遡ること二週間前。
どうやら、今回もまた生き延びたようだ。最後に記憶にあるのはトロールの緑がかった血潮の生臭さだ。
通りがかりの村で受けたトロル退治の依頼を受けてから三日。案内役の猟師が殺され、私自身も脇腹に深手を負った。それでも村の方角を目指し歩いたのだが、土地勘のない山を歩くなど無茶を通り越して無理の域である。
小雨も振り出してとうとう本格的に命運尽きたなと藪漕ぎの手を止めかけたとき、急に視界が晴れ私の目の前に古めかしい堂宇が現れた。
私の意識はそこで一度途切れた。
内装を見れば……ここはその堂宇の中、あるいはそれに属する建物の中と分かる。
始め見かけたときは寂れた建造物という印象を受けたそこはだが、内部はなんとも温かい光で満ちていた。このうす淡い微小な生き物の集合のような光は異国のものというよりもどこか懐かしい色だ。
草と木の匂いがする部屋。それにしても、まさかこちらの世界に来て再び布団に寝転がる日が訪れるとは思わなかった。
「おや、目を覚ましたかのう」
朗らかな女性の声とともに襖が空けられ、眩い朝日と清々しい空気が部屋に流れ込んできた。
暗闇に慣れた私の目には少々辛い。が、まあ、そんな内心に生じた不満など塵芥の命を拾ったことに比べれば屁のようなものである。
「どなたか知りませぬがこの度は、命を助けていただき誠にありがたく存じます。某は山城のオオイと申します」
掛け布団を跳ねのけ正座を組み、目を伏せて深々と頭を下げる。
「そうか。主はオオイか。わしはテンコじゃよ。どうせ、主も位もない場所じゃ。あまり畏まらなくてもよいぞ」
かかと口の端に笑みを浮かべ、テンコと名乗った女性は切れ長の目を細めた。整った品のある顔立ちに白衣と緋袴を身につけている。いや、異世界ではなんというのか知らないが、まあ私の言語に翻訳すればそういった類の服装であるというだけのことだ。
思い返してみれば、男の性として整った顔立ちや括れた腰などに目が行来そうなものだが、しかしその時の私は彼女の頭に生える狐の耳と同じ色の腰まであろうかという髪、そして隠す様子もなく腰のあたりから伸びる同色の九尾に目を奪われていた。
そんな私の不躾の視線に耐えられなくなったのかテンコはちらりと自分の尻尾を見遣り、
「ああ、これか」
少し気まずそうに視線を逸らしたのだった。
まあ、私とて人の形をした生き物から尻尾が生えていることに驚くという段階は既に通り過ぎている。むしろこれまで見てきた人には尻尾の生えている輩の方が多かったくらいで、そうなると尻尾の生えていない私の方が場違いなのではないかと、今ではそんな心持ちだった。
それで話を進めると、私が目を奪われたのは尻尾が生えているという事実ではなく豊かな毛量と、毛色の艶やかさにこそある。テンコの纏う黄金色の豊穣は、ほかでもない秋の頃に田畑を埋める一面の稲穂を私の脳裏に蘇えらせたのだ。
百姓から税を搾り取って暮らしていた私のごとき支配階級がその光景に涙するのは、烏滸がましいと言われればそれまでだ。
ただ、百姓の力を侮っていたわけではない。むしろ強大な天と地に挑むその姿は侍なぞより余程国を支える兵であると、同僚の前ではついぞ口にしたことはなかったが内心敬服していたのは事実である。そういうわけで、私は刈り入れの時候を迎えるたびに一人、風そよぐ稲原を眺めて千両千両などと、物見櫓で悦に浸っていた。
かくのごとき内心を吐露したところで、大の男が人前で涙をこぼした醜態になんら変化がもたらされるわけではないが。
しかし、私の話はそれなりにテンコの関心を引いたようで、
「なるほどのう」
