言葉をつけて二人のユージオ(もといアリス)を見分けています。
しかし、場面によってもう片方がいない時が明らかである時などは
接頭につく言葉を省略している場合があります。
見分けが難しく感じる場合は、どうかフィーリングによる読解をお願いします。
「───セイッ!」
気合充分な院生ユージオの口から漏れた言葉と共に、彼は手に持った斬魄刀を使った水平斬りを繰り出した。
あくまでも素人目だが、その水平斬りは院生アリスや雨涵にとっては申し分ないほどの
スピードと威力をもっている一撃に見えた。
だが、院生ユージオは肩で息をしながら、がくっと片膝をついた。
「…これでも、ダメかあ」
ちょうど四十回目の失敗を経験して項垂れる院生ユージオを見て、
側で見守っていた青年ユージオは難しい表情で腕を組んだ。
院生ユージオは今、もう一人の自分である青年ユージオから教えを受けていた。
彼から教えてもらっているのは、”剣術”と呼ばれる技。その言葉は尸魂界でも通じる一般的な言葉ではあるが、それとは意味を
彼が手本として見せた”剣術”の一つ。それは、院生達の想像の何倍も早いスピードで繰り出された…
「…これが、アインクラッド流の剣術の一つ。秘奥義 ”ホリゾンタル”だよ」
単なる水平斬りであるはずなのに、全くの無駄なき勢いをもった美しき一閃。座ってそれを見ていた院生アリスと院生ユージオは、思わずスタンディングオベーションよろしく立ち上がって、惜しみない感動した拍手を送った。その拍手には青年アリスまでちゃっかり便乗していた中で、雨涵だけがただ一人座ったまま呆然となっていた。
かつて一度、見たことのある現象を前にして、雨涵はただただ驚愕していた。
そして、霊術院前で二人のユージオ同士の修行が始まった。
ただし、現状は見ての通り。
四十回の失敗を経て、院生ユージオの体にも心にも疲労が溜まりつつあった。
「焦っちゃダメだよ、ユージオ君。僕だってこれを習得するには二日かかったんだ。教えた構えさえしっかり取れれば、あとは動きをしっかりと思い描くんだ。手本なら何度でもやってみせるから、その動きを覚えて、自分がそのように動く様を強く思うことをとにかく意識してみよう」
「はぁ…うん、それならちょっと一回…最初の動きのおさらいから、やりたいかも…」
「そっか…それじゃあ今度は動きをゆっくりやってみるから、何度か反復して練習しよう」
「…はい!」
失敗に息を切らしていた院生ユージオではあったが、いざもう一度練習再開とあらば元気よく立ち上がってみせた。今度はゆっくりとした青年ユージオの動きを綺麗にトレースしていく形の反復練習へと切り替える。
「……」
その一方で雨涵は、意識の半分のみをユージオ二人の修行風景に向けながら、
もう半分の意識は今までの記憶を引き合いに出しながら疑問の整理とその答えの模索を行っていた。
(やはり…私が見たのとよく似ている技を使っていることからするに…『青年のユージオさん』と『私を殺そうとしたユージオ』との間に、何の関係もないとは考えにくい)
(私は先ほどの”剣術”という技を見てようやく思い立ったところではあるが…私と違って、ユージオは”剣術”を見る前からその正体に心当たりがあるとは言っていた)
(当人がそう言っているのだから、私ごときが口に出すことではないとは思うが…やはり気になる。仮に『三人目のユージオ』とでも呼ぶべき人物のことを…ユージオは誰かに聞いたのか、それとも出会ったことがあるのか、
もしくは…)
思考の半分を答えのない疑問で埋め尽くされていたはずの雨涵は、ふと自分の隣がやけに静かなことに気付いた。そういえば…?と、もう半分の思考を隣へ注意を向けようと思ったその時…
「できたーー!」
何ともぴったりなタイミングで隣から大声が発せられ、雨涵は思わず体勢を崩しかけた。
それでいてその大声は、向こうで修行していたユージオ×2の注意すらも引いた。
何やら興奮しているような院生アリスを、よしよしと青年アリスが頭を撫でている。
「できた…って、一体何なの? アリス」
