代わりに、次話の投稿は比較的早くできると思います。
バタン、と無意識にドアを強めに閉めた
雨涵は、他人との交流どころか他人と同じ空間にいることの経験すらないに等しいものだった。一人前になるまで、彼女はずっと家族の元で鍛錬を続けていた。彼女の世界は閉ざされていたが、それでも彼女は鍛錬の間にも家族から無尽蔵の愛を受けて育っていた。その点は、同業者たる他の家と最も異なるところと言える。だが、今となってはその家族すら…。
そこまで考えた雨涵は目を閉じて首を振った。霊術院に来たのは、自分を変えるため。もう過去のことなんて考えずに、前を向いて生きるためなのに。誰もいない家の部屋で一人蹲っている時と、今も同じになってしまっている。彼女が負った心の傷は、自分が思う以上に深かった。
そして…彼女が負う傷は、もう一つあった。
ドアに寄りかかっていた彼女は、少しばかりの静寂を経て部屋を見渡す余裕を持った。雨涵に与えられた院生寮の一室は、本来は三人用だ。右の壁には二段ベッド、左の壁には普通のベッドが備えつけられている。その他にあるのは三人分の文机と衣服や荷物をしまう数々の棚だけである。その中で、部屋の奥の文机に置かれているものが彼女の視界に入った。
立ち上がった彼女は、文机によって品物を確認する。これらの品物は、霊術院入学の際に予め部屋に届けておくように依頼した雨涵の家の荷物である。とは言っても、それほど量があるわけでもない。着替えや当面の生活費…そして、最も目立つのは布で厳重に包まれた細長く重い物体、『浅打』であった。
「…っ」
それを見た瞬間、雨涵の息が一瞬止まった。
なぜ、自分がこれを持ってきてしまったのか、自分でも分からなかった。もう二度と見たくないが故に布でぐるぐる巻きにしたというのに。浅打なら、霊術院入学にあたって貸与されるというのに。それを断ってまで、なぜあいつの血が染み込んだ刀を持ち込んでしまったのか。
雨涵は今まで、自分の身に降りかかった苦痛の過去を全て忘れたいと思っていた。全てなかったことにしたいと。自分はここで新しく生まれ変わった気持ちで、生きていきたいのだと。だが、それは上辺だけの願いだったのだろうか。無意識に連れてきてしまった忌まわしい過去。自分は過去を忘れるのではなく、受け止めなければ前に進めないのだろうか。
トントン
全くの不意打ちで鳴り響いた音に、雨涵は思わず飛び上がった。
音の発生源は、入り口のドア。誰かがノックしているのだ。
突然だったこともあり、一体誰が…と混乱した雨涵だが、ふと冷静になって考えてみれば、おそらく答えは一つであろう。
だが答えが分かっても、未だ慣れない他人への応対をしなければならないのは変わらない。でも、そんな自分こそ変えていかなければならないのもまた事実。数秒の躊躇の後、雨涵はよろよろとドアに向かって歩き出した。
控えめな二度目のノックから数秒後、雨涵はドアを開けた。
「…えっと、こ、こんにちは。ゴメンね、さっきぶりですぐに来ちゃって…」
「何の用だ? ユージオ」
雨涵はドアに歩み寄る前から口の中で準備していた言葉を、今日出会ったばかりの目の前の同級生─ユージオに伝えた。
だが実際、雨涵には何の用でユージオがこの部屋に訪れたのか見当がついていない。少しばかり困惑して瞳を揺らす雨涵は、ふと目の前のユージオが両手に携えている物体に視線が誘導された。
彼女が見つめる視線の先を察したユージオは、少しばかり照れ臭そうにこう言った。
「…これの着方、教えてくれないかな?」
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「…ここは腰板っていう部分で……ヘラがついているだろう? それを前紐に差し込め」
「あ、なるほど…そういう為に…」
ユージオが雨涵から教えてもらっているのは、院生服の着付であった。
特にユージオが頓挫していたのは袴であり、現世では剣道袴と呼ばれる種類である。流魂街にいる間はお婆ちゃんからもらった簡単な着物しか着たことがなく、袴のちゃんとした身につけ方が分からなかったのである。無論
雨涵の指南によって、長着の上から袴を正しく着用することに成功したユージオは、軽く背中側を確認しつつ一回転するとはにかむように軽く笑った。
「うん。いい感じ! ありがとう…えーと、ゆ、雨涵さん」
「…『さん』はいらない。一応、同級生だろう?」
「あ、うん…そうだね。じゃ、改めて…ありがとう。雨涵」
