名実ともに社会不適合者となった男の前に、魔女が現れる。

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尽くす系ニマド

 愛華新(まなか・あらた)は最近会社を辞めた。それは26歳の彼にとって、客観的に見て大きな決断だったと言える。

 仕事を辞めた理由は単純だった。彼にとって仕事はストレスでしかなく、そこに楽しみだとか、やりがいだとかいう物は、まったく見いだせなかった。だから辞めた。平たく言えばそれだけのことである。

 ところで、彼が仕事を辞めたことの中でも、「26歳で辞めた」ことには理由がある。さほど名のあるわけでもない大学から社会へと出たその時から何も変わらず、一貫して仕事というものを嫌悪していた彼が、なぜ26になるまではそれなりに真人間を演じ働いていたのか。そこにはばかばかしいほど単純な理由がある。

 石の上にも三年という言葉が、彼も小学生の頃に聞いた、誰でも知っているような諺が、彼にとってボーダーラインとなったのだ。要するに、どう数えても少なくとも三年という年月はクリアしたから、何の負い目もなく「やりきった」という気持ちで辞めてきた。それだけのことだ。

 彼に再就職の意思はない。バイトをする気もない。創作活動で夢か何かを追ってみたりする気もない。仕事に関わらない場所で人間関係を構築する気さえない。あらゆるストレスを呼ぶ行動を、放棄することが彼の望みだった。せいぜい自分一人分の家事全般が、彼の許容した最後の労働である。

 諺を頼りに嫌悪感の中を耐えて生きてみた彼は、その末に何も変わらない自分を知って、もはやほとほと希望を失った。ストレスを背負うことで得られる対価に価値を感じなくなってしまったのだ。

 美味い飯を食ったところで、それが労働の対価で本当に心の底から喜べるのか。面白いドラマやアニメを見たところで、それが労働の対価で本当に心の底から喜べるのか。発売を楽しみにしていたゲームを買い遊んだところで、友達とどこかへ出かけたり酒を飲んだりしたところで、仮に恋人でも出来たところで、セックスしたところで、それが労働の対価で本当に心の底から喜べるのか。実際の行動からもわかる通り、数年自問自答し続けた末に、彼が出した答えはノーだった。

 生きるためには働かなければならないこの社会において、自分はどうやら不適合者だ。不適合者なりに折り合いをつけてなんとか生きていくことは、まだ何とか自分にも出来そうだけれども。しかし「幸せになる」というのは、どうも自分には無理そうだ。

 夢があるわけでもなく、才能や特技を自覚したこともなく、これこそが自分の人生だと言えるような深い趣味もない。愛華アラタ。彼にとって「幸せになる」ための残された道は、いよいよストレスを取り除くという「消去法」しかないように、少なくとも本人には感じられたのである。

 しかしそれが幸せに繋がると、彼は、愛華新は本気で信じていた。いつかこんな日が来るだろうと危惧していた彼は、実際に無職となって、過去の自分がせっせと貯めたはした金を食いつぶし好き勝手に生きていく。いつまでもつか分からないそんな生活の始まりが、あるいは単純に会社を辞めてきたことが、彼をハイにしていたのかもしれない。消去法それこそが、否、それだけが正解なのだと、その時の彼は本気で信じていた。

 信じていた。好き勝手に生きる生活に、三日で飽きる、その時までは。一応は社会に出ることを数年耐えた彼にとって、それはあまりにも早い見切りであった。

 

 

 

 自堕落を選び取る生活に飽きを感じながらも、それ以外の生き方があるようにも思えない。もはや「自分は望んでこのような生活を送っている」という始まりの形すら、形骸化しようとしていたある日。転機は訪れた。

 夜中、安酒の入ったコンビニ袋を引っ提げて、彼が帰宅した時のことだ。

「おかえり」

 殺風景なのに狭苦しいワンルームの中に、彼に向かってほほ笑む少女の姿があった。部屋の主よりも下手すれば二ケタ年下であるように見える彼女は、アラタにとって全く知らない顔の、初対面の他人だ。

 泥棒、空き巣、あるいは強盗。「盗む」という行為に関連する、あらゆる犯罪的概念が彼の頭の中をかけめぐる。見知らぬ人間がいつの間にか自宅に侵入していた時の、至極まっとうな思考回路だった。

 しかし、彼にはもう、これといって失うものがなかった。「金目の物」なら大した物ではなくとも何なりとあるだろうが、しかしそれを失ったからといって大騒ぎするほどのことはない。取り返しのつかない物なんて、彼のまわりには何もなかった。

 苦しまずに済むのなら、いっそ今死んでもいいくらいだ。決して希死念慮があるわけではないけれど、悔いというのは希望の言い換えなのだとここ最近で知った彼は、常にそう考えている。その結果として彼は今、不審な女を前に冷静さを保つことのできる精神を手にしていた。

「ただいま」

 部屋の主であるはずの彼が侵入者を意に介さず、床に直接腰を下ろして、一人きりで使うことを前提としている小さなテーブルの上に酒を置き始めると、侵入者の側もそれなりに驚いたようだった。

「おどろかないの?」

「いや、驚いてる。誰?」

 少女はアラタの隣に座り込むと、ビニール袋の中にまだいくつか入っていた酒のうち一つを取り出し、当然のようにフタを開けて飲み始める。

「おい」

「私が誰だろうと、好きに呼んだらいいよ」

「いや、違う。そうじゃないだろ」

 転がり落ちる一方の人生を現在進行する彼にとっても、おそらくは未成年と見える少女の飲酒に対して、何も思わないわけではない。が、本題はそこではない。現在収入源が皆無な彼にとって、酒を取られることは見逃せたものではないけれども……そういうことでもない。どちらも無視できない問題ではあったけれども、それよりもっと重大なことがある。

「名前なんかどうでもいい。お前がどこの誰で、なんでここにいるのか。だろ?」

「なんでだと思う?」

 ちびちびと酒を飲みながら、こちらをからかうような受け答えをする少女。どう見積もっても高校生、下手すれば中学生にも見える彼女にそのような態度で出てこられて、それでひるんでしまうほど彼もお人好しじゃない。

「警察呼ぶぞ」

「いや、待ってよ。それは待って」

 警察という言葉が出た途端、少女はあからさまに慌て始めた。

「警察はよくない。私にとってじゃない、君にとってだ」

「わけわからないこと言ってないで、ここにいる理由を話せ。場合によってこっちの対応も変わる」

 対応が変わるというのは、早々に「出ていけ」と言えないのは、仮にこの少女と明確に敵対したなら、苦しまずに死ねるのなら今死んでもいいという考えの「苦しまずに」の部分を少女が与えてくれるわけがないという、彼の中に最後に残った怖気の理由もある。

 しかし何より、帰る家があるのかどうかも定かではないか弱い女性を、日の沈み切り暗くなった外へと放り出すことは、これもまた、他人のことなど知ったことかといった精神でストレスを拒否する彼に残った最後の良心が、ゴーサインを出してくれない。

「それと、未成年の癖に人の酒を勝手に飲むな。未成年じゃなくても人の酒は飲むな」

 主導権を握るためか、彼はアルコール9%と表記されている缶を少女から取り上げた。が、別段それを少女が気にする様子はなかった。

 ついでに重さから察すると、缶の中に残された酒はあと半分程度かと思われる。

「じゃあまずは私がここにいる理由からだけど」

 いやに偉そうな態度で、少女は言う。

「偶然見かけた君が、近いうちに死にそうな顔をしていたから。だから来てみました」

 自分が飲んでいた分の酒を一気に飲み干して、空き缶をテーブルに叩き付けながら、アラタも言う。

「次またわけのわからないことを言ったら、即、警察を呼ぶ」

「わかった、悪かった。本題から話そう」

 警察の一言にまたしてもあわてる少女が、何かを誤魔化すようにコンビニ袋の中にがさごそと手を突っ込む。そしてその中から、一本……二本……と続いて次々と、五本、六本、同じデザインの缶を取り出す。

 今度はさすがの彼も驚いた。部屋に見知らぬ少女がいた時よりもずっと目を丸くした。彼が買ってきた酒はせいぜい二本だ。どう考えたって五本や六本も買っちゃいない。七本……八本……と未だ取り出される続ける酒の缶を前に、彼は自分が心底驚いていることを自覚していった。

 手品を見て、タネを詮索せずに、純粋な心のまま驚きだけを感じたのはいつ振りだろう。彼はそう思った。

「はい。どう?」

「すごい」

「わかってくれた?」

 わかったかと聞かれて、ハッと我に返る。

 彼が「手品とお前とに何の関係があるんだ」と言いかけて、遮られる。彼よりも一瞬、少女の舌が回る方が早かった。

「そう、私は人間じゃない」

 テーブルの上を埋め尽くすように置かれた無数の缶が突然、重力から解放されたかのように、ふわっと宙を舞った。そして消える。炭酸の泡がはじけるみたいに勢いよく、レモンの柄が書かれた缶は、空中で跡形もなく消え去った。

 消え去ったのは缶だけで、中身の液体は重力を思い出して、テーブルの上に落ちてくる。ばちゃばちゃとぶちまけられた液体……しかしそれも消え去っていく。よくよく確認してみても、テーブルも床も、ほんの僅かたりとも濡れてはいない。

「魔女が君を助けに来た。……と言ったら、理解してもらえる?」

 あっけにとられる彼に、魔女を名乗る少女は付け足した。

「警察を呼ぼうって考えは捨ててもらえた?」

 返事は声にならず、沈黙をもって肯定とされた。

 

 

 

 仕事を辞めて、わずかな貯金を食いつぶすその男は、どうにも金銭的に立ち行かなくなったその時には、死ぬつもりでいた。

 わざわざ自ら死を選ばずとも、本当に冗談ではなく金がなくなれば、自動的に死の方からこちらへ来るだろうと思っていたし、仮にそうでなかったのなら、その時はその時の流れに身を任せればいいとも思っていた。

 要するに働くことの良くないところは、ストレスになることその物ではない。生きていく限り、ストレスを完全にシャットアウトすることは不可能である。それは彼にも理解できることだ。問題はそのストレスが、幸福を上回ってしまうことだろう。彼はそう考えている。だからこそ仕事を辞めてきた。

 いつか金がなくなり、働くか死ぬかの選択を迫られる時が来るのなら。その時は自分にとって労働のストレスが、幸福を下回ってくれているかもしれない。そう考えるからこそ、彼は心の赴くままに堕ちていく。

 そんな流れのままに身を任せる、そうすることしかできない今の彼には、目の前で起こったおよそあり得ない出来事の、真実かペテンかを疑う気力など、もはや残されていないのであった。

「ふーん。なるほどね」

 日付も変わろうかという時間帯。少女から「魔女とは何か」ということを解説されて、アラタはそれらの情報を全て鵜呑みにした。

 この世には魔女という種族がいる。その名の通りその種族は全員が女性であり、それぞれ固有の特殊な力を持っている。愛華新の前に現れた彼女の場合は「願いを叶える力」を持っているらしいが、その力の発動にはいくつか条件があるらしく、願いを叶えると言っても実際には「何でも叶える」というわけにはいかないらしい。

 また、魔女は全員が不死とはいかないまでも不老であり、さらに彼女は魔女の中でもそこそこ貴重な、事実上の不老不死であるのだという。そしてそんな彼女が、駅の周辺で偶然見かけた「近いうちに死にそうな顔をした男」、つまりは愛華新を見つけて、その人生を気の毒に思い駆け付けた……ということらしい。

「いや、ふーんなるほどねって、軽いなぁ」

 以上のことを説明された時の、常識を携える人間のリアクションとしてはあまりにも薄いその相槌に、数百年の時を生きてきたらしい彼女もあきれていた。

「逆にそれ以外どうリアクションしろと?」

「んー、いやまぁ大体の人間は「へぇーそうなんだ」って感じなんだけど、それは呆気にとられているというか、話半分に聞いているからなんだよね、明らかに。で、君はもう、完全に受け入れてるでしょ? そのくらいの違いは見てればわかるよ」

 少女の見立ては真実ずばりな見解であった。死んだ目をして「会社や学校」と「家」とを往復する人間が溢れかえる現代社会の中から、ひときわダメ人間の度合いが強いアラタを見定めただけのことはある。

「なるほど。……で? そんな魔女が俺に何の用で?」

「言ったでしょ。君を助けに来た。もっと言うと、君の願いを叶えることで、君を幸せにしに来た」

「なんで?」

 なぜ、というのは当然の疑問、というか警戒であった。願いを叶えるかわりに寿命をいただくなんて話は、悪魔や死神が登場するストーリーでありがちだ。天使と悪魔、そのどちらかに魔女をカテゴライズするなら、ほとんどの人が直感で悪魔の側にカウントするだろう。彼だってそう考えている。

「それは話すと長くなるんだけど、まず私は昔」

 しかし彼の警戒心というのは、「ほとんどの人」が持つそれとは違った。

「いや、長くなるならいい」

「何もない空間に封印されていた時期があって…………え? いいって言った?」

 自分語りをする気満々だった魔女は呆気にとられる。

「ああ、言った」

「え、あー……そう? わかった、じゃあ短くまとめるね」

 現在の愛華新はとにかくストレスを嫌う。長い話もまたストレスの一つであった。そしてそれとは別に、彼はとある持論を持っている。

 手元の宝くじの番号が、一等で一致した時。本当の本当に自分が一等に当選したのかを確かめる方法の内、最も手軽かつ確実な方法は、宝くじ屋にその券を持って行くことである。

 「疑うな、信じるな、行けばわかるさ。」という、それが彼の持論だ。ちなみにこれは一言で表せる。要するに、やってみれば分かるの精神だ。

 なので彼の結論としては、魔女が自分を食い物にしようとしているのか、反対に本気で救おうとしているのかなんてことは、疑うよりも身を任せ体験した方が早い……ということになる。そして人間の理解を超える力を持った生物を相手にするのならなおさら、疑おうと疑うまいと、最後には避けようもない事実が待っているだけだろう。

 つまりそう、金がなくなったらその時はその時だという彼の考え方は、自堕落な生活が自らの精神を犯してしまった末の物ではないのだ。彼は元々そういう人間であり、それが少し前まで真人間の顔をして一見真面目に働いていたのは、まったくただの擬態でしかないのである。

 しかし彼のこの手の、前のめりに下を向いて歩くような思考はやがて、実際に彼を辞職に導くに至った。やってみれば分かるの精神は擬態を助けたが、それも限界が来たのだ。そうする内に歪んだ彼は、やがてこの持論を変形させた。

 やってみれば分かる。だからもう、あれこれと考えるのはやめよう。そんな投げやりな彼の方針は、たとえ魔女を前にしたとしても変わらなかった。愛華新は、そんなことでは変わらない。変われないのだ。

「長い話をまとめて一言で言うなら、私は、君を助けたいから助けようとしている。そうしたいから、そうしている。それ以上でもそれ以下でもない」

「全然一言にまとまってないけどな」

「うるさいな」

 話にケチをつけられ続けていよいよ悪態をつく魔女だったが、実際のところはさして不機嫌そうでもない。むしろずっと彼女の機嫌は良い方に見える。

 逆にそこはかとなく不機嫌そうな雰囲気をかもし出し続けるアラタは、その上機嫌こそが魔女の、人ならざる上位種の余裕なのか……などと考えていた。

 そんな「上位の存在」である魔女に、辛そうにしている君を助けに来たと言われて、もし「ありがとう」と素直に言えるのなら。仮にそんな性格をしていたなら、彼の今までの人生もまた、別の物になっていたのかもしれない。

