今回は前話、前々話に比べると短めな約6800文字!
ではどうぞ!
幼き日の輝き。
今は失われた、光ある未来への希望。
誰もが無邪気に笑う。誰もが経験する。
かつての夢を見た。
人間は自我を形成するのに何年もの時間を費やす。その過程に於いて重要視されるのは、赤子の脳を刺激する周りの会話である。
扱う言葉を聞く度に脳は意味を覚えていき、やがて性格はそれに反映される。
無論必ずしも『周り通り』になるとは言わない。自分を囲う周りが他の周りと違う可能性は大いにある。その違いに気付き、反面教師として捉える幼子も中にはいるだろう。
広瀬 青星という子供は、『周り通り』になった人物である。母も父も人の心理を詳しく知る人物だ。故にそれは大きく影響し、広瀬は他人よりも感情に敏感となった。
しかし実の所、この時点での広瀬はまだ『感情視』という特殊な理解能力は有していなかった。
専門家曰く、幼き子供は自分の為に
────もし。もし仮に、『感情視』が完全に先天的能力で、この幼き時点で扱えていたのならば。また、違う未来もあったのだろう。
でもそんなIFはなく、行われたのは確定された過去だけ。
だからこそ夢に見る。
これは、広瀬 青星という人間のお話。
「ぱぱー、みてみてっ!」
「んー? おお、凄いな。もう2桁の足し算引き算が出来るようになったのか」
弱冠三歳。
大きな厚めの用紙に書かれた綺麗な数字と、=の右に殴り書かれた様な雑な文字。だが認識可能なその数字を見て、男性は素直に感心する様子供の頭を撫でる。
幼き広瀬は「むふふー」とドヤ顔気味に笑い、バッと女性の方へと視線を向けた。女性は和やかに笑い、テーブルに置かれたもう一枚の紙を取って見せた。
「それだけじゃないですよ、貴方。まだ三の段の途中までですけど、掛け算まで出来てますから」
「む、これは驚いたな。もしや天才では?」
「ふふっ、親馬鹿ですね」
───まあ親馬鹿は否定出来ないのだが、それでも言い分はある。確かに三歳児が三の段迄とは言え掛け算出来るのは素直に凄いと言えるだろう。
しかし男性も男性で、別にそれだけで天才と思っている訳では無い。
天才と称すべき部分は、その気配りだ。
男性は広瀬に話し掛けられるまでパソコンと気難しい顔で睨めっこをしていた。折角の休日で家族と外出したい中で、唐突に依頼された仕事に集中しなくては行けなくなったのだ。
広瀬は「ぶーぶー」と文句は言いながらも、特に不貞腐れた様子もなく絵を描いていた。
個人差はあるが、突然の用事で出掛けられなくなった家族という
文句を言わないと冷めていると思ってしまうし、我が儘を言われれば社会人として困ってしまう。故に、「冷めてはいないが困らせるつもりもない」という反応は親にとって一番有り難い。
更に驚くべきは、悩みを的確に見抜いた事。折角の休日で完全に別の方へと意識を向けていた分、普段と比べて仕事に対して頭が回らない。
集中が乱れてまともに向き合えてないのだ。
だからいっその事、少しの間は集中などさせなければいい……と。
緊張を解く方法として一番に思い付くのは「リラックスする」事だろう。しかし言葉で伝えるのは簡単だが、実際の所それを行える人物というのは極少数だ。何せ緊張しているという事は、ある程度脳内がパニクっているからだ。
普段通りでないなら普段通りになる筈が無い。全くもって道理だろう?
