【ときドル】アイドル科の日常   作:うんぼぼ

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答え合わせ(後編)

 どんなに悩んでも朝はやってきて、すなわち十二月二十四日になって、待ちに待ったメロディアスライブ、セカンドステージが始まった。事ここに至っても、俺の頭の中には朝霧の「好きです」の言葉がぐるぐると回っていた。頭は重い。それは結局深酒してしまったせいだけではないと思う。

 

 「好きです」のその意味が「人間的に好き」だとか、そういうことじゃないことくらい、分かっている。では俺はそれにどう応えるのか。決まっている、お互い立場が立場だ。他の選択肢なんてありえない。分かっているのに、胸は苦しかった。その理由から俺は目をそらして、意識を目前の仕事に集中させる。

 といっても、もうここまでくると俺にできることはない。舞台袖から皆を送り出した後は、もうステージを見守るだけだ。いつも通り、皆を送り出せていたとは思う。まあ、どうしても、朝霧のことばかり見てしまっていたというところはあるけれど。目が合うたびに、朝霧は意味深な笑みを浮かべてきて、その度に俺は目をそらしてしまった。何だそりゃ、思春期か。

 

 ため息を一つついて、ステージを見上げる。転換が終わり、ついに彼女たちのステージが始まる。

 

『みなさーん! 盛り上がってますかー?』

 

 センターは朝霧春子。その声が響くとともに、歓声が会場から湧き上がる。オーディエンスは、彼女たちを待っていた。朝霧春子を待っていた。その反応に、プロデューサーとしては、まず心の中でガッツポーズ。これまで一年間やってきたことの総決算の、その一歩手前。地道な活動が確かに大一番につながっている。

 

『一緒に素敵な時間を過ごしましょう!』

 

 舞台袖と関係者席、俺はどちらも選べる立場だったが、今回は関係者席を選んだ。特別なステージだから、もしかすると今日で最後のメロディアスライブになるかもしれないから、よく見える場所にいたかった。関係者席は、舞台袖よりは距離があるもののステージ全体がよく見える。

 

 流れる曲は「DREAMING-ING!!」。俺たちの始まりの曲だった。

 

 彼女たちに会ってからの、色々なことを思い出す。就任したばかりの俺に、学院やメンバーのことを教えてくれた朝霧。七夕で意外なお茶目さを見せてくれた朝霧。対抗フェスで何度も負けても、諦めずに走り続けて成績を残した朝霧。他にも夏祭りや文化祭、ハロウィン、放課後の買い出し、会場の下見……なんだ、俺のここでの思い出は朝霧春子だらけじゃないか。

 ステージの上にいる朝霧春子は、精一杯パフォーマンスする朝霧春子は、紛れもなく輝いていた。果てしなく可憐で、美しい。

 

 昨日、朝霧は自分の才能について、他の皆に敵わないなんて卑下していたが、そんなことは本当にありえないと思っている。朝霧が他の誰よりも優れているのは、その所作の美しさだ。それはキレがあるのとはまた違う、決して動きに素早さがあるものではない。ダイナミクスがあるというものでもない。その所作の美しさを生み出すのは、類まれなる身体感覚であると思う。

 

朝霧の動きには、指先に至るまで意識が行き届いている。みぞおちから腕、脚、そこから手足の指先に至るまで、そして目線も含めて。朝霧は自分がどう動かしているのかを理解している。意識して末端までを美しく動かせる。ダンスに定評のある青山や川口にだって、そこまではできやしない。これは、派手な魅力ではないかもしれないけれど、しかし、人を確かに惹きつける技術だ。それは、朝霧が幼少から人に見られる世界に身を置き、その中でたゆまぬ努力の末に会得した、技術の粋だ。俺はそこに果てしない尊敬の念を覚える。

 

 その技術が、魅力的なルックスと優しい声とで相乗効果を生み、アイドル朝霧春子を輝かせている。

 

 こうして彼女のプロデューサーでいられることは誇らしくて、それがあと数か月かと思うと寂しい。

 彼女がアイドルを辞めてしまえば、俺たちの距離は遠くなる。でも、彼女がアイドルを続けてくれさえすれば、遠くからでも俺は朝霧春子を見られる。朝霧との距離が離れてしまって、まるで同じ世界に彼女がいないようになってしまうことは、どうしても嫌だった。

