あの懐かしい日々。
── ソードアート・オンライン09 アリシゼーション・ビギニング──
不幸を知ることは
怖ろしくはない
怖ろしいのは
過ぎ去った幸福が
戻らぬと知ること
──BLEACH46 BACK FROM BLIND──
※本編とは特に関係ありません。
斬魄刀との対話。
霊術院に入ったばかりの生徒は、それを始解習得に伴う単なる通過儀礼としか思わない者が多いが、そうした勘違いは二回生になるまでの間で完全に払拭される。
斬魄刀との”対話”と”同調”は、斬術で戦う死神の根幹と言ってもいい。始解を習得し終わった死神が斬魄刀と二度と対話しないのか? 答えは否。始解どころか卍解を習得している隊長格ですら、各々のペースで精神世界に入って斬魄刀と語り合う。始解を習得し終わった死神は二度と”同調”をしないのか? この答えも否。始解においても卍解においても、同調の過程は必ず必須となる。
”対話”と”同調”。
それは、斬魄刀の基礎であり根幹、力にして…絆。
様々な言葉で言い換えることができる…あえて一つに絞るとすれば、”斬魄刀の全て”であろうか。
はるか昔、とある男によって生み出された斬魄刀という存在。
それと共にあった死神の、幾千年にも渡る歴史。
霊術院の門を叩いた生徒は全て、この歴史に足を踏み入れざるを得ない。
かつては百数十億キュービットの光子から成り立っていた異色の魂─人工フラクトライトと、
その魂から分かたれた、新たな力と決意を身に宿したもう一つの魂。
彼らもまた───歴史の
刃禅における基本スタイルといえば、その名の通り現世における座禅をそのまま踏襲した形となる。唯一の違いは、両足と尻との3点でつり合いよく座ったその膝の上に、自らの斬魄刀を地面と並行になるように置き、手に持つこと。あとは座禅と同じだ。調身 調息 調心。この三点を意識することで、よりスムーズに斬魄刀との対話を成し遂げられる。
ただし、このやり方はあくまで基本。一般的に、斬魄刀関連の修行は他と比べて最も教科書を使わない分野と言われている。つまるところ、斬魄刀はそれぞれで独自性が強いために、教科書が全てという訳ではない。それが自分にとって一番適しているやり方だと感じるのであれば、いくらでも教科書から離れてよいのだ。
そして、今雨涵の目の前にいる二人のクラスメイトは、まさに教科書から正しく逸脱していた。
なぜかわざわざ二段ベッドの上の方に移動したアリスは、座り方こそしっかり座禅を踏襲した形だ。ただし、斬魄刀は膝の上ではなく、右肩に立てかけるような形になっており、それを右腕でしっかり抱えたまま、目を閉じて小さく呼吸をしている。
その下のベッドにはユージオがいた。彼はアリスと違い座禅を組んでいる訳ではなく、椅子のようにベッドに腰かけていた。斬魄刀を床に立てつつ手で支え、自らの額が斬魄刀の柄頭に触れるように上体を曲げている。まるで祈りを捧げる現世の聖職者のごとしだ。こんなんで本当に集中して精神世界へ行けるのか? 雨涵は疑問だったが、彼女の疑問に反してユージオはまるで絵画か彫刻かのように静かだった。微かな呼吸音さえなければ、美術館に飾っても問題ないくらいに。
とりあえず安心した雨涵は、十分前と比べて遥かに静かになったこの部屋の床に座り込み、ホッと息を吐いた。
なぜこの部屋が十分前と比べて遥かに静かになっているのか、理由は明白だ。さっきまでこの部屋にいた五人のうち、二人が元いた”世界”へ戻り、もう二人がその”世界”へお邪魔しているからだ。
静かに集中する二人のクラスメイト。彼ら二人の心がもう、雨涵と同じ世界にないことは明らかだった。だが、雨涵は別に寂しさは欠片も感じてはいない。二人が再びこちらの世界に戻ってくること、それもまた明らかだったからだ。
だから、今自分の胸をチリチリと焦がす謎の感情は──
少なくとも寂しさではないと、理論派の雨涵は分析した。
芸術のように静止する二人のクラスメイトを部屋に残して、
雨涵は一人 寮から離れて深夜の瀞霊廷へと消えていった。
ユージオは始め、頬に風を感じた。
続いて、自分の髪が風に揺らめくのを感じた。
そしてさらに、身にまとう全身の服が風によって擦れるのを感じた。
ここで、ユージオは違和感を覚えた。
自分がいる院生寮の部屋の中で、こんな心地いい風を感じるのはおかしなことだと。
いや、それによくよく考えてみれば、額に接していたはずの斬魄刀の柄頭の感覚がない。
それに、ベッドに座っていたはずの自分の体勢もなんだか変わっていないか?
