この想定外の事態を前にして体と思考が固まってしまわなかったことは、自分でも不思議なくらいだ。
病院のドアが開いた瞬間に、空中へ飛んでキリトさんの頭上で滑り込むように自身も病院内へ入る。そして、彼の後をふらふらとした足取りで追う自身の兄は、もはや閉まりかけていたドアに一切触れることなく、そのまますり抜けて入っていく。
明らかに自身の兄…ユージオは、半ば放心状態だ。
(まさか、こんなことが起こるなんて…!)
(そもそも、キリトさんは”人界”か”SAO”…もしくは、それに関係のある”VRMMO”の夢の世界のどこかにいるって僕らの仮定が…根本から違っていたんだ! まさか、現世で出会ってしまうなんて…!)
(ああ、僕のバカ! キリトさんを見たとしても、黙っておけば兄さんには気づかれずに済んだのに…!二人を
こんな状態、とは。
無論…キリトさん側がこちらを認識できていない状態での、ことだ。
これでは”再会”とはとても言えない。
そもそも、斬魄刀の具象化としてしか姿を現せないユージオとアリスを視認して、言葉を交わしあうためには、最低限相対する人物が霊体であるか、もしくは霊的な物質が見えるほどの霊力を持っていなければならない。仮にキリトさんがそのどちらも満たしていない場合、ユージオとアリスの二人をキリトさんと”再会”させることはできない。
雄次郎と愛梨が望んでいるのは、不完全な再会ではない。
お互いがお互いを目で見て、言葉を交わし、伝えきれなかった想いを伝えあって欲しい。
一度死んだ身だと諦めている二人に、少しでも救われてほしい。
そんな願いから生まれた「ユージオとアリスの元いた世界を探すプロジェクト」は、尸魂界にいたころから雄次郎と愛梨と雨涵の三人で始動していた。そして、現世に赴くにあたって判明した「キリト」という人物が、このプロジェクトの鍵となりえる存在。”世界”の答えを知る人物であり、そして...ユージオとアリスにとって、おそらくはとても、大切な人。
彼と接触するとしたら、なんとしても兄姉達より先に出会って、話をして、彼の意志を聞いて。そして…可能ならば、ユージオとアリス、キリトさんの三人の…万全の再会をセッティングしてあげたかった。
しかし、今の現実はどうか。
ユージオは、キリトさんに会った。しかし、キリトさんはこちらを見ることも、聞くことも、感じることもできない。こんな中途半端な再会では、兄のユージオの心をより傷つけることになりかねない。事実、ユージオは半ば放心状態のままフラフラとキリトさんの後を追っている。無論、彼は全く歩みを緩めることなく、病院内を進んでいく。
(ど、どうする…!? 兄さんは僕の斬魄刀からあまり遠くまで離れられない。僕が留まれば、兄さんとキリトさんを無理矢理引き離すことはできるけど…いいのか、それで……?)
(…いや、待って。ちょっと待って。そもそもキリトさんが現世に居るのはともかく…どうして、この瞬間に、この病院に来ているんだ…?)
(……ひょっと、して…いや、まさか……そんな…?)
キリトさんがなぜ現世にいるのかという問題を一旦棚に上げ、雄次郎が考えるのはキリトさんが今この病院に来ている意味、だ。偶然の一言で片づけてしまうには、あんまりな状況。
まさか...自分がこの病院に来た理由と...キリトさんが今この病院に来ている意味、が...?