 

 この感情に「恋愛」という名前を付けていいのだろうか。

 きっと、迷っている時点で、悩んでいる時点で答えは決まっているんだろう。決断できないのは、俺の弱さだ。

 結局、俺は朝霧春子の輝きに、初めて会った時からやられてしまっていたのかもしれない。

 

『素敵なステージだったわ、みんなありがとう!』

 

 夢のような時間は、あっという間に終わる。朝霧春子を彩る光が、切なく揺れる。まだ終わらないでほしかった。このステージにも、朝霧と過ごす日々にも。

 

 ――ああ、そうだ。俺は、最悪なことに、朝霧春子という人間にどうしようもなく惚れてしまっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 イベント全ての日程が終わった。アイドル達の仕事はここで終了となるため先に帰らせたが、プロデューサーとしての仕事はまだ終わらない。裏方さんへのお礼、審査員や同業他社への挨拶回り、その他諸々。会場を出る頃には、すっかり遅くなってしまった。

 

「さんむっ……」

 

 真冬の夜の風は冷たい。今までが熱気に溢れた場所にいたから、その落差が尚更堪えた。

 

「今晩はもしかすると、雪になるかもしれないんですって。……ホワイトクリスマスになるかもしれません」

 

 聞きなれた声が耳に届く。何となく、彼女がいる気はしていた。

 

「……そんなに上手くいくもんかね」

「分からないですよ? 去年は惨敗したうちの学院が、たった一人のプロデューサーの成果で快進撃、メロディアスライブのセカンドステージで優勝、なんてドラマみたいなことも現実には起こるんですし」

「俺だけの成果なんてことはないだろ。朝霧や、皆が頑張ったからだよ」

 

関係者出口のすぐ近くには、朝霧がいた。朝霧は昨日と同じく、上半身重装備にもかかわらず、下半身は軽装備。あのストッキングには俺の知らない防寒テクノロジーでも使われているんだろうか。

 

「もしかして、ずっとここで待っていたのか?」

「はい。明日のライブが終わったら話があるって、言ってたじゃないですか」

「寮に帰ってからでもよかっただろ、こんな寒いところで待ったなくなって」

「だって、寮に帰って打ち上げが始まったら、あなたと二人きりになれないでしょう?」

 

 朝霧は、ステージが始まる前と同じように意味深な笑みを浮かべた。朝霧の余裕とは正反対に、俺はひどく落ち着かない。これじゃ、どっちが大人か分からない。

 

「それじゃあ、答え合わせを始めましょう、プロデューサー」

 

 いよいよ、色々な意味で逃げるわけにはいかない時間がやってきた。鼓動が早まるのが自分でもわかった。

 

「なあ朝霧、お前ご両親から聞いてたんだろ? 俺がお前に黙ってやってたこと」

「ふふっ、気が付きましたか」

 

 まずは、朝霧の昨日の発言の真意について。俺から話し始めた。

 

「ま、、あれだけヒント出されたらわかるよ。ご両親には言わないでくれって、伝えてたんだけどな」

「母と電話してるとき、急にアイドルを続けることに反対しないって言いだしたんです。それに、妙にプロデューサーに詳しくって。好きなお酒の銘柄まで知っていたら、流石に不自然に思うでしょう? 問い詰めてみたらびっくりしました。何度も私の実家まで通って、反対だけはやめてほしいって頼み込んでいたなんて……結局両親も根負けしたみたいですね」

 朝霧のご両親が、卒業後もアイドルを続けることを反対していたのは知っていたし、俺のところにも直接連絡は来ていた。俺は朝霧に道を示すことはできないけれど、せめて彼女が彼女の意志で選択できる環境を整えることくらいはしたかった。

だから、何度も朝霧の実家に足を運んだ。それが朝霧にバレたら、俺がやっていることの意味はなくなるから、ご両親には黙っておいてもらうようお願いしていたんだけれども。まあ、多分朝霧のお母さんも、悪気はなかったのだろう。

「ふふふっ、『春子さんは人類の夢なんです』『女神なんです』『自分の人生を賭けて言う』でしたっけ?」

 

 やめろ、自分でも恥ずかしいんだ。

 

「それに、アイドルを辞めた後のキャリアプランまで沢山用意してくれたみたいで。うちの父も感心してまいしたよ?」

 

