心はなぜかドクンと跳ねた。
ただ想像しただけなのに、イメージしただけなのに、なぜか心が温かくなる。顔が熱くなってくる。
「メグミ?大丈夫?」
「え?いやいや、大丈夫よ?」
「どっちなのよ・・・」
メグミが急に黙ったので、対馬は疑問に思う。
大方弁当を渡したときの反応を思い浮かべて不安になったのかもしれないが、対馬はそんな心配もいらないんじゃないかなと思う。
(大丈夫だよ、メグミ)
そう思う理由は1つ。
(『友達になってください』って頼んだんだから、そいつはたぶんあんたのことは全然悪く思ってないよ)
(っていうか、そいつはメグミのこと、結構好きなんじゃないかな)
『明日のお昼ご飯、一緒に食べない?』
桜雲の下にそんなメグミからのメールが来たのは、木曜の夜。メグミからのメールは初めてで、それに翌日に備えて眠ろうとしていた直前だったので二重の意味で不意打ちだった。
桜雲はそのメールに対して1分も経たずに『いいよ』とメールを返した。
そして当日、午前の講義が終わり昼食の時間になると、待ち合わせ場所に指定された中庭の日時計前で桜雲は待っていた。
(・・・・・・・・・)
昨日のメール以来、桜雲は自分が浮かれているのが分かっていた。
あの猫カフェに下見に行って以来、桜雲はメグミと顔を合わせてはいない。同じ大学に通ってはいるが、大学の敷地は広い。それに2人の日中の行動パターンも違うから、会うこと自体難しいのだ。以前帰りがけに偶然出会ったのも、食堂の前で鉢合わせたのも、全て偶然であり、それが普通なのだ。
しかし、今日までのメグミと顔を合わせず話もしなかった状況に、桜雲は寂しさを覚えていた。メグミという1人の女性に会うことができず胸焦がれる思いをしているのは、桜雲がメグミに恋をしているせいだろうとは分かっていた。
メグミに対して恋をしていると気づいてからそこまで日は経っていないが、メグミに会えなかったことを寂しく思っていたのは事実だ。
これまでは誰か1人に会えないことを寂しく思っても、胸が苦しくなるほどにはならなかった。しかし、メグミへの恋心に気づいてからそんな思いをするようになったのだから、それは恋をしているからだろうと思う。
ともかく今は、目の前のこと―――メグミが昼食に誘ってくれたことを嬉しく思わなければ。
「桜雲、お待たせ」
軽やかな挨拶とともに手を軽く挙げて、メグミがやってきた。
薄いグリーンのブラウスに、ブラウンのチノパンに身を包むその姿は清涼感を覚える。肩には黒いトートバッグを提げているが、中に箱状の何かが入っているらしく妙に角ばっていた。
そしてよく見てみれば、その挙げている手の指には絆創膏が巻かれている。戦車道で怪我でもしたのだろうか?
だが、それについて言及するのは後にして、まずは挨拶を返す。
「ううん、大丈夫。待ってないよ」
「そう?それならよかったわ」
それにしても、昼食を一緒にとのことだったが、今自分たちがいる中庭は食堂からは離れている。どういうつもりだろう?」
「ちょっと場所を移しましょうか」
「?うん」
メグミは桜雲の疑問にも気づかず、歩き出す。桜雲もあとに続いたが、やがてメグミは同じ中庭のベンチに腰掛けた。その隣に、桜雲も並んで座る。
「・・・・・・・・・」
メグミは、膝の上に乗せたトートバッグを見つめたままで、桜雲とは顔を合わせようとはしない。妙に前と少しメグミの雰囲気が違うと桜雲は思ったが、やがてメグミが口を開いた。
「この前、一緒に猫カフェに行ってくれたじゃない?」
「うん」
今日ここに呼び出したこととあまり繫がりがないような話の気がするが、桜雲は頷き返す。
「それで・・・その時のお礼がまだできてないな、って思ったのよ」
その話は、桜雲の中ではもう済んだ話だと思っていた。
「いやいや、僕がメグミさんに『友達になってください』って言ったでしょ?それメグミさんもOKしてくれたから、それで僕はもう―――」
「それでも」
メグミが桜雲の言葉に被せてくる。そしてじっと、桜雲のことを見据えてくる。
メグミの瞳は揺れていて、頬もわずかに赤くなっている。不安を孕むようなその顔に、桜雲は口をつぐむ。同時にそんな顔がまた、可愛いと思ってしまう。
「それでも私は・・・まだあなたにお礼ができてないと思ってるの?」
メグミの何らかの決意が含まれているようなその言葉に、桜雲は反論できない。
「だから、その・・・・・・」
トートバッグに手を入れて、メグミが何かを取り出す。