そこまで考えてようやく、ユージオは恐る恐る目を開けた。
満面の緑が、ユージオの目に飛び込んできた。
(……森?)
そう、森だった。
数秒前まで霊術院生寮の部屋の中で斬魄刀を手に座っていたはずのユージオは、なぜか森の中に立っていた。
微妙に眠い目を擦りながら、なんだかとっても不思議な感じだとユージオは思った。
何が不思議なのか。それは寝巻き姿からいつの間にか院生服になっていたことでも、寮の部屋から突然森の中へワープしたことでも…ない。もちろんそれらも不思議ではあるのだが。
今まで感じたことのない匂い。ユージオの大好物である甘い匂いでも、多くの人が出入りした建物の混濁した匂いでもなく、斬魄刀を抜くと微かに漂う鋭い鉄の匂いでもなく…一呼吸するたびに穏やかになるような、不思議な匂い。それでいて、そんな匂いを内包する空気が肌に触れる感触。それは、もっと長く浴びていたいと思わせるくらいには、ひどく心地よくて…不思議な感じだった。
何これと考えるより前に、さっきからまだ残っていた眠気も相まって、ユージオはこの穏やかな雰囲気のまま一度ぐっすり眠ってみたいと感じた。そして…その穏やかな欲求に対抗しきれなかったユージオは、数回目を擦った後に淡い緑色の草叢の上にどさりと仰向けに寝っ転がってみた。
その結果、背に背負った斬魄刀の鍔の部分が自分の後頭部に直撃したことで、ユージオの短い悲鳴が穏やかな森に響き渡った。
ズキズキと痛む後頭部を押さえながら上半身を起こしたユージオは、少々不本意ながらも完全に覚醒した。
(ああ…そっか。ここが、精神世界なんだ…)
この世界に来るまでのやりとりを事細かに思い出したユージオは、なぜ院生寮からこの森へ自分がワープをしたのか、全てを理解した。そう、自分は精神世界に来ることに成功したのだ。
斬魄刀を背中に背負ったまま寝っ転がるというドジを踏んでようやく覚醒するくらい、ユージオがこの森に心を奪われてしまったのには理由がある。なぜなら、ユージオは森というものを見た経験がないからだ。
記憶を失っているユージオは、今持つ全ての記憶が尸魂界での経験に基づいている。住んでいた流魂街の地域は比較的木々の少ない場所であった故、彼は一度も森に触れたことはなかった。だからこそ、地面から咲く甘い花の匂いや青々とした草の匂い、そして、胸を洗うように爽快な樹の匂い。それら全てが完璧に調和した森そのものの空気に囲まれる感覚に、ユージオは見事魅了されてしまった。
この経験を経て、ユージオは趣味の一環として森林浴を嗜むようになるのだが、それはまた別のお話。
(…ここが精神世界…ん、そうだとしたら……”あの人”はどこにいるんだろう?)
