広瀬 青星という人間は、理解力に長けた人物である。
元より感情を見抜く眼。また見抜いた感情から起こる思考の“推測”。そういった基準から考えられる『おそらく』という応用も、きっと学年の中では飛び抜けているだろう。
それでも四宮を追い抜かす天才という訳でもなし、何より彼に家で勉強するという意思は殆どない。
授業態度は真面目だ。質問されたモノは理不尽な問題でない限り答えられるし、決して頭は悪い訳ではない。
ただしなまじ理解力が長けているからこそ、授業さえ真面目に受ければ充分という性格なのである。
基礎も応用も授業で学んだ事のみでそれなりにこなすからこそ、彼は家で勉強するつもりはない。
無論、親の仕事の手伝いで時間が削られているというのも理由の一つではあるが……。
しかし、それで尚五科目合計408点/学年91位(一年期末参考)という成績を残している事実が存在する。
彼にとって生半可な勉強は殆ど無駄でしかないし、する意味も特にない。
────が、そんな彼も、今回ばかりは割とマジで勉強していた。
理由は明白。早坂に命令権を
何故か? 簡単だ。もしこのテストで負けて命令権を渡してしまえば、早坂との繋がりが断たれる為。
そもそも早坂が広瀬と接触した理由は、彼の秘密を探る為だ。
その必要な情報さえ手に入れてしまえば、早坂が広瀬と接触する意味は無くなってしまう。
それはNO。恋する高校生として断じてNO。
今まではキッカケが無かったからこそ関わって来なかったが、チャンスが訪れたのならば掴み取る。
広瀬だって、その特殊な眼と過去を見なければ普通の高校生だ。青春を謳歌したい一介の人間である。
故にこの勝負に負けるつもりは毛頭無かった。
───結果。
広瀬 青星 全教科合計428点/学年66位。
「……ですよねー」
広瀬は微妙な表情で呆れたように息を吐く。
そう、分かりきっている事だった。
彼が家で勉強しない理由は『意味がないから』というのは理解しただろう。
しかし『意味がない』という意味は二つある。
一つは説明した通り、基礎と応用が学年の中で突出したレベルである為。
そしてもう一つは、
社会86点、数学96点、理科92点、英語84点。
そして国語、70点。
勿論決して低い訳ではない。高いとも言い難いが、そこそこいい点数ではあるだろう。
ただし広瀬は、これまでのテストに於いて国語という教科で70を超えたことは殆どない。寧ろ中学以降では初めてと言えるほどだろう。
そう、意味がないという言葉の意味の二つ目は、勉強したところで国語の点数は殆ど伸びない為だ。
今回は偶々ある理由によって普段より高く取れたに過ぎない。
まあこれでも充分だろうと広瀬は楽観的に思ったが、同時に嫌な予感が襲い掛かる。
まるで霧が掛かった様なイメージが浮かび上がり───
「あ……っ!?」
それが晴れると、「しまった」という思考と共に僅かに大きい声が漏れる。
周囲から視線を集めるが、気にする余裕はなく右へ右へと視線を移していく。
全員の順位と点数が同時に発表……というか、紙に写し出されるこの場において、名前は全員に見られる形となっていた。
右から順に、一位二位……と。
右へ視線を移していくという事は、順位が上の方へと視線を移すという訳だ。
やがて視線だけでなく、足も動かしていき。
そして、その目が捉えたのは。
早坂 愛 全教科合計459点/学年13位
───そう。そうなのである。
早坂の前試験での順位は114位。一学年約200人いる中で考えれば、高くも低くもないものの、広瀬よりは低い点数。
広瀬はその事実を知っていた。というか知ってたからこそ、今回の点数でも充分だと思っていたのだ。
が、今回の早坂は違う。
以前までは
しかし今回ばかりは、早坂は
偏に、四宮の命令であるから。
「愛すごっ!?」
「愛ちゃん先生、是非とも次回はご教授下さい」
「ふふーん、やればこんなもんっしょ! でもまあ疲れるし、隈も出来ちゃったし、次からはいつもの順位でいいかなぁ」
嘘である。
この女、別に今回の為に勉強したとか隈が出来る行為を行った訳でもなく、また何かがあれば躊躇なく高い点数を取りに行くだろう。
勉強に関しては元々持っていた知識を披露しただけだし、隈はメイクで演出可能だ。
本気で勉学に励めば、一位二位は無理であろうと三位に入れる程の実力も待っている。
全くもって白々しいが、演技とは思えぬ自然体。
それを演技と見抜いて白々しいと思えるのは、完全に“偽”の感情だと理解出来る広瀬くらいだろう。
何とも言えない表情で早坂を見ていると、やがて視線に気付いた早坂が、片目を瞑って僅かに微笑む。
「私の勝ちですね」と幻聴する表情を見て、広瀬は諦めた笑みで息を吐いた。
「俺は悪くない、作製者側が悪い」
堂々たる態度で腕と足を組んで屋上近くの階段の一番上に座る広瀬に、その後ろで立つ早坂は頬を掻いて問う。