などと髪を撫でつけたりする。その様子に、とにかく初めの対面で負の心象を与えるという悪手は回避できたようだと私は心のうちで深く安堵の息を吐いたのだった。
「それで、なぜお主はここに迷い込んだのじゃ?」
テンコの目に宿る疑問は当然だと思う。しかし、私にもそれは分からないのだ。ただ、この場所が私の元いた世界に近しい環境にあることは確かだった。少なくとも、乾いた土煙やうっそうと暗い杉林と無関係そうな不可解な場所だ。
そのことを素直に告げるが、しかしテンコは疑わし気な眼差しを止めない。
「では、この森に迷い込む前はなにをしておったのだ?」
「王級
「王級
また一段とテンコの表情が険しくなる。これは信用されないのももっともかもしれない。腕に覚えのあるあなたでもトロルは手強い相手だ。野生動物の力と速さは人間の比ではない上に、傷を再生する能力まで持っている。
「はあ、案内役の猟師もいたのですが殺されてしまいまして、私も不覚をとりました。おかげであの有様です。手傷を負ったところ助けていただきまことにありがたく……」
「それで、トロルは仕留めたのかのう?死体が見当たらなかったのじゃが」
「はあ、なんとか」
二十太刀から先は憶えていないが、最後に脇差で頭蓋を砕き、深々と心臓を抉った記憶がある。大量出血で消耗させ重要器官を破壊してなお絶命しない生命体がいるだろうか。
なんとか。というのは余りにも激しい戦闘故に記憶も定かではないからだ。トロルの棍棒を外し、逸らし、ひたすら斬り続けた時間はいったいどれほどだろうか。少なくとも居合一万本抜きの荒行と比べてもそん色のない消耗具合だったと思う。
「そういえば私の得物は……?」
「いや、渡すわけにはいかんぞ。武器を手にした途端、乱暴狼藉を働かれてはかなわぬわ」
「いや、あなたが手入れ出来るならいいのですが、血液を落とさなければ鉄の武器は錆びてしまう。あの刀は私の手足も同然です。自分の手足が腐れていくのを見過ごす人間はいないでしょう」
「ふぅむ、」
私の説得が少しは効いたのか彼女は考慮すると頷いた。しかし考慮するではまずいのだ。彼女は剣士ではないから共感できないのだろう。二王方清の大刀に金房政次の脇差は、どちらも先祖伝来の利刀である。それにあの二振りは、数少ない私の元いた世界の品なのだ。
ちらとテンコの顔色を伺うがやはり表情は芳しくない。
この分だと二振りの刀は諦めた方がよさそうだった。まあ仕方がない。こんな異世界に飛ばされた時点でいつかは使いつぶす運命だったのだ。
それに、そもそもの原因は自分の技量を過信したことだろう。刀は失ったが命は拾った。ならば敵を侮り、自らを知らぬ愚か者への落としどころとしては丁度いいぐらいだ。
……いや、やはり惜しい。特に金房兵衛尉政次の薙刀を直した脇差は、過去に何度も主命を共にした相棒のような存在だ。それを朽ち果てるに任せるなど出来るはずもない。
「ではこうしましょう。弓でも槍でも突き付けて、手入れが終わったら即刻私を殺すといい」
私はいたって真面目だ。人の生は五十年、刀の生は千年。だからというわけではないが、今後二十年かそこいらを後悔しながら生きるつもりはない。
「なんじゃその発想は!?とにかく駄目じゃ。駄目ったら駄目じゃ」
「それはおかしいではないですか。本当のところは考慮ではなく、はなから渡さないと結論付けている。いいでしょう。そういうことなら、理屈の通じない相手ならば私だって話を通す必要もなくなる。勝手に探して見つけます」
相手の余りの分からずっぷりに私は布団を跳ね除け立ち上がっていた。確かに節々に痛むところがあるものの、動けないほどの傷ではない。いや、少しふらつくのは血を失い過ぎたせいか。
