乙型駆逐艦・秋月型:その三番艦 涼月。
そう名乗った彼女との出会いを、僕は語ろうと思う。
高校二年生から三年生の間のとある秋の日。
大した連休でも無ければ、特段物珍しい何かがあった日でもない。
ただの、平凡的な日常。
どこにでもありふれた極々一般的な秋の夜長。
そんな中で出遭った彼女は、僕にとっては非常に大きな非日常だったと言っても良いのかもしれない。
その出会いは、なんてことのない僕の平和な日常を一変させるものだったし、その実、心の底から救われたものでもあった。
要するに、僕は運が良かったのだ。
あの日、僕が何となく出歩かなければ、きっと僕ではない誰かが彼女と出会って、きっと違う道を、それでも幸せな道を歩んだだろう。
だから、僕は運が良かった。
なんて、口に出してしまえば、彼女はそれこそ口を尖らせて、『運が良かったのではありません、これはきっと、運命だったんですよ』なんて、言うかもしれないが、それでも僕はこの出会いを奇跡にも等しいものだと今でも確信していた。
冗談でも何でも無く、本当に、ただ只管に幸運に満ちた偶然。
それが僕と彼女の出会いで、そこから始まった物語もやはり、そういったものだと言えた。
それほどまでに、彼女は僕の停滞した日常を砕いた。
出会ってからこれまでの間に、何もかもを砕き尽くして、改変し尽くした。
たった一年間、されども非常に濃密な一年間。
嘘みたいな出会いで、夢みたいな一年だった。
乙型駆逐艦・秋月型:その三番艦 涼月。
彼女のような存在が"艦娘"と呼ばれることを、僕は当然のように知っていたが、しかし彼女がそうであるとは気付くことはできなかった。
艦娘。
正体不明。
出自不明。
何もかもが謎で、不明で、解析不可能。
それでありながら、文句のつけようがないほどに、人類の味方。
だからこそ。
僕はあの日あの時、彼女をただの一人の女性として認識したからこその結果が、今なのかもしれない。
もし仮に僕が彼女を、最初から艦娘だと認知していれば、それこそ僕等の物語はグルンと180°違ったものだったかもしれない。
もしかしたら、そうだった方が少なくとも、
だからこれは、僕と
僕等が出会ってから紡いだ、短くも儚い物語だ。
深海棲艦が現れてから十年の年月が流れた。
そう、十年。
もっと正確に言えば、十年と六ヶ月。
ちょうど新年度を迎えようという時に、そいつらは不意に突然、前触れもなく現れた。
全く既存の生命体には該当しない、それこそ化物のような風貌を持った未知の存在であるそれらは瞬く間に世界の制海権を握った。
つまりシーレーンを介した貿易すらも
人類にとってそれは、大打撃なんて陳腐な言葉で表現するべきではないほどの、それこそ青天の霹靂の如き事件だった。
当然、人類だって手をこまねいて指をしゃぶって見ていただけではない。
各国は直ちに攻撃を開始した。
最先端の技術を叩き込んだ全勢力で、最大限の攻撃を叩き込んだ。
結果として見れば、それは見事に失敗に終わった訳だが。
持ち帰ることのできた情報はどの国も共通して"既存の兵器では傷一つつけることすら叶わない"ということと"奴らには複数種類がいる"ということだけだった。
その後も細々と、人間に近い姿をしているやつは知性があるように見受けられる等といった情報も入ってきたが、肝心の対抗策に成りうるものは何一つとして得られることはなかったのだ。
追い詰められた各国は遂に切り札をきった。
即ち核攻撃である。
メリット・デメリットを比較した結果、実験的に一度だけ落とされたそれは、始めて人類側の攻撃として戦果を上げた。
深海棲艦:駆逐イ級。
そう名付けられた魚雷のような、魚のような風貌をしたそれをついに殺すことに成功した。
当然その情報はすぐに広まった。
広まった結果、人類は完全に絶望に叩き落とされた。
デメリットに目をつむり打たれた人類の究極の一手は、しかし大量に発見されている内の、たったの一匹しか仕留めることができなかったのだ。
解剖しようにもその身体は一つの傷もつけさせることを許さない。
世界は正しく万策尽きた。
ただただこのまま少しずつ、されど着実に僕等人類は滅びゆくのだと、そう確信させられたその時、彼女らは現れた。
───艦娘。
深海棲艦と名付けられた化物共と全く同じように彼女らは現れた。
ふらりと突然、前触れも無く。
主に第二次世界大戦で活躍した艦船の名を名乗る彼女たちは口を揃えて言った。
私達が戦いましょう、と。
戦況は一気にひっくり返った。
何故かと言えば答えは至極簡単なもので。
彼女らの扱う武器はその尽くが深海棲艦を貫いたのだ。
地球上の何よりも硬いとすら思われていたそれを、易易と。
ただ、それだけで僕等人類は攻勢へと出ることに成功した。
