陽の一つも刺さらない曇天が静寂な街を見下ろす。まるでアーカディア帝国に住む市民達の心境が投影されたような曇り空だ。眼鏡のかけた幼い少女を、目付きの悪い青年達が囲む。少女は青年達の鋭い視線を受け、石造りの床で身を震わせる。
「なあ、嬢ちゃん? この国で男に頼み事されたら逆らっちゃいけねえぜ?」
「そうそう、女はおとなしく俺ら男の下僕として生きていりゃいいんだよ」
少女の肢体を、こめかみに赤い布を巻いた青年が足首から舐め回すように目視する。
「い、いやだ……」
「あっ? なんだって?」
一縷の反発も虚しく、青年の剣幕にかき消された。少女の瞳に下卑た男が不快な笑い声を上げながら、距離を詰める。眼前の危機から逃れようと、瞼を下ろして、耳を塞ぐ。絶望が胸中を支配する。しかし、その脅威は十秒以上経っても、来る気配がない。恐る恐る、重い瞼を開けた。すると、石造りの地面に先ほど、自分のことを辱めようとした青年達が白目を向いて、伸びている。彼らの代わりに先ほどまで存在しなかった白髪の長身痩躯の青年が佇んでいた。少女が青年を静かに見上げる。すると、少女が見ていたことに気づいたのか、青年が少女の目前まで来ると、膝を折り、目線を同じ高さに合わせた。少女は青年の顔を瞳に写した際に、その鋭利な双眸に一縷の恐怖を感じ、思わず目をそらす。
「大丈夫か? 嬢ちゃん?」
「う、うん。ありがとう」
青年から心配の声に、小声で返答して静かに頷く。青年の手を借りて、起立する。
「まあ無事で何よりだ。それじゃあな、気をつけて帰れよ」
僅かに少女に笑みを向けると、青年が踵を返して、町の奥に進んでいく。少女は「あの!」と一言、言い放つ。青年はその呼びかけに応じて、足を止める。
「まっ、待って! わ、私の名前はライグリィ・ハルバート! お兄ちゃんは?」
青年は首を少女の方に向けて、静かに口角を上げた。
「俺の名前はジェイクーー」
名字は話す直前で、少女の視界が光に包まれて、青年の姿と声が徐々に遠ざかっていくーー
「ん? 寝てしまったか」
ライグリィが机に潰した頬を起こす。目を擦り、両腕を上に背筋を伸ばす。あたりはすっかり闇夜に包まれていて、机の端に設置された揺らめく洋燈の火が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしていた。机に肘を立てて、手に頬を預け、夢の出来事を振り返る。刃物のような目つき、長身痩躯、白髪、端正な顔立ち。一縷の恐れを抱いたが、それ以上に伝わる優しさ。
「やっぱりあの時の……」
あれから十年以上経ったが、ライグリィの脳裏にはしっかりとあの日の出来事が焼きついていた。彼のおかげで自分も弱者を助けられるような人間になりたいと思えたのだから……。しかし、彼女にはわずかな疑問があった。
「名字が違っていたような……」
月明かりの下、かつての少女は胸中に蠢く、疑問を静かに呟いた。
女生徒達の賑やかな話し声が聞こえる朝の食堂。白髪の男が両手で献立が乗ったお盆を持ち、窓側に着席した。食事の邪魔にならないように髪留めで縛り、食器を手にする。献立の豆と玉ねぎをベースにしたスープとパン、サラダを満遍なく口の中に持っていく。黙々を咀嚼しながら、ジェイクは今後の事について考えていた。ルクス・アーカディアにどう接近するかだ。彼に接近しようにも彼女の周りには多くの少女達がまるで護衛のようについているのだから隙がない。しかし、その機会はすぐに訪れるのだった。
「良かった。人数分空いていて」
「貴女がもう少し、早く起きていれば、席選びに苦労しなかったでしょうに」
「お姫様。お寝坊さん……」
令嬢三人が閑話をしながら、ジェイクの前列の空席三列に座った。昨日の実技授業でルクスの界隈にいた少女達だ。蒼と端正な顔立ちの少女、クルルシファー・エインフォルク。赤い瞳とつり目が特徴的な金髪の少女、リーズシャルテ・アティスマータ。桜色の髪と黄金色の瞳が特徴の少女、フィルフィ・アイングラム。ジェイクはライグリィから受け取った生徒の一覧表で生徒達の情報はある程度、脳裏に入っている。この学園は裕福な実家の出が多いと分かったが、中でもこの三人は別格だ。クルルシファーはユミル教国からの留学生で実家は国内でも有名な大貴族だ。リーシャは言わずとも知れたアティスマータ新王国の女王の娘。そして、フィルフィの生まれたアイングラム財閥も旧帝国時代から有名な家柄だ。
