一般家庭出身、世界に通用するほどの飛び抜けた何かを持って生まれた訳ではなかった。
そんなサツマ・ハヤトが、二本の杖を使える理由。
それは普通の魔法使いにおける『最も相性が良い杖は一本だけ』というルールが、彼にはたまたま当て嵌まらなかったとしか言いようがない。
彼の初めての杖選びの時……杖を選び終わり、さあ帰ろうという段になって、ガタガタと、襖の奥に仕舞われていた杖がやおら自己主張したのを覚えている。試しに手を取ってみれば、それもまた完璧にハヤトの手に馴染んだ。両親は悩んだ末に、二振りの杖を買い与えた。
もし一本の杖しか買わなければ、ハヤトは魔法使いとしては普通レベルの、多少不器用なくらいの存在にしかなれなかっただろう。
けれど、結果としてハヤトは二振りの杖に好かれた。
黒檀の木、芯はケルベロスの牙。27センチ、頑固。極めて強力な自我を持ち、己の精神を貫き通す杖。善悪に囚われない。
桜の木、芯はドラゴンの心臓の琴線。26センチ、脆い。極めて破壊的なため自制心が求められる。戦闘以外ではやる気を出さないじゃじゃ馬。
それぞれがハヤトにとって最適、最優の杖だった。
だが、杖が二本あったとしても、別にハヤト自身の強さが跳ね上がる訳ではない。むしろあまり器用ではないハヤトに、杖を二つ使う修行は困難を極めた。
だから、彼は剣を極めた。
魔力を一点に集中させ、研ぎ澄ます魔力の刃。その修行だけを延々と、途方もなく繰り返した。そしていつしか至高の雑種、狂犬ハヤトと呼ばれるに至った。
──しかし獣は、より強い獣に淘汰される定め。
「ぐうッ……!!」
ハヤトの両腕があった場所には、尋常ではないほどの痛みが走る。痛みに耐える訓練をしていた彼だが、グレイバックの悪辣極まりない斬撃は、思わず彼に苦悶の声を上げさせるほどの痛みを与えていたのか?
そうではない。腕など痛くない。ハヤトが怒っていたのは己自身。鍛錬が足りていなかった。その悔しさに、知らず声を上げてしまっていた。
必殺の居合剣術は、この時をもって失われた。
杖を握りしめた拳は、くるくると宙を舞っていた。
「痛ッ……てェエエエな!ガキがよ、紅い力を持ってる訳でもねえのによ……!ムカつくが誇っていいぜ、俺にこれだけの手傷を負わせるとはな!」
奥歯を噛み締めるハヤトとは逆に、グレイバックは勝ちを確信したような声を上げていた。
それも当然だろう。
グレイバックとハヤトの一騎討ちは、グレイバックの方に軍配が上がったのだから。
「まあ、種族と経験の差ってやつ?お前も大概の死線を越えてきたんだろうが、それは俺も同じ。
だが俺にはこの至高の肉体と、紅い力がある。帝王様からいただいた、ありがた〜い力がな。紅い力は魔力の他にも身体能力を高める効果もあるんだが、俺の場合、魔力はほとんど上がらずに肉体強化がメインなんだよ。
オスカーはすり抜ける能力に与えられた魔力の殆どを使ってたが、やっぱシンプルなのが一番いいよなァ。
ごちゃごちゃ考えるのは性に合わねえ……お前もそう思うだろ?なあ──…」
くるりと振り返ったグレイバックは、そこで、思いもよらぬ光景を目の当たりにした。
──がぶり。
宙に舞っていた左腕。落ちてきたそれをハヤトは口に据えて咥え込み、魔力を流した。
桜の杖は、再び鈍い光を放ち始める。そして矢のような速さで、グレイバックの土手っ腹に剣をブッ刺した!
「なッ!!!?????がっ、ぎゃあああああ!!!」
完全に油断し切っていたグレイバックは、それを無防備にも食らってしまう。これまでのささやかなダメージなど非にならない、正真正銘、運命を分かつ一撃!
「なんッ、何、何をしやがるんだテメェ!!!