既に滅びゆく運命だと思いすらした程に追い詰められていた人類がここで反撃に出てくるとは思いもよらなかったのであろう深海棲艦に人類は反撃の狼煙を次々と上げた。
元よりなめきられていたことも加味されてか、人類は凄まじい勢いで戦いを起こし、その尽くで勝利を重ねた。
より具体的に言うのであれば。
人類は艦娘の護衛付きでシーレーンを介した貿易を可能にまでもっていくくらいには、情勢は回復した。
それはつまり、未だ深海棲艦の脅威に僕等は晒されている、ということでもある。
艦娘の攻撃は確かに深海棲艦には効果的なものではあったが、しかし彼女らも無敵というわけでは無かったという訳だ。
深海棲艦の攻撃は当然彼女らを死に至らせるものであったし、事実何人もの艦娘が死んでいるということを、僕のような一般人でも知っているくらいである。
とは言ったものの。
これらは全て、僕のような一般人からすればそれはどこか遠いところの話のようですらあった。
つまるところ、現実味が湧かない。
僕の親くらいの世代になれば、幾らか実感は湧くかもしれないが、少なくとも僕にとってはあまりにも夢のような話だったということだ。
というのも、近海であればもうすっかり安全であると、半ば保証されているも同然だからである。
流石にビーチが開放されている何てことはないが、やろうと思えば僕のような一般人でも海に近づけるし、何なら遊んでもバレないという自信が有るくらいには近海への警戒心は無い。
故に、危機感が生まれない。
全くの皆無である。
いや、全くと言うのは語弊があるかもしれない。
少しくらいはある。
海に近づけばちょっとくらいは気をつけた方が良いかもな、と思うくらいにはある。
少し離れた所にある鎮守府を見かければ現実味も小さじ一杯くらいは湧くだろう。
だがまあ、その程度だ。
無いに等しいと言ってもほとんど過言ではない。
生まれてこの方、深海棲艦等見たこともなければ、艦娘もテレビで少し見たことがある程度だ。
正直な話、艦娘も見た目はそこらにいる女性と全く変わらないのだから、見たところで余計現実味は湧かなかったというところまでセットである。
別に僕に限った話でもない。
僕くらいの世代であれば、こういった認識がほとんどであろう。
結局の所、僕等は艦娘や彼女らと共に戦う軍人たちに守られていながらも、そこにほとんど目を向けることも無く。
極々平和な、特段不便を感じることのない日常を。
僕等は──まあ、少なくとも僕は、特別有り難みを感じることもなく日々を無為に過ごしているのだった。
───こうして夜の防波堤を一人で歩くくらいには。
手に持ったアイスキャンディは時期的には実にミスマッチでは有るが、そこはそれ。
無類のアイス好きである僕に季節なんてものは関係ないのだ。
秋はまだ始まったばかり、未だに夏の暑さは残っているのである。
残暑ってやつだ。
夏はまだまだここに居座っていやがるのである。
といっても時刻は既に深夜を回っていて。
言われてみれば、ほんの少し肌寒いこともなくもない……? かもしれない、くらいの気温ではあった。
嘘だ。
ちょっと寒い。
けれどもアイスを手放す気は毛頭無い。
この意志は鋼より硬く、また何者にも捻じ曲げることは不可能である。
誰に対してなのかは分からないが、そう心の中で主張して口に含んだその時だった。
防波堤の直ぐ側に、何か大きなものが浮いているのが目に見えた。
何だかんだ僕はここに良く来るような悪ガキなので、いつもは目に入らないそれに、少し眼を惹かれた。
そうして気づいた。
気づいて、しまった。
あれは───人だ。
ぽろりと呆気なくアイスキャンディは零れ落ちた。
「おいおいおい! 大丈夫か!?」
クシャッ、と潰れる音を気にすること無く僕は一目散に駆けた。
全速力で駆け抜けて、一気に身を乗り出した。
「ぐっ……うぉおおぉぉぉおお! 」
びしょ濡れたその人の服を掴んで、力づくで引っ張り上げる。
運動部でもなければ身体を鍛えているわけでもない。
体育の成績は常に4をキープしているが、言ってしまえばそれだけな僕にとってその行為は非常に大仕事だった。
というか、衣服を着ているのに良く沈んでいないものだ。
不思議に思ったが、その人の服は防波堤の一部に引っかかっていた。
お蔭で海の底まで行くことは無かったのだろう。
ラッキーだったな、なんて思いながら引っ張り上げることのできた僕は何とかその人を防波堤に横にさせることに成功した。
その人は、女性だった。
眼を見張るくらいの美しい銀色の髪が水を含んでピッタリと首筋に張り付いていて、銀の長い睫毛がしずくを乗せている。