草叢に座り込んだまま、キョロキョロと辺りを見渡すが…相変わらず目に入るのは木々ばかり。そこで試しに目を閉じて耳を澄ますことをやってみるが…サワサワという葉が風に揺れる音。そして遠くの方で聞こえてくるのは水が流れるような…小川の音だろうか? いずれにしても、人の声らしきものは全く聞こえない。これでは仕方ないと、ユージオは目を開けた。
精神世界に辿り着いたはいいものの、孤独にも森に取り残されてしまったユージオは一体どうしたものだろうと考えた。だが、不思議と不安や恐怖といった感情は湧いてこず、意外にも心は落ち着いていた。この森の空気のお陰なのだろうか。
澄んだ気持ちでしばらく考えていたユージオはとうとう結論を出した。精神”世界”というからには、大きく広いのは当たり前。この広い世界から、”あの人”を探すのは大変に違いない。いっそのこと、この世界を探検する心持ちで歩いてみるのがいいかもしれない。
ユージオは、一度大きく伸びをすると…揚々とした様子で歩き出した。一度探検と決めたら、なんだかワクワクしてくる。たった一人で未知なる世界を冒険するという感じになって、ユージオの心は少し踊っていた。
思わず鼻歌が漏れる一歩手前な心持ち歩いていると、やがて木々が少なくなってきたと思った瞬間に森を抜けてしまった。そして木々の代わりに何が見えたかと思えば、先ほどまで聞こえていた微かな水音の正体である、小川であった。この川になんの変哲がある訳でもないのだが、陽光を銀色に跳ね返すその水面は、思わずユージオがゴクリと唾を飲み込むほど美しく、魅力的だった。
実に三分ほど、
相変わらず辺りの美しい風景を充分に堪能しながらゆっくりと歩き続けるユージオだが…ふと、何か奇妙な音を彼の耳が捉えた。硬いもの同士がぶつかる音…にしてはやけに軽く、高く響いてくる。少なくとも鉄のような金属音ではないようだが…自然音とは思えない。なんだか探検心をくすぐられたユージオは、あやかっていた川から離れて、先ほどの音がしてきた方向へと歩みの方向を変えることにした。
再び別の森に入って歩き続けること数十分。この森は先ほどの森よりも大分育ちきっている木が多く、時折階段状になった木の根を這い登る必要すら出てきたが…最後の巨大な根っこを超えた時、ユージオの眼にとんでもないものが飛び込んできた。
「…うっわ……な、なに…これ…」
さっきまでの冒険心とワクワクが一時的に消え去り、茫然自失となったユージオが呟いた。
森の中にぽっかりと空いた円形の空き地。そこに立つたった一本の樹が、まさしく嘘みたいとしか言いようがないほど、デカかった。先ほどまで何百本とユージオを囲んでいた森の木々のいずれもが、この一本の大針葉樹とは比べ物にならない。強いて比べ物になるものを挙げるとすれば、尸魂界にいくつか立ち並んでいる高い塔くらいなものだ。ユージオはあれらがなんのための建物かはまだ学んではいないが。
今まで見たことのないほど壮大にその身を鎮座させる巨木に、畏怖の念すら覚えてしまう。そんなユージオが気を取り戻したのは、見上げ過ぎるあまりに首が悲鳴を上げ始めた頃であった。マッサージがてら首裏を手で押さえながらしばらく首を回すことで痛みを軽減すると、ようやくユージオはあの巨木に向かって歩き出した。
その瞬間、またあの時の音が鳴り響く。コォーン、という聞き覚えのある音の出所はもはや明らかだった。ユージオは更に足早となって目的の場所へ近づいていく。
そして、巨木になっている葉の一枚一枚や、木の幹の模様までが判別できるようになる位置まで近づいた頃……ユージオの眼は、巨木の陰から、亜麻色の頭髪を捉えた。
「あ…」
無意識にユージオの喉の奥から出た微かな声に反応して、目の前の亜麻色の髪がゆらりと揺れる。そして、その髪の持ち主は手に握った斧を巨樹に立てかけると、ゆっくりと立ち上がって…こちらへ振り向いた。
「……やあ。よく、来たね」
自分と同じ髪色。自分よりも多少大人びているが、ほとんど同じ顔立ち。そして身長は自分よりも高い。
ニコリと笑う青年の姿をした自分自身に対し、どう挨拶したものかと一瞬だけ迷ったが...やがて霊術院生のユージオはペコリと頭を下げてこう言った。
「…こんにちは。お邪魔してます」
「それにしても…驚いたなあ。まさか、本当に君がこの世界に来れるとは思ってなかったよ」
「そうなんですか?…僕はむしろ、こっちに驚きましたよ。だって、一体何なんですか…この樹は」
青年ユージオの驚きの感想は華麗にスルーして、院生ユージオは真っ先に自分の疑問をぶつけた。その疑問とはもちろん、二人の前に聳え立つこの巨木のことである。それを聞いた青年ユージオは、院生ユージオと同じように目の前の大木を見上げながら…どこか懐かしさを滲ませた瞳で、こう呟いた。
「この樹は《ギガスシダー》っていう名前でね。一般的には悪魔の樹って呼ばれることの方が多かったけど」
「ギガスシダー……なんだかカッコいい名前…ん、ちょっと待って…ください」
思った以上にカッコいい名前がつけられている事に驚嘆しかけた院生ユージオであったが、それ受け入れるより前に更なる根本的な疑問に気がついてしまった。
「え、そのギガスシダーって…あなたが名付けたんですか?」
「まさか。村に代々伝えられてきた名前だから…誰が名付けたかは知らないけど、少なくとも僕じゃないよ」
「…む、村? え、ええ!? ちょっと待ってください!
