(この仕切りさえなければ一緒に居られるのに……)
申し訳程度に作られた仕切りを見上げながら、はたては湯船に口を付けブクブクと泡を出していた。
異変によって出来たこの温泉は元々混浴だったのだが、それに絡んだ騒動が起こったせいで男女別となっていた。予定していた事はできなかったが、薄い壁一枚を隔てた向こう側に彼がいると思うと、胸が高鳴る。
サンカが同じ布団で寝ていたのは、彼が寝ぼけて入り込んだのが原因ではない。彼が眠ったのを見計らい、はたてが布団に運び込んだのだ。出来る事なら色々したい所だったが、起してしまっては元も子もないので寝顔を堪能する程度に留めておいた。
(……サンカ。なんで私の事を忘れちゃったの?)
彼が記憶を無くしていたのはショックだった。約束も思い出も、自分のことでさえ何も覚えておらず、無意識に過去の言動を取る彼を見て複雑な気持ちになった。
だからこそ、はたてはサンカの消失した記憶を埋める為に敢えてしつこく接し、少しでも"姫海棠はたて"という存在を刻みこもうとしていたのだ。
また離れ離れにならないように、また自分を置いて居なくならないように、彼女の永年の恋を叶える為に。
(いけない、あんまり悪く考えちゃ駄目。もっと良いことを考えないと……そうだ、この後はどうしようかな。里に行って買い物デートも良いし、その後あんな事やこんな事を……ああ!お風呂上がりの彼を想像したら!!)
「一人妄想を広げるのは楽しい?」
湯の流れる音に混じって声がした。サンカではない。間違いなく女の声だが、紫でもない。何者だろうか。はたては警戒し、声を張り上げる。
「誰!?」
「どうしたはたて?なにかあったのかい?」
仕切りの向こうからサンカの不安そうな声が聞こえた。こうして心配してくれるのだから、やはり彼は優しい。
はたては気のせいだったと返すと、改めて声の主を探した。今は身一つな上に、取材道具でもあり武器でもある携帯を所持していないので、襲われればひとたまりもない。
「別に襲いはしないわ。そう警戒しないで」
また声が聞こえた。それに口ぶりから思考を読まれているような気もする。
周囲を警戒していると、湯煙に紛れて接近する何者かの気配が、明確に感じ取れるようになってきた。はたては何時でも飛び立てるよう、翼を広げて睨みを効かせる。
「見慣れない天狗ね。ここに来るのは初めてかしら?」
姿を現したのは小さな少女だった。桃色の髪を短く整えた彼女の裸体には、巻き付くように赤い血管らしき物が付いており、禍々しい一つ目玉がギョロギョロと動いていた。
(この女、相当な力を持ってる……一体何者?)
「私が誰か?そうね、自己紹介がまだだったわ。私は地霊殿の主、古明地さとりよ」
やはり思考を読まれている。はたては警戒を解かずに、さとりの発した地霊殿という単語を自身の記憶から探し出す。
暫くして答えが見つかった。地霊殿とは地底の旧地獄に存在する屋敷で、この温泉が出来る切っ掛けとなった異変の際に、博麗の巫女が乗り込んだ場所だ。
そして、仮にこの少女の言うことが正しければ、彼女は地霊殿の主で、
「そこまで知っているのね」
また心を読まれた。はたてはさとりを睨みつける。
「地霊殿の主様が一体何の用?」
「貴方の連れに関して言いたい事があるの。安心して。どうこうする気はないから」
嘘は言っていないようだ。はたてが警戒を解く。
「貴方の連れ、なんて言ったかしら……そう、サンカだったわ。彼って餓鬼よね?まだ生き残っていたなんて」
「!」
それを知っているのは自分と紫だけの筈だと、はたては酷く動揺した。一体どこからその情報を手に入れたのだろうか。
「紫が教えてくれたの。彼は本来閻魔の管轄下に居なければならない存在。地上に野放しにしておくべきではないわ」
「何?サンカを殺せってわけ?」
「そうは言ってないわ。彼が何も知らない状態で能力が使える今は良いけれど、自分が何者だったかを思い出したら周りにどんな影響があるか、そのリスクも考えて欲しいの」
何を言い出すかと思えばと、はたては一笑に付す。
たとえ幻想郷が滅びようとも、サンカさえ居れば私は幸福なのだ。彼は私を愛してくれているのだから、他人がどうなろうとどうでも良い。そんな歪んだ心情が、はたての中にあった。
さとりはそんなはたての思考を読み取ると、諦め気味に頭を抱えた。
「何を言っても無駄なようね。わかったわ」
「……」
「彼の秘密は守るわ。約束よ」
さとりが、
「のぼせたわ」
と湯から上がって脱衣所へと消えると、再びはたてだけになった温泉を静寂が包んだ。
服を着て外に出ると、サンカはさとりと似た少女と会話をしていた。どうやら揉めているようだ。はたてはサンカに飛びついて、二人の注意を逸らす。
「サ~ンカ!」
「はたてか。丁度いい所に来てくれた」
彼の体から里で購入した石鹸の香りが漂ってきた。プレゼントした物をしっかり使うのも、彼の良い処だ。
憎悪の籠った視線を少女にやると、少女は頬を膨らませていた。
薄緑色の髪の奇抜な格好の少女には、さとりの体に巻き付いていた物と同一の青い目が付いている。
「こらこいし、困ってるじゃないの」
「えー」
どこからともなくさとりが現れて注意すると、こいしと呼ばれた少女は不服そうに頬を膨らませ、ジタバタと駄々をこねた。
「あのねこいしちゃん、僕は―」
「いいじゃんいいじゃん!この子がほしい!」
「我儘言わないの。それにガキの面倒なんて、ウチじゃ見れないわよ」
「ほらお姉さんもこう言って……何だって?」
「あ、ああもうこんな時間なのね!サンカ、早く帰らないと、明日の朝刊が書けなくなっちゃうわ!」
はたてが古明地姉妹とサンカのやり取りに割って入り、別れを一方的に告げ、サンカを抱えて妖怪の山へと飛び立った。
これ以上あの二人と一緒に居るとこちらのペースもおかしくなる。はたては小さくなっていくさとりを見、小さく舌を出した。
さとりが胸を撫で下ろす。サンカと呼ばれていた生物の心を覗いてみたが、彼自身の声は聞こえず、代わりに無数の叫び声とうめき声が聞こえてきた。
あの男は危険すぎる。近いうちに何らかの方法で処分しなければならないだろう。
「お姉ちゃん、あの子の事ガキって……」
こいしが頭に疑問符を浮かべている。さとりはその疑問には答えず、微笑んで彼女の頭を優しく撫でた。
「気にしなくていいのよ。さ、私達も帰りましょう」