服装はコルセットの付いたセーラ服に、真っ白のインナー、その上にグレーのジャケットをはおるようにしていて、純白のスカートとタイツが真っ白な肌と競うかのように己の色を主張しており、グレーのブーツがそれを際立たせていた。
一言で言ってしまえば、美人である。
そう、美人だ。途轍もない程に美しい。
一瞬で頭の中身が吹っ飛んで、ただただ見惚れてしまうほどに、彼女は美しかった。
パッと見で楚々としたイメージを与えてきた彼女に、僕は暫し呆けさせられ、不意にコホリ、という彼女の咳で意識を取り戻した。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄った僕に、彼女は朧気に眼を開いてぼんやりとした様子でこちらを見る。
その眼は、しっかりと僕を映している様子ではないが、それでも彼女は口を開いた。
「たす、けて……助けて、くだ、さ……」
うわ言のように呟いて、彼女は僕の手を握った。
緊張とか、照れるとか。
そんな感情が顔を出しかけたがそれでもその異常性に僕の頭は珍しく回っていた。
これは何か事件の予感がすると、そう思えるくらいには。
ただやはり慌ててしまっていたのは事実で。
ギュッと握り返して、僕は叫ぶように返事した。
「え、いや、何から!? というか何があったんです!? 救急車呼びましょうか!? 」
「いえ、身体は大丈夫、大丈夫、です……」
彼女は僕の声を聞いて、徐々に意識を取り戻している様子だった。
ふわふわとした口調から、やがてはっきりと、正確に。
「いや、本当ですか? 明らかに普通じゃ───」
言葉は続かなかった。
何とか身体を起こした彼女は、しかし力が入らないのかガクリと僕に倒れ込んできたのだ。
少しの衝撃を感じながら、僕は焦りを加速させた。
「いや全然大丈夫なことないじゃないですかー!? 取り敢えず病院行って、その後警察行きましょう! きっと助けてくれ───「嫌です!」
やはり言葉は続かなかった。
僕の身体を預けていた彼女は僕の顔の直ぐ側で、それでも力強く遮った。
良く見れば、瞳からは涙がこぼれていて、細いその身体は確かに震えている。
「いや、嫌です……警察も、病院も、どちらも……私、は、駄目なんです……」
途切れ途切れで、嗚咽を抑えるように、吐き出された言葉だった。
あまりにもたくさんの情感──怯えや、恐怖といったものが乗せられた声だった。
僕は言葉を失った。
まるでフィクションみたいな展開に、僕は興奮どころか若干の怯えを覚えてすらいたのだ。
酷く混乱してきた頭を無理やり回して、言葉を絞り出す。
「分かった、どっちにも連れて行かない。それじゃあ君、今から家に帰れる? 何なら送っていくけれど」
「……いいえ、私に、もう帰る場所は、無くって……」
「はぁ? え、何、家出?」
そう言えば、彼女は申し訳なさそうに眼を伏せてそのまま黙り込んでしまった。
言葉にするのが憚られるような事情があるのは目に見えて分かってしまったが、しかし帰る場所が無いとか想定外である。
このまま彼女を置いて帰るのは簡単なことではあったし、それが一番厄介事に関わらないで済む最善の選択であると、僕はしっかりと分かってはいた。
分かっていながらも、そうすることはできなかった。
ここで僕にとって楽な道を選べば、彼女は多分救われることはない。
それを分かっていながら、それでも無視すればきっと後悔する、僕の中の何かがそう叫んでいた。
どうすれば良いのか、どうするべきなのか。
自問自答は何度も反復するように繰り返されて、しかし結果は出ない。
早くなる鼓動をどうすることもなく、ただ目を瞑る。
戸惑い、震え、怯え、しかしそれでも考えた。
だって、彼女は助けを、救いを求めたのだ。
考えて考えて考えて、そして僕は決断した。
「分かった。君が良いなら、僕の家に来ると良い。」
「……え?」
「生憎、一人暮らしだから、警戒はせざるを得ないとは思うけれども。君、見た所無一文だろう? ホテルに泊まることもでき無さそうだし、信用なんてできるものじゃないとは思うけれども、残念ながら僕にはこれくらいしか提案できない」
「良いん、ですか……?」
「君が良ければ、だけどね。僕は大して困らないさ……多分」
「で、でも、申し訳───」
「申し訳ないとか、そんなことを考えるのは余計だ。君は助けを求めた。そして僕は君を助ける、そう決めたんだ。だから、君が良ければ、僕の差し伸べた手を取ってくれ」
そうして。
彼女は僕の手を取った。
ありがとうございます、と頭を下げて、ゆっくりと。
弱々しく、けれども精一杯の力で僕の手を取った。
それから安心したように、彼女は崩れ落ちた。
フッと意識が落ちて、全身から力を抜いた彼女は僕に撓垂れかかってきた。
……いや、さ。
君、ちょっと警戒心が薄すぎない?