「分かった。わしが悪かった。持ってくるからそこで大人しくしておれ」
なおも立ち上がろうとふらついて、ようやくこちらの決意が伝わったようだ。
「いいか、寝ておれよ!傷口が開くぞ」
ここで引き際を誤ると刀は持ってきてもらえない。素直に布団に伏せることで、約束を果たす姿勢を見せることが大事だ。
「しょうがないのじゃ……」と諦め顔で目を伏せたテンコが、やる気のない足音とともに遠ざかっていくのが布団の上で目を閉じた私にも分かった。
幸いなことに二王、金房ともに刀身は無事だった。ひけ傷は少なく、捩れもなく、刃先の鈍りは、もとから刃を鈍角にしていたためか切れ味に影響が出るほどではない。
出錆に関しても、知り合いの錬金術師が塗りつけた特殊な薬品のおかげで血液は浸透せずに固着し、熱めの湯ですすぐと簡単に剥がれ落ちる。
だが問題は柄だ。一太刀であっさりと決着がつくならさほど問題はないのだが、今回の戦いは何太刀も斬りつけたせいで流れてきた血脂が装具の隙間や、柄糸に沁み込んで悲惨なことになっている。
大方予想した通りだ。これならばまだ対応できそうだと私は安堵に目尻を緩めた。
ついでにテンコに持ってきて貰った背嚢を開き、換えの目釘と目釘抜き用の小槌、柄を固定するための当て木を取り出し速やかに分解する。胡桃でこしらえた特製の柄は割れなし。順に切羽、鍔、鈨と付着したトロルの血脂を熱めの湯で搾った手拭いで拭き取ると少しは気分がいい。次に、
「その柄に手拭いを巻いて何をしておるのじゃ?」
ただ見ているだけでは味気ないのか、テンコが横合いから顔を覗かせてきた。
「柄全体を温めた手拭いで包み、血と脂を浮かせて拭き取る。蒸し風呂の要領だ」集中していたせいか少しぶっきらぼうな物言いになってしまったかもしれない。「なるほどのう」とテンコが頷き、「してムシブロとはなんじゃ?」聞き返す。
「ええと、砂漠の街では蒸し風呂というのがあってね」
「ほう、それで、ムシブロ?まさか蛇、蜘蛛、百足の類を」
違う違う、と私は苦笑して首を振る。
「沸いたお湯くらいに部屋を温めて、体にまとわりついた古い皮膚や脂を浮かすんだ。砂漠では水が貴重だから」
「待て待て、熱湯ほどに温めた部屋に入ったら死んでしまうのではないか?」
なるほど、テンコの疑問ももっともだ。沸騰した湯と同じ温度の風呂に入ったら全身に火傷を負ってしまうだろう。
「私も初めのうちはそう思って尻込みした」
「ほう、でもお主は生きておるななぜじゃ?」
そこに目を付けるとは根本的なところでテンコは私より頭がいい。私などは勧めてきた仲間がドワーフ族だったものだから、彼の種族の特製故に平気なのではないかと散々疑ったものだ。
「エルフによれば、空気は水よりも熱を貯め込みにくい性質であることと、汗が空気に成ることで熱を奪っているからだという」
「空気は水よりも熱を貯め込みにくい?どういう事じゃ」
私もそう思う。だから正直なところ私にもよく分からない。分からないがそういう性質だと記憶しておけば何かの役には立つ。そう告げると、落胆したテンコの耳が垂れた。気が付いたのだがテンコの狐に似た耳は顔よりも感情豊かだ。これは獣耳人に共通する特徴なのかもしれない。もし獣耳人と立ち会う機会があれば耳に注目するのも一つの手という仮説が私の頭に浮上する。よくよく吟味しよう。
そんな、私の思考をよそに布団に突っ伏したテンコは尻尾を揺らし、敷布団に顔を擦りつけうぬぬぬと頭を悩ませていた。
これは予想外の嬉しい反応だ。金気のものを扱うときにぺちゃくちゃと唾を飛ばすなどありえない。布団に頭を突っ込んで悶えるテンコを余所に、私は二振り目の金房に取り掛かった。