 バツが悪い。俺のこの言葉は、この行動は、本来朝霧春子本人には届かなかったはずで、だからご両親を相手に派手な言葉を使えたというに、これでは台無しだ。頬が朱くなるのを感じる。

 

「……悪いかよ」

「悪くないです。むしろ、嬉しいです。だって私、本気でプロデューサーに見捨てられてると思ってたんですよ? 今まであんなに助けて、支えてくれていたのに、進路のことになったら一切助けてくれないなんて」

「それは」

「はい、わかってます。自分で選んだって、その実感が大事だからって。だから、準備はしていたけど、私も本当に、さっきのライブが終わるまで最終的な進路は決めていなかったんです」

 

 その言葉に、俺は少し安心した。両親が決めた、俺が決めた、どちらでもなく自分自身が決めたと、そう朝霧が思えるのなら、成功しても失敗しても彼女にとってのプラスにつながるだろうと俺は思う。

 

「さてプロデューサー、この封筒の中に、私の答えがあります」

 

 朝霧は、カバンの中から無地の白い封筒を取り出した。差し出されるがままに、俺はその封筒を受け取る。ただの書類なのに、なぜだかずっしりと重みを感じた。それはきっと、この中に朝霧の人生が入っているからかもしれない。

 朝霧の選択を知るために、俺は封筒を開けようと中身に手を入れようとした。

 

「ねえ、私の答えを見る前に、プロデューサーの答えを聞かせてもらえますか?」

 

しかし、その動きは朝霧に制止される。

「俺の、答え?」

「はい。もう、私は選んだ後ですし、気持ちも伝えた後です。プロデューサーが私にどの道を選んでほしかったのか……そして私をどう思っているか、教えてください。今ならプロデューサーの言葉は、私の選択を左右しません」

 

 朝霧は、まっすぐ俺に答えを求めた。その表情に笑顔はなかった。これまでのように、曖昧な言葉で逃げることは許されない。俺がここまで朝霧に隠れてやってきたことは、全て彼女にバレてしまっている。それに、朝霧の気持ちはもう決まっている。

ためらいが一切ないとは言えないけれど、もう正直に伝えるしかないのだろう。息を大きく吸って、吐いて、それからもう一度吸って止めた。朝霧に正面から向き合えるのは、きっともうここしかないだろう。ここで逃げたら、俺も後悔するかもしれない。覚悟を、決める。

 

「……俺は、朝霧を失いたくないって、そう思ってる」

 

 心の中にある、一番根底の言葉を俺は彼女に向かって言う。

 

「失いたくない、ですか?」

「ああ……俺はさ、朝霧春子っていう存在に惚れてしまっている。アイドルとしての朝霧も、いつも俺のそばで笑って、支えてくれる朝霧も、どちらも好きで放したくないって、そう思ってるよ」

 

 嘘のない、正直な気持ちだった。俺の発した言葉で、朝霧の瞳が大きく見開かれたのが分かった。ここまで言えば、もう愛を伝えているのと同じかもしれない。今、俺はやってしまっている。大人として、プロデューサーとしてやってはいけないことを盛大にやってしまっている。あふれる感情に任せて、俺は続ける。

 

「でも、俺はプロデューサーで、朝霧はアイドルだ。俺は大人で、朝霧は未成年だ。ああ、こんなことを言うなんて、つまんねえし格好悪いってわかってる。だけど、だから今俺は……朝霧の好意には応えられない。そうしたら、そうしてしまったら、いつか俺たちは致命的な傷を受けることになる。朝霧は絶対に傷つくことになる。きっと、心から笑って二人ではいられなくなる」

 

 世界はそう優しくはない。アイドルとそのプロデューサーの恋愛なんて、世間に露呈すれば絶好のゴシップ、炎上材料だ。俺はアイドル朝霧春子のファンだ。彼女をろくに知らない世間に彼女が中傷されるのは決して許せない耐えられない。

 

「だからせめて、アイドルとして世界で輝く朝霧だけは失いたくない。俺の気持ちが爆発しないうちに、俺を離れて、アイドルを続けてほしかった。ダサくてずるいかもしれないけど……でもそれが俺の答えだ」

 