混乱と緊張でぐちゃぐちゃになった頭で、僕はそんな感想を抱いた。
────そんな、酷く非常識的な出会いが、僕と彼女の出会いだった。
これまでも、これからも。
ここまで記憶に焼き付けられるような出会いはもう無いだろう。
そんな、人に話すのも勿体ぶってしまうような出会いの秋から、僕等が馴染み合うまで、時間はそうかからなかった。
紅葉の季節は駆け足で過ぎ去って、後を追うように冬はやってきた。
しかし秋のように駆け抜けはせず、そいつは暫くここに居座るようだった。
その証拠に辺り一面は、すっかり白一色だ。
昔は良く駆け回ったものだが、今では雪を見るだけで憂鬱になってしまった。
これが大人になるということか……そう思いながら僕はお布団様に包まれていた。
もう君から一生離れないよ……何て呟いていたらその瞬間お布団様が僕から引き剥がされて視界の隅に投げ捨てられた。
そうして視界に飛び込んできたのは、銀髪の美女。
あぁあぁぁぁ……と虚しい声を上げる僕に彼女は言った
「もう、いつまでそうしているんですか。冬休みだからってだらけすぎですよ」
「ぐっ……涼月ぃ……あと五分だけだから、お布団様を返してくれぇ……」
「だ・め・で・す」
『涼月』
それが彼女の名乗った名前だった。
名字は敢えて名乗らなかったように思えて、僕はそこまで踏み込むことはしなかった。
そんな涼月は僕の情けない頼みを素気なく断って、片手に持ったお玉を見せながら「もう朝ごはんの時間なんですからね」と付け加えた。
言われてみれば、美味しそうな匂いが鼻をくすぐっている。
ほら、早くしてください。と差し出された手を取って身体を起こし、僕は彼女の用意した朝ごはんへと向かった。
ホカホカと湯気を上げるそれらを見ながら席につき、同時にいただきます、と手を合わせる。
ふむ、まあ、それにしても。
「すっかり手慣れたものだな、どれも美味しい……いつも助かるよ」
「いえ、私はお世話になっている身なのでこのくらいは……」
「あんまり気に負わなくても良いって言ってるのに」
「そんな訳にはいきません。それにこれは、私がやりたいからやっていることですから」
「うーん、まあ、それならそれで良いんだけどさ」
無理はしないでよ。
そう言えば彼女は「はい」と笑顔で応えた。
───あの衝撃的な出会いから実に数ヶ月。
涼月、と名乗った彼女はすっかり僕の生活の一部に溶け込んでいた。
最初はどちらも警戒し合って距離を取り合ってはいたが、この小さな場所に二人で暮らすのだ。
コミュニケーションは必須だったわけで。
僕等は案外手こずることなく関係を深めるに至ったのだった。
その距離感は、学校の友達なんかよりもずっと近いような気さえする。
当初見せていた怯えなど、僕に限っては全く見せなくなったのもその証拠と言えた。
……そう、僕に限ってだ。
彼女──涼月は、僕以外の人間と関わるのを非常に嫌がった。
いや、人と関わること以前に、外に出ることを嫌がったのだ。
不特定多数と関わることを、非常に拒むのだ。
無理に連れ出してみたこともあったが、僕からピッタリ離れず、また帰りたいオーラを爆発させているまであった。
それはどちらかと言えば、対人能力が低いというわけではなく、そもそも知らない人に自分を認知されるのを恐れているようだった。
まるで、誰かから逃げ隠れるように、彼女は生活しているという訳だ。
こうして一緒に過ごしている以上、聞かなければとも思うが、今はまだ聞けないというのもまた事実。
無理に聞き出す気も僕にはなかったし、彼女が話したいと思った時に聞ければそれで良いと思っていた。
あそこまで恐れるようなことを、正確に口に出すのは中々難しいものだって、僕にだって分かるから。
それに。
僕は今の平和な生活を、心の何処かで壊したくないと、そう思っているのも確かだったから。
聞けばやっと安定した今が崩れることが、分かっていたから。それも相まって僕は踏み込むことを良しとしなかった。
中々打算的な思考に、嫌気がさすが、それでも今暫くはこの幸せに浸かっていたかった。
ご飯を食べたらどうしましょうか、何て涼月の問いに生半可な返事を返しながら、僕はこの幸せを噛み締めた。
暖かくなったり、寒くなったり。
居なくなったと思ったら、嫌がらせのように顔を頻繁に出しに戻る冬を追い出して、次の季節はやっとやってきた。
所謂卒業の時期というやつである。
美しい桜がパァァと咲き乱れ、並木道を彩る季節。
僕等の住むアパートからは、残念ながらそういったものは見れなかったが。
それでも何とか僕は涼月に桜を見せたかった。
何と彼女は桜を見たことが無いと言うのだ。
どんな人生を送ってきたのか……とは思ったがそれは置いといて。
とにかく一緒に見たかった僕は夜桜を提案した。
夜であれば、人も少ないし明かりも弱い。
別に花見スポット以外にだって桜は咲いているし、案外そうじゃないところが穴場だったりすることもあるのだ。
事実、僕はそういったところを実は知っている。
一年前に見つけたものの、誰かに話すのも勿体なくって結局己の胸に仕舞っていた場所だ。
夜のちょっとしたピクニックも中々面白いんじゃないか? と伝えれば、彼女は少し悩んでから承諾した。
それじゃあお弁当を用意しましょう、と台所に向かう涼月にじゃあよろしく、なんて言って。
一緒に作りましょうよ!? と手を引っ張られるところまでセットである。
最初の頃は「私におまかせください!」なんて言っていた涼月なのに。
人とは変わるものである。
───清流を眺めながら、お弁当を食べる。
ちょっと遅めの夕ご飯だ。
隣に座った涼月と、他愛もない話をしながら僕等は夜の桜を楽しんでいた。
周りには人影すら無くて、ただ一本の太い桜の木が僕等の頭上に花咲いている。
ヒラヒラと絶えず舞っている気すらする花びらは、昼に見るそれとはまた別の趣があって何だか新鮮だった。