その可能性が脳裏をよぎった瞬間から、雄次郎に留まる選択肢はなくなった。
病院内を歩く多くの人々の頭上の空中を、慎重に歩いていく。誤って病院内の人の頭を蹴っ飛ばそうものなら申し訳ないし、かといって病院の天井の高さは空中を歩く雄次郎にとっては余裕のある高さとは言い難く、中腰や匍匐の状態で進まざるを得ない。そしてその中においても、眼下のキリトさんを見失わないように、細心の注意を払う。
当のキリトさんは病院内のとある机の前で、病院の職員と思わしき人と何やら一言二言交わしたのちに、何か紙のようなものを受け取った。そこから方向を転換し、病院内を歩き始める。その歩みに迷いはなく、通路の方へ入っていく。
表情は見えねども、どこか急ぎ足な彼の姿はとある扉の前で止まった。襖のように横滑りする扉を開けて、その部屋の中へと消えていく。当然、それに続いてユージオも。
雄次郎は慌てて、少し天井に頭部をかすらせながらも勝手に閉まりかけるドアに腕を伸ばして突っ込むことで扉が閉まるのを阻止。そのままゆっくりと扉を開いていきなんとか体を滑り込ませる。扉を介するたびに、雄次郎にとっては危なげな侵入を毎度伴うことになる。いつもやってるような建物内の見分とは違って、建物の中で一人の人間を追跡することの難しさ。
だが…そんな追跡も、もう終わった。
ここが、この部屋が、この病院におけるキリトの目的地。
そしてまさかとは思ったが…同時に、雄次郎にとっての、目的地でもあった。
その部屋には、一つのベッドがあった。
そこで眠る、一人。
いや…雄次郎は、それが人ではないと知っている。
だが、あの人は…キリトさんは……
ベッドの側まで近づくと、そのまま近くに置いてあった椅子を寄せて、座る。
その視線は…ベッドに横たわっている雄次郎の義骸のみを、見つめていて。
「……ユージオ…」
この現世で初めて聞いた、キリトさんの声。
ただしそれは…中身も何もない、ただのうつろな義骸に向けている声。
そのすぐ隣で、その声を受け取るべき本人が…ユージオが、それを聞いていることなど、彼は夢にも思ってはいないだろう。決して交わることのない、キリトとユージオ…二人分の背中を、雄次郎はただ…黙って見つめることしかできなかった。
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──昨日のことを、回顧する。
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あの日の学校の帰りに、エギルの店に寄ったのは…深い理由はなかった。
なんとなく、という理由であの店に寄るのも珍しいといえば珍しい。もっぱら、帰還者学校が終わってから仲間内でワイワイする溜まり場として、使わせてもらっているという認識がメインとなっているからだ。強いて言えば、エギルが作るアイスコーヒーの味を喉が欲していたとか…そんな感じかもしれない。
…運命だった、とか。
“彼”に導かれた、とか。
そんな風に考えるほど、ロマンチストではないと自覚しているつもりだった。
だった……けれども…。
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俺がダイシー・カフェの近くまで来た時、馴染みの店主…エギルが店の前で怪訝そうな顔をしていたのが、まず印象的だった。更にはエギルがこちらを向いて、俺のことを呟いてきた時は何事かと首を傾げるしかなかった。
いや、なんでもないんだと言いつつ店に招き入れてくるもんだから、俺も大して気を止めなかった。
そうだ。店に入るまでは…なんとなくエギルの店に行きたくなったのも、店の前でエギルがちょっと不思議な挙動をしていたのも、何でもないちょっとした日常の差分でしかなかったと思っていた。
店に入って、その店に既にいた、唯一の客が視界に入る。
机にうつ伏せで眠っているような態勢の…その客の、
閉まろうとしているドアを、突っ立ったままの俺の体が遮って、半開きのまま。
その時、俺はエギルに「おい、どうした?」と声をかけられていたようだが…明らかに、様子のおかしかった俺を物理的に揺さぶられるまで、一切思考ができなかった。そして、エギルに揺さぶられて固まった思考がゆったりと復活してもなお、体は動かなかった。ぐるぐるとした思考が、頭の中を渦巻くような…。
(……いや、ありえないだろ。俺は…何を考えているんだ)
そのぐるぐるを振り払うまで、随分かかった。俺が体を動かしてドアがようやく閉まったのが、四分後だったというのが、自分でも驚きだ。エギルにも大分心配されていたようで、突き刺さる視線が妙に痛い。そりゃ、俺だって逆の立場なら心配もするし、見るけれども。
だけど…それでも、一歩歩くたびに。
あの人物に、あの頭髪に。目が奪われる。どうしても…心が、揺らぐ。
俺は自分でもどうかと思うほどギクシャクした動きで、店のカウンターに腰掛けると…視線でこっそり、エギルを呼んで。