中途半端な刀の振りかぶり姿勢のまま硬直した院生ユージオは、当惑した表情で尋ねる。
並んでいる青年ユージオも同じく、何が何やら分からないといった表情である。
「そうね、早速
「はいっ!」
何やらよく分からぬ青年アリスの呼びかけを受けて、
院生アリスがちょうど顔の前に右手を掲げて目を閉じる。
その右手は、人差し指のみを一本ピンと空に向けて伸ばすような形で。
小さく息を断続的に吐くような呼吸を繰り返すこと数回。
静かに沈黙しながら集中する彼女の様子に、他の余人はただ無言で見守るばかり。
静かに、院生アリスの口が動く。
「システム・コール。ジュネレート・サーマル・エレメント」
その言葉を耳にして、真っ先に青年ユージオの顔色が変わる。
一方で院生ユージオと雨涵は何が何やらと言った顔のままだが…院生アリスの伸ばした人差し指の先に、赤々とした光が灯るのを見て二人は「おおっ」と息を揃えて感嘆した。
「アリス、それ何の鬼道? なんか教科書でも見たことのないような詠唱だったけど…?」
「規模は小さいようだが…低い番号の中で、そんな鬼道があったか…?」
不思議そうな院生ユージオと雨涵に対して答えたのは院生アリスではなく、会心の笑みを浮かべた隣の青年アリスであった。
「違うわ。今、アリスちゃんがやってみせたのは…”神聖術”よ」
「「へ!?」」
二人の院生の喉奥から、驚愕の声が漏れた。
一方の青年ユージオも「ど、どうやって…?」と驚きの色を
「なるほど...? 精神世界で想起、つまりイメージの力を使って神聖術を何度も練習した結果、
現実世界でも神聖術が使えるようになったと…?」
雨涵は今し方目の前に起きた現象の経緯を説明され、それを自分の頭の中で必死に噛み砕いて確認した。
一方の院生アリスは、自分の人差し指の先に揺らめく赤い熱の球をゆらゆら揺らしながら、こう答えた。
「でも、これは厳密には本当の神聖術じゃないみたいなのよね。本当の神聖術っていうのは、大気に満ちる”空間神聖力”っていうのを使うらしいのよ」
「だけど、今の私がやっているこの神聖術は、感覚がほとんど鬼道と一緒だわ。私の体の霊力を使って、熱の塊を生み出す…ちょうど三十一番の『赤火砲』の小さい版、って感じね」
そう言って、院生アリスはヒュッと払うようにして指先の赤い熱の球を地面の瓦礫に飛ばしてみせた。ただ、その球はあまりにも小さすぎるのもあって、流石に瓦礫を燃やすことはなく、ただ単に瓦礫の表面を温めただけに終わったようである。
そうして最後に、青年アリスが補足の説明を加える。
「つまり...そうね。想起…もとい、心意の力で神聖術が使えるようになったというより、心意の力で神聖術を”再現”できるようになった、って言った方がいいかもしれないわね」
改めて解説を受けて、今度こそスムーズに理解をすることができた雨涵は納得したように頷いた。今し方院生アリスがやってのけたのは原理的には鬼道ではあるが、形式は神聖術。”空間神聖力”とやらが存在しないこの世界において、代わりに体内の霊力を用いてその神聖術を再現できるようになったということだ。
そして、その再現できるようになった力の元は『心意』
より簡単に表現するならば、『イメージの力』
ちょくちょく話にも聞いていた青年達の世界の概念ではあるが、それがどうやら院生のユージオやアリスにもあるらしいのだ。強いイメージを思い描くことで、本来できないことも再現できたり、筋力などの体の力の源にもなったりするという。青年アリスの話によれば、彼女達の世界においてその心意を鍛えに鍛えた達人は、手を触れずに遠くのものを引き寄せたりする超能力じみたことまでできるという。
さらに、青年アリスが検証したことによると、精神世界と現実世界ではそれぞれ心意の力の度合いが変わるらしく、特に精神世界の方が現実世界よりも心意の力を使った再現がうまく行きやすいとのこと。
先ほど院生アリスが「できたーー!」と大声を出したのは、精神世界で神聖術の再現ができたかららしい。院生ユージオが剣術の修行をして、雨涵がいろいろ考えている中、院生アリスは一人精神世界に潜って神聖術の練習をしてたのだ。