見惚れるように呆ける彼女を見て言う。
「桜ってのは、良いものだろ?」
「はい……とても……とっても綺麗です」
視線を外すこと無く彼女はじっとその風景を見つめていた。
街灯があまり届かないここは、主に月の明かりに透かされていて。
それがより幻想的なこの光景を際立たせていた。
桜越しに見える満月が、酷く美しい。
食べ終えて尚僕等はその場に留まって、他愛もない話を続けながらその光景を記憶に焼き付けた。
自然と距離を縮めていた僕等は、どちらともなく互いの手を握り、肩を預けあった。
アイスが一番活躍する季節がやってきた。
どの時季でも部屋の冷凍庫には常備している程のアイス好きの僕だが、この季節はやはり消費量も馬鹿にならない。
まあ、それも節制を心がける涼月によりかなりセーブされるようになってしまったのだが。
親からの仕送りと僕のバイトにより維持されているこの部屋であるが、いつの間にか財布の紐は涼月が握るようになっていた。
どうしてこうなった……? と首を傾げたが正直僕より涼月のほうがしっかりとしているのは事実で。
どちらかと言えば大いに助かっている、というのが正直な感想だった。
この頃になると、彼女も外に出ることへの抵抗は薄くなってきていた。
帽子やマスクなどで顔を隠したり、髪型を変えたりすれば外には出るようになっていた。
夜桜を見に行ったあの日から、夜中の散歩が習慣になったのが、大きな要因なのだと思う。
ちょっと不審者染みているが、それでも一人で外に出られるようになったというのはとても喜ばしいことで。
思わずお祝いしてしまったのは記憶に新しい。
顔を赤くして照れる涼月の姿は、大分見慣れた気がした。
そんな彼女が、心配そうに僕を見つめて言う。
「具合はどうですか? 気持ち悪かったりしませんか?」
「ゴホッ、いや、問題ない。大丈夫だ、ありがとう」
「そうですか。それじゃあ早く寝て、すぐに治しちゃいましょうね」
そう言って、彼女は自分の膝に僕の頭を乗っけた。
柔らかくて、気持ちいい。
この季節の変わり目に、僕は体調を崩していた。
滅多に風邪など引かない身体の持ち主であった僕だが、今回は珍しく熱を出してしまった。
病院に行けばただの風邪ですね、と診断されて薬を貰って帰ってきた次第である。
安静にしていてください、と念を押されるように言われた僕は黙って従いお布団様と一体化していたという訳である。
夏だと言うのに、体感だと非常に寒いのだから厄介なものだ。
涼月に風邪を移すのも良くないし、最低限ご飯だけくれれば後は何とかすると言ったのだが彼女は聞かず。
優しげに僕の頭を撫でてこうして世話をしてくれているという訳だった。
もう何だかんだ半年以上も一緒に暮らしていて分かったことだが、彼女は非常に面倒見が良い。
何だか母性を感じる時すらあるくらい、涼月は僕のことをよく見てくれていた。
結構だらしないところがあると自覚しているくらいの僕に、彼女の面倒見の良さは非常にマッチングしていた。
額の冷えピタを新しいものに付け替えられる。
ぬるくなったそれを剥がされすっかり冷え切ったそれを当てられるのが、心地よい。
何だかぼやけてきた視界の中で彼女の手を握り、僕は感謝を口にした。
それから暫くした頃だった。
時間帯で言えば、深夜に近い頃で。
涼月と僕は例の防波堤を歩いていた。
楽しげに歩を進める彼女の後ろを、ついていくように。
こうして二人で散歩に出かけるのは既に日課となってはいたが、その時その時で歩くルートというのは実は違ったりする。
僕が決めることもあれば、涼月がこっちを行ってみたい、と決めることもあって特別ここを通る! という決まりは無かった。
そんな僕等だったが、今夜は珍しく涼月がここに来たい、と言ったのだ。
特別断る理由も無かった僕はすぐさま了承してここを歩いているという訳だった。
ちょうどあの日と同じくらいの時期、けれどもまだ少しだけ暑さは残っていて。
解消するように、アイスキャンディを口に含む。
少しばかり溶けていたそれは少しの力で易易と砕けた。
「それにしても、何だってこんな所に来たんだ? 何時もならルールは守るべきです! なんて言って海に近づくことを禁止するくらいだってのに」
ふとした疑問を言葉にすれば、彼女は立ち止まって振り向いた。
月の光が、彼女を照らしている。
「そうですね。私も、本当なら貴方を海には近づけたくありませんでした。でも、話すなら多分ここが一番相応しいと思って」
「話す? 相応しい?」
「はい。聞いて、いただけますか?」
何だか嫌な予感がした。
きっとそれは、僕が今まで聞こうとしてこなかったことなのだと、反射的に理解した。
聞いてしまえば戻れないと思った。
けれども、やはり僕は聞くべきなのだ。
彼女の語る、彼女の話を。
「勿論、何でも聞くよ」
「ありがとうございます……」
そうして涼月は安心したように笑い、それからゆっくりと深呼吸をした。
良く見れば、微かに身体が震えている。
それでも僕は、彼女の言葉を静かに待った。
やがて、決意したように彼女は言った。
「私は、私の名前は涼月。正確に言えば『乙型駆逐艦・秋月型:その三番艦 涼月』」
「駆逐、艦……?」
「はい、私は、人ではなく艦娘。名字は名乗らないのではなく、元より無いんです。騙していて、申し訳ありません……」
彼女は頭を下げた。
許されないことをしたと言わんばかりに彼女は深々と。
一方僕と言えば。
拍子抜けだった。
え? そんなこと? ってなもんである。
もしこれが、出会った時から知っていれば問答無用で警察にでも連れて行ったかもしれないが。
僕等は既にそんなことが出来るような関係じゃあない。
正直、彼女が人であろうがそうでなかろうが、僕には関係の無いことだった。
故に、僕は。
「え、あぁ、そう……それで?」