自分の腕を噛んで!?!?イカれてんのかァ!?」
「
もう、正気ではない。理性は捨てている。
狂奔の執念に臆するグレイバック。有り得ない、俺は何と戦っているんだ?バケモノとして暴虐の限りを尽くしてきた夜の王は、正気を捨て去った怪物の姿を目の当たりにした。
「ぶっ……ころひて……やっど………!!!!」
殺意の波動が確かに聞こえた。
頭がおかしい。何がおかしいって、こいつはここまで追い詰められても尚、『殺し合いを愉しんでいる』。
ハヤトはヤケクソになっているのではない。
ただただ合理的に、殺しに来ている。
それが気持ち悪い。こんな奴は今までいなかった。ハヤトは今や死に体だ。ただの屍が何故、どういう理屈で元気に動き回ってる?
「おっ…お前バカがァ!!いい加減にしろォ!!俺は俺好みの連中で遊んでそこそこのスリルを味わって生きてたいだけだァ!!死にてえ訳じゃねえ!!!お前みたいなのは迷惑なんだよォ!!!不細工があ!!!!」
「んんんんんんんん!!!!!!」
もはや言葉まで失くしたか。
相手をするだけ無意味だ。そうだ、自分は人狼だ。たかが人間の悪足掻きごとき、どうってことない。傷は深いが治せる深さだ!
グレイバックは、ハヤトの身体をどかそうとして。
「ぐぅるるるるぅあああああ!!!!」
「なっ………」
──人狼に完全に変身したコルダが、巨大な氷柱を手に突っ込んで……!
ぶちゅり。肉の破ける音。歪な醜い獣の振るう氷の槍が、白毛に鮮血を落とした。
「があああああああっ!!!
コルダ!!!!???邪魔すんなお前ェ!!!
もう十分遊んでやったろうが!!!」
「ヴァ……ダ……しハ……ゔぁるフォイ……け……の、娘ダ……!!」
彼女の望みはもう叶わない。
コルダの密やかな夢も、務めも、破れてしまったのならば。あとはもう──マルフォイ家に恥じぬ行いしか、することがない。
誇り高く、生きるべしと。
「逃がサナイ……この好機ハ……
お前ハ……何処ニモ……行けナイ……!」
「お前もイカれてんのかァ!?どいつもこいつも!!
痛ッ、痛え!!離せバカども!!!離せ!!!!」
「おん、コルダ……死出の道行き、付き合ってやっど」
(ま……まずい!)
グレイバックは限りなく頂点に近い生物、その身一つであらゆる生物を蹂躙できる孤高の王者。けれどもその肉体を抑え込んでいるのは、剣を内臓の奥まで差し込んだ狂気の
至高の人狼は、ずるずると歩みを進めるくらいしかできない。抵抗する力が奪われている。
(コルダ、こいつ、長い間氷魔法を使っていたせいで、氷に対する耐性が俺より高いのか!?辛うじてだが……!
やべえ、ここにいるのはやべえ!力が抜ける!)
「逃ゲ……る……ナ、卑怯者……!!!」
「うるせえ黙れ離せ──
──はっ?????」
浮かぶ疑問符が、いくらあっても足りない事態。
チャリタリの死体が動いていた。
「なっ……何してんだお前」
チャリタリは答えない。その顔は能面の様で、答えは期待できそうになかった。コルダとハヤトも、グレイバックを抑えるのに夢中で、チャリタリの異常には気付けていなさそうだった。
何故だ?何故だ!?殺したはずだろう!何故、チャリタリは動ける?胴を切断されているのに!?
這いずるようにして、彼女の上半身が、グレイバックの方へと走ってくる。悍ましい。訳が分からない!
グレイバックは知る由もないが、ほぼ同じ頃、ピーター・ペティグリューもまた、不完全ながらも死からの脱却を果たしていた。
だがチャリタリのはそれとは違う。グレイバックは本能でそれを悟った。
いや、違う気がする、と言うだけだが……。
何というかアレは……生物とか死体とか、そういう肉体の範疇にない気がする。
分からない。アレは本当にチャリタリなのか?
いや、アレは……人間なのか!?