刀身を柄に差し込み、替えの目釘を打ち込み、最後にドワーフ製の鉱物油を塗布して鞘に納める。刀が清潔だと自分が湯浴みをしたかのように気分がいい。
だがまだ終わりではないのだ。次は防具だ。
目元まで覆う三角帽を模した金属帽(ケトルハット)。多少血がこびり付いているが問題ない。同様にその下に着るy鎖頭巾も破損なし。一番金のかかっている、エルフ製の竜皮のガントレットは血まみれだがこれも血を拭って脂を塗ればいいだろう。懸念はコートオブプレートと鎖帷子だ。だがこちらも無事だ。
相手の攻撃が打撃ばかりで助かった。とはいえプレートメイルならばもっと軽症で済んだかもしれないとも思う。焼き入れのされた高価なプレートメイルは曲面装甲が反発力を持っておりほとんどすべての近接攻撃を無効化する。槍の突きでさえ例外ではない。以前に一度だけ着用させてもらったが、剣、メイス、ハルバード、斧、まるで効かなかった。ウォーピックと槍はすこし例外ではあるが、まあ小指の爪ほどの穴が当たり所が良ければ空くかもしれない程度の威力に過ぎない。
結論として鎧騎士とは近接戦闘をするなという事である。
あるいは超接近戦しかないということだ。
倒して隙間をダガーで刺す。そういう用途ならばドアーフ製の刺刀、これは私が注文をしたものだが錆に強く、鋭く、強固だ。右腰に差したこいつを鎧騎士相手には使うしかない。
あとは、まあ身もふたもないが全身鎧を着た騎士は持久力に難があるので囲んで相手がつかれるまで防御に徹し、足が動かなくなったころ合いで袋にしてしまうのが一番だろう
さて、一方で私の着るコートオブプレートはといえば皮の裏に鉄板を張り付けた安い構造だが、それでも素肌なんぞよりはよっぽど防御力が高く打撃の衝撃も散らしてくれる。チェーンメイルと合わせれば刀剣類は問題なしだ。しかし板金鎧と違って変形するのでウォーピックやメイス、斧、槍は少し辛い所があった。
「終わりました」
私がそう告げるとしぶしぶと布団から頭を引き抜いたテンコが私を睨みつける。この様子だともう少し、放っておいた方が良かったかもしれない。なにせ彼女は途中から居眠りを始めていたようだから。
「うーん、分からぬ」
布団から出たテンコは開口一番、禅僧のような顔であなたを見つめて告げた。
この分らぬには深淵幽玄なる哲理に由来する分からぬ、ではないことは明らかだ。それよりも互いに鳴き声を交わす腹の虫の方が余程わかりやすい。
そういうわけで遅い朝食ということになった。
刀の手入れをしている間にいつの間にかそんな時刻になっていたのだ。これからはトロール相手に剣で戦うのは止めようと心に誓う。これは人を斬るにしても同じことで、ようは斬った後の始末が面倒なのだった。
食事はオクラの胡麻和えと漬物三切れ。ほうれん草のお浸し。茹で卵に、あとは山菜と猪肉の味噌汁と玄米粥だった。テンコが作ったのだろうか?だとしたら不自然だ。彼女は夕飯を運んでくると言って部屋を出て、二分もしないうちに膳を持ってきた。だというのに作り置きというわけではなく、玄米の温度は舌が火傷しそうなほどだ。
「いただくとするかのう」
狐に化かされて馬糞を食わされたなんて話もあるぐらいだから用心に越したことはないが、しかし、狐が化かすつもりならば尻尾と耳を丸出しにしたままなどという間抜けを晒すだろうか。それとも本人は自覚していない?いいや、最初の反応からしてそんなはずはない。というか獣耳人がいる世界で獣耳人の存在自体を疑い出したら話が進まない。これまで触ってきた尾や尻尾は本物だ。