「迷惑かもしれないけど・・・お礼を込めてってことで・・・・・・」
途中から不安が隠し切れずにメグミの語気が萎んでいくが、やがてメグミは『それ』を取り出した。
その何かは赤い包みにくるまれた直方体のようなもので、それを見て桜雲は『まさか?』と、それが何なのかに気づく。
桜雲がもう一度、メグミの顔を見る。その顔は、包みほどではないがなお赤くなっていた。
「お弁当・・・・・・作ってきたの」
メグミの手が震えている。
桜雲はその震えを止めようと、赤い包みの弁当をそっと受け取った。
「・・・ありがとう、メグミさん」
ここまでされては『別に気にしなくてもいいのに』とか『気持ちだけ受け取っておくよ』と遠慮するのも失礼に当たる。そもそも、メグミの手作りという時点で断る選択肢など最初から存在しない。
「開けても、いい?」
「うん・・・・・・初めて作ったから、形とか味の保証はできないけど・・・」
その言葉は、聞き逃さなかった。初めてということは、それだけメグミが桜雲のことを考えてくれているということだ。
なおさら、この弁当は絶対に、何としても食べなければと使命感が湧いてくる。
ゆっくり包みを解いていき、銀色の弁当箱が姿を現す。
そして蓋を開ければ、実に美味しそうな料理が詰められていた。
まず半分を占めているのは白いご飯。もう半分はおかずだが、目を引くのはハンバーグ。その脇には彩るようにブロッコリーとミニトマト、そして卵焼き。どれも美味しそうで、綺麗な形だった。
「・・・本当に初めて?」
「そうなんだけど・・・」
「すごい美味しそうだよ」
同じくメグミも自分の分の弁当を取り出して、箸を桜雲に渡す。メグミの弁当も、中身は同じだった。
そして2人で『いただきます』をし、桜雲がまずハンバーグを箸で小さく切って口に運ぶ。メグミは桜雲の反応が気になるからか、まだ箸をつけようとはしない。
「・・・うん、美味しい!」
桜雲の表情が明るくなる。
それはメグミが想像した、弁当を食べてくれた桜雲の反応と同じような、穏やかな顔。
その顔に、メグミの心が、ぽっと温かくなる。
「・・・そう?よかった~」
「うん、美味しい。初めて作ったとは思えないよ」
続けて卵焼きの味も楽しみ、桜雲は実に嬉しそうにうんうんと頷く。
ようやく安心したのか、メグミも弁当を食べ始めた。我ながらいい出来だと思ったのか、小さくメグミも頷いた。
「喜んでもらえてよかった。苦労した甲斐があったってものよ・・・」
メグミがハンバーグを食べて、苦笑しながら絆創膏が巻かれ痛々しくなってしまった自分の指を見る。嫁入り前の身体なのに、は少し大袈裟か。
「大丈夫?」
そこで桜雲は、自然とメグミの手を握って絆創膏の巻かれた指を見つめる。
その瞬間、メグミの顔が熱くなる。鼓動が高鳴る。身体が硬くなる。
桜雲はよほど心配なのか、労わるようにメグミの手を見つめ、実に悲しそうな顔をメグミに向ける。
「僕のことを考えてくれたのは嬉しいけど、無理はしないでね?」
「・・・・・・うん、分かったわ。でも大丈夫、もうそんなに痛まないし」
メグミは小さく笑って桜雲を安心させ、優しく手をほどく。
それから2人はまた弁当を食べ始めたが、その間に会話がない。
メグミは、桜雲が自然と手を握ってきたことが忘れられなくて、心が跳ねてしまっているのを自分で感じ取っている。顔だって恐らくは赤くなっている。それを悟られたくなくて、メグミは何も話しかけることができなかった。
一方で桜雲は、自然とメグミの手を握ってしまったことを反省していた。いくら心配だったとはいえ、女性の手を無遠慮に握ってしまったことは正直今思えば嫌われるかもしれないような行動だ。相手は友達であっても女性で、こういったことに関しては敏感なはずなのだから。
「・・・隊長、ね」
「?」
お互い沈黙を続けながら弁当を食べ進め、桜雲が半分ほど食べたところでメグミが口を開いた。沈黙に耐えられなかったのだろうか。
「猫カフェに行った時、猫を抱っこして遊んでた」
「あ、もう抱っこできたんだ?すごいね」
さっき手を握ったことには反省していたが、それでもその話は興味深かったので、桜雲は素直な反応を示す。
「下見の時に遊んだのグレーの猫・・・覚えてる?」
「?ああ、あのメグミさんの膝に乗った?」
「そう、あの子」
猫と触れ合うのに慣れておらず、しかも初めて来たはずのメグミの膝に乗ったものだから、桜雲もその記憶は鮮明だ。
「なんか私を覚えていて懐いちゃったみたいでね?それで、また膝の上で寝転がっていたんだけど、隊長がそれを見て羨ましそうにしてたから・・・抱っこさせてあげたの」