「寄るんじゃねェーッ!!!!!」
グレイバックの叫びを無視して、チャリタリはグレイバックの首に絡みついた。それは恋人にキスをする娘のようでいて、獲物を絡め取る食虫植物のようでいて。
恐懼を打ち払わんと咆哮を上げるけれども、チャリタリの死体のようなものは、止まらない。
止まって、くれない。
「ガキどもがぁああああああ離せええええ!!!!」
火事場の馬鹿力、とでも言うべきか。
勝負の帰趨だとか、そういったものが頭から立ち消えて、ただ裂帛の雄叫びと胸を張り裂けんばかりの眼前の脅威を滅するという危機意識が、白狼の底力をこれ以上ないくらいに引き出した。
大きく弧を描くように回り、へばりつく二つの邪魔者を振り払う。突き刺さっていた杖はからんと音を立てて床に転がった。尚も胸を締め付ける氷の温度は、気にならなくなっていた。
(死ねッ!!!)
怪物──もはやそう形容するしか他にない。恐怖を切り裂かんとしたグレイバックの放った斬撃波は、これ以上ない怪音を発しながら直進した。
物理法則が、一人の男の前に断末魔を上げる。燃え上がらんまでの四肢が唸り、常識を屈服させる。
グレイバックは右手屈筋、左手屈筋、橈骨筋、回内筋──身に積んだ魔力と筋力に全てを託した。凶器として練磨された肉体が、極限の集中力でもって切り裂いた。
壊れた腕が悲鳴を上げたが、無視する。
──水でも流れたような、滑らかな音。
限度を超えた速度の斬撃は、しかしドラコの持つスリザリンの剣の前には、紙屑を払うよりも簡単に受け流されてしまう。
「──ごめん、コルダ……お前の言う通りなんだろう。
僕はスリザリンに入るより前にお前の兄ちゃんになったけれど……それよりもっと前に……僕はマルフォイ家に生まれたから……!」
だから、誇りのために動いた。
コルダを、止めなかった。
青年の述懐を気にも止めず、白狼は駆け出した。グレイバックは自身の技巧に信頼はあっても誇りはない。
彼は逃げた。斬撃を目眩しに逃げ出した。
冷酷なる鬼気は未だあれど、グレイバックは、更なる殺戮のために逃走を選択し、旋風を上げながら、地平線の彼方まで疾走せんとする。
(何だったんだ、ふざけんじゃねえ、馬鹿どもが。だがまあいい逃げれば勝ちだ仕事はした俺は勝った俺は)
思考の渦に囚われていた時にはもう、遠く離れた物陰で全ての成り行きを見守っていたエミル・ガードナーが既に、引き鉄という名の魔弾の最後の構築式を、静かに引き絞っていた。
今まで弾丸を“曲げて”直撃させていたエミルだが、戦いの終わりを予感した彼はグレイバックの逃走経路を予測して、弾丸が直進できる位置に陣取っていた。思考が散漫になっており、また、逃げることではなく走ることにのみ神経を注いでいたグレイバックにとって、エミルの魔弾はまさしく死を運ぶ風に他ならない。
弾丸はグレイバックの疵口を貫いて食い破り、ゴロゴロと無様に転がった。
「エェェェェエエエエミィルゥゥウウウウウ!!!!」
チャリタリの上半身はいつの間にやら、グレイバックの背後に立っていた。体温を失った筈の肉体からは、猟奇的な色気を感じさせた。男を惑わせるはずのそれが、痛みに悶えるグレイバックにとって、甘美な死の誘いのように感じられた。
この苦しみに悶えながらずるずると逃げるのは、たとえそれが僅かな一瞬であろうとも、残酷なまでに長く感じられたであろうから。
とん──細く長い指が狼の背中をなぞった。
もはや咎を与えられるだけの身となった狼はゆっくりと振り向く。艶やかな邪さを秘めた蒼い瞳が、獣の狼狽を映していた。
「なにを──」
言葉になるより前に、指が動いていく。
とんとんとん──二度三度と繰り返し、やがてその腕は狼の毛皮に深く埋もれた。淡い金髪が揺れる。女はわずかに目を細め、細く息を吐く。女の体温を感じる。ただそれだけのことで、狼の心は平静を奪われる。鼓動が早鐘を打ち始めるのを自覚していた。
「不滅のサンスベリア
慈愛のサンビタリア
あなたを永久に思いましょう」
やがて
静かな声だった。
それは美しい
その顔を見たとき、狼はなにかを言おうと口を開きかけたけれども──怨念の叫びさえ出なかった。獣は低く喉を鳴らすことしかできなかった。
