「待たせちゃってごめんなさい。お昼にしましょう」
両腕に血で汚れた包帯を巻いたはたてが、膳の上に乗った料理を落とさない様にソロソロと部屋に入ってきた。献立は一見普通であるが、そのどれもが妙に赤く、米飯にいたっては黒く細い物が点々と入っている。
「お腹空いたでしょ?今日も愛情をたっぷり込めて・・・」
はたては部屋の異変に気付くと、指先から力が抜け、持っていた膳を落としてしまった。皿が割れ、赤黒い料理が床に散らばる。
「・・・サンカ?」
信じがたい事に、確かについ先ほどまでその場にいた筈のサンカが、人ひとりが通れる穴と血の海を残し、忽然と姿を消していた。咄嗟に手を空間にかざしてみると、指先がほんのりとヒリつく感覚がする。この様子だと、結界は未だ効力を失っていない様子だ。
自力でくみ上げた結界に絶対的な自信を持っていたはたては、まだ彼が部屋のどこかに隠れているのではないかと全ての物をひっくり返す勢いで探索を始めた。
だが数分粘ってみても、彼の姿はおろか、気配すら感じない。
はたてはあまりの事に思考が纏まらず、暫くの間呆然としながら破壊された壁を眺めていたが、突如ハッとした様子になると、大きく広がった血だまりまで駆け寄り何の躊躇もなく手を入れた。
ぴちゃりと雫が顔に跳ねたが、気にも止めない。血からはまだ温もりを感じられるため、そこまで遠くに行っていない様だ。
彼女はそれを確認すると、震える汚れた手で携帯を取り出してすぐさま彼の居場所を探るべく名前を念じる。
「なんで私から逃げるの?一緒に居ようって約束したじゃない・・・・」
暫くして画面を見ると、左胸を押さえながら山の中を走るサンカが写っており、背景には遠い所に既に枯れて何もなくなったひまわり畑が見えた。
この場所には見覚えがある。はたては手に付着した血を舐めとると、黒い翼を広げて空へと飛び立った。
◆◆◆
サンカははたてが追いかけてくる事を予測しており、逃げ切るのは半ば諦めていた。
彼女の能力と天狗としての能力が合わされば、地の利も加わってどう足掻こうとも到底逃げることは不可能だろう。
なによりも今は負傷しているため早く走れないのだ。現に普段以上に息が上がり、数分程走っては足が止まるのを何度も繰り返していた。
「うっ」
ズキリと左胸が痛み、思わず歩みを止めた。脂汗を流して視界が霞んできているあたり、一度休憩した方が良いのかもしれない。
彼は木に寄りかかると、空を仰いで大きく息を吸った。さっきまで晴天だった空には、鈍色の雲が広がって来ている。
サンカが思いついた秘策は、自身を一度殺す事だった。彼は自身の心臓を撃ち抜くことで、死亡したという事実を作り出して結界を無効化し、外に出ることが出来るのではないかと考えた。
―結果として成功ではあったが、まさか一度失敗したお陰で激痛を味わう事になるとは・・・。
「気持ち悪いな・・・全く」
少しでも動くと左胸に開いた穴に空気が通り、非常に奇妙な気分になる。心臓は2度目の挑戦の際に大部分が無くなってしまったが、それでも死なないどころか再生成し始めていた。分かってはいるつもりではいたが、本当に化け物になってしまったのだなと実感する。
やがて呼吸が落ち着き始め、焦りも消えて徐々に冷静さを取り戻して来た。そこで彼は今一度状況を整理し、自分のとった行動を確認するべく目を瞑り、深く考え始める。
本当にこれで良かったのだろうか。はたては彼女なりにサンカを守るため、監禁という方法を取ったのだ。
手段は完全に間違えていたが、彼女の心に偽りはなかったように思える。ならばもっと冷静に話し合って、最良の選択も出来た筈ではないだろうか。
(・・・)
最初に会った時、随分距離が近いと思った。それから日に日に依存してくるようになって、少しでも距離を置こうものなら発狂した様に泣かれた覚えがある。
彼女も同じ気持ちを抱いていたのだと知ったのは暫く先になってしまったが、今思えば、あの頃から好意を持っていてくれたのだろう。初めこそはたての言動は理解できなかったが、献身的に面倒を見続けてくれる彼女と共に行動することで、誰かと一緒にいる楽しさを知ると共に、サンカは安心し心から惹かれて行った。
やがて彼が忌むべき存在であると分かると、これまでの態度を一変させるどころか、より強く愛情を向けると共に更に依存してくるようになり、はたての存在はサンカの中でより大きくなっていった。一方のサンカも、唯一気を許しきれる相手が彼女だけになってしまった事もあり、依頼がない日は極力傍にいるようになった。
「・・・」
彼女の笑顔、仕草、性格。そのどれもが愛らしく、儚げで美しい。出来る事なら、隣に居られる時間がずっと続いてくれれば・・・そんな風に願った事もある。
―それにしても、やけに胸が苦しい。痛みのような明確な物ではなく、酷く抽象的で、モヤモヤとした不可解な物だ。
サンカは暫しこの未知の感覚の正体を探っていたが、重い曇天から雨が降り始めた頃になって答えを導き出した。
それは罪悪感だった。自身が唯一気を許し、自身を好いてくれるたった一人の人物を置いて逃げだした事への罪悪感。そこに今まで気づかなかった小さな焦りと、一人になった事への強い恐怖感が合わさり、締め付けられるような苦しさを感じていたのだ。
「そうか・・・僕も依存していたのか・・・」
ため息交じりに言葉が口をついて出た。
はたてが恐ろしくて逃げて来たのに、今は彼女に会いたくてたまらない。まだ関係をやり直せるなら、また二人で平穏にいられるのなら・・・そんな事ばかり考えたせいなのか、逃げるという選択肢も跡形もなく消えてしまっていた。
「帰らないと・・・帰ってはたてに謝らないと」
傷は完全に塞がった。時間もたっぷりある。ならばやる事は一つしかない。
サンカはフラフラと立ち上がり、世界で唯一の愛しい人に会うために、必死で逃げて来た道を土砂降りの雨の中引き返し始めた。