「まあ確かに・・・あの子人懐こそうだったし」
こうしてメグミと話している間は、好きな人と分かっていても変に意識して舌が回らなくなるということにはならない。それが不思議だと桜雲は思う。
「私の友達2人・・・アズミとルミって言うんだけど、2人とも猫カフェを楽しんでたわ」
「へぇ~、良かった」
「もちろん隊長も猫を抱っこして笑ってたし・・・・・・ホント、皆楽しんでた」
メグミがその時の光景を鮮明に思い出しているのか、空を見上げて小さく笑っている。
「その後はショッピングをして・・・あ、あのペットショップにも行ったわ」
「そうなの?」
「ええ。隊長、あのミミズクを見てすごいびっくりしてた」
「あはは、やっぱり?まあ僕も最初見た時は驚いたよ」
ミミズクの存在感と威圧感もさることながら、『なんでここにいるの?』という意外性もあって、初見の人は驚きやすいのだ。
「帰り際に隊長、笑って『今日はとっても楽しかった』って言ってくれて・・・アズミとルミも『面白かったし、癒された』って言ってくれたわ」
「じゃあ・・・成功ってこと?」
「ええ。もうバッチグーよ」
メグミは親指を立てて、いい笑顔を見せてくれる。
「桜雲のおかげよ。ありがとね」
当たり前のようにメグミが告げる。
それに桜雲は心が躍りだしそうになるぐらい嬉しかったが、そのお出かけが成功したのは実際にその場にいたメグミのおかげなのが大きいだろう。
それは電話でも伝えたが、メグミの答えは既に聞いている。
そして桜雲は、ふと思ったことがあった。
「・・・前に、『メグミさんは猫に好かれやすいのかも』って言ったの覚えてる?」
「え?うん・・・」
以前、大学の正門近くで野良猫と少し遊んだ時に言われた言葉だ。それは印象的だったので覚えてはいるが、なぜ今その話をするんだろうとメグミは思う。
「猫に限らず動物に好かれやすいってのはある意味天性のものなんだけど、動物によっては本質を見抜くとも言われてるんだ」
「本質?」
「まあ、平たく言うと性格とか気持ちとかかな」
それで、と桜雲はメグミを見る。
「メグミさんが猫に好かれやすいのは、メグミさんが優しいってことが猫にも伝わってるからじゃないかな」
「え・・・」
その言葉に、手に持っている箸を思わず落としそうになるが、何とか持ちこたえるメグミ。
「ほかの人は優しそうに見えないってわけじゃないけど、メグミさんは何て言ったらいいのかな・・・。優しそうなのはもちろん、話しやすい、親しみやすいって思えるし、柔らかいイメージがあるんだ」
話しやすいというのは、友人知人から何度も言われたことがある。メグミ自身はそんな自覚は無かったので、人からはそう見えてるのかな、と深く考えてはこなかった。
だが、桜雲から同じことを言われると、同じように軽く考えることができず、どころか『そうなんだ』と自信が持てるようになる。
「それにメグミさん、僕にお礼がしたいって思ってこうしてお弁当を作ってきてくれたでしょ?初めてで、ケガしてまで・・・」
絆創膏が巻かれ痛々しく見えるメグミの指を見ながら、桜雲は悲しそうに笑う。
そんな桜雲に、メグミの視線はくぎ付けになっていた。
そして桜雲はもう一度、メグミの顔を見る。その顔はいつか見たような、柔らかい笑顔だ。
「メグミさんは僕のことを優しいって言ってたけど、メグミさんだってそれ以上にすごく優しいんだよ」
その言葉にメグミは、ハッとしたような顔になる。
目の下あたりが、ほんのりと赤く染まる。
「メグミさんは話しやすいし、優しいし・・・だから猫にも好かれやすいのかもね」
もちろん、猫に好かれない人は優しくないというわけではないし、動物が人の本質を見抜いているということも立証されてはいない。
しかしそれが分かっていても、メグミに限ってはそんな気がしてならないと、桜雲は思っていた。
「って、ごめんね。なんか偉そーなこと言っちゃって」
「・・・ううん、私は嬉しかったわ」
「そっか。ならよかった」
桜雲が弁当を食べ終えると、メグミもほぼ同じタイミングで食べ終えた。弁当をまた赤い包みでくるんで、2人は『ご馳走様』と手を合わせる。
「すごく美味しかったよ、ありがとう」
「どういたしまして。そう言ってもらえると、作った甲斐があったわ」
2人は少しの間笑い合って、やがてメグミが話しかける。
「ねぇ・・・桜雲」
「?」
「あの、さ・・・・・・」