「『復讐のクアドリフォーリョ』」
──頁を捲るようにそれは開いて、
──本を綴じるようにそれは閉じた。
▽▽▽▽▽▽
「……何だここ」
疑問を乗せた声色が空気を震わせる。
グレイバックがいたのは、大樹のうろの中のような、花と苔がビッシリと生えた黄緑色の空間だった。
空間は円形に広がっており、壁は分厚い蔦で覆われている。天井からはぽつぽつと無数の光の球体が蛍のように輝いており、周りを柔らかく照らしていた。
辺りには人の気配はない。
誰もいない植物の空間の中で、グレイバックは焦るどころか、戦いの緊張感から解放されて心地良ささえ覚えていた。
「訳わっかんねえ……」
先程までのことは、鮮明に思い出せる。
チャリタリの手が触れて、金縛りに遭ったことも。
そして──、 と、そこまで思い出したところでグレイバックは頭を搔きむしった。
気が付いたらこの場所にいた。そのようにしか説明のしようがない、という事実に気付き、グレイバックは舌打ちをするほかなかった。
「訳わかんねえのはこの身体もだ……
何で治ってる?吸血鬼じゃねえんだから、あれだけの深手はそう簡単には治らねえ筈だが」
コキコキと首を動かす。コンディションは万全で、擦り傷一つない身体。あの暗黒の城で戦闘していた時よりも調子が良いのを感じる。
先程までの激戦が夢だったかのようだ。いや……夢見心地なのはこの世界の方か?
「ここはアタシが創り上げた罠魔法の中だよ」
「ッ!?」
声のした方に振り返る。チャリタリが苔の生えた岩の上に腰掛けていた。母親に絵本を読み聞かせてもらっている童女のような穏やかな表情だった。
いや……どこから現れた?
遮蔽物の存在しないこの不思議な空間に、隠れる場所などありはしない。だと言うのに彼女は、グレイバックの鋭敏な鼻にも耳にも感じ取られることなく、突然その場所に現れた。
「さっきアタシはアンタに罠魔法を使ったんだ。
人生を懸けた大魔術……効くかどうかは正直不安だったけど、上手く行ったみたいでよかった」
ハッと気配がして振り返る。そこにもなんとチャリタリの姿があった。先程彼女が座っていた場所を見るも、影も形ももない。
そうして周囲をキョロキョロと見回すグレイバックを見て、チャリタリがクスクスと笑う。
グレイバックの背筋に冷ややかなものが走る。
チャリタリはそんなグレイバックの姿を見て、まるで幼い子供に言い聞かせるように語り出す。
「ええと、そうだな。何から話そうかな。
だから、まあ、えぇっとね?大前提として、アンタはもう逃げられない。永遠にこの植物の牢獄からは脱出できない」
「ふざけんなッ!」
剛腕を振るって斬撃を発生させる。チャリタリの女体は容易く切り裂かれ、ぽすりと花畑の中に落ちる。
「アタシはこの罠と同化しているから、いくら攻撃しても無駄だよ」
「………!?」
振り向くと、そこにもまたチャリタリがいた。
また別の方向に振り向く。またそこにも。
何度も何度も、グレイバックはチャリタリの身体を細切れにした。だがその度、彼女は別の場所に出現し、また語り始めるのだ。
「ここにいるのはアンタとアタシの二人だけ。ここにいる間はずっと殺人もできないし、アタシ以外の誰かと会うこともできない」
自分の頭がおかしくなったとしか思えない光景だった。この空間を創り出した罠魔法?そんなものが実在するのか?もし仮に実在するとしても、存在するだけでこの女が使えるとは到底思えないのだが……。
いやそもそも……何でこいつは憎き復讐相手とこんなに楽しそうに喋っているんだ?そもそもこの空間は何なんだ?こいつが言っていることは真実なのか?罠魔法? 混乱から立ち直れないグレイバックに、チャリタリは言葉を畳み掛ける。
「何で無限か、って言うとね。
正確にはこの罠魔法は相手を約五十年ほど封じ込める魔法なんだ。創設者サマじゃないから、千年も残り続ける魔法なんて使えないからね。このくらいが限度。
だからアタシはこの罠にとある仕掛けを施したんだ」
「………仕掛けだぁ?」
「アンタの意識を恐ろしく鋭敏にする魔法」
疑問符が浮かぶ。鋭敏にするとはどういうことか。こうして話している分には何の影響もないし、試しに身体を動かしてみても、特別何か変なことが起きたような気はしない。