だが、何事にもやり方はある。
少数派から外れた人物にオススメなリラックスの仕方は、一度強く緊張してみる事だ。身体のどの部位でも構わないので、緊張している時は一度力を込めてからゆっくりと抜いてみる。そうする事で過度な緊張は抑える事が出来るだろう。
その理屈と同じ様に、集中出来ない時は一度すっぱりと集中を切らすのだ。それから再度集中し始めると、しっかりと脳が認識出来る。
無論個人差は存在するし、誰も彼もが思い通りにいく訳ではない。だが男性は平気なタイプである。親バカな事を考えていた脳は仕事の事などスッパリと忘れ、その手で広瀬の頭を撫でていた。
「……これを素でやってるからこそ、安心出来るよなぁ」
「?」
「いや、何でもない。……さて、もうひと頑張りするかっ」
───確かに理屈は分かっただろう。
だが同時にこうも思う。それをやってるのならば、ある意味冷めているのではないか? と。三歳児というのはまだ成長途中の幼児だ。自我の薄い子供に過ぎない。
そんな子供が分かっているかのように気遣うのは、何処か達観してるからではないか。
しかし広瀬は男性の心理状態など全く気にしてないし、ましてや気遣っているつもりもない。無意識に心理を見抜き、無意識に選択し、無意識に良い結果を招いただけ。
それが、今男性の目の前にいる子供だ。
男性は背筋を伸ばしてストレッチをすると、気合の入った顔でパソコンと向き合った。
「なんで泣いてるの?」
無邪気な顔で首を傾げる幼児がただ一人。四歳になってから暫く経ったある日、広瀬は母親に視線を向けてふと疑問を浮かべた。そこにはいつも通り、キッチンで朝食を作っていた女性の姿があるだけだ。
そう。ただいつも通りの日常。何処も綻びている様子のない光景。違和感がない筈の“いつも”に、広瀬は疑問を浮かべた。
女性は一瞬頬をピクリと動かすが、何でも無いかの様に笑顔を見せた。
「何言ってるの? 別に泣いてなんかないわよ」
「……おどろいてる……泣いてる……二つが、浮かんでる」
今度こそ隠す事なく、女性は目を見開く。
仕事の準備をしていた男性も違和感を覚えたのだろう。女性の顔に手を添えて「よく見せてみろ」と声を掛ける。
「……目が充血してる。化粧で隠してるが、目の下も少し赤い。今泣いてるというより、少し前に泣いていた様な……」
女性は顔を逸らし、男性の視線を避ける。
しかし見逃すつもりもない男性は言葉を紡ぐ。
続いた言葉を最後に───
「何があった?」
いつも通りの日常に、亀裂が走った。
流石に男性の確信から逃げ続けるのは無理だと悟ったのだろう。
女性は唇を噛んで、涙目になりながら紡ぐ。
「妹が───……」
曰く。常人よりも精神的な面に弱い妹が、過度にストレスを溜め過ぎて自殺してしまったらしい……と。
その姉たる女性は、元々精神的に弱い妹の為にカウンセラーを目指してなっていた。彼女の負担を少なくする為に。
故にこそショックを受けた。そのストレスに気付く事が出来ず、負担を減らす事が出来なかったから。
男性もショックを受けた顔で立ち尽くす。女性の妹は義妹に過ぎないが、男性にとっては本当の妹も同然だったが故に。男性が心理学を学んでいたのは、
だからこそ身内が
だが何かに突き動かされる様に───いや、本能に突き動かされる様に、その視線は広瀬の方へと向かう。
女性の妹の事を差し置いてでも気になってしまった、その一件。
「青星……なんで、気付いたんだ……?」
「……? だって、
広瀬にとって女性の妹は、そこまで重要な存在ではなかった。今この瞬間に知らない誰かが死んでも気にしない人と同じように、大して知らぬ人物だったからだ。
“死”というモノを理解しきれてない一面も理由の一つではあるが。
故に女性の妹の自殺に特に反応は示さず、男性の質問に当たり前かの様に言葉を放つ。そう視える───つまり泣いていると、広瀬の目には見えていた。一切泣いていないいつも通りを装っていたにも関わらず?