「……な、なあ…エギル………あの、客のこと…なんだけど……」
「なんだ? 客がどうしたって?」
自分で言っといてなんだが、酷く挙動不審な口ぶりになってしまった。そりゃあ、店について早々他の客のことをしどろもどろに聞いてくるなんて、まるで素人探偵か何かだ。エギルは当然、心配というより訝しげな表情をしていた。だが俺がカウンター席に座ってもなお、あの客のことがどうしても頭から離れないでいると…エギルはこっちに顔を寄せて話してくれた。
「ま…確かに、ちと妙な客だが……キリトの知り合いなのか?」
「あ、いや…知り合いって訳じゃ…多分………というか、妙って…?」
二人して顔を近づけ声を顰め、テーブル席にうつ伏せる客を見る。あの髪色を見ると…また、胸が疼くのを感じる。
「店に来て、何も注文せず突然あんな風に寝ちまってな。ただ…店を寝床にする気にしちゃ、入ってきた様子が変だった。こう、緊張しているというか…妙に気が張っている感じだったがな。とても熟睡できる風じゃなかったと思うがな」
「そうなの、か………えっと、それで…」
「…どうした?」
「あの客の、目の色……覚えてる、か?」
「……? 覚えてるぜ。やけにはっきりとした…緑色だったな」
そんな
馬鹿な。
緑色の、目。
亜麻色の、髪。
それじゃ、まるで。
「……ユージオ…?」
自分の口から漏れた言葉を、自分の耳で聞いてから。
その後数十秒くらい…俺は何をしていたのか、記憶がない。
論理的に考えてあり得ないこと。
それでも、そのあり得ないことで頭が一杯になって。
多分、俺の気はどうかしていたんだろう。
俺が気を取り戻したのは……ドサッという、何か大きな音が耳に入ってきた時。
それでも、その音が足元か聞こえてきた事実さえ、すぐには認識できなかった。
次に、背後からエギルの「おい!」という、酷く焦った声。
それを聞いてようやく…視線が、音のした方に。顔を傾けて、下を見ると。
自分の足に重なるようにして倒れている一人の人物。
完全に脱力した体。乱れた頭髪から覗く目は開かれておらず、瞼は閉じたまま。
そして、その顔立ちは……いや、顔立ちまでも、が…。
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後からエギルに話を聞くと、俺は明らかに放心した様子で客の体を揺さぶっていたようだ。何かブツブツと、うわ言を呟きながら。その時、揺さぶれた”彼”の体は椅子から崩れ落ちて、倒れた。
俺はその時にようやく気を取り戻したのだが、エギルは流石というべきかすぐさま救急への連絡に加えて、俺と”彼”の間に割り込んで身体状態を確認していた。
俺はといえば…終始、動けなかった。
気を取り戻したと思いきや、”彼”の顔を見てからはまた、体と思考が固まったからだ。
しどろもどろになったり、放心したり、全く動かなくなったり。
エギルにはさぞかし心配をかけただろう。危うく俺もやってきた救急車に乗せられそうになった。
実際、救急車には乗った。
だが患者として乗せられたのではなく、あくまで自分の意志で。
救急隊員が”彼”を担架に乗せて運ぶその時に、俺は付き添いを申し出た。
その時までに、気が戻っていて本当によかったとは思う。
自分と”彼”の関係については…口籠るしかなかった。すごくモゾモゾした声で「…ゆ、友人、で…」と呟くのを聞いたのか、救急隊員の人も詳しくは尋ねずに同乗を許可してくれた。一方、エギルは最後まで不安そうな顔のまま俺が救急車に同乗するのを見送っていた。だけどその時の俺は、それを気にしている余裕はなかった。
緑色の、目。
亜麻色の、髪。
そして…目を閉じていても分かる、”相棒”と瓜二つの顔。
救急車に乗っている間、隊員に”彼”のことを聞かれたが…ほとんど上の空で、まともに答えてはいなかった。もっとも、まともな状態でも俺は答えられなかっただろう。
なぜなら、俺が”彼”のことを何も知らない。
知っているのは…”彼”と瓜二つの人工フラクトライト。
俺の、かけがえのない友人であり…相棒。
ユージオは、もう戻ってこないはずなのだ。
なのに、なぜ……。
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このことは、ほとんど誰にも話していない。
いつもの仲間にはもちろん、直葉や…アスナにも。
とはいえ…俺の様子がちょっとおかしいのは、正直二人には薄々気付かれていたと思う。
午後のALOでの戦闘中に「今日はどうも、調子が良くないな…」と小さく呟いてみて誤魔化した気でいるが、どうだろうか。エギルには、念の為電話で口止めをしたから、そこから漏れないとは思いたい。
…このことを、話す気にはなれなかった。
ずっと、頭の中で渦を巻いたまま……口から、言葉が出てこない。
意味が分からない。
考えれば考えるほどに、混乱する。
”彼”は一体誰なんだ。何者なんだ?