精神世界で神聖術のコツを掴んだアリスは、より心意が効きにくい現実世界で神聖術のリトライをした結果…それが上手くいった、というわけだ。
「…しかし、”剣術”の方も同じように上手くいくものだろうか?」
そう呟いた雨涵が視線を前に向けると、そこには比較的平べったい方の瓦礫に腰かけ、地面に立てた斬魄刀の柄の先に額をくっつけ、ひたすらに沈黙して動かない同級生、ユージオの姿があった。
少しばかり不安な様子の雨涵に対し、院生アリスは楽観的に笑う。
「大丈夫よ。剣に関してのイメージ力なら、多分私以上に強いと思うわよ、ユージオは」
「ああ、それは私も同感だが…私が心配してるのはそうでなくてだな…」
剣術も同じく心意の力でできるようになるのかということが心配なんだと、院生アリスに説明しようとした
その時であった。
「……!!」
ガバリ、と院生アリスが勢いよく立ち上がった。その勢いたるや、隣にいた雨涵は今度こそ
体勢崩し損ねるでもなく本当に倒れてしまった。
だがそれに文句を言うよりも、突如立ち上がって空中の遠く一点の先を見つめる院生アリスが一体何に気づいたのか、非常に気になった。なので、雨涵も追従して院生アリスが見る視線の先を探る。
「…あれは」
最初に雨涵が認識したのは、空中で不規則に動く黒い点。だがそれがこちらに近づいてくるにつれ、点ではなく何かの生き物だと認識できる距離にまでなってくる。そして、その生き物が何かということまで認識できる距離にまでなった時、二人が声をあげた。
「地獄蝶…だな」
「と、いうことは…!」
何やら色めき立ってる二人の女子院生を前に、青年アリスは「?」と首を傾げるばかり。もちろんユージオ達は静かに精神世界に行っているため院生ユージオの体は未だ静かに沈黙中。
綺麗な鱗粉の光を撒きながらひらひらと舞う漆黒の蝶の姿は相変わらず言いもしれない美しさがあり、その飛ぶ姿を初めて見るであろう青年アリスの瞳も心なしか輝いている。だが、院生達にとって重要なのはその美しく飛ぶ姿よりも、その蝶に秘められた内容である。
スッと院生アリスが上空に向けて手を伸ばすと、漆黒の蝶はヒラヒラと舞いながら近づいて、やがてはゆったりとその指に止まった。そして、その状態から1分ほどの沈黙が続く。事情を知る雨涵も、事情を知らない青年アリスまでも思わず固唾を飲んで見守ってしまう。
やがて、また蝶がヒラヒラと彼女の手から離れると同時に、クルリと院生アリスが二人に対して向き直る。
…満面の笑みで。
「やったわ! 明日の授業時間に石和先生が話を聞きに来てくれるって、返事が来た!」
「そうか…! よかった。遠距離での地獄蝶伝達がうまくいったんだな」
「…?」
テンションに差はあれど、互いに手を取って喜び合う女子院生二人。
一方の青年アリスは、ますます傾げた首の角度が大きくなるばかりであった。
そうして今度は、女子院生二人から青年アリスに向けての説明パートが行われた。
「へえ…蝶々が言葉を遠くの人に伝えるなんて、なんだか素敵ね」
「他にも、もっと速い伝達手段があるにはあるのだがな。
利便性が高いからか、この尸魂界では最も一般的に使われているらしいんだ」
「これでも結構、ドキドキしながら待ってたのよ。何回か練習したとはいっても、実際に遠くの人にまで飛ばしてみせるのは初めてだったから」
ニコニコしている院生アリスの指先に止まったまま優雅に羽を揺らす地獄蝶を、青年アリスは目を丸くして興味深そうに見つめていた。そんな彼女の手がスッと一瞬前に向けて持ち上がったが、やがてほんのちょっと顔が曇るのと同時にその手が下げられて元の位置に戻る。その様子を傍から見ていた雨涵は、おそらく院生アリスと同じように指先に地獄蝶を止めてみたいと思ったが、ほぼ全てのものをすり抜けてしまう自分の体のことを思い出して、思いを断念したのだろうと推測した。
残念そうな様子のまま、それでいてどこか心惹かれるかのように自分の周囲をひらひらと飛ぶ地獄蝶を眺める青年アリス。