わざわざ改めてぺこりと礼するユージオをみて、雨涵はなんとなくむず痒い感じがした。
なんというか、素直さの権化みたいなクラスメイトだというのが、この少ない時間でユージオと会話した雨涵の率直な感想だった。人を騙して欺きつつ、仕事をするような家の出身であった雨涵にとっては、少しばかり眩しいくらいだ。
袴を無事に着用できてユージオも満足したかと思いきや、まだ少し聞きたいことがあるような顔をしていた。この感情が分かりやすい表情も、彼の素直さに由来するのだろう。そんな雨涵の推測通り、ユージオはまた控えめに口を開いた。
「あと、さ。もう少し、分からないことがあって…知ってたら、教えて欲しいんだけど」
「前置きはいらない。何が分からないんだ?」
「あ、うん。さっき伊勢副隊長からもらったこの紙なんだけどさ…」
ユージオが手にした紙の束は、雨涵にとっても見覚えがある。なぜなら、彼女も同じものをもらっていたからだ。券の表に書かれているのは『灯篭湯 無料入浴券』である。これについては、伊勢副隊長からちゃんと説明があったはずだ。今ユージオと雨涵がいるこの院生寮はかつての戦争より半壊しており、現在は倒壊しないように最低限の補強だけがなされている状態だ。二人はそのうち無事だった部屋の一部を割り当てられているにすぎない。その他寮の施設としては、一階の厠部分が辛うじて無事だった程度であり、上階部分は全壊。一階にあった食堂や大浴場なども実用に耐えない有様であった。
本来院生であれば無料で使用できる大浴場が使えない状況に対する代替案として渡されたのが、この無料券である。大浴場の代わりにこの銭湯に行けということなのだろう。瀞霊廷の比較的奥地で暮らしていた雨涵には聞きなれない銭湯だが、ちゃんとその場所を示した地図も配布されていた。伊勢副隊長の抜かりのなさが伺える。
聞く限り、疑問が湧くポイントなどないはずなのだが…ひょっとして目の前のクラスメイトはどこか聞き逃していたのだろうか?と考えていた雨涵は、自分の予想が遥か斜め上に外れてしまったことを知る。
「この紙にある…『灯篭湯』って、なんだろう?」
「…銭湯の店の名前だろ?」
「……セントウ?」
随分とぎこちない口調で雨涵の答えを繰り返したユージオは、眉をひそめて腕を組んで考える。
それからぴったり一分後、ユージオは頭を傾けながら呟いた。
「セントウ…って、何?」
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自分にとっては当たり前の知識である言葉を説明するのは思ったより疲れるということを、雨涵は学んだ。流石に「風呂」という概念は知っていたようだが、「お金を払って、巨大な浴槽にみんなで入る」という概念は中々理解できなかった。どうやらユージオにとっては、風呂というものは各家庭の風呂桶を使うものらしい。わざわざ出かけてお金を使って、大きな風呂場に入らなくてもいいんじゃない?というのがユージオの感想だった。それを聞いた雨涵は明確に反論することはできなかったが、「でもどうせタダなんだし、第一行かないと風呂に入れないよ」と答えた。その後、自分が思わず素の口調に戻ってしまっていることを自覚し、慌てて口を噤んだ。ユージオは一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに「うん、そうだね」と頷いた。
「それじゃあさ、その…ちょうどいい時間になったら、一緒に『セントウ』へ行かない? 僕…瀞霊廷は初めてだから、地図があっても道に迷っちゃいそうで」
「…一応言っておくと、私もこの辺りに来るのは初めてだ。決して瀞霊廷全部に詳しい訳じゃない。…まあ、正直私も不安だから、一緒に行くのはやぶさかではない」
「ホント!? …ありがとう!」
心底嬉しそうな笑顔でまた頭を下げるユージオ。雨涵はまたむず痒くなる感じがした。どんな毒気も抜かれてしまうほど素直で飾り気のない同級生。表の世界で生きる自分と同じ年齢の子は、みんなこんな感じなのだろうか。困惑気味の雨涵をよそに、ユージオは少し笑顔を潜めて「そういえば」と呟いた。
「ね、雨涵ってさ。僕と同じように苗字がないのって…何か理由があるの? あ、その…もちろん、答えたくなければ別にいいんだけど…」
「苗字がない? いや、私は普通にあるが」
「…あれ?」