 彼は腹を立てていた。余裕しゃくしゃくで、道楽に興じるような軽い態度で人を救おうだなんて言い出す、自分よりずっと優れた存在が気に入らない。本当に自分を救ってくれるというなら話は変わってくるが、魔女を名乗るその存在が救世主である保証なんてどこにもない。

「で? 助けたい助けたいって言うけど、何をしてくれるんだ?」

 大したことをする気もないのだろう。札束の山でも降らせるつもりか? そんなことで俺を救えると思っているのか。そんな敵意満点の声音で、まるで脅迫するかのように言った。二十歳を超えて久しい人間が見た目だけとはいえ未成年らしき少女にそうしている光景は、傍から見ればひどく醜く暴力的に見えるだろう。

 しかしそれが当然のことであるかのように、魔女はそんな彼を少しも恐れはしなかった。

「私に出来ることなら何でも」

 出来ることならというのはつまり、彼女の持つ能力の条件をクリアして叶えられる願いならば、という意味だった。

 彼は鼻で笑った。ビニール袋を漁ると、自分が元々買っていた分の酒は魔女のイリュージョンに巻き込まれず、消え去らずにそのままそこに残っていたので、それを取り出し封を開け、一気に飲み干す。

 酔っていたのかもしれない。しかし、そうではないのかもしれない。溜まっていたというわけではないけれど、彼が真っ先に思いついたことは、そのまま言葉にされた。

「何でも? 大層なこと言うけど、じゃあセックスさせろ……なんて言われることも想定して言ってるのか?」

 まだ名乗っていない、名も知れない魔女。目に見える物だけを見て言うならば、名前も身元も知れないその少女。

 そんな少女は、その要求に対してどこか嬉しそうにほほえんだ。

「いいよ。それでも」

 

 

 

 明りの消えた部屋に敷かれたその布団は、この家にあった物ではない。誰が敷いた覚えもない、魔女の力によって突然その場に出現した物だった。ベッドの方がよかったかという質問に、数分前、彼はどうでもいいと答えていた。

 そして今はその布団の中、二枚の温かい布に挟まれた男女二人が、身じろぎ一つせずにお互い少し離れて寝転がっている。困ってしまったような顔をしているのは女の方で、暗く沈んだ瞳をしているのは男の方だった。

「正直、困惑してる」

「言うな」

「違うよ。真剣に言ってるんだ」

 二人がその身を交えることなく脱力している訳は、ポジティブに見るなら「休憩」であったが、正直その表現はまったく的確ではない。

 中断。より正確に言うならば、断念。行われようとした行為が、いわゆる「最後まで」に至ることはなかった。彼女が音を上げたわけではない。ただ男の側が物理的に、硬度的に、不可能となったのだ。

「真っ先にセックスを挙げるものだから、溜まってるんだと思ってた。違ったの?」

 彼女に悪意はない。望みを叶えるという事について彼女は真剣だ。だからこその問いだった。彼の側がそれを正しく受け取ることができるかは、定かではないけれど。

「したくもないセックスを申し出る男がいるかよ」

「私もそうだと思ってるよ。だから困惑してる」

 布団の中をもぞもぞと移動して魔女は男に近づいた。一糸まとわぬ姿のままで、男の体に密着する。彼女の手は彼の腰の少し下に位置づいて、機嫌を取るかのようにそこにあるものに手を触れた。

「エッチなことしたいんじゃないの……?」

 実年齢や、そもそも種族の差があることはともかく。見てくれだけは成人も迎えていないような娘が上目遣いで、息をするように淫猥な行為を続けながらそんなことを言う。投げやりになるあまり紛い物の胆力を身に着けた彼とはいえ、それに対して平常心でいられるほどでもない。

「逆に」

「うん?」

「逆にお前は、どんなことをされる気でいたんだ?」

 うーむ、と魔女が考えるような仕草をする。下半身に触れた手は動きを止めたが、離れるわけではなかった。

「何も想定してなかった。言われてみればあの時、例えば外でやるぞとか言われてたら、たぶん驚いていたと思う」

 斜め上を行く回答に男は頭を抱えたい気分だった。

「怖くないのかよ」

「ぜんぜん。魔女だから」

 暗闇に慣れた目で、明かりのない部屋の中を見ただけでわかるほど、男の顔にはっきりと「説明になってない」と書いていたのだろう。彼が何も言わずとも魔女は語りだした。

「魔女は全員女で、不老で、特殊な力がある他に、もう一つ特徴がある。これは全員がというわけではなく「ほとんどが」だけれども、魔女は精神的に人間よりずっと強いんだ」

「見ず知らずの男に迫られても平気な顔をしていられるくらい?」

「そう。見ず知らずの男が単数でも複数でもね。まあ君のことはしばらく前から見ていたから、見ず知らずと言うのも違う気はするけれど。でも逆に言えば、私は君の顔くらいしか知らないね」

「待て、なに、しばらく前から見てた?」

 彼は今までに不可解な視線を感じた覚えなどなかった。大人が平日の昼間から酒を片手に出歩いていたって、さほど悪目立ちするわけでもないくらいの世界で、そんな物感じるわけがないとさえ思っていた。

「そう。具体的にどれくらい前かは忘れちゃったけど、ちょくちょく見てたよ。それで今日、よし決めたと思って、ここに来た」

 要するに値踏みをされていたということになる。人知を超えた力を持つ存在からストーキングされたとして、何の力も持たない一般人の彼に気付けという方が無茶なのかもしれない。

 しかしそれなら、なおさら言いたいことがある。

「なんで俺を選んだんだ」

 仮に自分が金持ちであるとか、見栄え容姿がいいだとか、率先して善行を積んでいるだとか、そんな取り柄があったのならまだわかる。魔女が取り柄の中から何かを目当てに来るのか、あるいは上位種らしく偉そうに「報酬」を与えに来るのか。どちらにせよある程度納得はできる。

 しかし自分はダメ人間だ。仕事は辞めたし、このまま落ちるところまで落ちようと考えている。見た目も最悪とまでは言わなくとも中の下で、善い行いをした覚えなんてさらさらない。優しさなんて概念は、自分の中からはいつの間にかどこかへ消え去ってしまったと自覚している。取り柄なんか一つもない。どう考えたって見えてくるのは欠点だけだ。

 しかし聞く前から、彼は理解していた。この魔女は「助ける」と言ったのだ。自分を、欠点だらけのこの愛華新を「助ける」と。それが無差別ではないというのなら、つまり彼女は欠点しかない人間を探してやって来たのだ。

 困っている人間を、生まれ持った無限のパワーで救っては悦に浸る。それが彼女の趣味なのだろう。それなら合点がいく。欠点しかない人間というのはほぼ必ず、どうしようもないほど人生に行き詰っているものだから。さぞ救い甲斐があることだろう。

 そう思い込んで、その上で聞いた。なぜ? なぜ自分を助けるのか。口にも出さずに内心だけでマウントを取られるのでは、何も言い返せず悔しいだけだから。

「なんでって、それは君がさっき聞かなくていいって言ったでしょ? 長くなるから」

「気が変わった」

「そう? じゃあ話すけど」

 その前に、と言った感じで彼女は男の下半身から手を離した。

「もしかして触られるのイヤ?」

「べつに」

「そう?」

 そっけない返事が飛び交ったが、彼女が彼の物に再び触れることはなかった。

「まず私は、人間の作る物が好きなんだ。一番興奮したのは銃を初めて見た時かな」

「銃?」

 日本には馴染みのない物騒な物。考えてみれば超常の力を持つ存在が、日本国内だけにとどまっているわけもないかと彼は勝手に納得したが、そうではない。

「そう、火縄銃」

 聞きながら彼は、小中学校の授業で習った歴史の教科書を思い出していた。

 不老不死だとは聞いたけれど、信長が鉄砲隊を率いている時代に、物を自由に出したり消したりできるような異種族がこの国に? それはとてもバカバカしく、冗談としか思えない。しかし実際、現代を生きる自分でさえ昨日までなら、魔女が実在するなんて言い張る人物のことを頭のおかしい奴だとしか捉えなかっただろう。

 常識が否定されてしまった今、どんなにバカバカしく感じることでも、あり得ないと言い切ることはできない。であれば、疑うことをやめるだけだ。

「一番興奮したのが銃か……」

 自分にも少年らしい感性として、銃をかっこいいと感じる部分はある。けれどそれはゲームやアニメなどフィクションの中の話であって、現実だけを対象に語るなら、人生で一度くらい本場の射撃場に行く機会が勝手にどこかから舞い込んでくれば、まあ行くのも悪くないかなくらいの考えだ。大して熱心な興味でもない。

 その自分の価値観も、それは現代の価値観だ。当たり前のように国内で戦争のようなことが行われていた時代の「銃が好き」がどんな意味を持つのか、彼には想像しかねた。

「他にも好きな物は山ほどあるけどね。今の時代なら、真っ先に思い浮かぶのはインターネットかな。まあそれはともかく」

 別に自分の趣味について語る気はないようで、彼女はすぐに話を本題に戻した。

「火縄銃が実用的だった時代のことなんだけど。ある日、私は封印されたんだ」

「封印?」

「うん、他の魔女から封印された。閉じ込められたって表現がいいのかな。人間社会に例えるなら、牢屋に入れられるのが一番近いかも。とにかく、他の魔女たちからちょっと反感を買ってしまったようで、一対一ならともかく複数相手にやられてどうしようもなかった。封印されちゃったら、なーんにも無い真っ白な異空間に一人ぼっちだよ。そんな場所に封印されてから今みたいに復活できるまで、何年あったと思う?」

「さあ?」

 封印とか、異空間とか、いかにも漫画の設定らしい響きがする。おまけに時代背景が何百年も前と来ていれば、真剣に考えようという気になることもできず、男は考える気がないことがあからさまな返事を返した。

 魔女はそれを気にすることなく、あるいは元々そんなものだろうと予測していたのか、淡々と答えを明かす。

「正解は四百年くらい。つい最近なんだ、封印が解かれたの。わかる? 四百年、何もないところに一人でいる気持ち。さっき魔女は精神が強いなんて言ったけど、人間が同じ状況に置かれたら、とっくにマトモじゃなくなってるよ」

 わかるか、と言われても想像すらできない。寿命の限界が百年そこらの種である人間にとって、そんな想像はするだけ無駄だ。一向に理解には至らないだろう。

 ただ、彼にもまだ好奇心は残っていた。あるいはそれは、漫画の続きを楽しみにする少年の心なのかもしれない。

「四百年も続いた封印がどうして解けたんだ?」

 その質問は純粋に興味から来るものだった。異様な物をどうにか理解しようという試みでもなく、透けた思惑を当ててやろうという暗い企みでもない。ただ知りたいだけの興味だった。

「どうしてと言われると、まあほぼ偶然。条件付きとはいえ願いを叶える力が使えることから察してほしいけど、私は魔女の中でも強い方で、だから封印する側とされる側の、力の天秤的な関係があまり大きく傾かなかった。その結果あまり強い封印はかけられずに済んで、石ころを媒体に封印されたんだけど、その封印は熱を加えれば解ける仕様でね」

「熱ってお湯程度でも?」

「そう、お湯でも全然おっけー。その代わり石自体が大陸のように大きな氷の、底の底の方に埋められたけど。それを誰かが掘り起こしたらしくて、偶然熱がかかって復活……っていうこと」

「なるほど」

 魔女を封印するとなるとそれ相応の別な魔女の力が必要で、力の差によって封印の強度のような物が左右される。そして複数の魔女が寄ってたかって、一人の魔女を封印することもあるらしい……などなど。

 魔女と出会ってわずか数時間、新たな情報が次々と明かされていく。まともに受け止めようとすればパンクしそうなものだけれど、アラタがその中で気になったことは一つだけだった。封印された理由を「反感を買った」と言っていたけれど、具体的には一体何があったのだろう……?

 目の前に裸の少女がいることも忘れて、そして自分自身もまた裸であることも忘れて、その疑問についての答えを本人に聞こうとした、その時。彼はふと我に返った。

「いや、違うだろ」

「え?」

「俺は「なぜ俺を選んだのか」を聞いたんだ。いつの間にか話をすり替えやがって」

 彼女の出自であるとか、趣味だの半生だのといった聞いてもいない自分語りで、肝心なところをはぐらかされるところだ……と、彼は危機を寸前で回避したような気持ちでいた。

「これから話すところだよ」

 気を悪くした様子はなく、「せっかちだなぁ」と小バカにするような笑みを浮かべて、彼女は話を続ける。

「封印されている間、自分の能力を使って暇つぶしをしていたんだけど、その一つとして人間を作ってみたこともあった。けれど私の「願いを叶える」という能力の都合上、作られた人間はみんな、私が想定した通りの物でしかない。それじゃあなんだか物足りなくて、本物の、生の人間に触れてみたくなった。だからだよ」

 …………再生されたCDが一曲を流し終えたあとの、次の曲を待っている時のような間が生まれた。やがて彼は、彼女の話がそれで終わりらしいことに気付く。

「……は? だからとは?」

「せっかく触れ合うなら、より私にかまってくれる人がいいでしょう? だから君を選んだんだよ」

 今度は口に出さず、「なるほど」と、彼は心底納得した。

 欠点だらけの人間に施しを与えに来たのだろうという予想は、半分当たって半分外れていた。実際の行為としては間違いなくそれは「施し」だけれども、動機の方は思っていたよりも弱々しいものだったようだ。

 与えることに快楽を感じるので与える……のではなかったらしい。どうやら彼女は「生の人間」という得たい物があるからこそ、まずは自分から与える側に回っているらしい。より自分を必要としてくれそうな「普通では叶わない願い」を多く抱える人間を、魔女の能力に飢えていそうな人間を選り好んでいたということだ。

 しかしどちらにせよ大差はない。彼女の態度は施す側の者特有のそれではない代わりに、へりくだって対価をねだるような物でもないのだから。魔女が内心で何を考えていようと、結局施される側の彼、アラタにとっては、何も変わらないことだった。

「よくわかった」

「そう? よかった」

「けど今日はもう寝る」

 アルコールが入ったからだろうか。それとも多少運動したあとに、暗闇の中で布団の中でジッとしていたからだろうか。彼はそれなりの眠気を感じていた。それにわざわざ逆らう選択肢は無い。ストレスと限りなく無縁に近い生活をすることが、今の彼の目的なのだから。

「寝る前に一つだけいい?」

 背を向けた男に少女が言う。

「なに」

「名前を教えて」

 自分のことをストーキングしていた魔女が、名前は把握していないというのもおかしな気がしたが、面倒なので即答した。

(あらた)愛華新(まなか・あらた)

「アラタ……。うん、わかった。じゃあおやすみ、アラタ」

「おやすみ」

 魔女の名前をまだ知らないことに瞼を閉じてから気付いたけれど、さして気になるわけでも、知らなければ支障があるわけでもない。彼はそれ以上何も喋らずに、そのまま眠気に身を任せることを選んだ。

 朝になったら彼女はいなくなっているかもしれない。一瞬だけそんな思考がよぎった。しかしそれでも何も言うことはない。彼女に対して、明日も傍にいてくれなんてセリフを吐くのは、それこそストレスだったから。

 

 

 