「あら、ジェイク教官じゃない。おはよう」
「おお! 新任ではないか」
「おはよう。教官」
「ああ、おはよう」
ジェイクは女生徒三人に軽く、挨拶を返す。昨日、自分達を恐れていた少女達も事故の一件以来、自分に接してくるようになった。あの後、一限から最後の授業まで質問攻めに遭い、ルクス・アーカディアと会合の機会を作ることが出来なかった。
「あの〜」
左耳に聞こえた呼びかけに反応して、首を向く。そこには悩みのタネである銀髪の青年、ルクス・アーカディアが立っていた。
「ジェイク教官ですよね。お隣、いいですか?」
「構わねえぞ」
ジェイクは呼応すると、ルクスは笑みを浮かべ軽く頭を下げる。横に座ると、食物に敬意を払い、パンにかじりつく。
「そういえば、ルクス君。今週の土曜日の事、忘れていないわよね?」
「ああ、うん。街で洋服選びに付き合う事だよね。覚えているよ」
「何! お前達! いつの間にそんな約束を!!!」
ルクスとクルルシファーのやり取りを聞いて、リーシャは両頬に風船を作る。
「あら、先手必勝という言葉を知らないのかしら? まあ、機竜ばかり触っているから仕方ないわね」
露骨に憤慨するリーシャにクルルシファーが澄ました表情で煽る。
「ちょっ、ちょっと、二人とも!」
隣のルクスが立ち上がり、睨み合う二人の仲介に入る。その間、フィルフィが三人を眺めながら、無言でパンを口いっぱいに頬張る。ルクスの介入もあり、小さな論争が終結を迎える。しかし今だに不機嫌な二人は腕を組み、それぞれ反対方向に顔を向けてしまった。
「随分と賑やかだな」
「ええ、今のような出来事を止めたりするのが日常茶飯事になっています」
ジェイクの皮肉の混じった言葉にルクスは頬を掻きながら、苦笑する。
「そういえば、ジェイク教官って、ここに来る前は何をしていたんですか? 昨日、ワイバーンの操縦を見た感じ、かなりの熟練のように思えたんですが……」
「確かにな。それに一瞥だから、なんともいえんが、無詠唱で機竜を召喚したな。軍の関係者か何かか?」
金と銀の生徒の質問に、ジェイクは軽くため息をついて回答する。
「王女殿下の言ってることは真実だ。俺は無詠唱でワイバーンを出した。数年間、山に籠って特訓の日々を送ればいやでも身につく。そんで山から降りて、そこの嬢ちゃんの姉貴に目をつけられここに来た」
ジェイクは顎でフィルフィの事を示す。フィルフイは目線を向けられると、ジェイクの話に夢中なリーシャの御盆に乗せられたパンを盗もうとする手を引っ込めた。
「じゃあ、その前は……」
ルクスの問いにジェイクのパンを、持った手が止まる。ルクスやリーシャ、クルルシファーも彼の異変を察した。生徒とジェイクに間に僅かな沈黙が訪れる。まるで自分達だけが隔離されたような感覚だ。
「あー、ここから聞けるのはジェイク・ラーディスファンクラブの会員様限定のみだ」
ジェイクは心中の悟られぬように、諧謔ではぐらかす。
「なんですか。それは……」
「細けえことはいいんだよ。じゃあ、俺は食い終わったから行くぜ。授業遅れんなよ」
ジェイクは小言を吐き捨てると、空の食器が乗ったお盆を持ち、逃げるように席を去った。
夕日が校舎を茜色に染める頃、ジェイクは眉間から一筋の汗を垂らして、廊下の壁にもたれる。顔を空を染める夕日以上に赤くして、荒く呼吸をする。
「ここの女生徒。どうなってんだよ」
この現状を理解するには今から十分前ほどに遡る。一日の授業が終了して、ライグリィとともに終礼を済ます。ジェイクがルクスに近づこうと目論んでいると、阻止するかのように数十人の生徒が一斉にジェイクを取り囲んだ。質問の集中砲火に思わず、ライグリィに救いを求めようとする。彼女は笑顔をこちらに向けているが、その笑顔は黒い影を帯びていているようにも見える。彼女の反応から察して、希望が絶たれた。諦念にかられてもなお止まない、質問の嵐。すると上の方で扉を勢いよく開ける音がした。