「そうだろうね。アンタの身体には、常時癒しの魔法がかかっている状態。本来感じる筈の痛みも苦しみもなくなっている。痛みを感じるより先に治ってるんだ」
「…………馬鹿な」
「身体の傷、治ってるでしょう?」
ぞくりと、心臓を触られたような気持ち悪さ。
グレイバックの焦りを知ってか知らずか、チャリタリは言葉を紡いだ。もう完全に彼女のペースだった。
「アンタは過去最高に素晴らしく心地良い、程良い体温と脈拍を繰り返し、疲労のないリラックスした状態。傷を負うこともない、充足して満ち足りた肉体だよ。
ただしその代わり、この罠自体もアンタと同じ状態になる。五〇年の間は枯れないし、切り裂いても修復されるし、そもそもアンタが動けば壁や床の位置も移動するように設定してあるから、生きてる間にこの世界から脱出するのはまぁ〜無理だろうね」
「五〇年だと……」
「まあ、癒しの魔法の影響で老けないと思うから、そこは安心していいよ」
五〇年。
それだけの時間、ここで過ごせというのか。
(一か月やそこらならまだしも、五〇年だぞ?五〇年もの間この何もない空間で過ごせってのか? ……無理だ。少なくとも俺には無理だ。絶対に耐えられねえ。
俺は死ぬのはゴメンだがよ、それなりに刺激のある人生ではあって欲しいんだよ!)
グレイバックは脳の血管がはち切れそうなほど思考を巡らせて考える。チャリタリの言っていることを信用するかは別にして、それでもどうにかして脱出しなければならないと思ったからだ。
チャリタリはそんなグレイバックを見て、にこにこと微笑みを落としていた。
「イカレ女が……!だが、ははっ、良い機会だぜ。ここには俺とお前の二人きりなんだろ?思う存分お前で楽しませてもらおうじゃねえの!」
グレイバックはチャリタリを押し倒し、そして、その情欲のままに蹂躙してやろうと考えた。…だが、身体の異変に気付く。これほど良い女を前にして、全くと言っていいほど性欲が湧かないのだ。
そのことに気付いてしまったグレイバックの脳裏に、一つの嫌な結論が浮かぶ。そしてそれが正解だと確信できるような直感があった。
それは……つまり……。そういうこと、なのか。
チャリタリがにこやかに告げる。
恐ろしい事実を告げるように淡々とした口調だった。
まるで幼子に物事を教えるように優しい声音だった。
「満ち足りた空間だからね。子孫を残す必要性さえ感じられないんじゃない?」
「テメェ、俺の愉しみを奪いやがったな!?」
「まあ、良かったんじゃない?これ以上罪を重ねずに済んでさ。あ、ちなみに睡眠も不可能で──」
「────ッ」
チャリタリの首を折る。
僅かに感じた筈の生の感触はなく、美しい褐色肌の女性の肉体は、メイプルの葉の束へと変わっていた。
手に残る葉を握りしめて、地面を叩く。そのまま視線を上げると、やはり五体満足なチャリタリの姿。
チャリタリを殺せば罠魔法が解除されるのではないか。そんな期待を密やかに込めていたのだが、どうやら裏切られてしまったらしい。
「クソ……クソが!!!そんなに俺に復讐したかったのかよお前は!!??お前も五十年ここに閉じ込められるんだぞ!?イカれてんだろうが!!!」
「……んー?あー、と。違う違う。
うん、やっぱり話が下手だなアタシは。ようやく来た復讐の時間に舞い上がってるのかな?五十年っていうのは外から観測した時の話ね」
「何の話だよ!?」
「さっき感覚を鋭敏にする魔法をかけた、って説明したでしょう?より詳しく説明するとね、アンタは今、周りのものが超スローモーションに見えちゃうくらい早く動ける状態なんだ。アタシは例外だけど」
「それがどうしたってんだ!!!?」
「周りがスローに見えるくらい早く動けるってことは、時間の流れも遅く感じられる状態ってこと。今アンタと数分くらい問答したけれど、外の時計だと一分も経ってないんじゃないかな」
「………はぁ!?」
それが意味するところは、つまり。
「うん。アンタとアタシは魔法が解ける五〇年の間を、時間の流れが遅く感じられる状態で過ごす。
まあでも大体……感覚的には九九九九年くらいかな?何もない空間で退屈だろうけど、よろしくね」