 翌朝、彼の隣では裸の少女が眠っていた。それも暑かったのだろうか布団は蹴り捨てられていて、体のほとんどが無防備に外気へさらされている。彼が少女のことを、そうしなければいけないと定められているかのように、ただ凝視し続けている間、遮光性の低いカーテンを閉め切った窓の外では小鳥がさえずっていた。

 とりあえず布団から這い出て服を着る。男の本能だろうか、着替えている最中も努めて意識していなければ、勝手に視線が少女の方へ吸い寄せられていく。明るくなってから改めて見ると、いかにも彼女の体は女性的で、生々しかった。大人である彼から見れば彼女の容姿はいくらか幼く見えるものの、彼の目に映るそれは明確に「異性」であった。

 彼は、昨日の夜は途中でリタイアした物が、再び硬さを取り戻すのを感じた。

「いやいやいや」

 しかし、基本マトモな人間とは程遠いながらも、微妙に常識人な部分が残る彼は、あるいは変なところで小心者である彼は、相手が実際のところ四百年以上の時を生きる魔女であったとしても、昨晩すでに性行為への同意を受けていたとしても、それでもその少女の寝込みを襲うということはしなかった。

 むしろ性欲と同じくらい強く、一秒でも時が経つごとにはっきりと、彼の中には罪悪感と後悔が湧いて出てくるくらいだ。なぜ昨日、自分があんな風に強気に出られたのか、今となってはわからない。やはり酒のせいだろうか? もしかするとそれも間違ってはいないのかもしれないけれど。

 しかし一番大きな理由は、あの時点では魔女が不法侵入という「罪を犯す者」であり、彼はそれを「許す者」の側の立場にあったからだろう。無意識にでも精神的優位があったからこそ、強気にも出られれば非常識な言葉も吐けたのだ。

 それが今となってはどうだろう。彼は自分が上の立場にいるとは確信できていない。あの時「ここにいたければ、好きなだけいればいい。見返りは求めない」なんて聖人のようなことを言えていれば、今でも彼は永遠に弱気を捨てていられたのだろうけれど。

 揺るがない上下関係があるわけでもない状況で、性行為を強要したとまではいかなくとも、要求した時点で彼は、精神的優位を自ら捨て去ったのと同じことなのだ。それに気付くまでに、一夜を明かす分の睡眠が必要だったという、それだけのこと。

 誰が咎めるわけでもない罪の意識を持ったまま、彼は眠っている少女の肩を揺さぶった。肩とはいえむき出しの肌に触れると、何かさらに罪を重ねている気分になる。それらの罪悪感もまた、彼が嫌うストレスの一種であった。

「おい、朝だぞ」

「ん……」

 爆睡しているかと思われた少女が意外にもすんなりと目を開けたので、彼は内心、ああ変なことしなくてよかったと胸をなでおろすのだった。昨晩「なんでもすると言うならセックスさせろ」と言い放った男のメンタルとは思えない。しかしそういうものだ、心には勢いという物がある。今はその勢いが皆無だ。もう二度と戻ってはこないのかもしれない。

 寝ぼけ眼をこする少女に、彼は平常心を装って聞いた。

「昨日聞き忘れたんだけど、もしかしてここで暮らすつもり?」

「んあ、うん。ダメ? 家事全部やるし、好きな食べ物とか能力で出すし、というか出せる物ならなんでも出すし、あとエッチなこともいくらでも。……って感じで、君にとってはメリットしかないと思うけど」

 若干の早口で行われる怒涛のプレゼンに彼は、魅力を感じる前にまずちょっと引いてしまっていた。話が自分側にだけウマすぎるということもあったが、そんなことよりも自分が何をしようとどう答えようと、もはや当分のあいだ魔女がここを離れる気は、初めからないように感じられた。

 持論とか関係なしに、自分に都合が良すぎて何か裏があるのでは? なんて勘ぐるよりも、流れに乗っておいた方が無難なのかもしれない。そう感じた彼は、そのまま直感に従う。

「ここにいるのはいい。が、何か見返りを要求してくるなら、それには答えかねる」

「何もいらないよ。あ、アラタが二度とここへ帰ってこないとかは困る」

 言い換えれば、君がいてくれさえすればいいと言われているも同然だった。

 彼の内心は、空恐ろしさでのけ反るかの如くだった。愛華新、彼には過去に恋人としての「彼女」がいたこともあるし、セックスもその時期に体験済みだ。しかしそれはもう何年も前の、彼が大学を卒業して社会へ出るよりも前の話で、裸の女性が部屋にいて、その女性から下の名前を呼び捨てにされるなんて体験は、デジャヴを感じることもできないほど遠い過去のものだった。

 この魔女は着実に、いや強引に、距離を詰めようとしている。というよりも、もはや「距離を詰めた」ということにしようとしている。少女のそのアグレッシブな態度に、彼はいくらかの危機感を抱いた。それは具体的に何かを恐れるわけではない、ただ漠然とした、何かがまずいというふわふわした危機感だ。

 要するに彼は態度こそあんなだけれども、本質的なところではどちらかといえば陰キャに属する人間であり、人間関係には弱い方なのである。ただでさえ弱いのだから、こんな異常なケースならなおさらに。

「ここ以外に行くところはないから、俺はここに帰ってくるしかない。けど帰ってくるだけだ。何も見返りは」

「だから見返りはいいって。私をいないもの扱いするとかしないでいてくれたら、あとは何もいらないよ。話し相手でも家政婦としてでも、不完全だけど神龍的な存在としてでも、あるいは性処理の相手としてでも? とにかく何とでも自由に捉えて、私をここに置いてくれればいい」

 突然挟まれた有名マンガの中で登場する単語に「魔女もそういう例え方するのか……?」と不思議な感覚を抱いたり、そのあとサラッと出てきたフィクションでしか聞いたことのない卑猥な単語に聞かされた側が恥ずかしさを感じたり、彼の心は無駄にぐらぐら揺れた。魅力を感じるあまり倫理観を蹴りたくなったという意味ではなく、純粋に眩暈のような感覚で揺れた。

 しかしそれはそれとして、というかもはや、正気を保つために魔女のセリフを半分以上聞き流すようにして。彼は再三の確認をとる。弱い動物ほど警戒心が強いことと同じだった。

「俺からは絶対に何も出さないぞ。茶も出さない。飯を食わせるとかはなおさら」

「もちろん。むしろ私が用意する方だ。私は尽くす側だよ? アラタは私を好きに使ってくれればいいの」

「よしわかった!」

 いいんだな? 本当にいいんだな? 絶対だぞ? と、どこかの芸人のお約束の流れのような確認をして、ついに彼は吹っ切れた。このまま彼女の言葉選びを聞き続けていると頭がおかしくなりそうだったから、吹っ切れざるを得なかった。

「じゃあ俺は出かけてくるから家事全部終わらせておけ! いいな!?」

「了解!」

 このままあの魔女と話しているとおかしくなりそうだ。漠然とした危機感に背中を押されて、特に行くアテもなく財布だけ持って彼は玄関を出た。……と思いきや、鍵を閉める前にもう一度ドアを開いて中にいる魔女にこう付け足した。

「あと服を着ろ!」

 今でさえそうなのに、帰ってきた時にそのままの状態で出迎えられでもしたら、いよいよこちらの身がもたない。身というか、心だろうか。平常心でいられないというのは、それだけでストレスなのだ。

 そうしてメンタルに一瞬だけ仮初めの勢いを取り戻し家を出た彼は、わざわざなけなしの財産を使う気にもなれず何のアテもなく、もうそのルートを歩むことが癖になってしまっているかのように、とりあえず最寄りの駅の方へ歩いていく。

 歩きながら彼の頭の中に浮かんでくる思考の内容は、カラーで表すなら大体ピンク色をしていた。まだまだ若い彼にとってはそれも無理はない、どうやら何でも言うことを聞いてくれるらしい少女が、なぜだか自分の帰りを待っているらしいのだから。昨晩のこと、今朝のこと。その肌色の占めるところが大きい記憶のどちらもが、異様なハイクオリティで脳内に映像として再生される。

 初めはそれを振り払おうとしたが、そんなことをしなくてもやがて、彼の思考は少しだけ別のところへと切り替わった。ところで、という話だ。

 ところで、もしも近所の住人などの多少なりとも自分のことを知っている人間が、何かしらの理由で自宅を訪ねてきたら、一体どうなるんだ……? あの魔女は玄関に出て行くのだろうか。出てきた女子高生程度の歳に見える少女のことを、そのご近所さんはどう捉えるのだろう……。

 思考からピンク色が消え失せたと思ったら、今度は漠然とした物ではない、ものすごく具体的な危機感に襲われる。近所付き合いが盛んなわけではない。きっと誰も来ない。来て違和感を抱いたとして、それ以上何も行動は起こさないかもしれない。けれども、何百分の一の確率でも、自分がお縄にかかる可能性が出てきたとなると無視はできない。

 明らかに一人暮らしだったはずの男の家から少女が出てくるのはまずい。ただ単に若い女性なら彼女でも出来たのかと思われるだろうし、あまりにも年上ならもしかして母親かと思われることになるだろう。しかし少女はまずい。いっそ幼女であったのなら親戚の子だなんだと言って切り抜けられる線もあるのかもしれないが、見た目女子高生は一発アウトにどんぴしゃだ。

 いや、待て、落ち着け……と、黙読するように心の中で声にして、彼は一度冷静になることを心がけた。今までの考え方は自宅に「人間の少女」がいる場合の考え方だ。しかし実際そこにいるのは魔女だ。

 昨晩の彼女が「警察はやめて」と言っていたように、警察沙汰になることは向こうにとっても好ましくないようだ。それが彼女自身の目的を阻害することになるからだろう。その点について「彼女は少なくとも自身の目的に対しては真摯だ」と信用するなら、仮に近所の人間が自分を訪ねてきたところで、上手い具合にやりすごしてくれるだろう。

 そう冷静に考えてみれば、警察沙汰を避けるという利害が一致している点はすごく安心できる。しかし願いを叶える能力とやらで具体的にどう上手くやりすごすのか、彼にはまったく想像がつかなかった。それだけが不安だ。

 そもそも能力を使うための「条件」とやらが彼にはまったくわからないので、想像のしようもないのは当然のことだ。ただ単に「都合の悪いことは起こるな!」と念じるだけで能力が成立するのだろうか。だとすれば安心だけれども……。

 と、彼は突然、あることに気が付いた。魔女の能力の全貌についてだとか、自分の身の安全だとか、そういった重大な内容に関することではない。

 常にどこか自信に満ちているようなあの魔女のことだ、大抵のことは自分でなんとかするだろう。だから心配することではないのかもしれない。けれども、彼女の能力を知らないこととほぼ同義な彼の頭の中からは、その地味な不安が消えていかなかった。

 家事をしておけと言いつけて家に残してきた彼女のことを思って考える。ウチは洗濯機がなくてコインランドリー頼りなんだけれども、それを自分……部屋の主である愛華新から伝え忘れられたあの魔女はどうするのだろうか。

 洗濯機がなくても自分の能力を使えば洗濯ができるのか、それとも教えらなくたってコインランドリーの場所を自力で知り得て、金がなくてもそれを動かせるのか。それともそれとも、洗濯はひとまず諦めているのだろうか。

 あれこれと考えて、一つの結論に至った。何も恋人と喧嘩して家を飛び出してきたわけではないし、行かなければならない場所や会わなければならない相手がいるわけでもない。気になるなら、初めから普通に帰ればよかったのだ。

 そう気付いたと同時に、今回の散歩のチェックポイントである最寄駅へと到着してしまった。駅に来てすぐ回れ右をして帰るのはなんだか間抜けな感じがするけれども、大した目的もなく電車賃を使うよりはむしろよほど賢い選択だ。彼は迷いなく、来た道を引き返し始めるのだった。

 本人は気付いていなかったけれど、帰り道では性的な衝動はすっかりなりをひそめていたので、頭を冷やすという意味では有意義な散歩であったと言える。

 ……しかし、行きも帰りもまったく同じ道を歩いて帰ってきた彼が、玄関の鍵を開けようとした時。ほんの僅かだけれど、彼はまた不安を覚えていた。

 というのはつまり、そういえば魔女が泥棒の類である説を、今の今まで忘れていたのである。しかしそれは、昨日彼女が不法侵入していたのを見てそこまで動揺しなかった彼からすれば、取るに足らないほど小さく僅かな不安ではある。

 まさか誰かがいるとは思わなかった昨日と違って、いるかもしれないし、いないかもしれないと意識してしまう今日は、自宅のドアノブを握るにしては今までにないほどの緊張感をその手に帯びた。

 しかし躊躇したって仕方がない。とにかく中に入る。

「おかえり。早かったね」

 鍵の開く音に反応して来た犬みたいに、玄関に入った途端少女が出迎えに出てきていた。

「ただいま」

 返事をしてやると少女はとても満足そうな笑顔を見せたけれど、魔女だってまさか同棲ごっこがしたいわけでもあるまい……とアラタは内心で困惑していた。

 生の人間と触れ合いたいという気持ちが自分にはまったく理解できないが、その意味がごっこ遊びのことを指していたなら、少々うんざりせざるを得ない。というのも、もう一度言うけれども、彼はそもそも人間関係に強いタイプではないのだ。

「家事の方はどうなった?」

「洗濯と掃除はしておいたよ」

 洗濯。平然と完遂したことを伝えられたそれを聞いて、やはり魔女に人間の常識は通用しないのだと、彼は本格的にそれを実感した。自力で解決出来たかどうかに関わらず、普通ならどちらにせよとりあえず「洗濯は外でするって一言くらい言っておいてよ」と当然の文句を言われそうなものだけれど、魔女を相手にするとそうでもないらしい。

「ちなみに洗濯ってどうやった?」

「魔法で」

「魔法か……」

 薄々予想していたことだ。詳細がわからないけれど、でも願いを叶える魔法だというなら、洗濯くらい設備が無くても出来たって不思議じゃないよな……と。逆に出来なければ条件とやらに引っかかったんだろうと勝手に納得できるので、この場で彼が何かを不審に思うことは何もない。

 不審に思うどころかむしろ彼は今、目の前の魔女に可能性を感じていた。自分が外に出ていたせいぜい数十分の間だけで、どういうわけか洗濯も掃除も終わらせているその力に、普通に便利さを感じていた。

 この力があれば、さすがに致し方がないと妥協していた日頃の家事という名のストレスさえ、完全に排除してしまえるのではないか。そんな期待が生まれた。

「あとゴミも捨てといた……というか消しといたのと、使い切っちゃいそうだった日用品も買って……というか出しといた」

 酒の缶を増やしたり消したりしていたパフォーマンスの時のように、ゴミは焼却なんかしなくたってこの世から消し去れるのだろう。必要な物に至ってはすでにある物を増やすのはもちろん、もしかすると「無」から取り出せるのかもしれない。

 使い切りそうだった日用品というのが何であったのか、身の回りのことにそれなりにルーズな彼は思い出せなかったけれど、とにかく魔女が異常に役に立つことは十二分に把握できた。

「あ、ああ。ありがとう」

「あとは、おなか減ってたりする? 何か食べる?」

「あー……。そうだな、うん」

 しかし、魔女の献身ぶりによって、彼に湧き出た感情は喜びや感謝だけではなかった。同時に現れるそれは、起床早々に感じたこととまた同じ物だ。

 好き勝手に生きると決めた彼の中に残った、少しの良心がまた痛み始める。

 いくら種族が違い感覚も異なるとはいえ、一瞬でこれだけの成果を出して、その上まだ自分に尽くしてくれる存在をタダ働きさせるのは、これはもう何かしらの法律に触れてしまうのではないか。不当な強制労働などに似た犯罪行為なのではないか。そんな気がしてきた彼は、自分の家にいるはずなのにひどく落ち着かない気持ちになっていた。