もしか、して。もしかする、と…
…あり得ない! 何を考えているんだ! 俺は馬鹿か!
あいつは…ユージオは、死んだんだ! どこにもいない! 二度と、戻ってはこない!
なら、じゃあ、どう説明するんだ?
赤の他人なのか? 他人の空似? 偶然? それこそ、あり得ない!
何もかも、瓜二つなんだ! まるで、ユージオが、そのまま…現実世界に来たも、同然に!
いや、だから! …それは、絶対に、あり得……ない!
まるで、二人の俺が荒れ狂っているような。
可能性を考えれば考えるほど心が締めつけられ、狂ってしまいそうなくらい焦燥に駆られる。
落ち着こうと目を閉じて、何度深呼吸をしても…目を閉じた”彼”の顔が瞼の裏に浮かんで、また頭の中で渦が惑う。
平静を取り戻すまで、随分かかった。
最初は、過呼吸にでもなったかのように、胸が痛く…眩暈も。
時間が経ってその体の不調が戻っても、頭痛だけは…どうしても治らなかった。
あり得ないをあり得ないと切り捨てることができずに、毒のように脳髄を侵すみたいに。
切り捨てられない”あり得ない可能性”が、ずっと頭を覆って締め付ける。
このまま…見て見ぬ振りなど、知らなかったふりなど、できなかった。
俺は…納得いく答えを見つけるまで。
胸の内に、”彼”のことを秘めることにした。
だが、もちろん……”彼女”にだけは、事情を話した上で…相談をした。
どうにかして、件の病院に来てくれないか、と。
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授業が終わって、俺は取る物も取り敢えずで病院に向かった。
学校にいる間、自分はさぞかし挙動不審だっただろうが、それを気にしている心の余裕もなかった。
あの日、”彼”が搬送されてからは…病院での検査がいつ終わるか分からないと言われて、仕方なく帰宅した。正直、待てるものならば何時間でも待ちたかったが…オヤジや母さんにはもちろん、直葉にもそれを納得させられるほどに理由を説明できる自信はない。
何より…この答えを見つけるまでは……どうしても、話す気にはなれなかった。
電話で担当医の先生から聞いたことがずっと耳の中で燻ったまま、俺は病院に到着した。扉を開けると、病院独特の消毒臭が喉まで染み渡る気がした。電話で聞いてはいたが、念の為受付で病室を確認した後に俺は足早に、かつ慎重に病室に向かう。
足音が、心臓の音とリンクしているのかと思うくらい、鼓動が激しくなってくる。
そして…辿り着いた病室の扉を、開く。
一人用の個室の奥で眠るその姿は。
やっぱり………そうだ。
何度、見ても…何度、見直しても……
瞼を閉じたまま、微かに胸を上下させている…”彼”の姿は…
「……ユージオ…」
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俺以外、ベッドの周囲には誰もいない。
”彼”と俺の、二人きりの部屋。
普通ならば、人が入院すればその身内の人間が誰かしら駆けつけるはずだ。
だが…担当医の人曰く、誰とも連絡がつかないという。
一方、俺は”彼”と赤の他人としか認められない。当然だ。俺の中の”あり得ない可能性”の話なんてできる訳ない以上…俺は彼のことを何一つ知らない、そういうことになる。
赤の他人である俺に、患者の情報など普通は教えられるはずはない。それでも…俺は担当医に拝み倒した。「大切な俺の友達かもしれないんです! その…ずっと前に、ちょっとだけ顔を合わせただけの仲なんですけど…似ているし…ひょっとして…って……」という、明らかに苦しい上に女々しさすら感じる言い分を。
その甲斐あったのかは定かではないが…断片的な情報を、提供してもらえた。
“彼”は所持品をほとんど持っていなかったが、その数少ない所持品にあった財布に入っていた身分証明書から…身元が判明したらしい。
住所は、青森県の弘前市。
名前は……島崎 雄次郎。
島崎 雄次郎。
また、頭痛がする。というより、頭がクラクラとする。