この世界って……他に人が住んでいるんですか!? 代々伝わるほどの村まで作って!?」
いや、目の前の青年ユージオの言い分からすると、そういう事なんだろう。この精神世界には多くの人々が暮らしていて、村としての集団生活を営んでいて、そんな村の人たちがこの樹をギガシスダーと名付けていて…いやいやいや、やっぱりおかしい。この精神世界というのはいわゆる斬魄刀の中の魂が存在している世界だ。そこになぜ村ができるほどの多くの人がいる? その多くの人達は何者? その人たちも斬魄刀の中の魂というオチなのか? 院生ユージオは混乱の渦中に巻き込まれた。
そんな様子の院生ユージオに詰め寄られ、目を丸くした青年ユージオは数秒考えた後にポツリと呟いた。
「そういえば…そうか。まだ色々と説明をしてなかったね」
未だ疑問で目をグルグルさせている院生ユージオの肩にさりげなく手を置いて落ち着かせると、青年ユージオはギガシスダーの根本に座り込み、改めて語り始めた。
「君たちは…確か、この世界のことを『精神世界』と呼んでいたよね」
「…はい。教科書にはそう載っていたので」
「教科書…か。ひょっとしたら、それがちゃんとした名前なのかもしれないけど…少なくとも僕とアリスは、この世界のことを『記憶の世界』って呼んでたよ」
「記憶…?」
ギガシスダーの木の根に腰かける青年ユージオの隣に同じく座り込んだ院生ユージオは、まだちょっとばかし意味が分からない様子ではある。そこで青年ユージオはさらなる説明を加える。
「どうして僕らがそう呼んでいるのかっていう理由は、とっても単純でね…この世界がまるっきり、僕が生きていた世界を僕の記憶通りに再現している場所だから…なんだ」
「…生きていた、世界……ここが…」
「そう。ここからちょうど北…あの道を行った先にあるのが、ルーリッドの村。僕の…生まれ故郷なんだ」
生まれ故郷。
その言葉を聞いた院生ユージオの心が、まさに風に揺れるギガシスダーの葉のようにざわめいた。一瞬、自分の脳裏に思い浮かんだ考えを院生ユージオは頭を振って追い出した。いくらもう一人の自分とはいえ…あの人の故郷はあの人のもの。自分の故郷では…ない。
院生ユージオは、胸がギュッと締め付けられるような痛みを感じた。
そんな院生ユージオの様子をチラリと気にしながらも、青年ユージオは話を続ける。
「さっき、君は『他に人が住んでいるの』って聞いたけど…もちろん、住んでないよ。この世界で再現されているのは、自然の風景とか建物だけ。僕は…僕が生まれた本当の世界で、確かに死んだ。そして次に目覚めた時は、ちょうどこのギガスシダーの根本にいた。…僕一人の記憶で成り立つ誰もいないこの世界に、僕は座っていたんだ。何も分からないままに」
青年ユージオの瞳が少しだけ、悲しめに歪む。そして院生ユージオの方は、微かな恐怖による薄寒さまで感じていた。誰もいない世界。それは想像するには怖いものであった。世界が広ければ広いほど、孤独というのは人の心を蝕んでいくもの。かつての院生ユージオは人々に大分煩わされた経験があったが、それでもその人々の中には自分を救ってくれる人がいた。だが、そもそもの人が自分以外誰も存在しない、世界とは……。
「相当、混乱したよ。僕が生きていた頃はさ、死んだ人間はステイシア様…つまり、神様の御許に召されるって教えられてたけど…こうして目覚めてみると、なぜか見覚えのある場所にいるし…とっくに切り倒されているはずのギガスシダーはなぜか普通に立っていて…おまけに神聖術が何一つとして使えない。村に走って行っても…そこには誰一人、いないんだ」
当時のことを思い出す青年ユージオの顔が徐々に歪んで…やがては苦しそうに俯いた。ぎゅっと握りしめた、彼の両手が微かに震える。
