───はらり、はらり。頁を捲る音が微かに響く。
長椅子に座る黄金の戦乙女が、読み古された文庫本へ紅い目を落としている。傍らにはふたつのコーヒーカップ。そのうち片方は既に空となっていた。
少女はまだ熱い湯気の立ち上る杯に唇を付け少しだけ傾けると、また直ぐに本の世界へ沈んで行った。
控えめに稼働している空調と、自らの立てる音以外が消え失せた、心地よい静寂。
我知らず少女の口許が緩む。
(ヒルドやオルトリンデの目を避けて読書しようと悪戦苦闘していた私に、まさか自室を貸してくださるとは……マスターには感謝してもしきれませんね)
先程まで同じように本を読んでいた部屋の主───藤丸立香は管制室からの呼び出しを受け、ミーティングへ向かった。
少女も付き添おうとしたのだが「すぐに帰ってくるからここで待ってて。また一緒に読書しよう」と言われてしまい、藤丸の私室で引き続き読書に耽っているのであった。
(この静寂と読書の時間は心地良い。ただ───)
少女が小さく溜息を吐き、読みかけの頁へ栞を差し込み、本を閉じる。その端整な横顔に些かの翳りが見えた。
(先程と比べると、明らかに"物足りない")
数分前と現在の部屋の違い、それは明白だった。
(マスターの、不在……)
少女の思考は容易に"要因"まで辿り着く。だがしかし、その"原因"までは思い至らない。
隣に藤丸が居ないから物足りない、それはいい。ただ、それが何故なのかを理解できないのだ。
小さな疑念が胸の奥に引っかかったまま、ちくちくと痛む。が、頁を捲る度に痛みは薄れ、やがて無視できる大きさとなった。
スルーズの思考のノイズが去り、再び部屋に静寂が訪れる。
───ただし、2秒だけ。
「ちょっと後輩!私の部屋のテレビが映らないんだけど!!……って、あれ?」
扉を蹴破り闖入してきた仙女により、至福の時間は終わりを迎える。
「誰よアンタ」
眉間に皺を寄せた虞美人がぶっきらぼうな口調で尋ねた。「…………私はサーヴァント、ワルキューレ。個体名スルーズです。マスターは現在、ミーティングに出席しておられます」
招かれざる客人に対し、スルーズは普段の表情を崩さず事務的な受け応えを行う。
しかし、言葉の端から滲むなにかを嗅ぎ取ったのか、虞美人は肩をすくめてみせた。
「私は虞美人。邪魔して悪かったわね」
これといって悪びれる様子もなく、貴人はスルーズの向かい側へ腰を下ろす。
「えっ、あの?」
「どうせ直ぐに帰って来るのでしょう、ここで待つわ」
「はぁ…………」
そして再び無言の時間が流れる。先程までの静寂とは違い、明らかに居心地が悪い。
そんなスルーズの気も知らず、虞美人は長椅子に腰掛け、白く長い脚を組んだまま本の山をぼうと見つめている。
同じ時を過ごすにしても、親しいマスターと初対面の相手ではこうも違いが生まれるというのはスルーズにとって新しい発見であった。
やがて、ひどくどうでも良さげに虞美人が口を開いた。
「好きなの?読書」
「……ええ、以前は好きだと認めるのが怖かったのですが───今ならば自信を持って好きだと言えます」
「ふうん、おかしなことを言うものね。好きならば好きといえばいいのに」
そこで虞美人の唇が止まり、ひとつの記録を思い出す。
「貴女、ワルキューレと言ったわよね?」
「はい、それがどうかしましたか?」
かつてのチームメイト、オフェリアの担当は神代から続く北欧異聞帯であった。おそらくはワルキューレも戦力に入っていただろう。
(この戦乙女が異聞帯にも居たかは定かではないけど……"こちら"のはずいぶんとまぁ余裕があるものね)
頁を捲る少女の姿は、かつての友……だったかは今でもよくわからないが、彼女と彼女が戦っていた場所を思い出させ、ひどく眩しいものに思えた。
「…………何でもないわ。ただの個人的な感傷よ、忘れて」
ひらひらと手を振る貴人に少女は問い返す。
「虞美人さんも読書が好きなのですか?」
「全然。私は人間ではないもの。人間の書いた人間のための物語なんて、何度読んでも理解できなかったわ」