 それに重ねて魔女の見た目が少女であることも、彼の良心をちくちくと痛ませることに拍車をかける。自分は何もせず一方的に働かせる相手の見た目として、魔女のそれは罪悪感を抱かせる効果がそれなりに高い。

 ……こういう時、すばらしい幸運が舞い降りたと心の底から喜べたのなら、どんなに幸せだろう。この魔女を利用すれば自分の人生は薔薇色だと、良心の呵責なんか覚えずに心の底からそう思えれば、どんなに楽なことだろう。いっそ、いくつも年下に見える少女が自分のためにあれこれとしてくれることに、単純に快感を覚えられるほどになればいい。そうなればこの状況は、人生はとてつもなく楽しくなるだろう。

 アラタは確実に、魔女の力を「手放すには惜しい」と考え始めている。しかしそれと同時に、本当にこれで、このままでいいのか……? と、そんな出どころの掴めない、彼自身にもよく理解することのできない不安が、心の底の方に溜まっていくのも感じていた。

 あらゆるストレスからの解放を叶えるような力を前にしたというのに、彼はそれを素直に喜ぶことができない。もしかするとその事実そのものが、彼にとって新たなストレスになってしまうのかもしれない。

 ではその罪悪感というストレスを消し去るために、彼も魔女に対して何か「礼」を返したら良いのではないか。……というのが、マトモな考えというものなのだろう。しかし彼はそれをしない。彼にそれは出来ない。得体のしれない相手に「恩を返そう。喜んでもらおう」と気を遣うことが、機嫌を取ろうとすることが、彼にとってはどうしようもなくストレスだからだ。一度は恋人を持った経験のある彼が今は独り身でいるのも、それが原因であろう。

 何度も言うように、彼は人間関係が得意ではない。人知を超える有能さを持った存在が味方になった時でも、その程度のことでは、彼の根っこの部分は何も変わらないのだ。

 

 

 

 魔女が秒で器や箸ごと生み出したラーメンをすすりながら、二人で使うには少々狭い小さなテーブルに向かいあって座り、同じ物を食す少女を見ながら彼は考えた。そんなに何でもパパッと出せるのだとすれば、テーブルだって大きめな物を出してくれれば良いのでは……ということも考えはしたけれど、そうではない。

 彼が真剣に考えたのは、なぜ自分がこんな夢のような力を持った存在に、夢のような待遇を受けているのだろうか……ということだ。

 魔女の言っていたその理由を要約すれば、封印されて孤独が続いたせいで人が恋しくなったから……という意味に聞こえる。しかし本人が語ったその説明が、本当に正しいのかどうか。疑わしい点がいくつかある。

 仮に誰かしら孤独に強いあるいは孤独を愛する人間が、ある程度の願いを自由に叶える能力を持っていたとしても、何も無い空間に数百年閉じ込められたのがその人が「人間」であったなら、目の前の魔女に見られるような正気を保ってはいられないだろう。正気を保つ力が強いことが、魔女特有の強靭なメンタルとやらの一つの特徴であるわけだ。

 だとすれば、そんな強靭なメンタルを持った者が、本当に「人が恋しい」なんて可愛らしいことを言うのだろうか? それが第一の疑問だ。

「このラーメン旨いな」

「お、それはどうもありがとう」

「能力で作る食べ物の味の良し悪しって、どういう風に決まるんだ? 能力で作ればなんでも旨くなるのか」

「いいや、実は食べたことのある物しか作れないんだ。だからおいしい物を食べればおいしい物が作れるようになるよ」

「へぇー」

 何でもない会話の流れを装って能力の詳細について踏み込んでみても、特に隠そうとはせず聞いただけのことを教えてくれる。正気っぽい魔女は同時に友好的っぽく見える。何の取り柄もない男の世話をしている点を思えば、友好的どころか聖人のようだ。

 おかしな点はそこなのである。彼女は過去に自分が封印された理由を「反感を買った」と語っていた。聖人のような人間が、そんな理由で複数の同胞から封印されるとは思えない。人間が人間同士で争う光景が日常茶飯事なことを思えば、同胞と言っても魔女同士の関係がどんな物なのか知らぬ身では何とも言いきれないが、仮に魔女が人間と同程度の社会性を有している種族なら、よほどのことをやらかさない限り封印なんかされないだろう。

 よほどのこととはつまり、人間にとっては犯罪である。彼女が牢に入れられることを例えに出していたように、この捉え方は魔女の価値観からもそう遠くはないのだろう。

 であるならば、懲役、あるいは不老不死に対する死刑と同程度の罰として、封印という手段が取られる流れこそ妥当なように思える。人間と魔女の価値観に予想外の溝がない限り、この考えはほぼ間違っていないと言えるはずだ。

 そして目の前に座る魔女と自分の価値観がどうしようもなく離れてしまっているとは、彼にはどうも感じられなかった。つまり疑いというのは、封印される前の彼女は、犯罪者に相当する人物だったのではないか? ということになる。

 一番初めに気に入った物は銃だ。たしか彼女はそのようなことを言っていた。現代ではミリタリーオタクという概念も珍しくはないけれど、彼女がかつて生きていた大昔の時代では、そんな価値観があったのだろうか? 魔女は太古のミリオタであっただけか……?

 勝手な推論だけれども、封印されるほどの罪というのは、傷害や殺人だったのではないか。そんな可能性がぬぐいきれない。もしも、もしも仮にそうだったとすれば、そんな人物がいくら数百年の時が経過したとはいえ、聖人のようになるなんてことがあり得るのだろうか……?

 本当に、人恋しいのが自分へ接触してきた理由なのだろうか。思考が進むにしたがって、彼はだんだんと「旨い」と感じたはずのラーメンの味がどんな物なのかわからなくなってくる。

だからだろうか? 結果として、見た目だけは小食そうな少女の方が彼よりも早く食べ終わった。

「あーお腹いっぱい。次はどうする?」

「次?」

 なんとなく急かされているような気がして、ほんの少しだけ急いで残りを食べ終える。スープだけが残された器は、彼が箸を器に置くと同時に消え去った。作るのが秒なら片づけるのも秒だ。

「私に何かしてほしいことないの? 願いを叶える魔法の初日だよ? 何か叶えてほしいことが山ほどあるんじゃないのー?」

 例えばよくある悪魔や死神の話のように、願えば願うほど自分の寿命が吸われていくなりしていた方が、よほど現状に納得できる。しかし仮に昔の彼女が銃を対人用の武器として実践的に好んでいたとしても、彼女が殺人の前科を背負っている者だとしても、それは願いを叶える能力で冴えない男に取り入る理由にはならない。

 彼女はこちらに対して悪意を持っているのだろうか。彼女の語っていたことはどこまで信用していいのだろうか……?

「じゃあ」

 頭の中が散らかるさなか、何かないのかと言われても彼は特に思いつくことがなかったので、パッと浮かんだ何の面白みもない願いを口走る。

「金がほしい」

「あれ、それはダメだよ。言わなかったっけ。お金は無理」

 あっさりと要望を跳ね除けられた彼の中に芽生えたものは、全能らしく見えた魔女への失望でも落胆でもなく、魔女に対するさらに深さを増した疑問だけだった。

「なんで金はダメなんだ……?」

「それを話すとまた長くなるんだけど、聞く?」

「聞く」

「ん」

 お互い座布団も敷かずに床に直接座っていたが、長い話をするとなった途端魔女は立ち上がり、空いていた空間に背もたれとひじ掛け付きの椅子を生み出した。アラタの隣にも同じ物が現れ、彼がそれに戸惑っているといつの間にか棒アイスを持っていた魔女が言う。

「食べる? デザート」

 自宅だというのに落ち着かない気分で、なんとか椅子に座りアイスを受け取る。狭い部屋にいきなりそこそこのサイズの椅子を二つも発生させると、ものすごい勢いで生活スペースが狭まってしまったように感じる。

 そんなことはお構いなしで小さい口をめいっぱい開けて、豪快にアイスをかじりながら魔女は語る。

「まず私の能力についての説明なんだけど、願いを叶えるって話は本当だよ。ただ叶えられる願いは条件を満たした物に限られる。で、その条件というのが三つある。能力を使うには、その全てを満たさないといけない」

「ふむ」

 三つも条件があることが判明するものの、そのうち一つは彼も大方の内容を察していた。

「第一に、能力の効果が私の目に届く範囲にとどまること。遠く離れた場所にある物に干渉したり、未来のネコ型ロボットが出す電話ボックスみたいな「世界を改変する系」のことは出来ないって思っといて」

「お、おう」

 ポケットから出てくるひみつ道具の話が急に例として出てきて、彼はなぜか少し驚いてしまう。神龍という単語が出た時もそうだったが、鉄砲が初めて伝わってくるような時代から生きていた魔女がそういう例え話をするのは、なんとなくものすごく変に思えるというか、イメージと違う感じがするのだ。

 しかしその魔女は普通に現代で生活している。ラーメンに違和感を覚えず国民的アニメの話に違和感を覚えるというのは、むしろそっちの方がおかしいだろう。彼は自分の感覚がどこかズレていることを感じた。

「第二の条件は、叶える願いが私に明確に想像できる物であること。世界一おいしい物を食べたい! みたいな漠然とした願いは叶えられないし、食べ物繋がりで言うならさっき言った通り、私が食べたことのない物を出すことはできない。食べたことのない物を正しく想像することはできないからね」

 これはアラタの予想していた通りの内容だった。想像できない物は創造できない。ラーメンの時のやり取りでそれは理解できている。

「なるほど。第三は?」

「第三は、これは第二の補足になるんだけど、能力によって私が「新しく何かを知る」ことはできない……っていうルールがある。未知の食べ物を能力で出して味見してみることはもちろん出来ないけれど、他にも知らない言語を翻訳するとか、見たことがない遠方の景色を見るとかも出来ない。これが結構ややこしい」

 ややこしいというか、アラタにはほとんど理解できなかった。理解できないというか、要するに第二の条件と同じなのではないかと思えた。知らない物は生み出せないのだから、知らない物は知らないまま。それだけのことだ。特に重要だとは思えない。

「で、金を作れない理由はどこに引っかかるんだ?」

 彼にとって重要なのはそこだった。仮に二つ返事で了承され今頃札束を手にしていたとしても、魔女の目的がいまいち把握できないことに変わりはないけれどmそれでもまず金はほしかった。自分が今後どうなるとしても金はほしい。

「作れなくはないよ、偽札なら。お金って通し番号とかあるでしょ? 当てずっぽうで作ることはできるけど、まあたぶん偽札になるよね」

 言われてみれば納得だった。自分だって今手元にある物とは別の、世の中に無数に出回っている「本物の金」がどんな物なのか明確に想像しろと言われても無理だからだ。

 そう言われてみると一度食べたラーメンの味を明確に思い出せと言われても出来ない気がするけれど、おそらくそこのところは魔女の驚異的な記憶力や感覚などが関係しているのだろう。数年前のことも思い出せない人間の脳みそと、百年以上前の思い出を語る魔女の脳みそを同じにしてはいけない。

「あ、でもほら、小銭なら通し番号とかないのでは」

「かもね。やろうと思えばできるよ。手元の小銭とそっくりな物を作ることはできる。……でもなんか怖くない? 大丈夫っていう確信がないというか、そうやって作った小銭を使う時、心拍数上げずにいられる?」

「……うーむ」

 そもそも多くの人が、自分の住む国が金銭に関して、偽物と本物をどうやって見分けているのかなんてきっとほとんど理解していないだろう。彼もそうだ。彼は魔女の能力で億万長者になることを諦めた。

「お金以外で何か欲しい物はないの? してほしいことでもいいよ。それか、まだ私から聞きたいことがあるなら何でも」

「そうだな……」

 俺が推理するにお前は過去それなりの罪を犯していた気がするけどどう? 本当に人と接することが目的? ……なんて聞く勇気は彼になかった。命が惜しいと言えるほど心残りがあるわけではない。しかし恐怖心というのは、そういったこととは関係なしに押し寄せるものだ。

「えっちしたいでもいいよ?」

 彼は吹き出しそうになった。

「急だな。そういう話題に切り替えるのが」

「もしかして言い出しにくいのかなと思って。昨日は酔ってた勢いがあったとか」

「言うほど酔ってなかったよ」

 昨日の夜のことは、酒に酔っていたことが主な原因なのではない。突然部屋に知らない少女が現れて、それをスルーしようとしたら少女が魔女であることが判明したけれど、さらにそれをあっさり受け入れようとした彼は、アルコールなんか入っていなくてもどこかまともではなかっただけだ。

「じゃあやっぱりしたいんでしょ?」

「……イエスかノーで言えばイエスだ」

 何でもすると言う少女が命令を受ける場合、少女が実行する際最もハードルの高いこととは何か。家事代行の要求でもなく金銭の要求でもなく、それはセックスの要求だと昨晩の彼は考えていた。実際は金が一番難儀であったわけで、セックスに至ってはむしろ彼女の様子を見る限りでは、家事と同じくらい容易いことのような気がしてしまうけれど。

 むしろ一夜明けてみて判明したのは、頭を冷やした彼が気付いたのは、この場合のハードルというのはむしろ、頼む側にこそ致命的に適用されてしまうということだった。どうやらセックスに誘うことはまた彼の側にとっても、難易度の高いことであるらしい。

 そしてその難易度というのは、頼むことそれ自体についてももちろんそうだけれど、何よりいざ実行することに対する意味合いのほうが強かった。

「イエスだけれども、でも昨日わかっただろ? 出来ないんだよ」

 昨日の夜、二つ返事で行為を了解した魔女に対して、彼は途中で萎えてしまった。そのリベンジを今するのか? まだ日の高い時間である今だけれども、空の上にあるのが太陽だろうと月だろうと、本人には一番結果が見え透いている。同じことだ。

「どうして? 昨日のは趣味に合わなかった?」

「さあ、どうだか」

 実際のところ、容姿や行為の趣向が気に召さなかった結果萎えたというわけではない。その突き放すような返事は、彼自身にもまた答えがわからないせいで出た物だった。

 念のために言っておくと、少なくとも昔の彼はEDなどではなかった。彼に恋人がいた時期は、普通に問題なく最後まで行えていたのだ。だから内心彼は今すごく焦っている。男としてどうこうという以前に、以前は確かに出来ていたはずのことが出来ないというのは、それだけで人を焦らせる要因に十分なり得るものだ。

「もし違ったようなのがお好みなら、これはどう?」

「えっ」

 どう? そう聞かれた彼は直後自身の目を疑う。さっきまで存分に背もたれへ体重を預けて、食べ終わったアイスの棒を手持ち無沙汰そうにがじがじと噛んでいた少女の姿は、もうそこになかった。

 代わりに椅子に座っていたのは彼と同じくらいの歳か、あるいは少し上の年齢と思われる大人っぽい印象を持つ女性だった。無論、中身は変わらず魔女である。

 彼はハッとした。自分の容姿を骨格からいじることは、あるいは人の容姿をいじることさえ、彼女の願いを叶える力の条件はクリアしているのだ。そして仮に彼が家を離れている際に誰かがここを訪ねて来たのなら、その時の魔女はそれなりに怪しまれない見た目に変わるのだろう。