「……………」
やばい。
この女は頭がおかしい。
今まで出会ったどの女とも違う。狂ってる。
オスカーと会った時でさえ、こんな、ここまでの感情を抱いたことはなかった。
話すだけ無駄──いや、本音を言うともう、こいつの顔を見たくなかった。反射的に腕を振り──そして、彼女はあっさりと切り裂かれてまた細切れになった。
数瞬置いて身体がくっつく。ただし傷はない。ただその不気味なまでに清々しく神々しい笑顔だけは変わらずにあるので、グレイバックは思わず膝をつく。そうして青ざめた顔でチャリタリを見上げた。
彼女はグレイバックを見て、可笑しくて仕方ないとでも言うようにくつくつと笑っていた。
「ぅ、ぅううう、ぅうぁぁっあああああ!!!!」
滅茶苦茶に爪を振り回した。チャリタリがこの世からいなくなればいいと思った。けれど、彼女はすぐに元に戻って、変わらぬ笑顔を浮かべるのだ。
「そんな馬鹿な話があるか!!!
そうだ、魔力だ。魔力の問題はどうする?俺でさえこの牢獄は壊せない、それだけの再生力を持つと、お前さっきそう言ったよな!
五〇年間、それほどの再生力を持たせる魔法なんてある訳がねえ、そうだろうが!?あ!?違うか!?」
「答えはこれね」
チャリタリが右手を差し出すと、手元に落ち葉が集まってゆき、棒状に固まったかと思えば、それは見間違うこともない美しき剣の姿に変化していた。
「ヘルガ・ハッフルパフ様の剣。流石は創設者サマ達の剣だね、ドラコの剣捌きを見てて思っていたけれど。
この剣の能力は回復と再生と癒しを与える能力。ハッフルパフ様らしい力だよね。その癒しの力をこの罠に使わせてもらったんだ。だから、アンタもこの罠もほぼ無制限に再生できる。
正直こんなアタシに適合するか不安だったけど、剣を扱うための条件が他と違うのかな?こんな荒唐無稽な復讐に付き合ってくれて良かったよ」
「…………、………」
「それでも、アタシも道連れになる、アンタが傷つかない、五〇年の期限付き、とかの条件を組み込まなきゃいけなかったけれど。
……いい具合に絶望してくれて良かった」
あらゆる情報が露わになっていく程に、グレイバックの顔から余裕が失われていく。有り得ない、という否定の言葉は先刻の先頭の記憶の前に立ち消えた。物理法則さえも捻じ曲げて放たれた必殺の斬撃波は、その刃の鋒を幾度となく歪められていた。
「ちなみにハッフルパフ様の剣を使ったのはほんの僅かな時間だけで、あの剣はもう
「お前はいいのかよッ!?殺したいほど憎いんだろ、俺のことがよォ!俺を殺せるチャンスだろうが!!!何でこんなことをする!?何で自分もろともこんな所に、何千年も、復讐相手と一緒に!!!」
「……うーん。何でかって言われると、難しいな。説明が難しいってより、単純に理解してもらえないような話なんだけどね……、」
「アタシの姉さんが殺された日から、復讐のことばかり考えすぎて頭がおかしくなっちゃったんだと思う。
……それとも元からこんな女なのかな。もうよく分かんないけどさ」
「どうやって復讐してやろうか、そんなことばかり考えていく内に、何だかその日が待ち遠しくなってきちゃってね。人生で一番特別な日にしよう、なんて思ったりもしてさ」
「……そんなこと考えてたら、ふと、思っちゃったんだよね。殺すのは一瞬で、一回こっきりな訳じゃんか。それって何だか……大丈夫なのかなって。
アタシは、復讐を捨てた自分を想像できなかった、というか」
「変だよね?もうあの人の声も、顔も、仕草もほとんど朧げになっちゃったっていうのに、復讐だけはずっとやりたかったんだもんね」
「ああうん、そうなの。アタシ、クリシュナ姉さんの真似をしているけれど、全然似てないんだって。さっさとやめた方がいいって、前にエミルにそう言われたんだ」
「アルバムをめくってみたけれど、本当だね。アタシはベリーショートだけど、あの人の髪は肩くらいまであったし、言葉遣いももうちょっと男勝りだった」
「そのくせ、鏡には復讐してる姿が見えちゃうし」
「そうそう!みぞの鏡!賢者の石騒動の時にちょっと触らせてもらったけどさー、あれさー、身内を殺された人なんかはその家族の姿が映るんだって!