そんな地獄蝶もしばらくすると、羽を休めたいと思ったのか次にひらひらと向かう先は…未だ精神世界への没頭を続けている院生ユージオの頭の先だった。
だが、結果から言えば地獄蝶は彼の頭の上に止まることはなかった。
止まろうとしたまさにその瞬間、なんとも悪いタイミングに覚醒した院生ユージオが覚醒し、ガバリと顔を上げたからだ。
あわや頭突きをかまされそうになった地獄蝶は、心なしかさっきよりもふらついた状態のまま、新たな避難先として雨涵の元へ向かった。彼女は人差し指を出して地獄蝶が止まる場所を提供こそしたが、視線は起き上がった院生ユージオの方に釘づけだった。そしてそれは、二人のアリスも同様。
目覚めた院生ユージオは、ぎこちなく動き出す。
いや、あれはぎこちないというよりも…覚えた動きを忘れないように慎重に動いているというべきか。
ゆっくりと院生ユージオが斬魄刀を抜き放ったのとほぼ同時に、彼の背後に音もなく青年ユージオが具象化した。
「………」
具象化した青年ユージオは、一切の言葉を発さずに無言のまま院生ユージオを見守っている。それに加えて、二人のアリスと雨涵の合計四人分の視線を集めている院生ユージオ。だが彼はそれをも意に介さないかのように、そのまま動き続ける。
右脚を引いて半身になり、その回転に連動する動きで右手の斬魄刀を真横から後ろへとテイクバック。教えられた通りの構えをとり、そのまま目を閉じて深呼吸。
集中、集中、集中を繰り返し…技のイメージを明確に、思い描く。
グッと静かに目を見開いたその瞬間に、ユージオの握る斬魄刀が薄水色の光に包まれた。
「───やああっ!」
気合充分。
放たれた一閃は見事に真っ直ぐ、澄んだ音を立てて空気を切り裂いた。
アインクラッド流秘奥義 ”ホリゾンタル”
紛れもなく異世界の剣術を、なんと師匠よりも早く習得してしまった院生のユージオ。
賑やかな歓声が、荒れ果てた様子の霊術院の前にこだました。
_
「で、どうだユージオ? 実際に”剣術”を習得しての、感想は?」
「……うーん」
右手に持った栞をいじりながら、今までは机の上の本に向けていた視線を不安定に彷徨わせ、院生ユージオは喉奥から悩ましげな声を出した。雨涵は自分から問いかけをしておきながら、院生ユージオのそうした反応は少しばかり意外であった。てっきり剣術についての感想を聞けば、興奮の感情を乗せた言葉を次々に浴びせてくる、と予想していたからだ。
しかし実際のところ、ユージオは何やら迷いに迷っている様子で口を開いた。
「言葉にするのは、難しいけど…なんだろう。こういうものなんだってすんなり馴染んだ感じもあるし…それでいて、なんだかちょっと怖い感じもしてさ」
「怖い?」
「そう。剣術を発動させるとさ…体が勝手に、動くんだ。全く僕の意志じゃないのに、体が凄い速さで動いて斬る……
「体が、勝手に…? なるほど、確かにそれは…ちょっと、な」
目を閉じて、あの時の感覚を思い出しているかのようなユージオの隣に座る雨涵は、同意するように頷いた。側から見れば決して分からなかった”剣術”の真実。習得した直後、みんなからの賛辞を受けていたユージオは素直にテレテレしていたが、内心で燻っていた感覚は決して表には出していなかったのだ。なぜ、正直な感想をあの場では言わなかったのか、なんとなく雨涵にも想像がつく。剣術を教えてくれた師匠である青年のユージオの前で、ネガティブな感想を言うのが
今、青年二人がいないこの場でようやく、本音をこぼせたということだろう。
斬魄刀を霊術院寮に置いてきたため、青年二人はここまで来てはいない。
そして霊術院生がいるこの場所は、寮ではない。
まだまだ多くの破壊の跡が残る、真央図書館の中だ。