逡巡する私の膳からテンコは一切れづつ食物をとり口に運ぶ。毒味のつもりなのだろうがしかし、あらかじめ食べるものを決めていたら?もしくは食べたと見せかける高等な幻術の使い手という可能性もある。
いや……、
「食べぬのか……?」
と、こちらの顔色を伺うテンコの瞳に嘘はない。馬鹿馬鹿しい。我ながら下らない躊躇いだった。
「いえ、食べます」
それに、死ぬはずだった命を拾われたと考えれば、私の命はテンコのものと考えることもできる。なにより鼻孔くすぐる香気に腹の虫が盛大に抗議の声を上げ始めている。
「美味いか?」
「はい、美味いです」
「そうかそうか、ならわしの分も食べろ」
「ありがとうございます」
一口食べればもうあとは勢いで箸が進む。特に猪肉はありがたい。元いた世界では禁忌ゆえに大っぴらには食べられなかったが、犬、雉、鹿、猪など密かに食べていたものだ。
そもそも武士が肉を食べなくなったのは太平の世になってからのことで、これには実は幕府による地方勢力の武装解除という目的があったのではないかと私は睨んでる。というのも、鎌倉から戦国の武士は肉食であったために体格もよく精強だったという説を聞いたことがあるからだ。また肉を食べると血の気が増えるためか性格も荒々しく、好戦的になる。とまあそんな荒っぽい戦士たちの存在は世を搔き乱す戦国時代にこそ役に立つが、一度天下泰平の世が訪れてしまえばむしろ治世の妨げにしかならないので、これを様々な政策を以て廃したのだと思う。
「この大根の味噌漬が美味いです。この塩気が玄米の粥に程よくあう」
「かかか、わしもこれは好きな味じゃぞ。好みが合うではないか」
あちあち、とテンコが粥を啜るが狐の下は熱に弱いのだろうか。
「そうなんですか、いやー嬉しいですね」
口にしてから、いやー嬉しいですね。なにが?と自らの言葉を計る私だったが、まあ、味覚が合うということは世話になる上で相手方にあれこれ考えさせなくていいので、その点が嬉しいですねという程度の意味合いだと納得する。
「そうじゃぬのう!」
ほら、彼女も喜んでいる。耳もパタパタと乱舞している。ならばいいではないですか。
そのうちにまたテンコが神妙な顔をし始めたかと思うと膝を叩き、
「分かったぞ。つまり粥は味噌汁よりもどろりとして冷めにくい!同様に水は空気よりもどろりとして冷めにくい!」
と喜色満面、あなたの顔を覗き込んだ。
「なるほど、」
分からん。それは単なる言葉遊びであって本質をついていない。などなど色々脳裏を巡るものがあったがしかし、
「なるほど、」
頷く。
「馬鹿にしているじゃろ!」
心外だ。そんなつもりは毛頭ない。
朝食後、皿を洗う。そのあとに木の枝を噛みほぐし、繊維の束で歯を磨く。スッキリとした気分だが、どこか釈然としないのも事実だ。そもそも、ここが一体どこなのかすらわかっていないのも問題である。
「まあ、なるようになるさ」
不思議なことに傷口はもう塞がり始めている。一週間も休めば動けるようになるだろう。
しかし、まだ大きな問題がある。テンコがなぜ私を助けたのかという問題だ。女の一人暮らしで行き倒れの男を助けるなど、それこそ余程の理由がなければやるものではない。必ず何かの形で代価を要求されるものと思っておかなければならない。
「だがまあ、気鬱になるな。自由の動けないというのは辛いものだ」
それに遊び相手もいないから気を紛らわすこともできやしない。いや、久々に愛刀の鑑賞でも行おう。おあつらえ向きに天気もいいようだし、自然光に焼刃も良く照るだろう。
ああ、でも一度引いた油をまた除去しなければならないのが面倒だなぁ。まあいいか、新しい油だ。そこまで鑑賞の邪魔をすることもないだろうし。
