アズカバンは北海に存在する魔法使いの監獄である。
歴史は古く、15世紀になる頃から島の砦としてアズカバンは存在している。初めは監獄ではなく闇の魔法使いエクリズディスの住処であった。
孤島で一人きりだった狂人エクリズディスはマグルの船乗りたちをおびき寄せては己の快楽の為に拷問して殺していたという。
この島の全貌が明らかになったのは、彼が死んで隠蔽の呪文が解除された後のことだ。
魔法省から派遣された調査団はあまりのおぞましさに言葉を失った。
島には吸魂鬼が溢れていたが、それは彼らが目撃したものの中で一番恐ろしくないものだった。
しばらくアズカバンは放置された。
しかし1718年に魔法大臣に就任したダモクレス・ロウルが吸魂鬼を使えば『時間、トラブル、コスト』の削減に繋がると考えたことから、アズカバンを監獄として使う計画が推し進められ、実現された。
エルドリッチ・ディゴリーを初めとする何人かの魔法大臣はアズカバンの廃止を求めたが、“脱獄者ゼロ”という完璧な実績によりアズカバンの非人道性は無視された。
こうして最悪の監獄アズカバンは現在にまで残り、運用されているのである。
アズカバンにはクリスマスもイースターもない。
吸魂鬼がイースターのエッグをマントの中に隠したりサンタの赤い帽子を被ったりしてくれたら、ここでの生活はもう少し楽しくなるかもしれないが、そんなアズカバンはもはやアズカバンと言えないだろう。
ここではただ春には少しばかり寒さが和らぎ、冬には凍えるような寒さが孤島を支配するだけだ。建物の壁という壁には不幸と苦痛が染み付いていて、夜には狂った囚人たちの叫び声が聞こえてくる。
叫び声も慣れれば鳥のさえずりのように感じられるものだ。
アズカバンの最上階に閉じ込められたシリウス・ブラックはそんなことを考えていた。
ここでは時間の感覚も定かではなくなる。しかし無為な長い月日が流れたことだけは確信できる。
初めはまともだった人が段々と狂い、絶望の内に死にゆく姿を何度も見た。きっといずれは自分もそうなるのだろう。
結局のところ、彼が死んでしまった以上、何をしようと、全て手遅れなのだ。
*
「らーららーらー♪ こーのよーるー♪」
ハリーは寝室で朝日を眺めながらクリスマスソングを歌っていた。子役にとって可愛らしく歌を歌うのは朝飯前だ。
明日はいよいよクリスマス。ハリーはクリスマスのご馳走が楽しみだった。
それだけではない。ロンから、チャーリーが助かったとの報せが届いたのだ。だからハリーは上機嫌だった。
それからハリーは庭に出て、ひとりで雪だるま作りをした。
「やあハリー! ぼくスノーマン!」
「ハロースノーマン! 寒くないの?」
「ぼくのからだはゆきでできてるんだ。だからさむくないんだよ!」
「へー! そりゃすごいや!」
ハリーはしばらく一人二役雪だるまごっこをしていたが、アホらしくなってやめた。
そんな日の午後、ハリーの元に手紙が送られてきた。ダンブルドア先生からだった。夜の7時に校長室に来て欲しいという言葉とともに校長室の合言葉が書かれていた。
五分前にハリーは校長室の前に着き、そして時間ぴったりにドアをノックした。ダンブルドアはすぐに開けてくれた。
「よく来てくれた、ハリー」
校長室は巨大な望遠鏡のような物や、銀細工の模型で溢れていた。壁には歴代の校長の肖像画も掛けられている。
「突然じゃが、明日の午後3時からシリウス・ブラックとの面談が許可された」
ハリーが席に着いたところで、ダンブルドアが出し抜けに言った。
「……ありがとうございます」
「しかし話すことはできん」
「どういうことですか?」
「鉄格子越しに対面するだけということじゃ。何度も説得を試みたのじゃが、ファッジ大臣は予想以上に頑固での」
「……いえ、わざわざありがとうございます。こんなに早くして下さって」
「うむ。明日の昼はクリスマスパーティーじゃから、それが終わったら再び校長室に来て欲しい。いいかね?」
「はい」
「それと、きみに渡したいものがある……」
ダンブルドアは引き出しを開けて、銀色の布を取り出した。
「これは透明マントという品じゃ。きみのお父様が亡くなる前にわしに預けてくれたのじゃが、ついに返せなくなってしもうた。しかし息子であるきみに返す時が来たようじゃ」
「これ、父さんの持ち物だったのですか?」