自分の髪を指でいじりながら、メグミは何かを言おうとしている。今更ながら、今日のメグミはどこか様子が違うと桜雲は思う。
「もし、桜雲さえよければなんだけど・・・・・・また、一緒にお昼ご飯を食べたいんだけど・・・いいかしら?」
顔を上げて、揺れる瞳と共に不安そうな口ぶりで、メグミは聞いてきた。
それに対する桜雲の答えは、ただ1つ。
「もちろん、いいよ。メグミさんとなら」
桜雲の微笑みながら返した答えに、メグミは心から安心し、そして嬉しくなった。
そして、メグミ自身が桜雲のことをどう思っているのか、ようやく分かった。
メグミと別れて、桜雲は午後からの講義に向けての教室へと向かう。
今の桜雲の心はとてもホクホクと温かい。何しろメグミの手作りの弁当を食べることができて、しかもその弁当を作るというのもメグミにとっては初めてのことと来た。それが恩返しということであっても、それだけ自分が特別に思われているということで嬉しく思う。
普段は自他ともに認めるほどのんびり屋な桜雲ではあるが、恋をすると随分変わるものだと切に思う。普段はあまり動じないのに、メグミの言動が気になり、一喜一憂していたのだから。
その過程で、らしくもなく踏み込みすぎたことを言ってしまい『しまった』と思うこともあった。メグミが笑ってくれたのでよかったが、この先はもうちょっと考えて言った方がいいだろう。
ともあれ、また一緒に昼食を食べたいと誘われたことは大歓迎だ。親しい人から誘われるのは嬉しいし、それが好きな人となればなお良い。
「さて、頑張ろう」
メグミの手作り弁当を食べることができたし、また一緒に昼食を摂るという約束もできて、万々歳だ。午後からも十分頑張れる。
小さく伸びをして、桜雲は校舎の中へと入って行った。
桜雲が去った後も、メグミはベンチに座り続けていた。
空を見上げれば、いっそ憎らしいほど澄み切った青空が広がっており、7月になって輝きを増したように感じる太陽がジリジリとメグミを照らす。
しかし、メグミの頭の中には先ほどの桜雲と過ごした時間の記憶が居座っていた。
『メグミさんだってそれ以上にすごく優しいんだよ』
その言葉を聞いて、メグミは嬉しくなって、それで自分の中の気持ちに気づくことができた。
『もちろん、いいよ。メグミさんとなら』
メグミの不安と隣り合わせだったお願いに、桜雲は一も二もなく笑って頷いてくれた。それもまたどうしようもないぐらい嬉しくて、心が沸騰しそうになるほど喜ばしかった。
これまで桜雲と過ごした時間、交わした言葉が流れ込み、それらが心を満たしていく。
そして桜雲のことを想うと、心が温かくなってきて、幸せな気持ちが湧き上がってくる。
それはどんな感情なのかは、もうわかった。
『もしもし?』
「・・・あ、もしもし対馬?」
スマートフォンを取り出して、今回の事情をある程度知っていて、そして弁当作り、ひいては料理の練習に付き合ってくれた対馬を呼び出す。
『おっ、メグミ。首尾はどうだった?』
「うん、上々・・・・・・というか最高だった」
『ほほー、それはよかったじゃない。でも、その割になんか元気なさそうだけど・・・?』
自分の声はそんな風に聞こえているのか、とメグミは苦笑する。だが、今の自分はいつもよりも逆に落ち着いているということは分かっていたし、仕方がないとも思っている。
「・・・・・・あのね、対馬」
『んー?』
「私さ・・・その、お弁当を渡した、そのお世話になった人のこと・・・・・・」
『うん』
息を吸って、もう一度空を見上げる。雲一つない空を見れば、心が穏やかな感じになる。
そしてメグミは、自分が抱いたある感情を口にした。
「―――好きになったみたい」
電話の向こうの対馬が、息を呑んだように感じた。
だが、沈黙は十秒も続かず対馬は言葉を発する。
『・・・・・・そっか。それで、これからどうするの?』
「うん・・・もちろん、これからも付き合いは続けるよ。さよならなんて、したくない」
『・・・そっかそっか。それなら、頑張りなさい。私は全力で応援させてもらうから』
「ありがと・・・」
そこで電話を切ろうとしたが、割り込むように対馬がメグミのことを呼ぶ。
『メグミ』
「?」
『よかったね』
それは、何に対しての言葉だろう。
でも、メグミはそれには同感だった。
「・・・・・・ええ、本当に、良かった」
そして今度こそ電話を切る。脇を見れば、先ほどまで桜雲が座っていたスペースが空いている。
メグミはそこにそっと手を置いて、また空を見上げる。
やっぱり空は、青く澄んでいた。