未だ本格的な復興が始まらないこの場所に来る人物といえば、霊術院生を除けば司書さんや極一部の本好きだけ。司書さんといえば、以前無理がたたって入院していたのだが、比較的元気になった今は院生達の視界の端で何やら本を前に作業をしている。おそらく破損した本の修復だろうか。院生達は以前この場所でめちゃくちゃになった本の分類などを手伝った縁があり、こうして図書館の場所の隅を借りて集まったり、本を読んだりすることを司書さんからも認められている。霊術院寮以外にもこうして座れる場所があることは何気に便利である。
今こうして霊術院生だけで集まっているのは、『第2回 2218期真央霊術院 生徒会会議』のため。そして、会議の場所としてここをわざわざ希望したのは、実はアリスである。なんでも、会議と並行して調べたいことがあるのだという。
「お待たせ! ユージオ、雨涵!」
斜めった書架からひょこりと顔を出したアリス。そう、ユージオと雨涵が今まで机に座っていたのは、何やら本を探していたアリスを待っていたためであった。彼女はふうと息を吐いて、抱えていたいくつかの本をドサッと机の上に置いてユージオと雨涵の前に座る。その瞬間に、二人の視線は無意識にアリスの持ってきた本のタイトルに注がれた。
『ジーニアス英和辞典 第8版』
『魔法の発音 カタカナ英語』
『現世学 英語・カタカナ語翻訳辞典』
『現世の人間に怪しまれない発音 西洋語マスター書』
「英語…? アリス、現世に行くための勉強を始めるの?」
「違うわよ。個人的に、ちょっと調べたいと思っただけ。『神聖術』についてね」
神聖術を、調べる。
なんてことのないようにアリスが言い放ったそのテーマに、ユージオと雨涵は思わず身を乗り出した。一瞬、会議の本目的すらも頭の中からすっ飛んでしまうほどに、二人はアリスの言葉に興味を惹かれた。
「どういうことだ…? これらの辞書に、神聖術について載っていると?」
「いいえ。私が調べたいのは神聖術そのものじゃなくて…その”詠唱”についてなの」
「詠唱…って?」
「そう、例えば、ね…」
アリスは一瞬考えたあと、霊術院生全員がいつも持ち歩いている小さなノートとペンをスッと懐から取り出した。そして、さらさらと書き記した数行の文を、対面の二人に見せるようにしてノートを机の上に置いた。
「ほら、上のは二人も知っての通り鬼道の詠唱文。それで下のは、神聖術の詠唱文の一例よ」
「さっきアリスが唱えていたのより、長いんだね」
「私がやってたのは、基礎中の基礎だからねー。姉さんの話によると、これよりも更に何倍も長い神聖術もあるらしいけど...それはともかく、私が気になっているのは、鬼道と神聖術のこの詠唱の違いなのよ」
そういってアリスはまず、右手のペンで自らが書いた鬼道の文をコツコツと指し示す。
「まずは鬼道だけど…特徴としては、個々の言葉の意味は分かっても、文章としては成立していない。全体的に意味がほぼないっていうのが一番ね」
「ああ…先生が言ってたな。『鬼道の詠唱には言葉としての意味が二割。発音としての意味が八割』…だったか」
思い出したように雨涵が呟く。彼女の言う事柄は、教科書には載っていない。鬼道を学ぶ上でのちょっとした豆知識、みたいな感じで先生からチラッと教えてもらったことだ。曰く、鬼道における詠唱とは蓋の取手のようなものだと。不思議な例えだが、つまりは鬼道の詠唱はあくまで補助だということを言いたいのだ。別に蓋に取手がなくとも、
鬼道も同じこと。詠唱を補助的に付与することで、より発動しやすく威力も安定するということだ。鬼道の熟練者はその詠唱がなくともその威力を安定させることができる。
その補助となる詠唱についてだが、あくまで補助であるせいか、実は教科書通りの詠唱文でなくても鬼道を発動させることができる。ぶっちゃけ、「寿限無寿限無 五劫の擦り切れ 破道の三十一『赤火砲』」でも発動させることができなくもないという。
では、なぜ教科書で指定した詠唱文を暗記して教えるよう指導しているのか。その理由は、それが尸魂界の幾千年の歴史の中で研究された、もっともその鬼道を発動させやすく、安定して高い威力を出せる言葉だからだ。