名前を聞いたら、少しは諦めがつくと思った…はずだったのに。
どうして、ここまで…重なるんだ。
そんなことって、あるのか。
緑色の、目。
亜麻色の、髪。
目を閉じていても分かる、相棒と瓜二つの顔。
その上…相棒を彷彿とさせる響きを持った、雄次郎という名前。
あり得ない偶然と振り払おうとするたびに、現実が襲ってくる。
いっそのこと、現実が偶然を否定してくれればいいのに。
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「……ユージオ…」
「お前…じゃない。そう、だ…お前じゃない、はずなんだ……だって、お前は、もう……」
そこから先の言葉は喉が詰まったようになってしまって、出てこなかった。
ただ、出てきた方の自己暗示に近い言葉ですらも、この部屋では虚しく霧散するだけだった。
目の前のベッドに横たわるユージオと瓜二つの姿を持つ”彼” 島崎雄次郎という人間の姿を見て……見れば見るたびに、心臓が、張り裂けそうなくらい苦しくなる。
今すぐにでも、その体に触れたい。
肩を揺すって、大きな声で語りかけたい。
そして、目が覚めたのなら……
俺、は……
「キリト」
その声。
ずっと暴れていた心臓を突然、鷲掴みにされたような感覚。体が一気に縮こまって、震えた。
一瞬、脳が錯覚を起こした。まさか、と数秒間はそう思い込んだ。
だが…数秒が過ぎれば、すぐにそれが所詮錯覚にすぎないとわかった。
今の声は、目の前の”彼”から発せられたものではなく、背後から。
そしてこの声は、今日 俺が呼んだ"彼女"のもの。
「…目立たないようにしてきたつもりですが、視線が集中しているような気がしてなりませんでしたね」
「あ、ああ…いや、それは仕方ないって。その恰好なら正体は隠せてるだろうし…それで充分だよ」
声の方向に振り返ると、ちょうど彼女が身につけていたサングラスを外して胸元のポケットに差し込むところだった。そして、口元のマスクも同じように外してしまいつつ…頭にかぶっていた地味な色のフードを外す。
それによって不審者じみた外見から一転、そこから美少女が現れる。
いや、正確には美少女ロボット──《エレクトロアクティブ・マッスルド・オペレーティブ・マシーン三号機》を操る真正ボトムアップAI、アンダーワールド公理教会の整合騎士第三位、アリス・シンセシス・サーティ。
今の日本で、いや、ひょっとしたら世界で一番に有名で、かつ忙しい身の上であろう彼女だが、俺の突然の呼びかけに応えて、この病院にまで来てくれるとは…正直、思ってなかった。おそらくは、神代博士がスケジュール調整の奔走してくれたであろうことは容易に想像できる。
だが、目立たないように気をつけた不審者スタイルになってまで来てくれたことは、大変感謝している。なぜなら、”彼”の答えを得るためには、彼女にはどうしても来て欲しかったからだ。
「…そこで、寝ている方が……?」
「……」
メールでは伝えておいて何だが、改めて口に出して伝えようとするとどうしても喉に詰まってしまう感覚になってしまう。結局、俺はただ無言で席を立って道を開ける。
それに伴って、アリスはゆっくりと前に進み出る。静かな病室だと、その体から発せられる微かなモーター音も足音と同時に耳に届く。
それだけではなく、彼女が前に進みでて”彼”の姿を見た瞬間に、息を呑む音までもが聞こえた…気がしたが、それは流石に気のせいだろう。彼女の体は、呼吸の必要すらないのだから。
「…この目で見るまで、半信半疑ではありましたが…これは……」
「そう、なんだ。この人の姿は……ユージオと…同じ。瓜二つなんだ。…俺は今だって、信じられない気分だよ」
気分をそのまま吐露する傍ら、アリスも目を見張ったまま…”彼”の脱力しきった手をそっと持ち上げる。そして両手で挟んで、その感触を確かめているようだ。
「…鋼素製では、ない。ということは……リアルワールドの人間…ということなんでしょうか?」