「もっと年上っぽいのが好み? それとも、さっきより下が好みだった?」

「いや、別にそういうのは」

「髪型はどんなのがいい? 長い方と短い方どっちがいい?」

「待て待て待て」

 目の前の女性の髪がロングのストレートになったかと思えばカールを巻き始めたり、三つ編みになってみたり後ろや横で結んでみたりされる。かと思えばショートカットになり、今度は髪の色が茶色金色と変化していく。目まぐるしく変化していくその様子はまるで、

「キャラメイクみたいになってんぞ」

「あ、それ私も思ったよ。初めてゲームに触った時、似てるなって」

 技術の発展した昨今のゲームには、主人公の見た目を何百何千と用意されたパターンの中から自由に選べるタイプの物がある。それをキャラメイクと呼ぶわけだが、チャンネルを切り替えるみたいにコロコロ変わる魔女の容姿はそれを彷彿とさせた。

 顔も髪も体型も、服装まで次々に変わっていく。思えばその肉体はもちろんのこと、彼女が着ていた服も初めからその能力により生み出された物だったのだろう。

「声も変えられるんだよ。ほら、あー、あっあー」

 異なる声が同じ人物の喉から聞こえてくる。全て女性の声であることは共通していても、いかにも快活そうな声から根暗っぽい声まで変化は激しい。

「マジでキャラメイクじみてきたな……」

「胸の大きさも変えられるよ?」

「うおっ」

 顔や髪もしくは服装などの見た目ががらりと変わる分には、「変身」という印象が強かった魔女のセルフキャラメイクも、胸だけをいじるとなると絵的なインパクトがすごかった。人体の一部分が、風船のように膨らんだりしぼんだりしているように見える。今まで見た中でも特別異様な光景だった。

「どう? どういうのが好み?」

「いや、いや、いい。そういうのはいい。そういうのじゃないんだ」

 今にも服を脱ぎ捨てて「直接見て触れないとよくわからない?」などと言ってきそうな魔女に彼はたじろぐ。彼だって昨晩の発言からして明らかなように、何もウブなチェリーボーイというわけではない。しかし女性を自分好みに作り替えるという行いは、それもここまで直球となると、彼にはまだ少し早かった。

 細かく注文を出して自分好みの女でいることを要求するなんてことは、変なところで気弱な彼にはとても出来たことではないのだ。

「そういうのじゃないなら、どういうのなの?」

 いわゆる黒ギャル風になった状態で変化を止めた魔女は改まって問いただす。

「私がアラタから求められたことの中で、私に出来るはずなのにまだやり残してることはエッチだけだよ。だから全力でその要望を叶えようと思っているんだけど、そうじゃないなら何が望みなの? アラタはどうしたいの……?」

 昨晩の件以降、彼は一言たりとも「あれは無かったことにしてくれ」というようなことは言っていない。むしろ、本番行為だろうとそうでなかろうと、とにかくそういった性的な行為はやりたい……という意思を見せているくらいだ。その上で彼が煮え切らない態度を取るので、魔女が困ってしまうのもごもっともである。

 しかし彼は彼で戸惑っている。性に関してここまで積極的な女性を見たことはさすがになかったから。求められれば応じるがそうでないならわざわざ持ちかけるほどでもない。かつて彼が付き合っていた女性はそういうタイプだった。それが彼の知る唯一の、女性の性に対するスタンスの実例だ。

 そういうわけで、彼がしぼりだせた言葉はひどく短いものだった。

「怒るなよ……」

「え、ごめん」

 魔女が元通りの、初めてこの部屋でアラタと出会った時の見た目に戻る。

「怒ってるつもりはなかった。ごめん」

「いや謝られるのもあれだけど」

「難しいな」

 うーむ……と、魔女はひじ掛けを両側ともフル活用して背もたれに体を預けて、政策について考え悩む小国の王のようなうなり声を上げ始めた。ああでもない、こうでもないと言われては、魔女とはいえそうなるのも無理はない。

「確認だけど、エッチはしたいんだよね?」

「ま、まぁ。それは、俺も男だし」

「でも昨日と同じだとダメなんでしょう?」

「……たぶん」

 リベンジをしたって無駄なことを直感している。けれども、彼にはその原因がわからなかった。それが煮え切らない返事の理由だ。本人でさえ、なぜ以前は普通にできたことが今できないのか、まったく把握できていないのだ。

 それがまた彼女を困らせる。平凡以下の人間が上位種的存在である魔女を困らせることは、このようにいとも簡単なことなのである。

「どうしたいっていうのも無いというか、わからない?」

「…………まぁ」

「よし」

 結論が出たのだろうか。魔女は自分の分の椅子を消し去って、代わりに布団とベッドを出現させた。部屋の幅はもういっぱいいっぱいである。

「やりながら考えるっていうのはどう? 全部を」

「というと……?」

「見た目とか声とか、プレイの内容とか、アラタにとっての「正解」をやりながら見つけていこうよ。……どう?」

「どう、と言われても……」

 性行為に対してそんな探求的姿勢で挑んだことはないし、挑もうと思ったことも挑みたいと思ったこともないので、「よっしゃそれならいけそうだ!」……とはならない。しかし良くも悪くも未知の試みなので、やる前から諦める理由も出てこない。

 何よりそれはある意味、最も贅沢な行為のようにも思える。諦めることは二度とないチャンスを見逃すに等しいような気がしてくる。魔女が相手でなければ絶対にありえないシチュエーションだろう。

「いや、よし、わかったやろう。つまりそこに布団とベッドが置いてあるのは、まずそこからどちらが俺にとっての「正解」なのか選べってことだろ?」

「おお、察しがいい。その調子でいこう。私はアラタのためならなんでもするよ」

 なぜそんなことが言えるんだ。なぜそこまでするんだ。なぜそこまでしてくれるんだ。明らかにおかしい。そうは思ったけれど、彼は欲望に逆らうことができなかった。

 それから数時間、二人は出口の見えない迷宮をさまようことになる。見た目も、声も、行為の内容も、部屋の様子も、何を変えても「正解」という名の出口は見えてこないのだった。絶頂という名のゴールは見えてこないのだった。

 休憩と実践を交互に繰り返し、そうしてやがて、日が沈んでいった。

 

 

 

 無尽蔵な性欲を持つ者が、夜中に始めた情事を朝日が昇るまで楽しむ……なんて話は漫画の中ではよくある話だ。ひょっとすると彼が知らないだけで、それは現実でもありがちなことなのかもしれない。

 しかしまだ日の高いうちから「正解探し」に挑んだ彼らが事を終えたのは、むしろ日が沈みきって月が昇ってからのことだった。

「ごめんね」

 布団の中で、ピロートークのような物が始まる。

「なんでそっちが謝るんだ」

「魔女だから」

 わけのわからないことを言う。そう思った彼は、自分の口から「ごめん」の三文字を繰り出すタイミングをもはや失っていた。

 事の最中、一応魔女の能力を使えば彼のモノを立たせることは可能だという説明があった。しかし女である彼女は「立った状態の物」は知っていても「本人がそこから受ける感覚」を知らないため、良くなるのは形だけで、男の側にとってはその状態の物に何をされたところで、これっぽっちも気持ちよくはなれないらしい。実践してみたところ、まったくその説明の通りだった。

 またタチが悪いのは、彼のそれがまったく使い物にならないというわけではないことだった。いっそ全てがダメなら、これは魔女より医者などの方が適正だろうという結論に即、至っていただろう。しかし彼のそれは、途中まではむしろ、間違いなく平均よりも良いだろうと言えるほど調子がいいのだ。

 しかしそれが、ある時から唐突に勢いを失うのである。その「ある時」というのがつまり具体的に何であるのかは、日が沈むまで奮闘した二人だったけれども、ついに突き止めることができなかった。また勢いを失ったモノがやがて復活する時がいつかは来るのだけれど、その「いつか」はまったく規則性がなく、何がきっかけで終わり何がきっかけで再び始まるのか、本当にまったく見当もつかないままだった。

「たぶんダメだ、これは」

「でも、以前は違ったんでしょう?」

 頻繁に挟まれる休憩の中では、お互い快楽を貪ることに熱中することもできなかったので、仕方なしに自然と会話をすることが増えていった。そのタイミングで彼は以前付き合っていた女性がいて、その女性とは普通にセックスが出来ていたこともすでに話している。

 しかし、より重要なことをまだ話していなかった。

「以前どころじゃない。つい最近まで、一人でやってる時は普通に出来てた」

 仕事を辞めた彼には腐るほど時間がある。忙しくて出来なかったゲーム、見れなかったアニメ、行けなかった場所。そして、疲れてそれどころではなく回数が減っていたオナニー。金が続く限りは、つまり今は、全てやりたい放題なのである。

 現に彼は本当につい最近、ネット上に転がる無料視聴可能なAVを見ながら一人でやっていた。具体的には一昨日、魔女が来る前日のことだ。それが昨晩から急に満足に行為が行えなくなるというのは明らかにおかしい。

 調子がよかったりそうでなかったりを繰り返すよくわからない状況とはいえ、明らかにおかしいのならそれはもう医者の分野なのかもしれない。しかし彼はこれを気のせいだと考えたかった。それは現実逃避なのかもしれないし、単純に金が惜しいのかもしれない。

「ふーむ……」

 魔女にとってもこれは悩ましく、かつ不可解な事態だった。性行為を自身の能力と技術で解決できなかった経験は、彼女にとって今回が初めてなのだ。

 この期に及んでアラタが何かを隠したりしている可能性はゼロと考えていいはずだ。そんな彼女の、「言えばタダでは済まない」と思い込み本当の望みを隠す男を、かつて何人か見てきた上での勘はきっと正しい。

 しかし、すると確かに不可思議だ。最近まで一人でとはいえ実際に問題なく行為に及べていたことが、ここで突然できなくなるなんて。アラタは二次元を愛していて、生々しい現実の女性を受け付けない体質なのかもしれないという説も、過去に恋人と人並みのことを経験済みであることを報告されて否定された。まるでお手上げである。

「いいよ別に何も考えなくて。やるだけやったんだ、気にしなくても」

 その台詞が嘘であることを魔女は知っていた。今まで何人かの男相手に今回と同じようなことをやってきたけれど、経験上真っ先に性行為を望むような男が、性行為そのものを取り上げられて平気なはずがない。

「とりあえず気分転換でもしてみる? アラタって私が来る前は普段何やってたの?」

「あっ」

 突如裸の男が上半身を起こす。かけ布団がはがれて見えたその肉体は、脂肪があまり付いていないかわりに筋肉も皆無であった。

「よく言ってくれた。今日、DVDの返却日なんだ」

 服を着て忙しそうに準備をする彼は、ずらかる準備をしている盗人のようにも見えた。逃げるのだ、ここから。

「近いからすぐ帰ってくる」

「あ、うん」

 そう言って彼はケースに入ったDVDをいくつか、店のロゴが入った小さな手提げ袋に入れて家を出て行った。DVDの内容は全てアニメだ。それは時間が有り余った彼がちょうど一週間前にレンタルしてきた物だった。今となってはそのすべてが視聴済みとなっている。

 DVDレンタル店は最寄り駅の傍にある。特に意味のない散歩に出た時にも大した時間はかからなかった、すぐ帰るという言葉に嘘はない。むしろ散歩とDVD返却を同時に行わなかったことが今となっては無意味かつ非効率に思えるが、その時は完全に記憶から抜け落ちていたのだから言っても仕方がない。

 さっさと駅まで行って、レンタル店に入って返却を済ませる。貸し出しと違って返却はレジを通す必要がなく、店側がここに入れておいてくれと用意してある箱に入れておくだけでいい。そのまま帰れば最速での帰宅になるが、せっかく来たのだ、そうはしない。

 結果、彼はまた別のDVDを借りて店を出たのだった。内容はまたアニメだ。というか、返却した物の続きである。何クールも続く長編なのでそうそう最終回が来ることはなく、その途方も無さすぎる点が、まだ会社員をやっていた時代の彼にレンタルを躊躇させていた。

 なので、次々とそれを借りては見ていくここ最近の状態はまさに、彼にとって押し込めた欲望を解放している状態だと言える。その解放に関して彼が金をケチることはない。収入源を絶ったことで、多少熱が出たくらいでは病院に行かなくなったし薬も買わないであろう彼だけれど、欲の解放に金は惜しまない。

 人生においてストレスが幸せを上回るから仕事を辞めたのだ。そんな消去法で幸せを追い求めるからには、ストレスを断つことと一緒に幸せまで絶ってしまっては意味がないのである。幸せとは欲を満たすことで湧いてくる……そう信じる彼は遊びに金を惜しまない。

 そう、惜しまないのだ。絶対に、自分は欲に対して金を惜しまない。

 レジで貸し出しの手続きを行い、金を支払う時。彼はまるで自分にそう言い聞かせているかのようだった。仕事を辞めてからというもの、金を使う時は必ずそんな心境にある彼は、それを別に異常だとか不健全だとは捉えていない。

 むしろ自分の欲のために金を使おうと思えるくらいの余裕が、例えば長編アニメのDVDをレンタルして見てやろうと考え実行するその余裕こそが、仕事を辞めたことで自分が得た何物にも代えがたい物なのだと確信しているくらいだ。

 金を惜しむとか惜しまないとか、そんな発想さえ出てこない疲れ切った生活には、もう二度と戻るものか。そんな、心の底では金を惜しみ、しかしそれを押し切る気持ちは、ある意味彼の誇りとなっていたのかもしれない。

「ふっ」

 帰り道、あることに気が付いて彼は一人小さく笑った。夜道で男が一人漏らした不審な笑みは、安堵の笑みであった。

 思えば自分は欲を解放しようと決めていたのに、一度も金で女を買おうとしたことはなかったじゃないか。ゲームやアニメより値の張るその選択肢を無意識のうちに除外していたのか? いいや違う、自分にはそこまで性に対する欲がなかったのだ。

 突然「何でもする」と言い出す美少女が目の前に現れて、試す気持ちもあって思わずあんなことを言ってしまったけれど、それはあくまでも魔女を名乗る少女を相手にした時の、普通あり得ない展開を前にした時のリアクションだ。そんな展開がやってきたせいで惑わされそうになっていたけれど、そもそも普通に生きていれば自分は生の性に触れなくても特に問題なく生活していたはずなのだ。

 それこそ一人で映像なり画像なりを見ながら楽しむくらいでちょうどいい。直接誰かと行為を行うことなど自分の人生に必須のことではないのだ。もちろん得られる物なら得たい体験だけれども、かといって必死こいて追い求めるほどでもない。それが重要なのだ。そこを忘れていたのがまずかった。

 正直なところ焦っていた、満足にセックスすることも出来ない自分に対して。しかしそれが自分にとって非常にクリティカルな問題というわけではないとわかってしまった以上、もう何も焦ることはない。負い目を感じる必要もない。それは笑みがこぼれてしまうほど、彼を安心させる考え方の発見だった。

 そのような経緯で出ていった時よりも少し元気になって帰ってきた彼を出迎えたのは、事に及ぶ以前とは別の服を身に着けている魔女だった。彼女の見た目は行為を終えた時から結局、初めに対面した時と同じ容姿になっている。