遠い目をした貴人は再び少女に問う。
「貴女はどうなのかしら。人ならざる身として、物語に何か思うところは?」
虞美人の瞳は好奇に揺れている。同じ人外の者の意見に興味があるのだ。
「……正直なところ、私も未だ物語に記された人間たちの精神構造が不可解に思えます。ただ、私はそんな彼らの感情に興味を持っているのです」
「ふうん……」
「書物に記された恋物語、これらを紐解けばお姉様───ブリュンヒルデのことも、今の私がマスターへ抱く感情にも理解が深まると考えています」
───ブリュンヒルデ。大神オーディンの娘にして戦乙女の長姉。英雄シグルドと恋に落ち、シグルドを殺した。北欧神話に語られる悲劇の女。
(彼女を理解し、更に自分の感情までを整理したいとなると、この戦乙女もまた───)
虞美人が唇を開く。
「貴女も恋をしているの?」
「…………わかりません」
スルーズの表情が翳る。
「でも、自分の感情を理解するため恋物語を読むということは、無意識のうちに自分が恋をしていると自覚してるんじゃないかしら」
貴人の燃えるような赫の瞳が、戦乙女の紅の瞳を正面から射抜いた。
「それ、は───」
戦乙女が沈黙する。
伏せられた視線は机の上、先程まで読んでいた書物の山に注がれている。
戦乙女の思考がノイズを伴って再び廻り始めた。
深刻な表情で黙りこくったスルーズに、虞美人はため息混じりに言葉を掛ける。
「あんまり足踏みしてるとロクなことにならないわよ。アイツ──藤丸の隣にはマシュがいるんだから」
「わ……わたわた私がいつマスターのことを好きだと!?」
「へ? 違うの?」
虞美人は「何を今更」とでも言いたげに首を傾げる。
「"マスターへの感情"って思いっきり言ってたし。アイツの部屋でアイツと一緒に本を読んでいたのでしょう?嫌でも察するわよ」
スルーズは知らず知らずのうちに内心を暴露していたのだ。
人形のような美しさのあった少女の表情は羞恥に硬直し、みるみるうちに白い頬が赤く染まって行く。そんなスルーズの様子を見た虞美人は小さく笑う。
「……頑張りなさいね?」
「はい…………」
俯いたスルーズはそう返すので精一杯だった。虞美人が何かを思い出したように席を立ち、本棚へと歩み寄る。
その中から一冊の本を抜き取ると、スルーズへと手渡した。「できれば、この本も読んでみてほしいのだけれど」
表紙に記された題名は『犬語の参考書』。読み古された装丁には古本屋の値札が付いていた。
「これは?」
「私が昔読んでた本よ。終ぞ理解することはなかったわ」
虞美人は再び過去を思い返す。数年前のことだというのに、何百年何千年も遠い日のことに思える。
「私にはもう、必要ないものだから。藤丸にあげた本だし恋愛ものじゃないけど貴女にも感想が聞きたいわ。何ならアイツと一緒にいる口実にしてもいいわよ?」
「なっ……!?か、考えておきましょう……」
スルーズは目を白黒させながら頷く。そんな彼女の様子に虞美人は再び微笑む。かつての自分も項羽に出逢った頃はこのような反応を晒していたのかもしれない、そう考えると少しむず痒いものがある。
(…………ここまで初心じゃなかったと信じたいけど)
しばらくの間、人外と人外が雑談に花を咲かせた後、虞美人は戦乙女に別れを告げる。
「あ〜〜……藤丸は帰ってくる様子もないし、面白い話もできたし。用事はまた今度にするわ。貴女は待っててあげなさいよ?約束したんでしょ?」
「ええ。私はあの人を待つことにします」
微笑む戦乙女に虞美人は笑顔を返す。
「貴女は人間を理解するために本を読む。理解できずに投げ出した私とは真逆ね」
「けれども、仲良くなれそうな気はします」
「同感。じゃあね、またどっかで」
「はい、さようなら」
手をひらひらと振り、部屋を出て行く虞美人を見送った後、少女は小さく溜息を吐いた。
その横顔はどこか満たされている。
「…………あの人に珈琲のおかわりでも淹れておきましょうか」
スルーズはそう独り言ちると長椅子から立ち上がり、ふたり分のコーヒーカップを手に取った。