しかも男性が一切気付かないほど自然な装いだ。それを見抜くなど普通ではない。
本来なら気付かない装いを看破する。
男性は喉を鳴らし、鋭い目付きで問い掛けた。
「……今の俺には、何が視える?」
「……こまってる……こわがってる……あと、きたい……?」
困るというよりかは、困惑。唐突な義妹の死と広瀬の突然な才能開花に対する困惑だ。怖がっている。目指していたものを壊すかの様に突き付けられる現実と、隠している全てを見抜かれる様な広瀬の目に。期待。突き付けられた現実をひっくり返す事が出来るかもしれない、広瀬の才能に。
たった今抱いた感情の全てが、広瀬の言った全てだ。
「貴方……?」
「は────はは……っ」
義妹の死。広瀬の才能。
混ざり合う幾多もの思考と感情は、やがて崩壊を齎す。
狂った様に乾いた笑いを続ける男性に、女性は目尻に涙を溜めながら疑問を浮かべる。
「感情を捉える眼……。
光の無くなった瞳で、男性は広瀬を見つめる。
広瀬の眼には、“無”感情に塗り潰された男性の姿が映り、怖がる様に一歩後退った。
世の為、人の為。ああ、大した信念だ。口に出しても大抵は叶えられない者が多いその言葉を、本気で叶えようとする人物は少ない。でも叶えようとする人物も中には存在する。その為に男性は心理学者と、女性はカウンセラーとなったのだから。
でも、身近な人物の死を止める事が出来なかった現実。誰よりも助けたかった筈の人物を助けられなかった現状。その死を実感した今、更なる『死なせたくない』という気持ちが加速する。
そんな時に現れた一つの才能。
死なせたくないという気持ちがあるならば───
「なあ、青星」
縋らない筈が無かった。
「明日から……父さんと母さんの仕事の手伝いをしないか?」
この時捉えるべき現状は、『誰かの死』ではなく『身内の大切さ』であった。
知らない誰かでも、死なせたくない気持ちを抱けるのは大変立派な思想だ。尊敬するだろう。
でもそれで大切なモノを傷付けるならば、愚者の行いに他ならない。
男はその日、二つの過ちを起こした。
最初こそ、広瀬も乗り気ではあった。お小遣いは貰えるし、あまり高価過ぎない物ならば欲しい物は大抵買って貰えた。よく分からないが男性と女性の役に立っていると、嬉しくも思っていたのだ。
そう、悪感情が全く見えなかったから。
『誰かを助けたい』という気持ちは間違いではない。寧ろ善性の塊とも言える。そして助けられたのならば当然喜ばしいし、その一端である広瀬に優しくなるのは当然の結果。
本当の感情こそ見抜いても、本当の意思が見える訳ではない。
だからこそ広瀬は無邪気に過ごしていた。
でも。
「───ほし───青星っ!」
本意を知らないまま都合のいい存在でいるなど、きっと誰にもなれやしない。
ある日の夜中。熟睡していた深夜。引っ叩かれた衝撃とジンジン痛み続ける頬に広瀬は起き上がり、涙目で問い掛ける。「何をするのか」と。
「仕事だ」
「……でも、まだねむい……」
「スケジュールが詰まってる。そんな事で拒否はさせない」
違和感を覚え始めた。人の生理現象を無視するハードな行いが身体的害を成す事実は、心理学を学ぶ男性なら知らない筈がない。それを広瀬が知っている訳ではないが、猛烈な違和感を覚えたのだ。
でも成長途中に過ぎず、まだ自立の難しい幼児にとって、親は絶対的な存在。この違和感は間違いなのだろうと、親の言う通りに従って仕事を手伝った。
───その『嫌悪』の感情から、目を逸らして。
そんな違和感を覚えて数年。小学校に上がったある日、友達から聞かれたことがある。「どうしてそんなに疲れてるの?」と。友達と遊んだことはなく、偶に親が迎えに来て早退する事も多々あった。
そうして問われた言葉に「仕事の手伝いをしてるから」と答えると、「それはおかしい」と友達は言う。子供は勉強が仕事だと、如何にも親の言いそうな言葉が子供の口から紡がれた。
クラスの中で優秀な子でさえ、精々洗濯物の手伝いだと。
───また、酷く違和感を覚えた。
その日は普通で、早退することなく帰宅する。
リビングでパソコンを弄る男性を見て、学校での出来事を思い出した。
そして、口に出す。
「父さんは……俺のこと、好き?」
不安を覚えて、鉛筆をくるくると回しながら問いかける。
男性は驚いたように少しだけ目を見開き、すぐに笑顔を浮かべて言い放つ。
「当たり前だろう?」
驚愕。苦。冷。無。
そして、偽り。