「おかえり」

「ただいま」

「DVD、また借りてきたの?」

 アラタの持ち帰った手提げ袋を見ての質問に、彼は首を縦に振るだけの無言で答えた。

 その気になれば触れられる距離に、触れたとしてもそれを受け入れてくれる女性がいる。帰宅して早々にその身で体感したその感覚は、夜道で一人考えていたことは本当に正しかったのかと、彼の心を疑惑の色で揺さぶるには十分だった。

 彼は揺らぐ心を、気のせいだと押し込める。

「一緒に見ようよ」

「アニメだぞ?」

「うん」

 この魔女がオタクの好む物に嫌悪感を示すような、そんな今さらな価値観を見せることはないだろうと彼も思ってはいた。しかし一緒に見ようと言われて意気揚々と映像を再生し始めるほどでもない。

 結局、断る理由も見つからず魔女の提案に従うことになった。かわいらしいキャラクターの横に「テレビからはなれて見てね!」なんて子ども向けの注意事項が書かれている映像を見ながら、彼は妙に落ち着かない気持ちになっていく。人と、それも女子と、アニメを見るのはこれが初めてだからだ。

 ところで今使っているDVDレコーダーは、これは彼が親から譲り受けた物である。しかし過去譲り受けた物を使うことはあっても、彼が親に金をせびることは無いだろう。たとえ資金が底をついたとしても、そんなストレスにしかならない行動を、彼が実行する日はきっと来ない。

 アニメが一話終わるまで、二人は無言だった。二人とも敷きっぱなしになっていた布団の上に適当な座り方をして、他のことが気にならないほど集中して、夢中になって視聴しているように見えた。

 しかし事実は違う。実際のところ男の方は努めて「集中して見る」ことをしようとしていたのであって、集中できているわけではなかったし、夢中になれているわけでもなかった。だがそれは隣に座る女性が気になることだけが理由なのではない。視聴中、彼はこんなことを思っていた。

 こんなもんだっけ、このアニメ……? 昔はもっと楽しかったような。仕事の合間の時間を縫って見ていた時の、そんな昔の記憶では、このアニメはもっと面白かったような。

 一話が終了してエンディングに差し掛かると、彼はそれをスキップするべくリモコンに手を伸ばす。それが合図であるかのように魔女も喋りだした。

「お酒とか飲む?」

「え?」

「出せるよ」

 本人が飲み食いした物は高い再現率あるいは本物そのままのクオリティで、魔女の能力により無から出現させることができる。出せるというのは昨日アラタが買ってきた物を飲んだからだろうか? きっと違う。きっとこの魔女は、マイナーであったり貴重であったりする酒以外は、言えば何でも出してくれるだろう。すでに体験済みなのだ。

 欠点や弱点、出来ないこともたくさんある彼女の能力だけれども、すでに彼はその能力に、信頼感のような物を覚え始めていた。

「じゃあお願い。この前のと同じやつで」

「了解」

 酒がいくらでも飲める。それ自体は喜ぶべきことだったが、しかし歓喜するほどでもない。彼もそれなりに酒は好きだけれども、それはあくまでそれなり。そして多くの種類を知っているわけでもないし、特別強いわけでもない。コンビニに売っている酒が、彼の知る酒の全てだ。

 そうして一瞬で用意された酒を開けては、どこまでも平和な世界観で話の進むアニメを見る。しかし飲酒を試みてみたけれど、彼にとっては酒があってもなくても、一話分の上映時間である二十分と少しの間が短くなったように感じることはなく、内容の面白さについても特に認識は変わらないままだった。

 多少の疲れで集中力が切れたのか、あるいはいくらか視聴したことで満足感が生まれ、興味が薄れてきたのか。次のエンディングに差し掛かったところで彼はそれをスキップしようとはせず、何とは無しに魔女に聞いた。

「なんでその恰好を選んだんだ?」

「え?」

「どんな姿にでもなれるのに、最初に会った時、なんでその見た目をしていたんだ? 正直未成年に見えるんだが」

 帰宅したら部屋の中に見知らぬ女性が、それも未成年らしき女性がいた時には驚かされた。騒ぎ立てるほどの驚きではなかったのも確かだけれども、しかしなぜ普通に大人の美女であるだとか、一目見て明らかに異質とわかる、人間ではないとわかる格好をしていなかったのかは、未だに素朴な疑問だった。

 その疑問に対していたずらに笑って、少し見下すような態度で彼女は答えた。

「そういうの好きな人多いかなと思って。十代後半の女の子が好きな人」

 見下しているのだとすれば、それはアラタのことではなく男性全般だったのだろう。しかし実際のところ彼女はその手の男を見下しているのではなく、それを理解できていると自負して得意がっているようであった。

「一目見て気に入られるためにピッタリだと思ったと?」

「まぁ、そうだね。別の理由もあるけど」

 彼女がその理由をもったいぶるかのように話さなかったのは、それを話しているとテレビの中ではエンディングが終わり、次の話が始まることを予測していたからだった。

 その点を察した彼は、リモコンに手を伸ばしてDVDを停止させる。

「今日はもう見るのに疲れた。というか、二話見ればいい方だ」

 そのままテレビの電源を落として酒をあおる。

「で、別の理由っていうのは何?」

 アニメの鑑賞会は終わり、魔女が隠し事をする理由は何もなくなった。

「できるだけ怖がられないように私なりに考えた結果、かな」

「怖がられないように?」

「女性とはいえども大人が知らぬ間に侵入していたら、成人男性のアラタから見ても、子どもが侵入しているよりもっと怖くない? でも逆に、明らかに義務教育を終えていないような幼い子どもがいたら、それはそれでとても驚くでしょ? 結局驚くことには変わりないんだけど、このくらいの見た目でいる方が一番マシなのかなと思って」

 確かにあの時魔女が成人女性の姿をしていれば、アラタはより強く彼女が強盗や空き巣の類であることを警戒していただろう。都合の悪い状況に陥った犯罪者が自分に襲い掛かってくることも、もしかするとよりリアルな未来として想像し警戒していたかもしれない。

 逆に小学生程度の姿をした魔女が「おかえり」と言っていれば、それはそれでもっと目を疑っていただろうし、泥棒だ何だと相手を警戒するよりは、自分が誘拐犯として扱われることを警戒するようになっていただろう。言われてみれば大人と子どもの中間の見た目というのは確かに、どれがマシという話をするなら一番マシだったのかもしれない。

 何にせよ実際に起こった結果は、侵入者に対して大きなリアクションをする気力もない、あの時のアラタの無気力さがあってこそのことだったけれど、一方で一応それなりに、魔女は魔女なりに考えていることがあったようだ。しかしそうなると、ならばなぜという話が一つ出てくる。

「言わんとしていることはわからないでもない。けどそれなら、なんでわざわざドッキリみたいなことをしたんだ?」

 見知らぬ他人に家の中で待ち伏せされていたら誰でも驚く。外で声をかけるなりせめて家の前で待ち伏せをするなり、相手のメンタルに気を遣うなら方法はいくらでもあったはずだ。

「いきなり、私は役に立つ魔女なので家に置いてくださいって言ったら、アラタは私を家に入れてくれてた?」

「…………どうかな」

「絶対入れてくれなかったと思う。つまりは私の方にも、時には譲れない勢いっていう物があるんだよ」

 仮に魔女が別の方法で自分に接触してきていた場合のことを想像してみると、軽くあしらって無視する姿が見えてくる、見えてくる……。不審者を家から追い出す労力も惜しい男からしてみれば確かに、無視することが存在の肯定になる家の中での待ち伏せはクリティカルな物だった。

「なるほどね」

 ひとしきり気になることを聞けて満足したのか、彼は自身の中に「今日に対する未練」がないことを自覚した。もうこれ以上行動するモチベーションはないし、起きている意味もない。

 しかし一応まだやり残したことはある。それは家事などと同じように、彼が許容している労力のうちの一つだ。

「なんか疲れたから今日はもう寝る」

「ん」

「でもその前に風呂だ」

 着替えとタオルを持って風呂場へ行く。この家は脱衣所と呼べるような隔離されたスペースはなく、風呂の扉の前で着替えることになる。すると、テレビのある部屋の方から声が聞こえてきた。

「一緒に入る?」

 もはや聞きなれてきた、魔女の声だ。

「なんでだよ」

 拒否の意思を伝えつつ、ひとまず服を着たまま風呂のドアを開けると、今沸かしましたと言わんばかりに湯気の上る湯が浴槽に張ってあった。

 家事において魔女が無敵であることはわかっていたけれど、考えてみれば当然風呂も一瞬で沸かせるだろうということは忘れていた。素で驚きつつありがたいと思い、さっそく服を脱いで風呂に入る。

 そうして彼が風呂に入ってから、二十分くらいは経っただろうか。温まった体と湿った髪で部屋に戻ってきた彼は、湯船の中で思いついた仮説の真偽を確かめる。

「なあ」

「うん?」

 一人で待たされている間、魔女はテレビを見ていたようだった。タイトルも聞いたことがないマイナーなバラエティ番組が液晶に映っている。

「もしかして体を好き勝手作り替えられるなら、風呂なんか入らなくても常に清潔な状態でいられたりもするのか?」

「あぁ、まぁそうだね」

「それって俺に対しても出来る?」

「あー、それは無理」

 もしかして自分は別に、風呂に入る必要なんかないのでは。別に好きでもないし面倒なくらいなのだから、魔女に能力を使ってもらえばいいのでは。そんな仮説はあえなく砕け散った。

「なんで」

「実のところ「清潔な状態」っていうのが何なのか、魔法で再現できるほど私は理解できてないんだ。見た目を良くしたり、いい匂いを漂わせたりは簡単にできるよ? ただ私の魔法の厄介なところは「想像さえできれば何でも出来る」ってところで、実際は清潔じゃないのに清潔そうに見える感じられる状態っていうのも、生み出すことが出来てしまうんだよね」

 そう見えることやそう感じられることと、実際にそうであることは別。ややこしい話で、それってそんなに違うことなのかとは思うけれども、本人が無理というなら無理なのだろう。特殊な力なんか何も持たない人間から言えることは何もない。

 垢という概念と無縁の生活をする夢は果たされなかった。が、それならなぜ魔女は自分に対してだけ、それが可能だと言うのだろう? と思った矢先。

「ちなみに私に対してだけ魔法で清潔さを保てる理由についてだけど」

 出会ってからまだ一日と少しの短い間柄だけれども、すでに彼の思考は先読みされ始めていた。

「私はそうしたいと願えば、新しく自分の体を作ることができる。で、なぜかその新しい体というのは、必ず清潔な状態になる。清潔なだけじゃなくて病気もないし怪我もないし、一切何も問題ない体が作られる。だから私は自分の体を常にリニューアルすることで常に清潔でいられるし、病気や怪我とも無縁でいられるってわけ」

「じゃあ俺に対してもそれをやってもらうというのは?」

 新しく体を作るなんて発想がSF的すぎて、実際体験してみたらどんな感想を抱くことになるのか想像もつかないけれど、しかし実行するかどうかは保留にするとしても、可能か不可能かくらいは聞いておきたかった。好奇心というやつである。

「私は女の体しか作れないよ。知っている物しか作れないんだ。説明したでしょ? 女として生まれたから女の体がどんな物かは知っているけど、男の体は見た感じのことしかわからない。男性器に魔法を使った時みたいな不具合がさ、全身のどこかしらに起こるかもしれないと考えたら怖いでしょ?」

 彼女の言う「不具合」というのがどんな物なのかは一時的とはいえ身をもって体感済みだ。彼は体のリニューアルとやらにチャレンジすることを、たかだか風呂に入るのが面倒という理由のみで試みることではないと直感で理解した。

 しかしその理屈でいくと、例えばあの時食べたラーメンは味こそ良かったものの、そこに含まれる栄養素などは元になった物を再現していないということになるのだろうか? 人間の体に対して見た感じのことしかわからないのであれば、食べ物に関しては食べた感じのことしかわからず、それしか再現されないのでは……?

 今後も食事を魔女の能力に頼る気満々だった彼は、そのあたり根掘り葉掘り問いただしたくなる。が、彼は風呂に行く直前「寝る」と言っていたのだ。足元には自分が風呂に入っている間に整えられた布団が二つある。

 その片方に魔女がもぐりこんだのを見て、何も睡眠を保留してまで聞くことでもないか、という気がしてくる。仮に彼女の用意する食べ物に一切の栄養が含まれていないとしても、それはまた何かしら別の方法ですでに解決されているはずだ。そんなことで自分に騙し討ちのような真似をして、魔女に何か得する部分があるとは思えないから。

 しかしそもそも魔女の行動の理由、動機に何一つ納得はできていない彼なので、そういう騙し討ちが理屈的に無いとは言い切れないこともわかっていた。けれども、たった一日と少しの付き合いだけれども、すでにもう彼は、彼女にいくらかの信頼をおいていたのだ。

「起こした方がいい時間とかある?」

 天井を見つめる形で自分の分の布団にもぐりこむと、隣からそんな声が聞こえてくる。部屋の明かりとテレビの画面は勝手に消えた。そういえば、自分の髪もいつの間にか完全に乾いている。

「いいや別に。というか今日の朝、俺より寝てただろ」

「だから反省しているんだよ」

 反省しているんだよ。そう言う彼女の声は、妙に優しい雰囲気がした。きっと明かりのない暗闇の中で聞くから、そんな印象を受けたのだろう。彼女がアラタを基準にして動こうとすることは、今に始まったことではないのだから。

 静まり返った闇の部屋の中で、ぽつりと彼が口走る。

「名前は?」

 返事はきょとんとしたような声だった。

「名前?」

「こっちだけ名乗ってただろ」

 なんとなく彼は修学旅行で友達と、好みの女子について語っている時のことを思い出していた。旅行どころか、隣にいるのは同性でさえないのに。

「好きに呼んでいいよ」

「名前は何かって聞いてるんだが」

「ないよ」

 確かに聞こえた返事の、その意味を理解することができずに。聞き返すこともできなかった。

「魔女が全員そうというわけじゃないけど、私には名前がない」

「……じゃあ、呼んでほしい名前とかは?」

「アラタが好きに名付けてくれていいよ」

 彼は一瞬迷った。それが決定的に誤った判断になるかもしれないと、直感的に口にしかけた言葉を飲み込んだ。

 しかし迷った末に、彼は飲み込んだ言葉をやはり吐き出そうと決めた。他人に気を遣うなんてストレスが、自分の一番避けたいところだったと思い出したのだ。

「嫌だよ。そんな重大な責任負えないし、センスもない。自分で決めてくれ」

 彼女もまた、そう返されることをどこかで分かっていたようだった。返事に大した時間を要さない。

「じゃあ、ニマド」

「ニマド?」

「うん。そう呼んで」

 日頃の生活で聞きなれないその響きに、思わず聞いてみたくなる。

「どういう意味があるんだ? ニマドって」

「意味は特にないけど、かっこよくない?」

 魔女ニマド。その語感を、この魔女と出会う前にファンタジー小説か何かの登場キャラとして聞いていたら、どうだろう? 確かにかっこいいと思っていたかもしれない。

 架空のキャラとして考えるなら、何か二つ名でもあればさらに響きは良くなるかもしれない。願いを叶える能力を持った魔女。願いを叶える架空の物というと、彼が想像した物は「聖杯」だった。彼の好きなアニメの一つに、手にした者の願いを叶えるという聖杯を奪い合う物語があるのだ。