思わずキョトンとするユージオ。雨涵も思わず首を捻るところであったが、ちょっと冷静に考えたら気づいた。自分の名前は普通の世界においてはちょっと特殊なことを。
「私の名字は『
「…あっ、なるほど! そういうこと…。 ご、ゴメン! 僕、勘違いしちゃって…」
「いや…気にしなくていい。私の家が…特殊なだけだ」
私の家、という言葉にユージオは再びキョトンとした。だが、雨涵の口を引き結んだ辛そうな顔をみてユージオは表情をほんの少し引き締めた。殆ど変わらないように見えた雨涵の表情が、「私の家」という言葉を境にきつく、辛い表情になったのだ。彼女がそんな表情をしてしまうような…辛い出来事が過去にあったのではないかと、ユージオは思った。それを思い出してしまった言葉が「私の家」。彼女の家に何があったかは知る由もないが…安易に触れない方がいいだろうと胸に刻んだ。
「……」
「……」
「………他に、用があるか?」
「あ、いや…えっと、それじゃ…『セントウ』は…」
「そうだな…。私は大体辰四つ時になったら準備をする。お前もそれくらいになったら準備をして、終わったらまた私の部屋を訪ねてくれ」
「え? たつ、よ……? ゴメン、よく分からないんだけど…」
「…午後8時30分頃…って言えば、分かるか?」
「あ、うん。それなら……」
尸魂界においては現代の日本に通じる時法と、古の日本に伝わる十二辰刻の、二つの時間の表し方が存在している。現世からの住人が多い流魂街は現代時法が主流であるのに対し、瀞霊廷はどちらの表し方も共存している。強いて言えば、貴族層は十二辰刻表現がやや優勢のようだ。この世界に来たユージオは現代時法こそ記憶喪失の割にはしっかりと知識として知っていたものの、日番谷のお婆ちゃんの家にお世話になっていた頃は、冬獅郎がお婆ちゃんにプレゼントしたという壁掛け時計を見たユージオは「あれは何?」とお婆ちゃんに質問したというなんとも不可思議なエピソードがある。それでいて、十二辰刻はまだ未勉強の領域であった。
「わかった…じゃあ……またね」
「ああ」
本当はもうちょっと同級生と話したかった。だけど…彼女の辛い過去に触れてしまったかもしれないという気持ちを抱えていたユージオは、静かに同級生へ手を振った後、扉を閉めた。一方の雨涵も、ユージオとほんの少しだけ似た感情を持っていた。不思議な同級生に対する微かな興味を。
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部屋に戻ったユージオは、伊勢副隊長から新たに頂いた数冊の教科書──いくつかの走り書きが残された、他の院生のおさがりだが──を読みながらも、『セントウ』へ行く道すがら…同級生とどういう話をしようかと作戦を練っていた。だが、いざ約束の時間となって雨涵と共に出立した結果、その作戦立案は徒労に終わることとなる。なぜなら、雑談をする暇がないほど『セントウ』行きは困難を極めたからだ。
「えっと、あの! すいません! ここって何番地区ですか?」
「ん、ここ? ここは東二十七番区『伊根沢』だけど…」
「あ…あれ? いつの間に二十七に行っちゃった?」
「はあ…また通り過ぎたみたい、だな」
「え、じゃあひょっとしてさっきは右の方だったのかな? あ、すいません! ありがとうございました!」
『セントウ』までの道筋が書かれた地図は伊勢副隊長から渡されていたが、実のところその地図は半分ほどしか役に立っていなかった。決して地図が欠陥品というわけではない。それはしっかりとした正しい地図だった。普通ならば。今の瀞霊廷は廃墟と化している崩壊部分が多数を占めていた。本来なら目印となるであろう建物は崩れきっていたために見失い、工事中でとても通れないような場所を迂回すること数回。男女二人の院生は完全に迷子になっていた。戦争の影響で営業している銭湯そのものの数が少ないために、霊術院から遠い位置の銭湯が目的地だったことも遠因の一つと言える。そのため、道行く通行人や死神に聞きつつなんとか軌道修正を繰り返していた。もはやユージオも雨涵も人見知りなどしている場合ではなかった。
文字通り、物理的な紆余曲折を経ること40分後。額と体に汗を滲ませながら、ようやく二人の目の前に淡く光る『灯篭湯』の看板が現れた。
「ああ…やっと、やっと着いたよ…」
「…とっとと入るぞ」
「え、あちょっと待って! 僕もいく!」
焦りと運動で流れた汗でまみれた体を一刻も早く洗い流したいのか、膝をついて安堵しきっていたユージオを置いて、無情にも先に入ってしまう雨涵。慌ててユージオも後を追った。