「その後はずっと、自分以外の人を探して走ってたよ。誰か、誰かいませんかって叫び続けて、走り続けて…転んで土に汚れても、また立ち上がって、走って、叫んで…。実際は意味のないことだよ。この世界で走っても、僕が移動するというより……なんていうんだろう、世界そのものが僕の記憶に合わせて動く…みたいな感じなんだから、ね」
「それでも、必死になって走るのにも疲れてきてさ…道端に座り込んで、色々と思い出していた時にようやく、分かったんだ。この世界がどういうものかって」
そこまで話した青年ユージオは、落ち着き払った様子でゆっくりと立ち上がった。一体どうしたのか、もう話は終わったのかと疑問には思いながらも、釣られて立ち上がる院生ユージオ。なぜか立ったまま、黙って目を閉じている青年ユージオの様子を不思議に思った院生ユージオが前を向いたその瞬間。
一瞬で、辺りの光景が切り替わった。
「…へ?」
喉の奥から間抜けな声を出した院生ユージオは、突然発生した不可解な現象を前にして固まった。
油の切れたロボットのようにギギギとぎこちない動きで右を見れば、そこには淡く輝くスタンドの照明と高級そうな質感の棚とその上に並ぶ数冊の本。
同じくギギギと左を確認すれば、そこには白く大きな一人用の椅子と、これまた壁に沿って設置されたいい艶を持つ置き棚がいくつか。
ゴクリと唾を飲み込んで後ろに視線を向けると、布張りでゆったりとした感じの長椅子と大きな窓。
そして最後にもう一度改めて正面を見据えると、前方と左右の壁それぞれに扉が存在する、どこかの建物の居間のような部屋…そしてその空間に静かに佇む、青年姿の自分がいた。
「あ…の…? え、ここは…? 村は? ギガスシダーは?」
「はは…ごめん。驚かせちゃったかな。記憶にある場所を僕の頭の中で明確に想起すると、こんな感じで周りの世界も変わるんだよ。途方に暮れていた僕が、昔のことを思い出してたら…こういうことができることに気づいてさ。あの時は腰が抜けるくらい驚いたけど…そのお陰で、この世界がどういうものなのか、なんとなく理解することができたんだ」
「それで…今僕が想起したこの場所は、ノーランガルス帝立修剣学院の上級修剣士寮って場所でね。学院の年度末進級試験で十二位までに入ると、上級修剣士としてこの寮を使えるんだ」
そう説明する青年ユージオを改めて見た院生ユージオは、目の前にいる青年の自分の服装までもいつの間にか変わっている事に気づいた。少し灰色がかかった藍色の服の生地から黒の革靴まで、さっきギガシスダーの前にいた時の服より遥かに上等な感じの漂う服装になっている。それに、よくよく見ると胸元あたりにいくつか紋章らしきものが見えるので、ひょっとすると院生服と同じ学校規定の制服なのかもしれない。
だが、院生ユージオにとっては青年ユージオの服装よりも、自分にとって驚くべき別の事実によって心が大いに揺さぶられていた。
院生ユージオは動き出す。先ほど「他に人はいない」と
首だけを出して確認終わった院生ユージオは扉を閉め、続いて右サイドと左サイドのドアの向こうを確認する。左右どちらのドアの先も部屋の構造は全く一緒で、特に目立つのは院生ユージオが見たこともないほど大きく、また実際に触らずとも容易に想像できるくらいふわっふわとしたベッドがある。
「ここが…寮? こ、こんな豪華な場所が、寮だって…?」
う、羨ましい…と、地獄の底から響いてくるような声を喉奥から発した院生ユージオは、がくりと床に
そんなオーバーリアクションの様子をみた青年ユージオは、呆気に取られながらも困ったように立ち尽くした。この分だと一階にある食堂や大浴場、自由に使える上級修剣士専用の修練場などを見た暁には失神してしまうのではなかろうかと心配した青年ユージオは、少年姿の自分自身の側に寄り手を取って助け起こす。
「ま、まあまあ…気にいってくれたならいつでもここに来てもいいからさ。それよりせっかく来たんだから、お茶でも飲むかい?」
「……いただきます」