でもアタシの場合は、靄のかかった人物を苦しめてる姿だったんだよ。それが“のぞみ”だったんだ。アンタが復讐相手だと分かった後にもう一度鏡を覗いてみたら、靄は晴れて、アンタが苦しんでる姿が映ってた」
「……
「なんかもう、いいかなって」
「人生の全てを復讐に費やしても、全然いいやって」
「発狂も、悟りもできないまま苦しめられる人を特等席で何千年も眺めてられるなんて、最高かなって」
「そんな風に思ったんだよね」
「あとね、挑発は無駄だよ。この魔法を解除するの、アタシにも無理なの」
告げられた桁違いの数に、未だ実感が湧かなかった。
けれどじわじわと蝕んでくる絶望感に、グレイバックは訳も分からず逃げ出した。アテはない。逃げ出せる訳もなかろうが、“それ”と“これ”は全然違う話だ。
体感時間にして一日、彼は走り続けた。
飲まず食わずでそれだけの時間を走れたのは、当然ながら初めてのことだった。
だが、どこまで走っても地平線の先は見えないし、何かの影を目の端に捉えたと思えば、それはチャリタリの姿だった。
体感時間にして三日、彼は地面を掘り続けた。
地面は思ったよりも柔らかく、容易く侵入を許した。埋もれるようにして中に入るが、行き着いた先は天井であり──グレイバックは同じ所をぐるぐるとループさせられているだけだと突きつけられた。
体感時間にして七日、彼は殺し続けた。
花を摘むよりも殺しの実感がなかった。
途中で空間ごと切り裂かんとしたけれども、斬撃が地平の先に消えていった。
体感時間にして十日、彼は懺悔し続けた。
赦しを乞うた。泣き叫んだ。
しかしチャリタリは聞いているのかいないのか、ただいつもと変わらない笑みを浮かべるだけだった。
(何で?俺、死ねねえのか?生きるしかねえのか?こんなところでずっと?何もないところで、飯も食えず水も飲めず殺しもできず、イカレ女とずっと過ごすのか?向こう一万年近くも?嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、ふざけんじゃねえよクソバカが──……)
「こんな所を誰かが見たらさ、凶悪犯罪者とはいえ流石にやり過ぎなんじゃ……って感じる人もいると思う」
「でも当時の私にとってクリシュナ姉さんは、多分、生きる意味って言うのかな……宇宙みたいな存在というか、世界そのものだったっていうか……
そんな存在を壊したアンタは、やっぱり、このくらいの仕打ちで丁度良いっていうか……
うん……やっぱり、おかしいんだろうね、アタシ」
「まぁ……そんな女に目を付けられたのが、運の尽きだったね。フェンリール・グレイバック」
「嫌だああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
グレイバックは永劫囚われ続けた。
彼女は笑う。
無限の苦痛と、永遠の牢獄の中で。
時は動き出す。
彼女を置き去りにしたまま。
フェンリール・グレイバック
チャリタリ・テナ
以上二名を封印とする。