「ああ。だから、この人はユージオじゃない。ユージオと似てる姿は…偶然、なんだろう、けど…」
自分で聞いても分かるほど沈んだ声を出してしまう一方で、アリスが少し怪訝そうな顔でこちらを振り向いた。
「あの。私は、キリトと同じようにユージオがリアルワールドの人間である可能性を考えていたのですが…」
「……ああ。そっか。そう考える…よな。俺も、それは死ぬほど考えた。…けど、それも……」
「あり得ない、と?」
アリスにそう尋ねられ、俺はゆっくりと頷く。
実のところ、あり得ない…とまで断定できるほどではないが、その可能性を否定する要素は、思い起こせば…多すぎるくらいだ。
「アリス…君も覚えているだろ? …アンダーワールドでの、”右眼の封印”を」
「…ええ」
その言葉を聞いた時、アリスの体の眼球部分を表す機構が少しキュッと歪んだように見えた。俺も、そのことはできる限り思い出させたくはなかった。だがその点こそが、ユージオがリアルワールドの人間ではないという、一番大きな反証になる。
「タイミング的に…アリスは知らないよな。実は、ユージオはカセドラルに連行される前…右眼の封印を破っているんだ。禁忌目録違反を行った、まさにその時…だ」
「……彼も…そうだったのですか…」
「あの右眼の封印は、人工フラクトライト…アンダーワールドの住人に刻み込まれたものだ。…悪意ある人間によって。当然、リアルワールドからログインしてる俺のようなアバターにはない。ユージオは、リアルワールドの人間ではあり得ないんだ」
「ふむ…そう、ですか」
俺の説明を受けて呟くアリスだが、その声色にはあまり納得したようには感じ取れない。
ジッと、眠っている彼を見つめ続けている。
そうだ。ユージオがリアルワールドの人間ではあり得ない。彼は人工フラクトライトだった。
……なのだが、もし。可能性があるとすれば。
ただの人工フラクトライトではない、元は人間のフラクトライトのコピーだったという可能性だ。
例えば、赤ん坊のフラクトライトのコピー。
実際に箱庭としての世界の中で、何人かの赤ん坊のフラクトライトをコピーして”住人”とし、研究員がログインとして育てたのがアンダーワールドの原型となっている。ユージオが、元は人間の…”彼”の赤ん坊の頃のフラクトライトが元になっている可能性。
だが、それは考えにくい。目の前で眠る”彼”の正確な年齢は不明だが…どう贔屓目に見たとしても20歳前後だ。更に贔屓目に見た上で自分と同じ年齢だと仮定しても、世界の加速倍率が高いアンダーワールドでは、人工フラクトライトの年齢はまず現実とは同じにならない。俺がアンダーワールドにダイブする頃には、約二十年前にコピーされた赤ん坊のフラクトライトは、とっくに天寿を全うしているのが自然だ。
赤ん坊のフラクトライトのコピーの可能性がないのであれば……
他に唯一考えられるのは、”今の彼”のフラクトライトのコピー。
記憶と人格の封印された俺のフラクトライトは、アンダーワールドにて何年もの時を過ごした。俺の場合はあくまで現実世界からのログインではあったが……ユージオは、違っていたという可能性。記憶と人格の封印された人間のフラクトライトをコピーして、人工フラクトライトとして…再誕させる。
自分が聞いた限りでは、成長過程の記憶を削除したフラクトライトのコピーは悲惨な出来であり、とても一人格を持った人工フラクトライトとは言えないということではあるのだが…実際に俺を始めとして、各被験者のスタッフが記憶と人格を封印されたフラクトライトとしてアンダーワールドで過ごしている以上、それのコピーを人工フラクトライトとすることは不可能ではないとは、思う。
しかし、そんな人工フラクトライトが自分と長い時を過ごしていたというのならば、菊岡誠二郎…プロジェクト・アリシゼーションの主導者から一言あってもおかしくはないはずだ。自分以外の被験者があの時期にいたという話は一切聞いていない。いちいち話す必要がないと言われればそうだし、あの後に大変な出来事があったことを考えれば、話すタイミングもなかったのかもしれない。