 ああ、言った、言ってやった。言い切った。悲しいけれど、これが最善だと俺は思う。

 

「これで、いいか?」

本当はもっと心の中に、自分への自信のなさや弱さもあるんだろう。俺がもっと強ければ、全てを抱えて前に進めたかもしれない。ただ残念なことに、それなりに大人な俺は、俺自身がそんなに上手くやれる器じゃないってわかっている。

それは悔しくて悔しくて悔しい。下手すると泣く。いい歳して泣いてしまう。だから俺の答えは、ここまでにする。せめて、最後に朝霧の前では格好をつけたかった。

 

「……ずるいですね、プロデューサー」

「大人ってのは、そういう生き物なんだよ」

「自分の悪いところを大人全体の短所にするのは、人間としてどうなんです?」

 

 朝霧の批判は全くもってその通りで、それで俺を見限るなら、俺を嫌いになるなら、それでもよかった。全てを打ち明けた俺はある種開き直っていた。問題はこの封筒の中身であって、朝霧の将来への選択なのだ。

 

「まあ、プロデューサーがずるくって、いつもはズルズルお酒ばっかり飲んでふざけているのに、変なところだけ真面目なのは分かっています。そんなところも含めて、私はあなたを好きになったんですよ? それに――」

 

 俺の予想に反して、朝霧は俺を逃がしてはくれなかった。一瞬の溜めの後、朝霧は続けた。

 

「それにずるいのは、私も一緒です」

 

 朝霧は、苦笑いしながらそう言った。冷たい風が、一度強く吹き抜けた。

 

「プロデューサー。封筒、開いてください」

 

 許しを得て、俺は封筒を開く。その中には丁寧にクリアファイルに収納された書類が入っていた。そしてその予想外の書類のタイトルを、俺は読み上げる。

 

「……業務、委託契約書?」

 

 『朝霧春子(以下、「甲」という。)及び   (以下、「乙」という。)は、乙が行う甲の芸能活動のプロデュースに関して以下の通り、契約を締結する。(以下、「本契約」という。)』

なんて書き出しの契約書が封筒の中には入っていた。空欄には、俺の名前を記入する形式になっているし、その書き出しの後にもつらつらと条項が続く。一体、これはどういうことなのか。

 

「私はステージが好きで、歌が好きで、ダンスが好きです。どれかに飛びぬけた才能はないかもしれません。それでも、アイドル科の皆、ファンの皆、裏方の皆さん……そしてプロデューサー。皆で作るステージがやっぱり好きです。だから、アイドルを続けます」

 

 朝霧の声には迷いがなくて、芯があった。

 

「ただ、私がアイドルでいる限り、あなたと一緒にはなれません。プロデューサーは変なところで真面目ですし、決して私を受け入れてくれない。さらに困ったことに、あなたの周りには、魅力的な女の子がたくさんいるでしょう? プロデューサーのそばを離れてアイドルを続けても、きっといつか私はあなたの過去になってしまう。八方ふさがりです」

「んなことは」

「ありますよ、プロデューサーは自分のすぐ近くで困っている人間を放ってはおけないです。それに自分が思っている以上に、ずっと魅力的なんですから」

 

 さらに否定を重ねようとしたけれど、やめた。その否定は朝霧相手には、朝霧にだけは意味がないかもしれない。

 

「だから、お互いに満足するまで、行けるところまでアイドルを辞めずに、アイドルとしてあなたのそばに居続ける。そして、アイドルとしての私たちのゴールにたどり着いたら、また一緒に『答え合わせ』をしましょう?」

 

 朝霧の答えは、言うなれば俺の気持ちを、答えを先読みした、変な信用に基づく結論の先送り。もしかすると、未来の俺が出す回答まで朝霧は読み切っているのかもしれない。なんて女だ。

 

「これが、私の答えです」

 

立場上素直に彼女の気持ちに応えるわけにはいかない俺に、この場の逃げ道を与えてくれる、実に冴えたやり方だった。こんなものずるい、ずるいとしか言いようがない。

 

「……お前、これ、俺が『アイドルなんてやめろ』とか、『恋愛感情なんてない』なんて言ってたら、どうするつもりだったんだ?」

「そうですね、プロデューサーが封筒の中見を見る前に、奪い取って燃やしていたかもしれません。でも、そんなことにはならないって、信じてました。プロデューサーがアイドルとしての私も、あなたのそばにいるただの朝霧春子も、どちらも両方求めてくれていること。そして、それを正直に言ってくれること」