としか言えなかった。
そんな僕の薄い反応に彼女はガバっと頭を上げた。
「お、怒らないんですか? 私は、お世話になっていたにも関わらずずっと貴方のことを騙していたんですよ!?」
「いやどっちかと言えば世話になってたのは僕の方だし。厄介事を抱えていたのは分かってたから、その正体がちょっと予想外だっただけで」
「そ、そうですか……」
「それに、そのことを話したってことは続きがあるんだろう? 序盤から驚いてらんねぇぜ」
「……流石ですね。そうです、このことは話すにあたっての前提に過ぎません。これから話すのは、私が貴方と出会うに至ったまでの物語」
どうか、聞いてくださいと彼女は言って。
僕はそれに、静かに頷いた。
そうして、彼女はゆっくりと語り始めた。
とある鎮守府で建造されたこと。
姉妹や仲間たちと共に幾度となく出撃したこと。
鎮守府のトップである提督は艦娘達をただただ兵器として扱い、碌な待遇では無かったこと。
身体を癒やす時間は与えられず、絶え間なく戦い続けたこと。
艦娘が提督に攻撃をすることは、まず不可能であること。
それでも反抗した艦娘達は尽く解体されたこと。
本来そういったことを取り締まる憲兵等ですら、それを容認していたこと。
艦娘達は道具でありながら、慰みものであったこと。
どこに訴えても、取り合ってすらくれなかったこと。
各鎮守府の大本である大本営ですら、まともに相手をしてくれなかったこと。
そうして遂に耐えかねて、脱走を図ったこと。
きっと今も、探されているだろうということ。
見つかれば、解体は免れないということを。
言葉を重ねる度に、彼女は身体を震わせた。
瞳からは大粒の涙がこぼれ、彼女は己の身体を抱きかかえた。
僕は、唖然としてしてしまって言葉を発することができなかった。
言うべき言葉が見つからなくて、ただ彼女を抱きしめる。
結果としてみれば、僕は覚悟が足りていなかったのだろう。
彼女の語ったことは、一介の高校生が受け止めるには重すぎて、深過ぎて。
疑おうにも、信じてしまえば今までの行動や怯えも納得できてしまって。
僕はどうにかしてやる、と奮い立つことすらできなかった。
ただ同情するように。
ただ慰めるように。
僕は彼女を抱きしめた。
助けを求められたにも関わらず、僕が出来たのは一時の平穏を与えただけであって。
そこが僕の限界だった。
救うことは、到底不可能だと、そう、思ってしまった。
しかしその上で、今まで大丈夫だったのだから、きっとこれからも見つけられること無く一緒に暮らせるのではと。
そう、安易な考えが過ったときだった。
「やっと見つけた。随分と手間をかけさせてくれたものだ……」
低い声が、後ろから響いた。
反射的に振り返ってみれば、そこには真っ白な軍服に、如何にもな軍帽を被った若い男が立っていた。
それが、所謂"提督"の格好であることを、僕は知っていた。
何度かテレビで見たことが有る。
そして、今の口ぶりからして。
僕等の薄っぺらい平穏は、たった今崩れ落ちたということも、分かってしまった。
提督と思われる男の隣には眼の濁った女性──恐らく艦娘──がいた。
護衛、のようなものなのだろうか。
その二人を見て、涼月は身体を強張らせて、僕の身体を掴んだ。
そんな彼女を背に隠す。
意味は無いと分かっていながらも僕は
「だ、誰だよあんたら……何か用か?」
と言った。
そんな僕をつまらなそうに見て、男は言う。
「ん? あぁ、例の少年か。報告にあった通り、平凡そのものだな。障害にもならん、行くぞ」
「わかりました……」
僕の言葉を無視して、彼は傍らに立つ女性と共にこちらにやってきた。
まるで僕なんて、目に入っていないかのように。
「く、来るな!」
怯えを隠すように叫んだ僕何て見向きもせず。
ただそっと肩を掴んで、押しのけられた。
大した力では無かったと思う。
しかしそれだけで、僕の虚勢は剥がれ落ちて、あっさりと身体は動かされた。
力が上手く、入らない。
男は、涼月の手を取り強引に引っ張った。
「長かった逃避行も終わりだ、さっさと帰るぞ」
「い、嫌で──」
「何か、言ったか?」
「────何でも、ありません……」
眼光一つ、言葉一つ。
それだけで、男は涼月の意志をへし折った。
そこに物理的な脅しは、何一つ無い。
目に見えない武器を持って、男は涼月を従わせた。
僕はそれをただ見ていることしかできなかった。
一歩を踏み出すことすらできなかった。
所詮、僕はその程度の人間だった。
誰かを助けるだなんてことは、烏滸がましすぎて。
あまりにも身の程知らずで。
ただただ遠ざかる彼らの後ろ姿を眺めることしかできなかった。
何もされずに離れていくことに、ほんの少しの安堵すら覚えていた。
未練がましく、その背中を見続けて。
僕は強烈な劣等感と後悔と、諦観を同時に感じていた。
そしてふと、気づいた。
連れられていた涼月が、少しだけこちらに振り返った。
何もできなかった、否。
何もしなかった僕に対して謝るように。
無理やり作り上げた小さな笑顔で、僕に心配させまいと。
彼女は僕を見た。
それはきっと、彼女からの最後のSOSだった。
───強烈な電撃が全身を駆け抜ける。
彼女と過ごしたこの短い一年間が、走馬灯のように僕の頭を流れゆく。
だらだらと布団にくるまり駄々をこねることを許さない涼月。
毎日美味しいご飯を用意してくれた涼月。
他愛もない話で、上品に笑う涼月。
風邪に臥せった時に、精一杯看病してくれた涼月。
良く照れる涼月。
たった一年間だった。
正確に言えば、一年にも満たなかったその月日は、しかし。
これまでの十何年よりもずっと濃くて、楽しくて、幸せだった。
────僕は、何をしているんだ。
簡単に、手放しちゃいけないものだって、分かっていただろうに。
諦めてしまったら、後悔するって、知っていただろうに!