随分と気落ちした声だが、それでも院生ユージオはスムーズに立ちあがった。長椅子の場所まで院生ユージオを導いていると、小さく口を尖らせて拗ねているその姿が…青年ユージオの脳裏に浮かぶ、黒髪の相棒の姿と重なってみえた。自分達がノーランガルス帝立修剣学院入学試験を受験するために半年かかってザッカリア衛兵隊長の推薦状を手に入れたのに対し、貴族は無条件で入学試験を受験できると知った時の、あの心底不満そうな顔とよく似ていた…。
そんな一瞬の思い出を頭から追い出し、大人しく長椅子に座った院生ユージオを尻目に、戸棚から陶器製のカップやポット等々を取り出して準備を始めた。コヒル茶の元となる粉末を二つのカップに入れてお湯を注ぐ。そして、傍らの壺からミルクをそれぞれ同量カップに注いで小匙でかき回す。
こうして出来上がったコヒル茶の入ったコップをテーブルまで持っていき、そのうち右手の一つを院生ユージオの前に置いた。
黒々とした液体を前に、院生ユージオの目が丸くなった。
「…この世界でも、飲み物や食べ物があるんですか?」
「うん、ちゃんと『そこにある』って想起すればね。…実を言うと、この世界にいる僕は特にお腹も空かないし、喉も渇くわけじゃないんだけど…何も食べないでいると、それはそれでなんだか色々と寂しく感じてさ。数日に一回は、こうやって何か飲んだり食べたりしてるんだ」
「へぇ…」
想起…つまり思うだけで、食べ物や飲み物が出る。それはつまり、なんでも好きなだけ食べ放題 飲み放題なのでは…と下らない思考を脳内に渦巻かせながら、ほぼ無意識に目の前に出されたカップを持って中の飲み物を一口。
そしてその瞬間、院生ユージオの顔が相当に歪んだ。
「ゴメン…まだ苦かったかな。 こっちにミルクあるから、足してみるかい?」
「すいません…。苦いものは苦手で…」
表情に不快さが出てしまったことを平謝りしつつ、院生ユージオはミルクの壺を受け取った。自分と同じくらいのミルクを入れたはずだが、やはり自分より子供な分苦味への耐性がないのだろうか。青年ユージオは疑問に思ったが、彼の凄いところはこれからであった。院生ユージオは始め、ミルクをちょっとコヒル茶の上に垂らして混ぜた後にまた一口啜ってみた。そして次の瞬間、ミルクの壺を鷲掴みにしてドボボボボという擬音がふさわしいくらいの勢いでミルクをカップに入れ始めた。当然ながらカップから中身が漏れ始め、院生ユージオは慌てて口をカップにつけて中身を減らすが、流石に間に合わずいくつかの滴は机に垂れてしまった。
「わ、ごめんなさい! つい、たくさん入れたくなっちゃって…」
「あ、ああ…大丈夫。拭くものならあるから」
その入れっぷりに思わず呆気にとられていた青年ユージオは、慌てて布のしまってある戸棚に急いだ。青年ユージオは、目の前の院生ユージオが甘いモノに対してはなりふり構わなくなるという彼の
あまり意味がある訳ではないのだが、机に漏れた飲み物の跡を綺麗に拭き取った青年ユージオは、ほぼミルクそのものと化したコヒル茶をゴクゴクと美味しそうに飲む院生ユージオに対し、再び今までの話の続きを語り始める。
「…話を戻すと、こんな感じで自分の想起した通りに変わっていくこの世界のことを、僕はある程度理解はしたけど…それでも分からないことは一杯あった。僕はどうしてこの世界に来てしまったのか。なんでたった一人でこの世界にいるのか。もう二度と…誰にも会えないのかって。どんな場所でどんなことをしたって、寂しさを紛らわすことはできなくて…部屋の隅で蹲って、ひたすら泣いていた時もあったけど...」
「そんな風に無意味な時間を、ひたすらこの世界で過ごしていたらさ……声が、聞こえたんだ。それも、空から」
「声…ですか。一体、誰の…」
「アリスの、だよ」
院生ユージオの目が、見開かれる。
青年ユージオは、またあの時のことを思い出すように、居間の天井を見上げて目を細める。
────ユージオ!