 聖杯の魔女ニマド。頭の中で声にしてみると、案外悪くない響きだった。

「かっこいいかも」

「でしょ」

 わざわざ二つ名なんて中学生みたいなことを口にしたりはしない。しかしそれとは別に、本人も気に入っているようなので彼は今後、彼女のことをニマドと呼ぶと心得た。

「じゃあ、おやすみ。ニマド」

「おやすみアラタ」

 動機がわからないとはいえ、ずっと自分に尽くしてくれる彼女の存在は、どうしたって彼にとって確実に希望となりえるものだ。ニマド、そう名前を呼んだ瞬間彼は、何か未来への可能性を感じた。

 社会不適合者たる自分が、人並みの、いやそれどころか誰よりも大きな、幸せを掴むことが出来るのではないか。それを死ぬまで離さずにいられるのではないか。いくら不審な点がチラついていたとしても、心の底の方がそれとはおかまいなしに、そんな希望を感じてしまうのだ。

きっと長い付き合いになるだろう。落ちていくばかりだった生活に光明が見えた気のした彼は、久しぶりに、それはもう十数年ぶりに、明日からの生活を楽しみにしながら布団の中で目を閉じたのだった……。

 

 

 

 ……希望だ何だと、数時間前の自分は、ああなんとバカバカしいことだろう。

 日付は変わったが、まだ外は月明りが主役の闇の中。そんな時間になってもなお寝付けない彼は、自分自身を呪っていた。

 一日目、ニマドが突然現れたあの夜、何事もなく眠れたことが今では信じられない。あの時の自分はどうかしていたのか。この隣で眠る魔女の存在を、どこかでは夢や幻だと思っていたのだろうか。あるいはそれとも、おかしいのは今の自分なのだろうか。

 数時間前までは修学旅行の夜を思い出すような穏やかな心でいた彼だけれど、修学旅行なんかに参加していたような遠い昔からまだ、自分の心あるいは本能は、大して進化も退化もしていないらしい。

 つまり、隣に女が寝ている状況で、何も気にせずにぐっすりすやすや眠れるのかという話である。結論としては眠れるわけがない。少なくとも、今の彼にとってはそれが答えだ。

 酒が足りなかったのかもしれない。彼は自分にとって、酔いと眠気が比較的セットで存在しやすいことを自覚している。酒に対して「頼る」という言葉を使ってしまえば人間終わりだとは彼だって思っているけれども、しかしではこの劣情を寝込みの魔女にぶつけることは、それは人としてどうという話にはならないというのか。そんなわけがない。

 背に腹は代えられぬ。そう決めて彼がテーブルの上にある酒の缶を取ろうと、枕元に置いてあったスマホの明かりを頼りに狭い部屋の中を歩き始める。が、テーブルの上に酒などなかった。魔女ニマドが、消滅という方法をもって片付けたのだ。

 酒が缶の中に残っていたかどうか記憶は定かじゃない。しかし仮に残っていたとして、望めば無限に生み出せる彼女のことだ、勿体ないという理由でそれを取っておく理由がない。どんな富豪よりもっと純粋に、本当に「欲しければまた出せばいい」のだ。考えてみればそれはもう片付けていることの方が自然だろう。

 彼女を叩き起こして「酒が欲しいんだけど」と言うわけにもいかない。そんな選択肢は論外だ。しかしではこの落ち着かない気持ちが睡眠を邪魔する現状を、いったいどうやって解決すれば良いのだろう。

 直感的に、彼はまた別の選択肢の存在を思い浮かべた。それはなんだか間抜けな方法だったけれど、しかしそれ以外にこれといった解決策があるようにも思えない。

 彼はスマホを持ってトイレに向かった。イヤホンはなかったが、今なら音がなくてもさほど問題ないだろうと判断する。

 実際、問題なかった。それほど長い時間を要することもなく試みは成功する。要するに彼の取った行動というのは、自慰行為だった。下半身のそれさえ落ち着けてしまえば解決するだろうという、至極単純な発想から来たその作戦は、思った以上の成果を上げることになる。

 それから彼はすぐ眠りについた。元々体力的には十分疲れていたのだ、邪魔な衝動さえ取り払ってしまえば安眠はすぐにやってくる。あまりに単純な自分の、あるいは男の仕組みに彼は少し虚しくなったが、その虚しさが眠りを妨げることはなかった。

 眠りに落ちる直前、なぜ昨晩の自分は平気だったのに、今の自分はこんな様になっているのかというその謎への答えを、彼は頭の中で出していた。以前は「明日にはいなくなっているかもしれない」と捉えていた魔女との生活を、今日はこれからもずっと続く物だと捉えていた。それが悪かったのだ……と。

 自分を受け入れてくれる女性がすぐ隣にいる。そんな生活が続くことを想像するから、変に眠れなくなったりするのだ。昨日と今日、どちらの自分がおかしいのかという話ではない。彼女の存在を意識するかしないか、違いはそれだけだ。

 しかし、だとすれば今日の調子が今後は毎晩続くのか……? そんなことを考える頃には、彼はもう夢の中にいた。

 夢の中で彼は、欲望の赴くままに魔女を、ニマドを犯していた。彼女は笑顔で彼の欲望を受け入れてくれる。それをいいことに彼は、自分の劣情を枯れるまで彼女にぶつけた。何度も、何度も、何度も、何度も。

 そんな夢の中で彼は、彼女との生活が続くことに対してはもう、何の問題もないのだと確信していた……。

 

 

 

 それから二人の生活にこれといった進展はなかった。イベントもトラブルも何もない、ただ平和なだけの生活が続いた。ニマドの能力を持ってしても未だに、金は少しずつとはいえ減り続けるけれど、二人の間にいつか続けられなくなる今の生活へ対する悲壮感だとか、そんな物はどこにもなかった。

 ただ、もはや日常化してしまってトラブルと言うほどではないけれど、解決されないままの問題はある。彼が最後までセックスをやり遂げられない、気持ちはあるのに物理的に萎えてしまうという問題が、魔女との生活から三日、一週間、二週間と経過しても解決することはなかった。

 性に興味がある。それは彼、愛華新の中にある揺らがない事実であったし、ニマドもそれを理解しているから、あの手この手と全力で解決策を探した。しかしそのどれもが、彼をその気にさせるところまでは容易くたどり着けても、最後にまでは至らない。

 にも関わらず彼はなぜか、魔女に隠れて一人でする時にだけは何ら支障なく精を吐き出すことができた。それが余計に彼を焦らせたし、惨めにした。だからだろう、そのことを彼がニマドに報告することはなかった。

 そうして二人が生活を共にしだしてから、二週間が過ぎた頃。気分転換を目的として二人は一時的に性から離れることにした。セックスのことは一旦忘れて、ゲームやアニメや漫画、ドラマに映画など、彼の趣味をより楽しもうとする方にシフトしたのである。

 日常の労力を魔女の能力でほとんど全てカットして、今までより一層余った時間の中そうやって遊んで暮らす生活は、ある種私欲の到達点のような物だった。そんな生活の中で、また彼女の能力の新たな欠点が発見されたりもした。

 遊んで暮らす生活の中の、例えばゲームを題として上げるのだとすれば、魔女はその能力でまだ持っていないゲームソフトを作ることは不可能としている。

「知らない物は作れないから未プレイのゲームも作れないんだけど、ゲームに限らず機械系は私の魔法と相性が悪くてね。複雑すぎるんだ。食べ物は一皿食べれば大体味を覚えられるし、食べるのに必要な時間なんて数分でしょう? でもゲームは全てを知らなきゃ魔法で作れないのに、余すところなくそのゲームを味わって知ろうと思ったら、何時間かかるのかわからない。だから私の力で新しいゲームソフトを手に入れることは期待しないでほしいかな」

「それならニマドの好きな銃は? あれも構造が複雑だから自分では作れないのか?」

「厳密に言えばそうだね。引き金を引けば弾が飛び出す、同じ形の物を作ることはできるけど、内部の構造は玩具の方が立派なくらいだと思う。ゲームもそうだよ? 知り尽くしたゲームを魔法で複製したって、たぶん詳しい人がプログラム解析? とかしたら、デタラメなことになっていると思う。構造がデタラメでも、見た目や効果だけは望んだ通りにできるってことだね」

「なるほど……。複雑って言うなら、もうその能力自体が複雑だな」

 そんな風に、ニマドの能力の詳細を聞くことが、彼にとって一つの楽しみになっていた。その能力の全貌を暴き知ることで、おそらくあるであろう魔女の本当の動機を知ろう……なんて考えはとっくに忘れ去られていて、ただ単に彼女を知ることが楽しかった。

 しかし、では彼がニマドに対して普遍的な恋心や、あるいは友情を抱いていたのかというと、それは違った。それは間違いなく好意ではあったけれど、それを恋と呼ぶことについては、人によって好みがわかれるところだろう。

 いつからかニマドに性行為の相手を務めてもらうことに、アラタが許可を取ることはなくなっていった。ただその意思を伝えるだけで受け入れてくれる彼女に対して、彼が「意思を伝える」ということ以上の過程を踏むことはなくなったのだ。

 確認を取ることはないし、言葉にすることさえない。したくなった時にしたいようにすれば、それを彼女は全て受け入れてくれる。必要な状況も物もすべて自身の能力で瞬時に用意して、あらゆる意味で受け入れてくれるのだ。自覚していないが彼女のその振る舞いは、横暴な人間を作る方法のうち、それなりにメジャーな物の一つだったと言える。

 しかし、そうなってしまっても結果は何も変わらない。背後から突然襲い掛かろうと、寝込みを襲おうと、結局は途中で萎えてしまう。やがてその行為に付き合わされる側が、先にそのことに慣れてきたのだろうか。彼女はある日こんなことを言った。

「いいじゃない、別に。気持ちよくなれたらそれで、その時点で全部ハッピー。ちがう?」

 最後までする必要がどこにある。そもそも、何をもって最後とするのかなんて、我々で決めれば良いじゃないか。そんなような言葉を聞いて以降、彼がニマドに求める性行為は過激さを増していった。時にはそれはもう、人間に対する扱いとしてはあまりにも礼に欠ける行為でさえ行った。しかし人間ではなく魔女である彼女はそれを難なく受け入れる。それが彼の望むところだと信じて。

 そうして彼が行為のあと、いくらか正気を取り戻し一言「ごめん」と謝るたび、彼女が「いいよ」とすんなり許す。それがもはや二人にとってのルーチンのようになっていた。いいよというその一言は、包み込むような優しさを持っていた気もするし、どこか得意げな魔女の余裕を含んでいた気もする。

 そしてそんな魔女との生活が続いて一か月。ほとんどの人間から見て夢のような、そして軽蔑されるべき欲に忠実な生活が続いて、一か月が経過した時のこと。言い表すならまるで「悪化」の一言であったその生活はついに、あるいは唐突に、崩れ去ることになる。

 月明かりが街を照らす時間帯、二人が隣り合ってアニメを見ていた時だった。彼は、気付いてしまった。

「楽しくないんだ」

 独り言のようにぼそぼそと呟かれたその言葉を、魔女は初め聞き取れはしたが、理解することができなかった。

「え?」

「楽しくないんだ」

「……アニメが?」

 突然、ぐらりと安定しない足取りでアラタが立ち上がる。酒は入っていないはずだったがおぼつかないその足取りのまま、彼は数歩あるくと自分の髪を掴み、力任せにそれを引き抜き始めた。

「わかった……! 楽しくないんだ! こんなことしていても、何も楽しくないんだ!!」

 音とは振動であるのだということを思い出させる、体の芯まで揺らすような大声で、彼は言った。楽しくないのだと。その言葉の意味するところが彼女にはわからない。

 発狂。それが一番適切な表現であるように、魔女の目からは彼がそう見えた。そしてその声は、何かに対して怒りをぶつけているかのように聞こえた。

「ど、どうしたの……? 平気……?」

 取り乱した様子の彼に、魔女はまるで見た目通りの歳の少女のように、頼りない様相で駆け寄る。しかし彼女の伸ばした手は乱暴に振り払われた。

「わかったんだ。俺は、全然楽しくなかったんだ! 昔はもっと楽しかったのに、昔はこんなじゃなかったのに……」

 引っ張ったからといってそう簡単に抜ける物でもない髪を、彼は無理やり引きちぎるようにして抜いていく。

 手を差し伸べることを拒否されたニマドは、それを見ていることしかできなかった。魔女は皆精神が強いと彼女は語ったが、それはつまり打たれ強いということであり、どんな状況にも怯まないというわけではなかった。

 自分に狂気を向けられる分にはいくらでも構わない。全て受け入れることができる。しかし今の彼をどう助けてあげればいいのか、彼女にはまったく見当もつかない。

 しばらくすると、彼は髪を抜くのをやめた。そして、まっすぐニマドを見つめる。一か月もの時を、その内に含まれた内容の密度を思えば「たった一か月」ではなく「一か月も」を共に過ごしてきた魔女を、女性を、見つめるアラタ。そして彼は、聞き取りやすく通りの良い声ではっきりと言った。

「終わりにしよう」

「な、なにを……?」

「俺たちのことを。……もう一緒にいるのをやめよう」

 終わりという言葉を聞いて、ニマドが真っ先に想像した物は自殺だった。あるいはそれに付き合ってくれとでも言われるのかと咄嗟に考えていた。そうではなかったことにまず安堵する。不死である彼女にとっては「死ね」と言われることより「死ぬ」と言われることの方が重いのだ。

 が、その代わりに提示された願いは、それもまた彼女にとって好ましいとはとても言えない物だった。

「なんで、どうしたの」

「もうお前のことを見たくない」

 良心の欠片もない台詞を吐く彼はしかし、悪意をもって彼女を攻撃しているようには見えなかった。魔女の心が強いからなのか、それとも誰から見てもそう見えるのか。ニマドには今の彼が、何かに怯えているように見えた。

 同時に彼女には、今までアラタに尽くしてきたという自負がある。彼が何か望みをひた隠していないか探る段階はすでに通り過ぎていて、むしろ自分が彼の中にある、彼自身も気づけない欲を探すくらいの気持ちでいた。

 だから今、どうしてそんなことを言うんだとか、自分はどうすれば良かったのかとか、そんなことを言う気にはなれない。その答えを彼が持ち合わせていないことを一番知っているのは、彼自身などではなく、彼の傍にい続けたニマドだからだ。

「そっか……」

 もうお前はいらない。そう言われれば潔く去ることもまた、願いを叶えるという行為に該当するのだろう。出来る限りの願いは叶えると一度言ったのだ、その約束を破るわけにはいかない。

 しかし彼女にだって未練くらいはある。

「じゃあ最後に、アラタのことを聞かせてくれない……? 今アラタが何を思っているのか聞かせてほしい。そうしてもらえたら、私は言われた通り出ていくよ」

 彼女の目的は、魔女ニマドの真の目的は、人間から求められることだった。

 合戦という名の殺し合いが行われていた時代、その時代を生きていたニマドは、アラタの予想通り人を殺めていた。それも一人や二人ではない、大昔の彼女は、言いようによっては殺人鬼の一面を持っていた。しかしそれはあくまで彼女の一面であり、全てではない。

 封印された後、現代に蘇った彼女は、直接命を奪い合う闘争が時代に合わなくなったことをすぐに悟り、闘うことに楽しみを見出すのをやめた。そのかわりに、自分の封印された以前の時代からは考えられないほど発展した世界をめぐり、その目で見て、実際に体験することを人生の目的にした。

