「山吹さんはドラムやってたんだよね?」
「あ、はい」
呼びかけられて、向かいの河合先輩がなんて言ったのか判別する前に頷く。それから、私の話か、と遅れて気付いた。空気の読めない部長の話に笑ってみせたり、同期の中で浮かないようにしたり、空いたグラスがあったら次の注文をしたり、会社の飲み会の席だと気を張って疲れてしまう。忘年会が始まって時間が経ち、なんとなくみんな浮ついた雰囲気になって、ようやく一息つけた、と少し油断したときに話しかけられたものだから、ちょっと焦った。
河合先輩の言葉に、私の隣に座っていた(あるいは私が隣に座らされた)別の課の佐藤さんが、私の方にぐいと身を乗り出してきた。アルコールの匂いに交じって、若干汗の匂いがした。
「へえ、すごいじゃない。俺、ギターやってたよ」
赤ら顔の彼はそう言って、どんなのをやってたの? と聞いてくる。ギター、という言葉に、今は遠くにいるおたえの顔を思い出しながら、私は言った。
「まあ、ロック、とか」
「へ~、山吹さんがロックとか、意外」
「あはは、そうですかね?」
「そうだよ~。なんか、J-POPとか好きそうだと思ってた。ねえ?」
佐藤さんがそう言って河合先輩の方を見ると、河合先輩は、どうですかね? と曖昧に笑うだけで、すぐに隣の会話に交じってしまった。
佐藤さんはJ-POPを馬鹿にしていて、河合先輩はそんなJ-POPをよく聴いている。多分そういうことで、たったそれだけのこと。どっちも、私がロックを好きとかどうとか、特に興味はない。
「え~、絶対そうだって!」
佐藤さんの声は大きくて、思わず身を引きそうになったけれど、そうしてしまうと佐藤さんを傷つけてしまう気がして、私はほとんど空になったビールのジョッキを少しだけ傾けることでそれを我慢する。温くなったビールは美味しくなくて、舌の先に微妙な苦みだけが残った。河合先輩は隣の席での会話の最中にちらりと私を見て、何事もなかったかのように視線を戻してしまった。あ、押し付けられたな。心の片隅でそんなことを思ってしまって、自己嫌悪。
「今度一緒にスタジオ入ろうよ」
それからしばらくお互いの軽音部での思い出話なんかをしていたら、佐藤さんは不意にそう言った。
「ね? 話してみたら音楽の趣味とか意外と合いそうだしさ」
そう言いながら彼はそっと私の方に手を伸ばしてくる。誰も見てないのだろうか。彼はじっと私の方を見ていた。アルコールで赤くなった顔は、微かに口角が上がっていて、どこか勝ち誇ったような表情をしていた。急に顔を背けてしまったら失礼な気がして、視線を微妙に泳がすことしかできない。彼のごつごつした指が私の手の甲に触れて、知らず知らずのうちに体が強張る。
確かに、話してみたら好きな音楽の趣味は結構合った。お互いの思い出話も共感できることが多くて話が弾んだ。なのに、どうして、その距離感のまま接してくれないのだろう。
「沙綾ちゃん、最近はスタジオとか入ってるの?」
「友達と、たまに」
「じゃあそのスタジオにしようよ。俺、最近入ってないから、沙綾ちゃんの方が詳しいでしょ」
彼はいつの間にか私のことを名前で呼んでいて、彼が「沙綾」と私の名前を発音した瞬間、河合先輩がこちらをちらりと見やったのが視界の端に映った。
右手で私の手を掴んでいた彼はいつの間にか左手もテーブルの下に滑らせていた。私のスカートの裾を撫でさすりながら太ももへと指を這わせようとしている。流石に「やめてください」と声を上げようとしたその時、彼の左手の薬指に光る指輪が見えた。
私は絶句してしまった。彼は結婚していた。そのうえで、私に声をかけて、こうやって、
「あの、」
「みなさーん、ちょっといいですか~!」
き、と佐藤さんを見上げようとしたその時、忘年会の幹事である後輩が声を張った。その瞬間、佐藤さんはぱっと手を放して、何事もなかったかのように、ジョッキをぐいと傾けた。
スカートの裾を直して、後輩の方を見る。それから簡単な挨拶があって、忘年会はお開きとなった。
「山吹さん、この後二次会どう?」