まずは金房兵衛尉政次の脇差。こちらは曽祖父の頃からの品で以前は薙刀だったのだが、戦国時代も終わり太平の世に切り替わる祖父の代に、時代の変化に合わせて擦り上げられたものだ。わざわざ薙刀を擦り上げて脇差に直すぐらいだから余程愛着があったのだろう。
……祖父がこの刀を愛した理由が私にも少しだけ分かる。
まず、単純に恐ろしくよく切れるのだ。脇差にしては長く重めの刀身はそれだけで斬撃に威力を与えるが、そもそもが戦場で鎧諸共敵兵を切り裂くことをも念頭に置いているため、刀身そのものが強靭無比な出来なのである。
そして実際にその切れ味は私自身も知悉するところにある。いや、そのことについては語ることなどない。
次に姿がいい。擦り上げた職人の腕もあってだが、薙刀直しの大きく張り出した切先が絶妙な塩梅で落とされ横手に向かうにつれて、常の刀とは違い幅が広くなっていくようだ。そして横手からすらりと伸びる大切先の雄々しさは、全体の姿と融合して岩でさえ切り崩すことが可能と思わせる力強さを秘めている。鈨元から一寸いったあたりからごっそりと鎬地が落ちるのも美しい。先重になりがちな薙刀の重心調整に一役、斬撃時の抵抗値を軽減することに一役、一石二鳥という奴である。
まさしく実用の美の極致だ。そんなことを曽祖父や祖父も思ったのだろうか?
刀身に日光を当て様々に角度を変えて眺めていく。
浮かび上がる白い焼刃は明るく、透明で、幾重にも重なり、この刃に切られた風の名残が纏わりついているようである。あるいは刀身に縋りつく無数の亡者の手か。生への尽きることない妄執を鬼の包丁が断ち切る、そういう苛烈さが浮かび上がってくる。ともかく、見ていて飽きることがない。
テンコによればその時の私は何度も何度も、角度を変えて金房の脇差を眺めていたそうだ。
改めていい刀だなぁ、錆びさせなくて良かったなあ、と静かに胸を撫でおろしたのだった。
夕食は特に記すことはない。いや、記したくても記すことを忘れてしまったとするのが正確だ。
傷が深いせいで入浴は出来ないがそれは慣れているため問題ない。手拭いで体を拭く。届かないところはテンコに手伝ってもらう。いや、これは恥ずかしい。
そんな風にして一週間が過ぎた。
包帯の取れた傷跡を見るともうほとんど傷が塞がっている。心身にも何ら副作用がないのが異常だった。本来ならば一カ月は動けなくてもおかしくない傷だというのに。
まあいい。これだけ回復したならば働くこともできるだろう。というわけでテンコの手伝いをしたいのだが、
焚きつけ用の枝を集めて薪でも割ってくれとのことだ。
いいだろう。山を歩くのは足腰の鍛錬になる。現状、筋肉はかなり落ちているが、様子を見て動く分にはいいだろう。
家の裏で見つけた丸い木の杖を頼りに山を歩く。勾配、浮石、突き出た枝。そういったものに気を遣い体をあちこちに捻る。そうすると眠っていた筋肉に熱が宿る。暫くは平地を歩いてばかりだったからだろう。堂宇に戻ってきたときには汗があなたの全身をぐっしょりと濡らしていた。
だが、気分は爽快だ。
少しだけ、武技を試してみたいと思った。やはり戦争を専門とする兵士としては己の戦力を把握しておく必要があるのだ。。
堂宇の庭先は幸いなことに広く、テンコは川に野菜を洗いに行っているのか姿が見えない。
息を吐いて、杖を下段に構える。
想定。八方に敵。
現実なら膾にされて終わりだが、稽古としては意味がある。
まず右斜めの敵が上段から撃ちかかってくる。
体を横捌いて背後で回転させた棒による横面撃ち。
間合いが詰まった右手の敵があなたの背後から打ちかかる。