「そうじゃ」
ハリーはマントを受け取った。水のようにサラサラしている。羽織ってみると体が完全に透明になった。
「うわぁ……すごいです! ありがとうございます、ダンブルドア先生!」
ハリーは感動した。ダンブルドアは嬉しそうに頷いた。
*
一方その頃、ロンはルーマニアの魔法病院にいた。天井付近にしゃぼん玉のような見た目の灯りがたくさん浮かんでいて、リラックスできる空間が広がっている。
ベッドで寝ているのは兄のチャーリーだ。
「寒くない? お腹は空いてる? 喉は乾いてないかしら? 痛いところはある?」
母のモリーはチャーリーの額を撫でながら尋ねる。
「3分ごとに聞かなくても大丈夫だよ、ママ」
包帯でぐるぐる巻きのチャーリーは笑顔で言った。
チャーリーは去年ホグワーツを卒業し、ルーマニアに渡ってドラゴンを研究していた。
しかし先日、特殊な檻の中に入ってドラゴンの営巣地を観察していた時に、予兆なく檻が壊れてしまい、そこにたまたま帰ってきたドラゴンに踏まれ、炎を浴びせられたのだ。
色々な不運によって起こった事故のせいで、チャーリーは一時生死をさまよった。
「怪我が治るまでずっとこの病院にいるの?」
ロンは聞いた。
「うーん迷ってるんだ。ひとまず今はまだ傷が全然塞がってなくて歩くこともできないからこの病院にいるつもりだよ。それにドラゴンの治療はルーマニアの方が進んでるからね」
「でもあたし心配だわ。ポートキーで聖マンゴに行けないの?」
末っ子のジニーがチャーリーのベッドの端に腰かけた。
「ポートキーはぐるんぐるん振り回されるから危険なんだ。小型船を出してもらって魔法で海を渡ることはできるけど、手続きが大変な上にコストが高いんだ」
チャーリーは首だけ動かしてジニーの方を見た。
「それより、ドラゴンキーパーがこんな危ない仕事だなんて聞いてなかったぞ」
フレッドが怒った。フレッドは奔放な兄のチャーリーが大好きだった。
「そりゃ野生の魔法生物を相手にするから、多少の危険はあるよ」
チャーリーはあっけらかんに笑い、イタッと悲鳴をあげた。骨に響くらしい。
「多少ですって!? こんな大怪我するなんて、き、聞いてないわ!」
モリーはわっとチャーリーの腕に抱きついた。
「ごめんねママ、心配かけて」
「もう、お願いだから危険なことはしないでちょうだい。わたしの心臓が持たないわ。あなたが危険な状態だと知って、どんなに心配したことか……」
「退院したらどうするつもり?」
長髪ポニーテールのイケてる長男ビルが聞いた。
「んー、そうだな。もちろんドラゴンキーパーの仕事に戻るよ」
「え!?!?」
「これぐらいの怪我なんてことないさ。むしろ、ドラゴンの炎を浴びて、ますますドラゴンのことが好きになった気がするよ! あの全てを焼くような熱い炎、やっぱドラゴンは最高だ!」
この日、ルーマニアの病院の一室に悲鳴が響いた。
*
クリスマスの朝、目を覚ましたハリーは驚いた。足元に沢山のプレゼントが置かれていた。クリスマスプレゼントだ!
「やったーやったー!」
ハリーは片っ端からプレゼントを開けた。ロンからはルーマニアの魔法のポット(足が生えていて歩ける)、ハーマイオニーからは大きなカエルチョコレート、そしてダーズリー一家からは子役ハリー宛のプレゼントの一部がそのまま送られてきた。
その日のクリスマスパーティーは最高だった。大広間には飾り付けられた巨大なもみの木があって、滅多に見ないご馳走がテーブルに並んでいた。
クラッカーには魔法グッズが入っていて、ハリーはとんがり帽子と魔法のチェス、破裂しない光る風船、“簡単!イボつくりキット”をゲットした。
ハッフルパフの少年としばらく談笑してから、ハリーは戦利品を置きに寝室に戻った。
午後三時少し前、ハリーはホグワーツの制服を着て、マントを羽織って談話室を出た。私服で行くことも考えたが、もしかしたら魔法省の偉い人に会うかもしれないし、しっかりした格好の方がいいかなと考えたのだ。
校長室ではダンブルドア先生が待っていた。灰色の長いローブを着ている。
「アズカバンには吸魂鬼という魔法生物がいて、人間の最悪の記憶を呼び起こさせてくる。何体もの守護霊が君を守ってくれるが、もしものためにチョコレートを持って行った方がいいじゃろう」
ダンブルドアは金色の包み紙のチョコを渡した。
「はい」