 ただ、何をするにしても、友達がいた方がより楽しい。現代ではそれが特に顕著で、中でも目新しい時代を楽しむにあたっては、その時代に馴染んだ人と行動を共にした方が楽しい。そのことを知っている彼女は、不特定多数ではなく、特定の個人に好かれようとする。つまり友達を得ようとするのだ。

 そして大昔から自らの能力を使い、人間の欲につけこむことで共依存の関係を築くことを得意としていた彼女は、現代においてもまったく同じことを試みている。もちろんそれは彼女が現代に蘇った時から数えても、アラタが初めての相手というわけではない。

 力を持つ物につけこんだ方が、自身の取れる選択に幅が出る。人生がより楽しくなる。だからその昔彼女が狙った相手は必ず男だった。しかし男女平等の気風がある現代においても彼女が狙いを変えることはない。現代の男は女と比べて昔ほど露骨に力を持っているわけではないけれど、それでも慣れた狙いを外すことはないと自負していたからだ。

 だから彼女は本当に、なぜ今こんなことになってしまっているのか、まったく理解できていない。彼女はこの一か月、自分の人生は今までと同じように、全て上手くいっていると信じて疑わなかった。

「聞いてどうするんだ?」

「どうするってことじゃない。ただ聞きたい。アラタが私のことを聞く時、必ず何か狙いがあったの……?」

 焦ったような物言いの彼女は、事実珍しく取り乱していた。

 願いを叶える能力を持った魔女が自分の企みをしくじることは、それはとても珍しいことだった。友達の定義がひどく広大で、共依存の関係を全てそう呼ぶ彼女にとって、失敗はほとんどあり得ないことだったはずなのだ。

 どんなに非道な行いをする男であってもそうだった。人間が作った倫理の道を、人の身でありながら踏み外し続け、欲望に病んでいく男であってもそうだった。追い込まれた男がその果てに自分へ何か言うとすれば、それは「見捨てないでくれ」であったはずなのに……。

「まずはゲーセンに行ったんだ」

 そうやって初めてのパターンに戸惑う彼女に、彼は唐突に語り始める。

「え……?」

「仕事に行く時、電車の窓から見えるゲーセンがある。仕事を辞めてすぐの平日に、開店と同時にそこへ遊びに行った。働いていたら絶対できないことだったから」

 天井の照明を照らし返すフローリングの床の上に、抜かれた髪がゴミとして何本か落ちている。彼はうつむき、それを見つめているように見えた。

「酒とつまみを買って、海まで行ったこともある。今まで自分が働いていた時間に、誰もいない浜辺で波や空を見ながらだらだら過ごした。そういう贅沢な時間の使い方をすることにこそ、仕事が邪魔で得られなかった幸せがあると思ってたんだ」

 ニマドは彼の話を黙って聞く。噛みしめるように、言葉の一つ一つ、その全てにかけがえのない意味があると信じて聞き逃さない。

「欲しかったゲームを何本も買った。アニメも買いはしなかったけど、惜しみなくレンタルした。酒も買うし、漫画も読むし、何の意味もなく散歩するなんて前じゃ考えられない、贅沢すぎる時間の使い方を何度もしてやった。スーツを着た疲れた顔の奴とすれ違うと、あぁやっぱり辞めて正解だったんだって思った。一日中ネットを眺めて過ごしたって、全然時間を無駄にした気がしなかった。むしろ以前から出来ていたそんなことでさえ、有意義な時間を過ごしたぞってポジティブな気持ちになることができた。その生活の方が、働いていた時と比べてどう考えても絶対に正しいと思った」

 彼の声は、語りが進むにつれてどんどん小さく、エネルギーのこもっていない物に変わっていく。最後の方に至っては静かに泣き出しそうなくらいで、何かしらの懺悔をしているかのようだった。

 仮にそれが懺悔であるのなら、彼の欲を一番近い距離でぶつけられ続けたニマドに対してそれをするというのは、もしかすると誰にするより最も正しいことなのかもしれない。

「でも違った。俺は全然、楽しくなんかなかった。仕事を辞めた日からずっと、今日まで、今も、何一つ楽しくなかった。こんなの全然違う。昔はもっと楽しんでいたはずなんだ。心の底から笑って、何も不安になんか思わず、何かもっと、純粋な楽しさがあったはずなんだ。それがわからないんだよ。どうすれば楽しいのかわからない。仕事をしていた時期も楽しさなんか無かったのは確実にそうだ。その時に戻れば幸せってわけじゃない。じゃあどうすればいい……? どうすれば幸せになれるんだ? わからないんだよ」

 その言葉の意味が、実のところニマドにはわからない。長きに渡って封印されていた彼女は「飽きる」という感覚だけは知っている。だから「楽しいけど、これは本当の楽しさじゃない」という感覚について、飽きで説明できる物だけは彼女にも理解できる。

 しかし彼女は基本的に楽しいか楽しくないか、あるいはどちらでもないか、イエスかノーかゼロの三択で生きている。そんな彼女にとって複雑な心の話は不得意な領域だ。それが不得意でも、ただ受け入れるというだけで今までは全てが上手くいった。今までと現在、何が違うのかと考えると、やはり時代かなと、彼女は思った。封印を解かれて以降の今まで、ただ運よく遭遇しなかっただけで、現代の人間とは時折こういうタイプがいるのだろうと。

 そして不得意なりに彼女は、アラタはきっと世の中のいろいろなことに飽きてしまっているのだと仮定する。自分から見れば輝いて見える世界だけれど、彼はそれに飽きてしまっている。今されている話はきっとそういうことなのだと、ニマドは考えた。

「それなら、アラタの求める「本当の幸せ」が何なのか、これから私と一緒に探していこうよ。きっと役に立って見せるから。……それに私が役立たずだったとしても、それでも一人よりは二人の方がいいはずだよ。そうでしょう……?」

 誰かと共に行動するのがいい。その考え方は「知ることができない」という制約を持った能力を生まれ持つ彼女の、「教えてくれる人」を必要とする本能から来る物だった。

 人間は誰も特殊な異能力を持たない。特殊な力を使って何かを知ることはできないという点で、ニマドと人間は同じだ。一人より二人がいいという考え方はきっと正しい。結局のところ魔女も人間も、補い合って生きるのが最善なのだ。

 しかし世の中には、どうしようもない人間がいる。最善を最善と知ってなお、まだそれを選ぶ気になれない者もいる。

「俺がなんでマトモにセックスできなかったのか分かったんだけど、聞くか?」

「えっ?」

 返事になっていない言葉を聞いて一瞬戸惑うも、今のニマドにノーという選択肢はない。

「うん。聞かせて」

 すがるように聞き役を務める彼女を、突き放すように彼は語る。

「上手くやらなきゃって思うとダメなんだ。初めてニマドを抱こうとした時、上手くやらなきゃって思った」

「上手く……?」

「上手くっていうのは何の滞りもなく、入れて、動かして、出すんだ。わかるだろ」

「え……? つまり、そうしなきゃいけないと思うとダメなの……? え、でもさ、アラタは、そうしたいって思ったから、だから、するんでしょう……?」

「したいさ! したいけど、でも実際のところそうなんだ。ただセックスするだけでもいろいろあるだろ。出すのが早いとか遅いとか、動くのが下手とか」

「いや、えっ、なに、それを……それを気にしていたのがダメって言うの……?」

 それは彼女にとって予想もしていなかったカミングアウトだった。そんなことで悩む男がいるなんて思わなかったとか、そういう話ではない。事実彼女はその手の「自信がない男」の相手をしたこともある。それも受け入れたのだ。受け入れることで、全てが丸く収まった。

「そうだよ、悪いか」

「いや、悪くない。悪くないけど全然、でも、でも初めはそうだったならわかるけど、ずっとでしょう? ずっとそれで、気持ちが集中できなくて、最後まで出来なかったって言うんでしょう?」

「だったらなんだよ」

「アラタはずっと、私はそんなことこれっぽっちも気にしないだろうって、どこかで思わなかったの……?」

 ニマドがセックスに愛を求めることはない。快感を求めることもない。相手の技巧などに一切興味を持っていないのは、これは本当だった。

 魔女とはいえ人間と同じ体を持つのだから、しかるべき条件を満たせば快感は覚える。その快感は彼女だって好んでいる感覚だけれど、だからといって相手の男からそれを満足に与えてもらえなかったとしても、何も不満に思うことはない。願いを叶える能力を使えば、そんなものいくらでも自分で用意できるからだ。

 愛に関しては、そんな大層な物を求めていないと言った方が正しい。彼女は特定の誰かに必要とされたいのであって、その「必要とすること」の言いかえが愛であろうとなかろうと、彼女にとっては大差ないことなのである。

 だから彼女は本気で、彼の言うようなことなど全く気にしていなかった。どうすれば彼を満足させられるのかを考えるばかりで、どうすれば自分が満たされるのかなんて考えたこともない。

考えるまでもなく、彼に必要とされることが、自分が満たされるための方法なのだ。だから性行為でもそれ以外でも何も変わらず、彼を満たすことが、彼に必要としてもらうのに一番効果的な手段なのだと、ニマドはそう信じて疑わずここまでやってきた。

 しかし今、客観的に見て散々身勝手な振る舞いをしてきた男のしている話は、彼女の内心を伝えたところで丸く収まるほど簡単な話ではないらしい。

「ニマドがどう思っているかなんて関係ないんだよ」

 斜め上を行く言葉に魔女とはいえども一瞬怯む。

「俺がどう思うかなんだ、俺が気にしてるんだよ。そっちがどう思おうと、俺が気にしてるとダメなんだよ。一人でエロ動画見てやる分には何の問題もないんだからそういうことだろ。生の存在を相手にするとどうしても気にしてしまう、だからダメなんだ。ダメって一度思うと、そのせいで余計集中できなくなって、それでもっとダメになる。悪循環だ。どうせニマドのことを俺がどんな風に扱っても大して気にされないことくらい、なんとなく察してはいたけど、でも見てただろ? 察してても、わかっててもダメなんだよ。上手くやらなきゃっていうのが理屈じゃなくて、頭から離れないんだよ。何のために誰のためにじゃない、頭から離れないんだよ!」

 洪水のような、自意識の塊のような言葉を、己のためだけに女へ投げつけて。最後に彼が言った言葉は、また繰り返しになる物だった。

「昔は、こんなんじゃなかったんだ。昔は違ったんだ……」

 なんでこうなってしまったのかわからない。そう言って文字通り頭を抱える彼は、もはや誰がどう見ても、救ってやることのできる状態ではなかった。

 彼は気付くのが遅すぎたのだ。自分は正しい道を選んだと、自分は幸せなのだと思い込むことに必死になりすぎた。魔女が来ようと誰が来ようと、あるいは誰が来ることもなかろうと、気付くこと自体は時間の問題だったのだ。しかしそれが結局、遅すぎた。

「……私にはどうすることもできないっていうのは、わかったよ」

 ニマドもまた、彼の抱く思いに気が付くのが遅すぎたことを察知した。彼女に対して、アラタが満足にセックスできない理由に気付けというのも無茶な話だったが、では仮に気付いていれば別の結末にたどり着けていたのかというと、それもはなはだ怪しいものだ。

 他人の内に秘めたる欲望を曝け出させることは得意な彼女だったけれど、そうではない悩みや葛藤を見つけるのは、そしてそれを解決してやることは、彼女にとってまったく専門外、不得意なことだった。

「でも、それでどうして、私のことが必要なくなるの……?」

 自分ではもはやアラタを満たすことはできない。けれども、それでも自分が必要とされる理由が皆無になったとは彼女には思えなかった。心は満たせなくても、いくらかの役には立つはずなのに。出ていけと言われることで傷つくような、人間みたいな心は持っていないけれど、かといって「はい、そうですか」と納得することも出来ない。

 まだ役に立てることはあるはず。自分を捨てることはアラタにとって損であるはず。……なんて、そんな消去法のような考え方が役に立つ状況ではない。ニマドにはまだ、それがわからなかった。

「必要ないんじゃない。もう、見たくないんだ」

「でも昨日まで、さっきまでは」

「さっきまでの俺がおかしかったんだよ。気付いたんだ」

「気付いたって、何に……?」

「何でも出来る環境を用意されて、何も出来ないっていうのが、何より一番みじめなんだってことに」

 今の彼に対する魔女は、役に立つからこそまずい。この力の恩恵を受けているのはきっと世界で自分一人だけだろう。そう半ば確信できるほど貴重で強力な力を味方にしながら、まったく幸せを実感できないこと。それが彼を苦しめる。

「ニマドが来る前から、俺はずっと恵まれた環境にいたんだと思う。来た後はなおさらそうだ。でも今は、そのお前を見るのが一番つらいんだ。頼むからもう、どこかへ行ってくれ……。そっちは俺無しでも生きられるんだろう……?」

 彼女が何かをするからつらいのではない。彼女が何もしてくれないからつらいのでもない。大きな力を持った彼女が味方としてそこにいること、それ自体が、一番つらい。何でもしてくれる人がいるのに何もできない自分を見せつけられているようで耐えられない。

 しかしそれを言うにはあまりにも急すぎる。さっきまで少なくとも表面上は仲良くしていた相手に、突然そんなことを言われたって普通は受け入れられた物じゃない。

 けれどもこの尽くす側と尽くされる側の関係の上に成り立つ二人を、表面上とはいえ「仲良くしていた」と捉えるような時点で、それはもう普通ではない。ましてや彼女は魔女だ。人間とは異なる精神を持って生きている。

「わかった。……ごめんね」

 そう言い残して、ニマドは消え去った。

 靴を履いて玄関から出て行ったわけではない。窓を開けて飛び立って行ったわけでもない。初めて会った日の彼女が見せたパフォーマンスのように、彼女は少しの音もたてずに、ただ跡形もなくその場から消え去ったのだった。

 残されたアラタは座りこむ。ストレスを消し去っただけでは一向に幸せになんてなれないのだということを、幸せになれると信じて仕事を辞めてきた彼はすでに知っている。ニマドを排除したところで、彼に幸せなんかやってくるはずもない。

 遡って考えるなら、仕事を辞めたその時点で彼は、出口のない暗闇の中に落ちてしまっていたのだ。もはや何をしてもそこから抜け出すことは叶わない。プラスを増やすのではなくマイナスを減らす「逃げ」の思考に、行動に出た時点で、彼はもう詰んでいた。

 しかしそれならば、いったいいつから彼は道を誤っていたのだろう。いつからそんな考え方をするようになってしまったのだろう。もっと純粋に楽しめていた昔というのは、具体的にはいつ頃のことだったのだろう。どこからおかしくなったのだろう……。

 もはやそれは誰にもわからないことだった。仮にあのニマドの能力を使ったところでさえ、それはわからないことだ。人間にはなおさらどうしようもない。

 消えたニマドは、またどこかで似たようなことをして、それなりに元気に、楽しく、幸せに生きていくだろう。今回の件で心に傷を負いトラウマを背負うような弱さは、魔女の心には一切ない。そういうこともあるのだと教訓のような思い出の一つとして、愛華新との一件を受け止めて次へ向かうことだろう。

 一方でアラタは、おそらくもうどこへ向かうことも出来ない。彼がこれからどう生きていくのかは誰にもわからない。しかし彼がいずれ迎える最期は、それは、きっとあまり良い瞬間にはならないだろう。

 彼は、幸せを感じる心と共にもう一つ、いよいよ良心を捨てすぎた。

 

 

 



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