助けられない? 救えない? そうやって、すぐに諦めて!
此処まで来て、彼女と自分を天秤にかけて、結局自分を取って!
あまりにも───情けない!
彼女を救うって、そう、決めただろうが!!
走った。
彼らの後を追うように、僕は駆け抜けた。
グングンと男たちの背中に追いついて。
僕は何も考えず、ただ感情のままに。
蹴りぬいた。
足音を聞いた男が振り向くのと同時に、蹴りを叩き込んだ。
隣にいた、涼月と女性が驚いたように僕を見る。
流石に鍛えているのか、男は少しだけ怯む程度だった。
「なっ──貴様、何をしているんだ!? 俺を誰だと───」
「うるせぇよ! あんたが誰とか、どれだけ偉いとか、そんなもんは知ったこっちゃ無ぇ! 僕は! 涼月を助けるんだよ!!!」
「ふざけたことを───!」
振り抜いた拳は躱されて捻り上げられて、一発拳を腹に入れられる。
それだけで、頭に火花が散るような気さえした。
涼月が止めに入ろうとして、阻まれた。
碌に鍛えもしていなければ、武道もしていなかった僕の相手なんて、軍人である彼にとってはお遊び同然なのかもしれない。
──けれども。
それはもう、諦める要素には成りえない。
こんな痛みはきっと。
涼月が受けてきたものに比べればずっと軽い。
追い打ちのように拳は僕の頭や胸を殴りつけたが、僕は止まることはなかった。
鼻面に一発拳を放つ。
こんな殴り合いなんて僕は初めてだったが、躊躇は無かった。
こうすることで救われるのであれば、僕は幾らでもしようと思った。
何だか視界が歪む、それでも立った。
それでも踏み込んだ。
互いの顔を、同時に殴り合う。
離れていく彼をふらつく足で追った。
そうすれば、男は怯えるように叫んだ。
「ぐっ……あぁぁぁ! 畜生、何をやっている大和! 早く俺を助けろ!」
男は涼月を強引に引っ張って、僕から距離をとり。
呆気に取られたように僕を見ていた大和と呼ばれた女性はハッとしたように駆けてきて、僕と男の間に割って入った。
「おやめください。これ以上は、貴方もただではお済みませんよ」
「僕のことなんて、どうでも良いんだよ。ただ、そいつがいなくならなくちゃ、涼月は救われないんだ。僕は救うって誓ったんだよ。あんただって、本当は従いたくなんか無いんだろ。そんな何もかも諦めたような眼で、冷静な振りなんてするのやめろよ。」
「っ────、忠告を聞かないと言うのであれば、武力行使に出ざるを得ません! おやめください!」
「あんたにとって、その人はそんなにも守る価値があるもんなのかよ。艦娘たちを傷つけて、玩具みたいに扱って、それでも許すって言うのかよ。そんなことは良くないことだって、僕みたいなガキにだって、分かることなのに!」
「それ、は───」
「僕はもう決めたんだよ、涼月を助けるって。そいつから解き放つんだって、決めたんだ! あんたら艦娘達が、抵抗できないって言うのなら序でだ。僕があんたも救ってやるよ! だから、今はどけ!」
やがて言葉に詰まった彼女は、静かに腕を降ろした。
力なく、瞳に涙を乗せて、彼女は呆気なく。
僕が通り過ぎるのを、止めなかった。
「な───大和! お前、くそ、くそがぁ!」
そうして。
彼は、懐から真っ黒に光る何かを取り出した。
ガキンと硬質な音を鳴らし、僕へと向ける。
「それ以上でも来れば、俺は撃つぞ。死にたくなければ、ここらで諦めることだ」
「知るか」
向けられた銃口に、しかし僕は恐れを抱かなかった。
撃たれるということより、彼女がいなくなって、こいつに良いようにされることの方がよっぽど怖かった。
優位を取り返したと確信していた彼に、迷うこと無く突き進む。
「───!? う、撃つと言ったぞ! 来るなぁ!」
「知るか、とも言った」
歩みは徐々に早く、やがて駆け足に。
ぐらつく身体に気合を入れて、僕は全力で走り出した。
酷く動揺する声を聞きながら、拳を振り抜こうとして。
そして激しい銃声が響いた。
腹に、酷い熱と痛みを感じる。
ドロリと何かが零れ落ちていく感触がした。
真っ赤な血が、アスファルトを汚す。
涼月が、眼を見開いて、悲鳴をあげる。
優越感に浸ったような顔で、男は笑った。
「は、はは……ははは! ざまぁみやが───」
それでも殴った。
殴り飛ばして、落ちた銃を蹴り飛ばしながら倒れるように組み付いた。
首に腕を回して締め上げる。
タガが外れたような力を発揮していた僕は、暫くそうしていた後に彼から力が抜けるのを感じた。
意識が朦朧としてきたのを感じる。
けれども、ここで眠るわけにはいかなかった。
僕だって、今此処でこいつを殴り倒せばそれで解決するだなんて思っていなかった。
涼月は、彼女らが訴えてもどこの機関も動いてくれないと言っていた。