横面を打った相手に近寄りながら軸線を外し、横面を打たれたものを正面の敵への盾とする。
同時に左脇から背後に棒を突き出し打ちかかってきた敵の脇腹を抉る。
次は左の敵だ。刀を腰だめに構え突いてくる。防御など考えない捨て身の一番厄介な攻撃だ。
半身に躱して喉元へもっともリーチの長い片手突き。
左斜め前からくる。
突き出した杖を引き両手で小さく旋回。低く身を屈め、敵の太刀と己の杖を鋏のように交差、喉元を突く。
喉元をついた敵を引き寄せて正面から打ちかかってくる敵への盾とする。
左斜め後ろの敵が来る。
小刻みに震わせた剣の横っ面に棒を撃ち下ろして剣を折り飛ばす。前進しての突きで剣を失くした敵をついて仕留め、振り向きざまの上段打ちで、死体を乗り越えてきた正面の敵の頭蓋を砕く。
こんな丸棒だからこそ打撃にはむしろ精度が要求される。全ての角度からこの丸棒で打撃して、芯で標的を捉えられるのなら、その者の振るう剣は如何なる体勢からでも敵を切り裂くだろう。
突く、薙ぐ、払う、絡めとる。打つ。衝撃の瞬間まで力の在処を遍在させる。無数にある太刀路を自在に駆ける杖は、直撃の瞬間に手の内を決められ鋼の落雷へと変化する。
この棒術は元はと言えば百姓の自警団から習得したものだ。それに異世界での長剣術を取り入れて少しだけ変化させている。
棒はいい。
棒は旅の象徴。自由の象徴だ。
風が吹く。木がざわめき枯葉が落ちてくる。落ちてくる枯葉を狙い、打ち、払い、突く。
刀の扱いばかりを修行していると刃で斬り、切先で突くという単純な円と線の動きに帰結してしまう。
だが棒は違う。あらゆる体勢から伸びていき、柄も刃も区別のない攻撃が混然一体となって敵を砕く。刀は確かに美しいがその機能は研ぎ澄まされて人を殺す以外に使い道がない。しかし棒はもっと自由だ。
一通り動いたあなたは棒を置き。大刀を片手に折れた枝を投げる。
両手で保持しなおした切先が宙を滑り、銀の楕円が三つの歪んだ円を連ねた。
悪くない。
復調したならあと一太刀は入るだろうか。
「こらぁ!病み上がりで何をやっとるんじゃお主は!」
「これはすみません。でもまあ、病み上がりだからこそです」
不審気に顔をしかめるテンコに続ける。
「病み上がりだからこそ、性能を把握しておかないといざというときに不覚を取ることになる。大丈夫、それなりの敵でしたら戦えるでしょう。キングトロル相手にも二十分は持たせて見せます」
「主は修羅の類か?」
可笑しなことを言う。あなたは首を傾げた。
「もとより戦士というのは修羅界に住むものです」
そうでなければ、刃物で人をどついたりなどできない。それも切れ味の鈍い刃物でだ。肉を裂き骨を砕くような斬撃は痛い、痛いというか激痛だ。そういう傷だからまず綺麗に治らない。
結論から言えば……、東西のいかんを問わず戦闘用刃物……振り回して負傷を与える刃物の切れ味などというものはたいして良くない。刃先の硬度はともかく刀身自体の厚みが生活用刃物とは比べ物にならないからというのがまず一つ。
同時に刃先を鋭くすると、剣戟の際に零れた刃の欠片が飛び散って危険ということになる。そういうわけで心得のある戦士は概して刃を軽く引いて零れないようにしてあるものだ。
そんな鈍らな刃で十分な殺傷能力を得られるのか?と思った時期もあった。
だがまあ、結局……戦闘用刃物という代物は対象の身を崩さずに綺麗に切断するなどという芸当は求められていないわけで、その斬撃の理屈は斧だとか鉈に近い性質を持っている。
そこそこ尖った固い物体に遠心力を乗せて叩きつけるわけだから、結局のところ刃物というよりも棍棒に近いのだろう。