その感情をイコールとする思考は明白だった。質問に対する驚愕。その質問への答えが面倒だという苦と冷たさ。本当は広瀬自身に何の関心も持たないという無。そして、それらを持ちながらも「当たり前」と答えた偽り。
故に察した。元々子供にしては聡明だったのもある。
───あぁ……この人は、自分の‟眼”にしか興味がないんだ、と。
それ以来ひどく冷めて、誰にも心を開かないまま小学6年生となった。
中学はどこにするかと話し合う男性と女性に目を向けて、口を開く。
あんな目にあった。冷めて当然だった。けどもしかしたら、自分の見間違いだったのかもしれない。感情を見れているという現実そのものが間違い。今までのは偶々当たってただけ。
そう、きっとこの眼も百発百中という訳ではない。
そんな‟もしも”を想像し、暗闇に包まれた現在に仄かな光を見出す。
だから期待して、紡いだ。
「あの……学費や生活費は自分で払うからさ、一人暮らしで秀知院学園に行ってもいいかな?」
広瀬には仕事の手伝いの報酬として渡され、使う機会もなく溜まっていた資金がある。幼・小・中・高・大一貫の秀知院学園で中・高分を払うとなると、とても払いきれない額はするだろう。実際高校分は流石にない。
でも幸い中学三年間の学費及び生活費は払いきれる程度にあるので、こうして問う事が出来る。
が、広瀬は秀知院学園に行くつもりはさらさら無い。
「それで、その……仕事の手伝いも、辞めたい。ほらっ、高校の分も貯めるとなると、どこかで稼がなくちゃならないしさ! カウンセラーで知り合った伝手を使えば、中学生でも雇ってくれるかもしれないし……」
───何があっても、決して吐くことのなかった嘘。
嘘など容易く見抜くから、自分自身では決してしなかった。
そんな嘘を、初めて吐いた。
本心では止めてほしかった。
一人暮らしなどするな、と。家から出ていかないでくれ、と。
最悪学費は自分で払うから、引き留めてほしかった。
でも現実は残酷で。
「……学費も生活費もこっちで受け持ってやる。一人暮らしがしたいなら構わない」
男性に、親としての愛情など。
「だが、仕事は手伝え」
───もう、残っていなかった。
男性の言い分は、寧ろ正しいのかもしれない。態々今まで行ってきたことを捨てて知らない何かで苦労するよりも、今までやってきたことを行うだけ。たったそれだけで、広瀬が望んだ「一人暮らし」も「秀知院学園への入学」も叶う。
そう、正しいのだろう。
でも、何故だろう。ガラス張りのテーブルに映る自分には、絶望だけが浮かび上がっていた。仄かな光は暗闇へと染まった。
ああ、分かっている。勝手に期待して、勝手に絶望しただけだ。期待して、期待通りにいかなかったから絶望した。
見抜いていた感情を信じ続ければよかった。期待など裏切られるだけだ。だったらもう、期待しないほうがいいだろう?
故に広瀬は。
「……分かりました」
その日から、他者への期待を捨てた。
女性は何も言わない。男性と同じ考えなのだろう。でもどうでもいい事だと、席から立ち上がって自分の部屋へと向かう。
もう、家族に対する信頼も消えたのだから。
───それでも、また懲りずに期待を抱いて。一筋の光を目に焼き付けて。
やがて、夢は覚める。
「……ぁあ、クッソ。嫌な夢だ」
湿った枕を撫で、目尻を人差し指で拭いながら声を零す。
吐き気を覚えるほどの嫌悪と、信じられないほど冷めていく自分の感情。
当時泣いて以来、渇き果ててしまった涙。
嫌な夢を見て久しぶりに流した涙は───不思議と、心地よかった。
「嫌なはずなのに、妙にスッキリするのがなぁ……」
多分、最後に見た光がそうなのだろう。
かつて毎晩見ていたこの夢を終わらせてくれた少女。そして今日、この夢を見る原因となった少女。
「あー、やっぱし」
一種のつり橋効果かもしれない。
見たことがなかった感情だからと、勘違いしているだけかもしれない。
でも、勘違いでも何でもよかった。
幾つもの感情を思い浮かべて、装いがあって。それでも‟偽り”だけはなかった早坂 愛に見惚れたというのは、
「───好きだなぁ……」
事実なのだから。
幼き日の輝きは消えた。
再度抱いた、未来への期待。
誰もが本音を隠す、偽りだらけの人生。
そんな‟今”を、今日も彼は歩む。
「こんにち殺法!」
勝手に期待して勝手に絶望した、暗闇に押しつぶされる過去を光で照らすように、紡いだ。
「こんにち殺法返し───……いや、うん。ごめん。やっぱこの挨拶はちょっとよく分からない」