軍の一番お偉いさんが集まる、大本営とやらですら取り合わなかったと。
で、あれば。
動かざるを得なくしてしまえば良いのだ。
艦娘たちの被害から訴えるのではなく。
例えば、僕みたいな一般人に被害を出させて。
あらゆるところから注目を浴びさせてから、何もかも徹底的に調べざるを得ない状況を作り出すとかで。
そこから全部明るみに出してしまえ良い。
我ながら上手くいったものだと笑った僕は。
スマホを取り出そうとしてガクリと倒れた。
否。
倒れそうになって、支えられた。
───涼月。
「い──嫌、嫌です、唯織さん、唯織さん、唯織さん! 眼を開けてください、返事を、してください!」
彼女は僕の名前を連呼しながら叫ぶようにそう言った。
ボロボロと涙をこぼしながら、何度も、何度も。
僕は、それに答えようと掠れた声で、
「そう、叫ばな、くても、聞こえて、るよ、涼月」
と言った。
思いの外ちゃんと喋れなくて、その上興奮状態から戻ってきたのか全身を激痛が駆け巡っていた。
それでも必死に涼月の頭に手を当てて、ゆっくりと撫でて落ち着かせる。
ゆっくりと歩み寄ってきた大和に、僕は震える手でスマホを渡す。
「悪、い。警察と、救急車……呼ん、でくれ、ない?」
「分かりました、すぐにでも」
そう言って彼女はたどたどしく画面を操作して連絡し始めた。
それを見てホッとした僕は、抱えてくれる涼月の胸元でゆっくりと力を抜く。。
「唯織さん、唯織さん……ごめんなさい、私、私のせいで……」
その言葉が少し気に入らなくて、僕は無理やり声を出した。
「こういう、時は。ごめんなさい、じゃぁ、無くて……あ、りがとうって、言うもん、なんだぜ……?」
涼月は顔をグシャグシャにして僕をギュッと抱きしめた。
ボロボロ零れる彼女の涙が頬を伝う。
「そうですね、その通りです」と言った彼女は続けて、
「ありがとうございます」
と泣きながら、笑った。
それだけで、僕は満足できて、静かに眼を閉じた。
後日談というか、結果発表と言うか。
僕はあれから、大和によって呼ばれた救急車によって運ばれ見事入院。
同時に駆けつけた警察により提督であった男は緊急逮捕となった。
ここまでして、それでも握りつぶされたらどうしようかとも思ってはいたが、あれだけ派手な事をしたのだ。
僕が気を失った後、近隣の住民たちがやってきたようで、多数の目撃者が出たこともあってか、そんなことは起こらず、無事このことは世間におおっぴらに公表された。
お蔭で例の鎮守府には緊急捜査が入り、一斉検挙。
涼月達は、見事救われたということだ。
めでたしめでたし、と言うことである。
晴れて涼月は更生された鎮守府に戻り、僕は僕で数ヶ月お世話になった病院から退院し。
それから別々の道を歩む。
少なからず、というか、大いに未練はあったが。
彼女は艦娘で、僕は一般人。
それが変わらない以上、僕等がこれからも一緒に暮らすのは、不可能だった。
だから、これは僕と
これから先は、もうほとんど全く、関わることのないだろう、
名残惜しさはあるが、概ねハッピーエンドだったと我ながら思う。
この一年は僕にとってかけがえのなにもので、一生忘れることはないだろう。
時折思い出しては、浸ってみようかな、なんて思いながら、僕等は互いに、元の生活に戻った。
戻った───はずだった。
正確には、戻ったと、そう思っていた。
別れの秋を乗り越えて、無事卒業したとある日の春。
僕は何故か、いつか見たのと同じ真っ白の軍服に軍帽を身に着け、同じくらい白い手袋をつけていた。
「ふふ、お似合いですよ、提督」
「やめてくれよ、そう呼ばれると、何だかむず痒い」
「でも、これから皆からはずっとそう呼ばれることになるんですよ?」
「そうかもしれないけれどもさ、それでもやっぱり慣れないよ」
「大丈夫、その内慣れますよ」
多分。
と、銀髪の美女───涼月は無責任にそう言った。
困ったものだ、とため息を吐けば、彼女は時計を見てそろそろですね、と呟く。
習って僕も時計を見てみれば、9時少し前。
「何だか緊張してきたなぁ、本当に、僕に務まるんだろうか」
「大丈夫ですよ、唯織さん──提督なら、私も含めて、皆信用しています」
「本当かよ……」
だがまあ、愚痴をこぼしても仕方ない。
あれよあれよと流されるようだったが、結局決めたのは自分自身だ。
やれる範囲で頑張ろう。
そう思って立ち上がる。
豪華かつ重そうな扉を、涼月が開け放つ。
多数の喧騒が、一斉に収まる。
「提督が、着任しました!」
そんな言葉を聞きながら、僕はその先へと足を踏み出した。
───これまでは、僕と
そして、これから始まるのは、僕と
山あり谷あり涙ありな。
そんな物語だ。