その辺を歩いていた令嬢を監禁してみた 作:るら
ー雪音。雪音ちゃん。
顔を上げると、母親の顔があった。雪音と同じ、真っ黒な髪を腰まで伸ばし、白い着物を着ていた。雪音はくすりと笑いかける母親を見て、目をみはった。
「どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
「……ううん、何でもない」
周りを見回すと辺りは真っ白で、足の裏に伝わってくる冷気から、雪が積もっているのだなと理解することができた。そしてどんよりと曇った空からちらちらと降ってくる雪だけで、地平線の向こうには何もない。この世界には、雪音と母しかいないのだ。
「最近、学校はどう?」
「…………行ってない」
「駄目じゃない。ちゃんと行かないとお母さん怒るわよ」
雪音は黙って頷いた。すると母は「学校に行く約束よ」と、小指を出してきた。そして雪音の小指を絡ませると、勢いよく振って、歌うように言った。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切ったっ!」
ぱっ、と指を離すと、母はにこりと笑った。
「これで約束よ。破ったら駄目」
雪音は子ども扱いされるのに少しむっとしたが、それも仕方ない事だと思った。そして、答えの分かり切っている問いを、母に投げかけた。
「お母さん。ここはどこ?」
それを聞いた母は不思議そうな顔をして、首をかしげた。
「……何でそんなことを訊くの? あなたなら分かるでしょう? 私の賢い雪音なら」
「……うん」
これは夢だ。雪音は最初から気付いていた。現実での雪音は今頃高熱に浮かされて意識を失っているはずだ。だからここは、雪音の思い出が作った空間に過ぎない。
そして雪音がそれに気づいたのは、周りの景色が普通ではありえないからーではなく、母親が目の前にいるからだった。
母は数年前に、病気で死んでいる。
「……そうね。今話している私は、あなたの思い出の中の私よ。本物の私じゃない……」
目を伏せて、母は悲し気に呟いた。
「お母さん。なんで死んだの?」
母が生きていたころは肝丘もそれほどちょっかいをかけてこなかったし、父親が無関心でも心の支えがあった。しかし母が死んでからはスケジュールに押しつぶされそうになりながら、壊れないように、用意されたレールから外れないように生きるだけだったのだ。
「……何でって言われても、私はあなたが分かること以上のことは答えられないのよ」
所詮は、この母の姿も雪音の心が生んだ幻影なのだ。雪音の知識と思考可能な範囲を超えることはできない。
「……でもね、私は雪音が気づいてないことなら知ってるのよ」
「気づいてないこと?」
雪音が訊き返した時、雪音の名を呼ぶ声が、どこからか聞こえてきた。空からでも、この地平線の彼方からでもない。ただ必死に呼ぶ声が大きくなってくるのだけが、はっきりと分かった。
「………そろそろあなたは帰らないとね。だから最後に、1つだけ教えてあげる」
母の姿が、歪んだ。母だけでない。世界も、雪音自身の身体も、全てのものの境目が無くなって、無へと帰そうとしていた。意識がぷっつりと途切れる直前、母の声が聞こえてきた。
「あなたの近くにいる人は、絶対にあなたを支えてくれる」
「………雪音! 雪音!」
うっすらと目を開けると、見知らぬ男が雪音の肩を掴んで揺さぶっていた。急に目に飛び込んできた光で顔は見えなかったが、声は、いつも聞く犯人の声だった。
「あー、あんた、患者をそんなに揺さぶらんでくれるか。脳震盪を起こすかもしれん」
「黙れヤブ! じゃあさっさと雪音の意識を取り戻してくれ!」
「ヤブとはなんだヤブとは! だいたいあんたがこうなるまで放っておいたから……」
男と罵り合っていた医者が、ふと口をつぐみ、雪音を見る。しわくちゃの手をぷるぷると震わせながら、雪音を指さした。
「……おい、目を開けとるぞ!」
「何⁉ おい、雪音、聞こえるか!」
雪音が何とか頷くと、男は安堵の息をついた。
「運んで来たら意識が無いから……どうしようかと思った」
雪音は仰向けに寝かされており、照明の逆光になって男ー犯人の顔は見えなかったが、彼は本気で雪音のことを心配しているようだった。
(私の近くにいる人……ね)
そういえば、母が死んでから、心配されるということが1度も無かったような気がする。父親はもちろん、肝丘はそんなことは考えていないだろうし、氷目も雪音のことを気にかけている様子は無かった。
そんな中で彼が雪音の心配をしているという事実が、雪音の凍った心を少し溶かし、温めたーような気がした。
俺が雪音を連れてきたのは、こぢんまりとした診療所だった。今は雪音を別室で寝かした状態で、老医師に雪音の状態を聞いていた。
「解熱剤を飲ませたから、しばらくは大丈夫だ」
「ありがとうございます。……あと、ヤブなんて言ってすみませんでした」
「まあ最初はわしの若い頃のあだ名、なんで知ってんだってびっくりしたけどな」
マジでヤブだったのかよ、と思わないでもなかったが、雪音の熱を下げてくれたし、処置はまともだったので、この際は何も言うまい。医師は話し続ける。
「原因はただの風邪だろうな。あの子が落ち着いたら帰ってもらって結構だ」