とにかく、あり得るとすれば…”彼”が何らかの形で、俺と同じアンダーワールドの被験者だった可能性。
それ以外は…全てが偶然だった可能性しか、ない。偶然ユージオと全く同じ容姿を持った一般人が、偶然青森市からこの東京へ立ち寄り、偶然ダイシーカフェに入って……
どちらの可能性も、非常に低いものだ。
だがそのどちらしか可能性は存在せず、そして…仮にそのどちらの可能性だったとしても。
俺の知るユージオは、もう…どこにもいないことに変わりはない。
「この方は…目覚めないのですか? せめて、彼自身の話を聞ければと思うのですが…」
「医者が言うには、脳に異常は見当たらない…状態としては”ただ眠っているだけ”なんだ……丸一日以上、そのままという異常性を除けば…」
「…リアルワールドの医学でも分からない症状、という訳ですか。今は…目が覚めるのを待つしかないようですね」
少しばかり沈んだ声のアリスの言う通り、今の俺たちにできることはない。ただ”彼”の目覚めを待つばかり…である。だが仮に”彼”が…島崎さんが目覚めたからと言って、できることがあるとは…限らない。
全くの偶然の人物だったとしても。
俺の知るユージオと同じ魂を持つ人物だったとしても。
島崎さんは、アンダーワールドとも…俺たちとも、無関係の人間だ。
この人が目覚めたとして、俺は何を話す?
アンダーワールドという世界で何年も共に過ごした俺の大切な相棒、ユージオと瓜二つなんだ…と?
貴方が被験者として行った実験では、その脳のフラクトライトをコピーされ、その人格がアンダーワールドという世界でユージオという少年となって…と?
馬鹿馬鹿しい。
それこそ、この人からしてみれば何の意味もない話であり、聞かされるだけ迷惑にしかならない。
そして、俺が今こうしてこの人の側にいるのは…ただのエゴでしかない。
彼方へ旅立った大切な相棒の面影を、赤の他人に求めているだけなのだ。
倒れた彼に付き添って救急車まで同乗したのも、
学校が終わってすぐ、この病院に駆けつけたのも、
無理を押して、アリスに来てもらったのも、
…誰のためにも、何にもならない。
ありもしない希望に、俺の心が一瞬だけ照らされただけ、だ。
「……キリト…」
アリスの呟きが、耳に響く。
言わんとしていることは…分かる。彼が目を覚ます見込みは俺たちでは分からず、仮に目を覚ましたとしても…できることは、何もない。
分かっている。分かっているんだ………
……だと、しても。
「ごめん、アリス……」
「…もう少しだけ、ここに、いさせてくれ……」
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動けなかった。
何も口に出すことが、できなかった。
二人とも。
キリトという黒髪の青年と、
病室に、赤みが差した日の光が入り始めても。
ベッドに横たわる義骸を前に、”本物の”島崎雄次郎とその兄であるユージオは…放心したまま、立ちすくんでいた。
全て見ていた。聞いていた。感じていた。
それは自分達が知らなかった、残された人たちの”思い”。
悲壮な絶望と、ありもしないと自覚していながらも希望に縋る虚しさの発露。
その希望は、実はここにあるというのに。
彼らは目の前のそれを、見ることはできない。
例え、すぐにでも雄次郎が義骸に入って立ち上がったとしても。
それは、彼らが求めているであろう本当の人間ではなく。
似て非なる、別人でしかない。
理解し難い現実が、胸を締め付けて。
人間との隔絶された世界の違いを感じ取って、強い寂寞の思いにさらされて。
何も動くことが、できない。
どうしてもキリトさん一人称視点での文章を書きたかったのですが、一人称視点の小説の書き方に慣れてなくて、これほど時間がかかってしまいました。うまく表現できてるかは不安です。
こちらの時間軸ではユナイタル・リングは発生していません。