店を出たところで河合先輩に声をかけられた。
「ごめんなさい、家族を待たせているので……」
「家族?」
「はい。弟たちと、一緒にケーキを食べよう、って」
そこまで言ったところで、河合先輩は私の後ろに視線を送ると、ふぅん、と意味ありげに笑って、「分かった、無理しなくていいからね」とやけに優しく言った。
振り向くと、佐藤さんがいた。河合先輩はその間に、じゃあね、と手を振って、店の先にいたほかの社員に合流してしまった。
「山吹さん、行かなくてよかったの?」
「山吹さん」。佐藤さんはそう言った。心配してる風に見えて、あの勝ち誇った表情はそのままだった。
「あ、いえ。実は家族とケーキを食べる約束をしてるので、帰るつもりで」
「家族?」
「はい。弟と妹がいるんです」
「そうなんだ」
私の家族の話を、佐藤さんは興味なさそうに聞いて、「じゃあ、送るよ」と言った。
「いえ、でも悪いですし」
「気にしないでいいよ」
そう言って佐藤さんは左手を伸ばし、私の手首をつかんで、
「おぉい、佐藤くん、二次会行くぞぉ」
空気の読めない部長が佐藤さんの名前を呼んだ。佐藤さんは一度小さく舌打ちをして、
「はい、ただいま!」
そう言うや否や、私の手首から手を離すと、
「スタジオ、行こうね」
足早に部長たちお偉い方のほうへと走っていった。
店先で一人取り残された私は、商店街の反対側にある自分の家へと帰ることにした。元々そのつもりだったのだ。何も悲しいことなんかない。ストッキングの上から刺すように冷たい風が吹いて、私は肩を震わせた。
帰り道、横断歩道で信号を待っていたら、向かい側に長い黒髪の女性が見えた。もしやおたえなんじゃないかと少し期待して、信号が変わると早足で横断歩道を渡り始めたけれど、歩き出して三歩目で、ただの人違いであったと判った。横断歩道を渡りきる頃、たったそれだけのことで私は落ち込んでいた。
気を遣う飲み会。優しい風に見えて何を考えているか分からない先輩。すでに誰かと契りを結んだ手で私に触れた人。私の人違い。たったそれだけのこと。
自分の呼吸が荒くなるのを、どこか遠くに感じた。白い吐息、熱くなっていく目頭、斜めに浮かんだ月、アルコールと汗のにおい。私に触れた怖いくらい大きな手。
「~~~~~~っああっ!!」
通勤用の鞄を、隣で知らん顔していた電柱に、叩きつけた。
「なんでっ! どうしてっ……!!」
悲しかった。悔しかった。怒りはなく、ただやるせなかった。
私はそんなに“優しそう”に見えるのだろうか。都合のいい人に見えるのだろうか。誰も傷つけたくないから慎重に振舞っているだけの臆病者は、そんなに御しやすそうに見えるのだろうか。
おたえならあんな時どうするだろう。先輩の話から脱線してもいいから自分の興味のある話をする? 触ろうとしてきた手の甲をつねる? そもそも良くも悪くも近寄られたりしない?
何度も、勢いよく、鞄を叩きつけた。やがて金具が飛ぶ。鞄の中身が弾けて、割れた果物の種みたいに飛んでいく。スカスカになった鞄をその電柱に投げつけて、そのまま、右足を振り上げた。
がつん、と電柱を蹴った。
何も起こらなかった。
つま先だけが割れるように痛んだ。
「いったぁっ……」
右のつま先を抑えてうずくまる。涙がこぼれた。それくらい痛かった。パンプスの下ではきっと爪が割れて血もたくさん出て大変なことになっているに違いない。つま先もまぶたの裏もすごく熱くて、それがつらくて、嗚咽が漏れた。
昔読んだ小説で、辛い経験をした女の子は男の子と一緒に電柱を蹴りつけて、少しだけ成長した。
私は電柱を蹴って、痛い思いをして、ただこうやって泣いている。路上に散乱した文房具や手帳やその他諸々もそのままにして泣いている。
つま先の熱はなかなか引かず、じんじんと痛み続けた。だから泣き続けた。涙がこぼれるのはつま先が痛むから。それ以上の理由なんてない。
「……会いたいよ、おたえ」
暗い夜道に一人、まぶたの裏に映る人の名前を呼んでも、返事などあるわけがなかった。