「……ははは、何だよそれ……凄すぎんだろ」

 

 もしかすると朝霧は、俺より俺のことを分かっているのかもしれない。愉快だ、非常に愉快だった。

 

「なあ、こんなんいつの間に準備してたんだ?」

「母からプロデューサーが何をしていたのか聞いてから、ここ数日の間です。渡すかどうかは、ステージが終わるまで決めていませんでしたけど」

 

なんという仕事の速さだ。事務全般を手伝ってもらっていたことで得た、女子高生としては完全に余計な知識とスキルが目一杯活かされている。このままサインするのも悔しいので、俺はささやかな抵抗をしてみる。

 

「……あー、その、俺、副業は学院の就業規則でだなあ」

「うちの学院の就業規則では禁止されてないですし、この契約書は理事長にも見てもらっています」

 

 抵抗の試みは、あっさりと潰された。まさか理事長まで巻き込んでいるとは。

 

「こんなの隠してるなんて、お前俺よりよっぽどずるいだろ」

「あら? これも全部、あなたに教わったことですよ? あらかじめ相手の心をどうしようもないくらい奪っておいて、水面下でコソコソ動いて実質選択肢を奪って……最後の最後は自分で選ばせる。それで逃げ道をふさぐ。本当、悪辣なやり方です」

「俺は別に、そんなつもりでやってたわけじゃない」

「あら、そうだったんですか? でも無意識でやってたなら、より性質が悪くないかしら?」

 

 彼女に黙って両親の説得をしたことの意趣返しということだろうか。本当に、してやられた。

 

「ねえプロデューサー。もう一度、あなたの答えを聞かせてください」

 

 

 ああ、もしかすると俺は一生朝霧春子に勝てないのかもしれない。最悪だ。

 でも、更に最悪なことに、それでもいいと俺は感じていた。こんなに気持ちよく負けられるなら、それでいい。

 

 一度ため息をつく。口から出た白い煙が、踊りながら黒い夜空に昇って、消えていくのを眺めた。朝霧にとっての十八歳の冬だけでなく、中年に片足を突っ込んだ俺の今年の冬も、人生において特別な季節になっていた。まったく、担当アイドルに、どうしようもなく惚れてしまっている女にここまでさせるなんて、本当に俺は最悪だ。

 

「これで、いいか?」

 

 覚悟を決め、内容もろくに確認せずに朝霧が持参した契約書にサインする。

 

「はい。あ、こっちにも一緒にサインをお願いします」

 

 見落としていたが、もう一通あったか。そちらもろくに内容を確かめずに名前と生年月日と住所と本籍地を記載する。

 これからのことは、もっと先に考えよう。朝霧がアイドルとしての頂点に立って、成人して、障害が可能な限り消えたころに。その時になら、俺はこんな風に見せかけの悪態をつかずに、彼女との道を選べるかもしれない。

 

「ふふっ、さっきプロデューサーのこと信じてたって言いましたけど、本当はすっごく緊張してましたし、不安でした。今までに立ったどんなステージよりもずっと緊張して……寒さなんて感じてる余裕なかったんですから。今でも、ドキドキして、ポカポカしてよく分かりません」

 

 そう言う朝霧の笑顔は、今までの意味深なものではなくって、今日一番に明るかった。十八歳の年齢なりの笑顔だ。まあ、俺に仕掛けた罠は十八歳とは思えないほど周到に準備されたものだったけれど。

 

「ありがとうございます、プロデューサー、これからも一緒です。アイドルとしてゴールするまで、そしてそれからもずっと一緒に」

 

 俺から受け取った書類を大事そうに胸に抱えて、朝霧はそう言った。

 

「……おいおい、俺がサインしたのは、業務委託契約書だけだぞ」

 

 まったく、気が早い。朝霧はこの先の回答まで得た気になっているのかもしれない。それも仕方がないか。どんなに大人びていても、朝霧だって十八歳の少女だ。そのあたりは、大人として軽くたしなめてやらないと――。

 

「うふふふっ、プロデューサー、最後に自分がサインした紙、よく見てください」

 