ハリーはそれをローブのポケットに入れた。
「これからの予定じゃが、まず始めに魔法省の法執行部に向かう。アズカバンを管理している省じゃ。そこでアズカバンに行った際の注意事項などをお話しして頂けるじゃろう。それから、魔法がかけられた船に乗ってアズカバンに向かう。恐らく30分ほどで着くとのことじゃ」
「船で行くんですか?」
「脱走防止の為に姿くらましや移動キーなどの瞬間移動系の魔法が全て使えないようになっておるのじゃ──さて、そろそろ行こうか、ハリー」
「はい」
ダンブルドアは暖炉に近づき、嗅ぎタバコ入れのような銀色の箱を手に持った。
「これはブルーパウダーというものじゃ。暖炉の火にこの粉を振りかけて、炎の中に入って行き先を行くとそこの暖炉に瞬時に移動できる。灰を吸い込まないように暖炉の外でしっかりと息を吸ってから、滑舌よく行き場──『魔法省!』と言うのがコツじゃ」
「はい、わかりました」
ダンブルドアはハリーに箱を差し出した。ハリーは粉をひとつまみ取って、暖炉に入れた。ボッと火が燃えて、緑色の炎になった。
「熱くないですか?」
「暖かくて心地よい炎じゃ」
ハリーは息を大きく吸ってから恐る恐る炎に足を踏み入れた。
暖かい炎が全身をくすぐった。
「魔法省!」
ハリーは子役のレッスンで鍛えた完璧な滑舌で発音した。
まるでブラックホールに吸い込まれて行くような感覚だった。高速で回転していて、耳が聞こえなくなりそうな轟音が鳴り響く。
水の中にいるような感じがしたかと思えば、冷たい風が頬を打つ感覚に変わった。
その感覚は不意に終わった。
ハリーが目を開けると、豪華なホールが広がっていた。ここが魔法省なのだろうか。
ハリーはとりあえず暖炉から出た。
ピーコックブルーの天井には金色に輝く記号が並んでいて、それらは絶え間なく動き変化していた。
両側の壁は黒い木で覆われていて、ピカピカに磨き上げられている。
そしてホールの中央には大きく荘厳な噴水があって、その真ん中に黄金の立像が並んでいた。魔法使いの像を囲むように魔女、ケンタウルス、ゴブリン、気持ち悪い小人の妖精の像が立っていて、魔法使いと魔女を崇めるように見上げている。
「その像が気になったのかね?」
いつのまにかダンブルドアが隣に立っていた。
「あの像はなんですか?」
「あれは屋敷しもべ妖精じゃ。魔法使いの家に仕えて、身の回りの家事をしてくれる魔法生物じゃな。ホグワーツの料理を作っているのも彼らじゃ」
「そうだったんですか。知らなかったです」
それからハリーとダンブルドアは二階の魔法法執行部の闇払い本部に向かった。
闇払い本部に行くと、すぐに背の高い黒人の魔法使いがやってきた。
「ああ、待っておりました。ダンブルドア先生に、ポッターさん」
ハリーはその人と握手した。大きな温かい手だった。
「わたしが今回闇払いとして護衛させてもらうことになったキングズリー・シャックルボルトです。これ以外にも警察部隊から何人か護衛を出して万全の守りをしますので、安心してください」
「ありがとうございます、僕のためにそこまでしてくださるなんて」
「生き残った男の子がアズカバンで事故に遭ったら大変ですからね。それにしてもあなたは勇敢な少年です、本当に……」
それから魔法大臣まで現れ、ハリーに賞賛の言葉をかけてくれた。そういえば自分は魔法界でも有名だったのだとハリーは思い出した。
ハリーはボートに乗って冷たい海を北上していた。ボートは凄まじいスピードで水の上を滑るように走っていたが、風はキングズリーの魔法で遮られていて感じなかった。
ハリーは前にキングズリー、後ろにダンブルドアとがっちりガードされている。
北に行くにつれて寒さが増し、ハリーはマントをきつく握りしめた。
「あれは……」
巨大な灰色の監獄が海上にそびえ立っていた。その周りには黒い頭巾を被った不気味な吸魂鬼が無数に漂っていた。
「大丈夫じゃ、守護霊がいるから攻撃してくることはない」
ダンブルドアが優しく囁いた。
ハリーは衝撃を受けた。あの光景は絶望と凋落そのものだった。あんな所で生きていられる気がしない。
あの監獄に収監されている人がいるということをハリーは信じられなかった。
監獄に近づくにつれて恐怖は増した。ダンブルドアはそっとハリーの肩に手を当ててくれた。
ボートを岸につけ、アズカバンに到達した所で、一人の吸魂鬼がこちらに向かって滑るように向かってきた。