ユージオにとって初めての「セントウ」となったわけだが、それもまた前途多難であった。「松竹錠」と呼ばれる玄関の下駄箱に備えつけられた木の板状の鍵も、見るのは初めてだったりする。瀞霊廷においては珍しいフロント式の銭湯なので、フロントで券を差し出すと、タオルやら石鹸やらのセットもお返しに差し出されて目を白黒したりした。ここまでは雨涵の軽い解説があったが、逆に言えばここまでだ。当然ながら、ここから先は男女分かれての入浴となる。
まずユージオが脱衣所という場所に入って驚愕したのは人の多さ。自分のような子供は全くと言っていいほどおらず、明らかに死神と思しき男性達でひしめき合っていた。セントウというのはこれほどまでの死神の人が使うものなのかと萎縮してしまうユージオだったが、この状況は普通ではない。普段よりも混んでいるだけだ。前述した通り、営業している銭湯が少ないために、邸宅を持たない下位席官の死神達が通える場所も限られてるが故だった。
必死で男達の体の隙間から、ロッカーの使い方や浴場に入ってからの動きを緻密に観察し、ぎこちない動きながらもトレースすることで、なんとか初めての『セントウ』はことなきを得た。ただ、ユージオの容姿は多少の注目を死神達から浴びてしまっていたものの、良くも悪くもユージオはそんな状況には慣れていたため、それほどストレスにはならなかった。前途多難であったセントウではあったが、湯船に浸かっている間だけは、心の底からリラックスすることができた。風呂桶ではなく、広々とした浴槽で体を伸ばして休めることは、想像以上に快楽的だった。だが、ユージオはなんとなく既視感…デジャヴを感じていた。すなわち、経験した記憶がないのに、経験した感じだけが残っている感覚。彼にとってそれはきっと、この世界に来る前の失われた記憶。前世の自分は、このような大きな浴槽に浸かったことがあるのだろうか? ユージオは微睡みの中でぼんやりとそう考えていた。
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脱衣所に置かれていたドライヤーの使い方を知らないが故に、まだ微妙に湿った髪のまま入り口まで戻るユージオ。すると、下駄箱の近くでは既に乾ききった体の雨涵が立って待っていた。
「あ…ゴメン、待った?」
「別に、構わない。…次は弁当屋へ行くんだろう? どうせまた迷うだろうから、急いだ方がいい」
「う、うん、そうだね……あれ、雨涵も一緒にいくの?」
「…ああ。わざわざ別のところで夕飯食べるのも面倒だから」
次の目的地、弁当屋についてだが…会話の中でもあったように、正確にはユージオのみが必要とする目的地だ。というのも、彼は基本的に一文無しなのだ。霊術院側からは入学金及び授業料免除、教科書やノート、銭湯などの無料券配布など精一杯の援助を行なっているが、流石に生徒の食費までは援助の範囲外であった。ユージオはその問題をすっかり忘れていたわけだが、当の本人が全く知覚しないまま問題は解決してしまっていた。
伊勢副隊長から銭湯の無料入浴券をもらう際、ユージオだけはさらにもう一種類、追加の券の束をもらった。そこに書かれている文字は、『弁当屋ほともと 弁当一種+ドリンク無料券』であった。ユージオが目を瞬いていると、伊勢副隊長は、その券についても端的に説明を加えた。
「それはあなたの当面の食費として、日番谷隊長よりユージオさんへ個人的に送られた品です」
それを聞いた時、ユージオは券を胸元で強く抱え、遠くで業務をしているであろう日番谷隊長に心からの感謝を伝えた。おそらく届いていないであろうから、いつか必ずお礼をせねばとユージオは心に誓った。本当に何もかもお世話になっている以上、言葉だけのお礼以外もしたいとは考えている。未だ具体的な内容は思いつかないが。
ともかく、そんなわけでこれからの学院生活において毎日世話になるであろう弁当屋を探して、ユージオと雨涵は駆け足で彷徨い始める。
…弁当屋について以降、雨涵はもう一つユージオに解説しなくてはならない言葉があった。
『ドリンク』という言葉の意味を。
日本語の伝統的な言葉も知らない、西洋から派生したカタカナ語も分からないことがある。雨涵は呆れではなく、ユージオという同級生についての謎は深まるばかりだと心底不思議に思った。
最初はちょっとだけ雨涵が主人公じみてます。