 朝霧が差し出した三枚目にサインした紙は、よく見ると名前の記載欄だけくりぬかれていて、俺の名前や住所、本籍地等の情報は下にある別の紙に記入されていた。

急に、嫌な予感がした。俺は恐る恐る上の紙をめくって自分の名前が記載された紙の内容を確かめる。

 

「こ、こここっ! こっこここここんい! こん、えぇえっ?」

 

 業務提携契約書なんかよりも、はるかに衝撃的な題号の書類がそこには隠されていて、上手く言葉を発せなくなってしまった。

そこにはただ俺の名前や住所等が記入されているだけではない。その隣、「妻になる人」の欄にも、朝霧の手書きで同じ情報がバッチリ記入済みであった。

 

「はいっ、役所に出すのはまだずっと先ですが、こちらは私の方でお預かりしておきますね」

「いやいや、いやっ、それは、お前、流石に」

「プロデューサー、私に『自分の人生を賭ける』っていうのは嘘だったんですか?」

「いやいや! それは言葉の意味が違うっていうかだな」

「……ダメ、ですか?」

 

 その上目遣いに、やはり俺は逆らえず、言葉に詰まる。いや、でもここは言葉に詰まってはいけないだろうが。負けるな、俺。

 

「それじゃあ行きましょうか、プロデューサー」

 

 自問自答する俺から問題の用紙を奪い取り、朝霧はスキップで歩き出す。

 

「あっ、おい、紙返せ!」

「いーやでーすっ」

「結婚詐欺だ!」

「それ絶対意味間違えてますよー」

 

 俺を避けて駆け出す朝霧の足取りは、まるでステージ上でのステップのように軽やかで、笑顔も途方もなく輝いていた。観客は俺以外には一人もいないのに、照明はまばらな街灯だけなのに、朝霧はつい数時間前のステージと同じくらい輝いていた。

 その姿が眩しくて、全く洒落にならない嵌められ方をしたというのに、俺の心は正直に言うと弾んでいた。畜生、朝霧春子はやっぱり人類の夢で、女神だ。

 

「ねえ、明日もし晴れたら、二人で青い海が見える場所でも行きましょうか」

「……この天気だと、明日は曇りで風が強くて、最悪の灰色の海だぞ」

「二人一緒なら、きっとどこに行こうと、何があろうと、最高ですよ。……あ、ほら見てくださいプロデューサー。雪です」

 

 朝霧の言葉に、俺は空を見上げた。彼女の言う通り、ひらひらと、細かい雪が空から舞い降りていた。

 

「うふふっ、凄いですねプロデューサー、全部夢みたいです。願いが叶って、本当に雪まで降るなんて」

 

 朝霧は天から舞い降りる雪に両手を広げて、その場でクルクルと回った。

 この世の全ては物語のように上手くいくわけなんかないと、俺はそう思っている。この程度の雪が街に積もるわけはないし、じきにこの雪は止むから、ホワイトクリスマスなんて都合のいいものはやってきてくれない。

 

 でもしかし、確かにこの場面で雪は降った。一面が白く染まるクリスマスなんていう完璧なロマンチックは訪れないだろうけど、まるで世界に祝福されているかのように雪は降った。そして、今この瞬間、雪とともに踊る朝霧は間違いなく、奇跡のように美しい。

 世界は俺たちの期待したように動いてはくれないけれど、それでも少しは信じていいのかもしれない。

少なくとも、俺のことを、俺のずるい部分まで含めて信じてくれる朝霧のことだけは、信じていこうと思う。そして、彼女の信頼を裏切らないようにありたいと、強くそう思う。

 

 想い描くこれからの日々に心は弾む。まずは足掛かりに、メロディアスライブのファイナルステージを優勝してやる。そこはもう世界が上手く期待通りに行くかなんて関係ない。実力で黙らせてやる。明日からも、日々レッスンだ。

 

「さあ帰ろう、朝霧、皆が待ってる」

 

 朝霧に向かって、手を差し出す。この手の意味は、今は彼女が凍結した路面で転ばないようにするため。

 

「はい、帰りましょう、プロデューサー」

 

 それでもいつかは、この意味を変えられるように、俺たちは一緒に歩いていく。

 

 いつかの答え合わせまで。そして、願わくばその答え合わせが終わってからも、ずっと。

 

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