ハリーはダンブルドアにくっついた。
「我々はシリウス・ブラックと面会に来た。希望者はハリー・ポッター。責任者は闇払いのキングズリー・シャックルボルトだ」
キングズリーが堂々と言って、ローブから金色の紋章のようなものを見せると、吸魂鬼はスルスル下がっていった。
「あの紋章にはユニコーンの魂が込められていましてね。随分昔に作られたものだろうとされているけど、まったく劣化する気配がない」
キングズリーは説明する。
「よし、わたしが初めに行って面会者が来ることを伝えてきますね」
キングズリーはヤマネコの守護霊を引き連れて囚人たちが収監されているゾーンへと歩いていった。
しばらくしてキングズリーが戻ってきた。
「さて、準備はできました。ポッターさん、もうダンブルドア先生からお聞きになったかもしれせんが、今回の面会は少々特殊です。ブラックの声はポッターさんには聞こえません。ただポッターさんの声はブラックに聞こえます。面会は鉄格子を挟んで対面する形で行われます。よろしいですか?」
「ブラックは僕が面会に来ていることを知っているのですか?」
「いえ、まだ誰が来ているのかは言っていませんよ」
「僕が姿を見せれば分かるものですか……僕がどんな立場なのか」
つまりジェームズとリリーの息子だと分かるのかということだ。
「ええ、分かると思いますよ……あなたはお父様によく似ていますから」
キングズリーが答えた。
沢山の守護霊に囲まれて、ハリーは歩いていた。左右の監獄にいる囚人たちは生気なくげっそりしている者が多くて、時折守護霊に気づいて亡者のように手を伸ばしてきた。
階が高くなるにつれてより罪の重い人たちになるらしい。独房が立ち並ぶ階になった所で、不意にダンブルドアが立ち止まった。
ダンブルドアが見ていたのは一番手前の監獄だった。金髪の50代ぐらいの男性が薄い毛布の上で横たわっていて、目は虚ろだった。
「……彼は『例のあの人』が失脚した時に捕まった死喰い人の一人ですね。スナイドです……どうなされました?」
キングズリーが心配そうに聞いた。
「ああ、すまなかった。アズカバンに来たのは久々だから少し昔のことを思い出したのじゃ」
ハリー達は再び歩き出した。
ブラックの独房は最上階の一番守りが強固な場所にあった。
「手前から4つ目がブラックの監獄です」
キングズリーが説明した。
そこは今までより一段と寒くて冷え冷えとしていた。凶悪な顔の囚人たちの視線がハリーに集まっていた。ハリーは一歩一歩監獄に近づいた。
ハリーは死に際の両親の思いを考えた。
ブラックさえいなければ両親はもっと生きてられたのだ。親の仇に対する怒りと憎しみが湧き出て、心臓が強く鼓動を打った。
自分と両親の運命を大きく狂わせる元凶となった人と再会するのは、とても勇気がいることだった。
ハリーは独房の前まで来て、顔を上げた。
ブラックは監獄の壁にもたれかかっていた。痩せ細った身体をしていて、目は落ち窪み、頬はげっそりやつれていた。髪も髭もボサボサで、往時の美貌は見る影もない。
「……ジェームズ…?」
監獄の外の少年の姿を目に捉え、ブラックは掠れた声で呟き、汚れた服の袖で目をこすった。
見慣れたくしゃくしゃの黒髪に丸眼鏡、独房の外には10年間ずっと会いたいと望んできた人物がいた。それは奇跡に思えた。
ブラックは信じられない思いで鉄格子の近くまで這いずり寄った。
──しかし少年は慄いて独房から一歩離れた。彼の瞳は綺麗な緑色だった。
「……ああ、ハリー、か。まだあの頃は赤ん坊だったのに、こんなに大きくなったのか……」
ブラックはほんの少しの失望を感じながらも、感慨深く愛おしそうにハリーを見た。
ハリーは立ちすくんだ。ブラックは口を動かして何か言っていた。
ハリーからは聞こえなかったけれど、それは罵っているようには見えなかったし、謝罪しているようでもなかった。ただ何かをぶつぶつ呟いていた。
彼が両親の仇だとは信じられなかった。ブラックはやつれ果てた姿で、どこか懐かしそうに、死んだ親友の写真を眺めるようにハリーを見つめていた。
この独房の中でブラックは孤独に死を迎える。
これが、自分の両親を裏切った男の末路だ。10年間の監獄生活はブラックから全てを奪い取った。
帰りのボートでハリーは一言も発さなかった。