長きに渡る研究の中で、特定の鬼道を発動させるのに相性のいい言葉というのも分かってきたのだという。他にも、単語を羅列したほうがいいパターン。助詞などを用いて文章の体裁を整えたほうがいいパターンなど。こうして研究を重ねていくにつれ判明したのは、鬼道と言葉の相性の良さはどちらかと言えば発音が大きく関係しているとのことだ。ちなみに尸魂界の一部の学者達は今でも、さらに効率の良い鬼道の詠唱を編み出そうと研究しているとかなんとか。
「そう。それに対して、こっちの神聖術の方なんだけど…姉さん曰く、この詠唱は神様に呼びかけて奇跡を授けて下さるようにお願いする式句だから、意味はないとされてるんだって…
「表向き?」
「ええ。でも実際のところは、唱えたい術の”系統”ごとに言わなければならない語句がしっかりと定められているらしいの。鬼道のように適当な詠唱でも発動する、なんてことはありえないらしいわ」
続けてアリスは、ペンをしっかりと握ってノートに追記をしていく。
その追記内容は、二人に向けた神聖術の解説。
アリスの解説文を見て、ユージオと雨涵は目を丸くした。なるほど、素因というのはまだよく分からないが、こうして詠唱文一つ一つに厳密な意味が定まっているというのは、鬼道とは大きな相違点となるだろう。そう二人が心のうちで納得したそばから、アリスが指をスッと立てて新たな問題提起をする。
「詠唱文に含まれる意味。それが鬼道と神聖術における大きな違いであることには間違いないけど…さらにもう一つだけ、決定的な違いがあることは、分かる?」
「…え?」
「違い…他にか?」
「ええ。さっきよりも、もっと分かりやすい違いよ」
そう言われて、ユージオと雨涵は再び身を乗り出して、アリスの書いた二つの詠唱文を見比べる。まさに穴を開くほど見つめる二人。ユージオは指で文字を一つ一つ追いながら考え、雨涵に至っては「区切り…? いやもっと単純に、文字の数を…」とブツブツ呟いている。そんな二人の様子を見て、アリスは愉快そうに笑った。
「もう、雨涵もユージオも深く考え過ぎよ。もっと単純に考えて。
全く知識が無くても、パッと見ただけで分かるような違いなんだから」
そうアリスから諭された二人の男女は、アドバイス通りに一度頭を空っぽにした上で、再びノートの文字列を見つめ…同時に声を上げた。
「「…カタカナか!」」
「はい、正解」
ニッコリとするアリス。
今まで見えてなかった瞬間的なヒラメキ。いわゆる「アハ体験」となった二人の顔はまさに目から鱗が落ちたようだった。なんでこんな簡単なことを難しく考えていたのだろうと思うと、自分に呆れたような乾いた笑いが出てくる。そんな二人を尻目に、アリスは再び目の前に積まれた辞書を掲げた。
「だから、カタカナ語についてもっと調べてみようと思ったの。図書館のカタカナ語の辞書で、神聖術の詠唱文を読み解くことができるんじゃないかなって。尸魂界…現世のカタカナ語と、神聖語が同じ意味とは限らないけど…もし同じだったら、それは姉さん達の世界と現世が繋がってるっていう証拠にもなるじゃない?」
神聖術の研究であり、青年たちと現世の繋がりを示す証拠。
それを聞いたユージオの瞳がにわかに輝きだす。
「な、なるほど……うん…それ、面白そう! ね、僕も調べるの手伝っていい?」
「もちろん! 片っ端から辞書を持ってきたのはいいけど、ちょっと大変かもって思ってたから…一緒に調べてくれるの、すごく助かるわ!」
やんやと盛り上がりを見せる二人だったが、危うくその輪の中に混じりそうになった雨涵が、あと一歩のところで冷静になって待ったをかけた。
「…それは構わないが、二人とも。今日、私たちだけで集まった本当の目的を忘れてはいないか?」
ピタリ、と申し合わせたかのごとくアリスとユージオの動きが止まった。
この雰囲気に水を差すのは大層気が引けたが、おそらく優先順位から考えれば、神聖術の研究よりも、本題の方がはるかに大事なことなのだから、仕方がない。
「明日、石和先生に対して…『現世の長期校外学習』を願い出るんだろう。一体どうやって先生を説得するか、考えないといけない。なにせ…こんなお願いは、おそらく前代未聞だろうからな」