────ユージオ、聞こえる!? 私よ!
「…僕はまた、アリスに助けられた。あの時空から降ってきたアリスの声は、間違いなく僕にとっての救いだった。もちろん、僕は空に向かって必死に答えたんだけど、後からアリスに聞いてみると具体的に僕の言葉が届いて訳ではなかったんだって。それでも、アリスの声に僕が反応していることは、分かったらしくてね」
「その後は、空からのアリスの声が教えてくれたんだ。君たちで言う…えーっと……そう…”具象化”の方法をね」
院生ユージオは、何かが胸にこみ上げてくるような感じを覚えた。前世で命を落としたこの人は、たった一人で記憶の世界を彷徨い歩き…最後はその苦しみを、前世で死を共にしたという青年アリスに救われたのだと言う。一体、前世におけるユージオとアリスとはどのような関係であったのだろうか。…いや、考えずとも容易に想像がつくことではある。少なくとも、互いに迷いなく口づけを交わせるほど親しき仲であることが。
そこまで考えていると、院生のユージオは…心臓を何かに鷲掴みにされるかのような、胸の苦しさを覚えた。青年ユージオの生まれ故郷を聞いた時と、同じような痛みが…今度はすぐに消えることなく、続いてくる。
まただ。
なんだろう。この痛みは。
「結局…何日もかかりはしたけど、君も知っての通り…最後には具象化することはできたんだ。そこで僕は初めて、記憶の世界以外の世界を知った。目の前にアリスがいて…横には静かに眠っている子供の姿の僕…つまり、君がいた」
なぜ、ただ話を聞いているだけなのに、こんなに痛く、苦しいのか…
「…今まで君たちの存在を知りながら、姿も表さずに黙っていたのは、本当にごめん。僕たちにとって、この世界がどういう存在で…この世界にとって僕たちがどういう存在なのか…明確にこの世界のことが分かるまでは、極力誰にも接触しないようにしようってアリスと話し合って決めてたから…」
目の前の青年ユージオの話を…もう一人の自分の話を聞いて…
認め、受け入れる度に…代わりに自分が侵されていくような、この感覚は……
「ん、どうか…したのかい?」
以前のことを思い出しながら話すことに集中しすぎた青年ユージオは、少しばかり目の前の院生ユージオの異変に気づくのが遅れた。苦しそうに
院生ユージオの耳には、もはや青年ユージオの話はほとんど、耳に入っていなかった。
気づいてしまったからだ。
きっと、自分より賢い雨涵ならとっくに気づいていた。
多分、あの時言わなかったのは、僕たちを気づかってのことなんだろう。
でも…雨涵が黙っていてくれたのにも関わらず、院生のユージオは自分自身で気づいてしまった。
いずれは気づくべきであった。
むしろ遅すぎるくらいであった。
目を逸らしてはならぬ、自分の存在そのものが織りなした『罪』のこと。
自分という存在の方が、どこまでも『偽者』であるという事実。
「大丈夫? どこか、体調が悪いとか…」
「いや…大丈夫です……その、すいません…ユージオさん」
微かに顔を上げた院生ユージオの顔は、相変わらず手で覆われていたが…その指の間から微かに見えるその少年の瞳から、涙が溢れて頬を伝っているのを、青年ユージオは確かに見た。
「ちょっとだけ……一人にしてください…」
そんな涙を覆い隠すようにして長椅子から立ち上がったユージオは、
サッと背を向けて走り出した。
飲み物の跡を拭き取ったばかりの綺麗な机に、新たな水滴を一つ残しながら。
当小説とはあまり関係ありませんが、BLEACHの設定に関するアンケートのようなものを活動報告に設置しました。
ご協力していただけると大変ありがたいです。