「待てー! ルクス!」
「ルクスくん!」
「ルーちゃん。走ったら危ない……」
「ルクッちも罪な男だねえー」
どうやら、ルクスもジェイクと同じ目に遭い、教室を飛び出したらしい。この機会を逃すまいとジェイクも女生徒達の目線が上に向く隙に、輪から離脱する。そこから女生徒達からの逃走劇が幕を切った。
ジェイクは普段と違う女生徒達の身体能力、自分を捕らえようとする団結力の凄まじさに、翻弄されながらもなんとか巻くことに成功した。しかし、油断は禁物。いつまた彼女達に見つかるか分からない。
「この前、相手にした兵士どもよりよっぽどしんどいぞ」
ジェイクは疲労のあまり、中腰の状態で前進する。長い前髪が視界を遮っていて、前方不注意で誰かに接触してしまった。
「わ、悪い!」
「うわ! ジェ、ジェイク教官! なんでここに」
そこには慌てた様子のルクスが立っていた。ジェイクは態勢を直して、事を詳細を説明する。
「なるほど、じゃあジェイク教官も追われているんですね」
「ああ、おかげでふくらはぎが痛い」
ルクスに愚痴を零すと、廊下の奥から多くの足音が鳴り響く。二人は思わず、顔を見合わせる。間違いない二人を探している連中だと……。
「まずい、こっちに来るぞ」
「どうしよう……」
ジェイクとルクスは刻々と近づいて来る脅威に慌てふためいていると、ジェイクはあるところが目につく。
リーシャ・クルルシファーなどのルクスの囲いとジェイクの追っ手の少女達が本人達の目の前で捜索している。
「大丈夫か? ルクス」
「はい、ちょっと狭いですけど、しかし掃除用具入れの中って大丈夫なんですかね?」
「さあな……」
二人は廊下の隅にあった縦長の掃除用具入れの中に身を重ねていた。二人の身長差からルクスの顔がジェイクの胸元にある状態だ。
「何事ですか? これは」
凛とした声が騒然とした廊下に木霊する。ジェイクは隙間から廊下の様子を除くと、艶やかな髪と、端正な眉目の少女が立っていた。ジェイクはこの少女に覚えがあった。学園最強と謳われた三年生。セリスティア・ラルグルスだ。新王国を支える四大貴族、ラルグルス家の長女で、ジェイクもライグリィから本校の講師となるからには彼女の名前を知らぬものはいないと太鼓判を押されていたことからその存在は脳裏にあった。
「セリス! ルクスを見なかったか?」
「ルクスですか? 見ていませんが……良ければ、私も一緒に探しましょうか? この後、予定もありませんし」
リーシャがセリスに謝辞を述べて、捜査人数が増える。これでさらにここから脱出することが難しくなった。
「まずいな。人数も増えたし、何より距離も近くなってる」
ジェイクは隠れ家の隙間から外を観察する。このままだとここから見つかるのも時間の問題だとジェイクは察する。
その瞬間、ジェイクの足の平行感覚が乱れる。すかさず手を伸ばし、ルクスの顔の両側に手をつく形で態勢をとった。
「大丈夫ですか?」
「すまねえ、疲れているせいか、バランスが崩れちまった」
それを聞くと、ルクスは肩を震わせて、くすくすと笑い始めた。
「どうした?」
「いや、昨日あったばっかりの人とこんな状況になってるのがなんだかおかしくて……」
「確かにな。男二人がこの狭い空間にいるってもの気持ち悪い話だな」
薄暗い掃除用具入れの中、ジェイクの双眸には小柄な青年が映る。顔を見合わせると、お互いに息を殺して、笑い合った。掃除用具入れの扉が開いていることにも気づかずに……。
「な、な、な、何をしているんだ! お前ら!!!」
頬を林檎のように赤くしたリーシャの心の叫びが校内で爆発した。
その後、ジェイクとルクスはライグリィから大目玉を喰らい、『不純同性交遊』の嫌疑をかけられたが全力で否定した。
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