「薬とかは貰えるんですか?」
「まあ抗生物質を少し出しとこう」
医師はさらさらと何か書きつけていた。おそらく処方箋だろう。
「あ、どうも」
俺がお礼を言うと、医師は「ところで」と、言って、こちらを見た。
「……あの子の顔。どっかで見たような気がするんだよな……」
「……気のせいでしょう」
普通、ニュースで行方不明の人間の写真を見ても、覚えていることはまれである。表面上は心配そうにしても。自分にとっては関係ないという心理が流れているので、すぐに忘却の彼方に消え去ってしまう。だからこそ雪音を病院に連れてくる決心をすることができたのだがー
(このジイさん、伊達に医者やってないな)
このまま雪音のことを思い出されでもしたら厄介だ。俺はこの病院に入る前に怪しまれないようマスクとサングラスを外しているので今は素顔をさらして話しているのだが、ここから足がつくかもしれない。
「うーん、何だったかなー。頑張れば思い出せそうなんだが」
医師は首を捻りながらうんうんと唸った。頑張らなくていいからさっさと仕事に戻ってくれないか、と少しいらいらしながら見ていると、「思い出した!」と言い、手のひらをぱんと叩いた。
「アレだ! 誘拐されたって話!」
心臓に杭を打ち込まれたような感覚が俺を襲った。じっとりと背中から嫌な汗がにじみ、喉がからからになる。それでも俺は表面上は呆れたような顔をして、否定した。
「……冗談はやめてくださいよ。似てるってだけですよね」
「いや、誘拐された娘の名前も雪音というだろ? 同一人物じゃないか」
万事休すか。あの時は焦っていて本名で呼んでいたが、迂闊だった。何か偽名を作っていればよかった。
「いや、いや、いや、面白いことになった!」
医師は興奮し、携帯電話を取りだした。まずい、警察を呼ぶ気だー
俺は立ち上がり、医師の携帯を奪うために飛び掛かろうとした。その時ー
ばん、と勢いよく後ろの扉が開く音がした。俺と医師が驚いてそちらを見ると、そこにいたのは栗色の髪を束ねた黒スーツの女性ー氷目だった。氷目は俺と医師がつかみ合いをしようとしているのを見て、何が起きたのかを了解したらしかった。そして、医師の方へ目を向けると、静かに言った。
「まずは1つ……ここで知ったことは決して口外しないでくださいね?」
俺は横になっている雪音を後部座席に運び込むと、服に少しついた雪を払って氷目の車に同乗した。時計を見ると、針はすでに0時を回っていた。俺は自動販売機で買ったお茶のペットボトルの蓋を回しながら、氷目に訊いた。
「……あのジイさん、何でお前の言うことに従ったわけ?」
氷目が来ると、医師は興奮が嘘のように冷め、ただ氷目の言うことに頷くことしかできなかった。それで俺のピンチも切り抜けることができたのだが、その理由は何故なのだろうか。
「あの人はギャンブル狂でしてね。所有権が人の手から人の手に渡って、今現在あの診療所は如月家が差し押さえてるんです。管理は私に委託されてるんですけど」
つまりあの医師は氷目に命綱を握られている状態なのだ。俺はよく知らないが、診療所が無くなればあの老齢ですぐに他の病院に就職することは難しいだろう。
「……なるほどね。で、何で俺と雪音があそこにいると分かったんだ?」
「ちょっとあることで連絡したくて電話したんですが、あなたが出なかったので家まで行きました。そのあとピッキングで入ってあなたのパソコンを調べたら、履歴にこの辺の病院が出ていたので、ここに来た次第です」
さらりと言うが、家宅侵入について全く罪の意識が無い。これだからストーカーは……と俺が呆れていると、氷目は運転しながら、ため息をついた。
「だいたい、あなたが電話に出ないからわざわざ家まで行かないと行けなかったんです。どうして何も言わずに自分で雪音様を病院に連れて行ったんですか。あなたが捕まったら私も困るんですよ」
「……仕方ないだろ。こっちが電話したときに出ないんだから。20時ごろにかけたんだが、何かしてたのか?」
そう言うと、氷目は「そうだ」と呟くと、何か重大なことを思い出したように唇をきっと引き締めた。
「……はい。私があなたと連絡を取ろうとしたのもそのためなんですが……三須という人を知っていますよね? あなたの職場に入って来た新人だと思うんですけど」
「どこまで調べてるんだ? 気持ち悪いんだが」
「私は肝丘様一筋ですので気にしないで結構です。それより三須という人を知っていますよね?」
「……まあな」
三須は新しく入って来た高卒の新人で、仕事ぶりも真面目な気のいい男である。天然パーマ、無害そうな柔和な顔をしているせいか、動物園を訪れる子供にはウケがいい。以前などモンキーコール(サルの物まねをせがまれること)をされていた。
「その三須さんがうちで雇ってる探偵って、知ってました?」
俺は、飲んでいた緑茶を吹き出しそうになった。あいつが、探偵だったって? 幼稚園児の「モンキーコール」で引っ込みがつかなくなってフェンスをよじ登ろうとして落下し、尾てい骨を折ったあいつが?
「……まじか」
「ええ、まじです」
氷目が重々しく頷いた後、彼女の唇は俺の恐れていた一言を紡ぎだした。
「しかもおそらく………彼はあなたが誘拐犯であることを勘づきました」