「国語の点数の低さに関してですか?」
「そう。早坂は思ったんじゃないか? 俺なら寧ろ国語が一番得意なんじゃないか、って」
「……まあ、はい。国語の問題は、大抵が文章中に描写されたもの、文章から考えられる心情、漢字やらで構成されてますからね。漢字を除けば広瀬くんの得意分野だと思っていましたが」
そう。覚える他ない漢字は兎も角として、文章抜き出しや心情推測に関しては広瀬の得意分野の筈だ。
何せ文章の“理解”とその“応用”が出来るならば、それなりの点数が取れる筈だろう、と。
だが実際は違う。広瀬は漢字に於いて間違った答えを出す事は無かったが、文章抜き出しや心情推測の問題で大幅に点数を落としていた。
これは今回に限らず、中学以来ずっとの出来事である。
「……」
広瀬は前髪を指先で弄り、僅かに間を置いて考え込む。
が、一瞬も一瞬。パッと笑みを浮かべ、ヘラヘラとした表情で言葉を紡いだ。
「そりゃあねー、心情・思考の推測は得意よ? けどさ───」
手を頭の後ろで組み、寝っ転がるように後ろへと倒れ込む。
そして言葉を紡ごうと口を開き、倒れ込む時に瞑った眼を開き。
「……黒とは大胆な」
口から溢れた言葉は続きではなく、視界に入った“色”の感想だった。
早坂は呆れたように息を吐き、手に持つスクールバッグを広瀬の目を覆い隠すように顔へ乗せた。
広瀬は割と重量のあるバッグを退かして起き上がり、「それ」と言うように指を指す。
「早坂は特に怒ることも無くただ隠したよな? でも世の中には普通に怒る人物もいれば、逆に嬉々として見せる人物もいる。要は個々で変わるって事」
「人の思考や感情はそれぞれですからね」
「そう。でもテストはそうじゃない」
早坂のスクールバッグに付けられているストラップを「なんぞこれ?」とでも言いたげに触って見つめながら、言葉を紡ぐ。
「大体は用意された答えが存在する。だから答えが“それ”でない限り、正解にならない」
少なくとも、広瀬にとって用意された答えは正解とは思えなかった。
しかし用意された答えが正解である以上、広瀬が思った正解は正解ではない。
「それが認められないんだよ。心理学者・カウンセラーの息子としてはな」
───酷く、吐き気がした。
心臓を握り締められたかの様に胸は苦しく、頭を刺激する痛みが駆け巡る。
今にも吐いてしまいたい程の気持ち悪さ。
その
「嘘ですね」
「……っ」
驚愕。
広瀬は息を詰まらせる。
嘘───一体何を嘘と断定しているのか。
そう問おうと口を開いて早坂の方へ振り返ると、すぐ目の前に早坂の顔。
「───ぉわ……っ!?」
後数センチ近ければ肌が触れ合う程の距離。
いつの間にかそれほど近付いていた早坂に驚き、広瀬は後退る。
「う……嘘って、何の事だよ……?」
違う意味で心臓が締め付けられる想いに襲われて、激しくなる鼓動に手を当てながら、何とか平静を保つ様に問い掛けた。
「
広瀬の目の奥を覗き込む様に細められる眼。
気不味く視線を逸らすと、早坂は続きを紡ぐ。
「私の知っている貴方は、スカートの中を覗き見る人物ではありませんよ」
初めて出会った時の事を忘れたつもりはない、と。
わざわざ学生服を掛けて見ない様にする紳士さを持っていた筈の広瀬が、見てしまうだろう行動を取ることはあり得ないと言った。
「……私なりに広瀬くんの事を観察してきましたが。広瀬くんにはどうやら、不安な時に指先で何かを弄る癖がある様ですね」
「……」
「そして思いました。そういえば
癖については広瀬にも自覚がある。
だが染み付いた癖が抜けるというのは中々に難しく、無意識に行う事が多い。
一体何時の事か───そんな思考を浮かべる広瀬と対照的に、明確にその日の事をイメージする早坂。
それは広瀬との初めての会話をした翌日。自ら絡みに行き、広瀬の“日課”を聞いた時の事だ。
「まあ、気持ちは分かりますよ。自分にとっての当たり前が相手の当たり前になるとは限らない。他者との違いや普通からの逸脱は、不安となる要素に最も多いものです」
その“違い”の内容によっては、自信となる可能性は高いだろう。
でも逆に、そうでない可能性も存在する。広瀬も例に漏れず、そういった人物だろう。
「ですがそれは、偽ればいいだけ。わざわざ本当を告げる必要はどこにも無い。……はて、何故広瀬くんは本当の事
「……」
「嘘が嫌いだから……ですよね?」
そうだ。
わざわざ本音を言う必要はない。広瀬の能力があれば、きっと相手によって対応を変え、誰にでも好意を持たれる事が可能となるだろう。
相手の望み通りにすればいい。相手が不快な思いをしなければいい。
そうすれば、きっと広瀬は校内一の人気者だ。
だがそうしない。
だってそれは、相手に合わせた“偽り”だと分かっているから。
「あの時も騙せば良かった。不安を抱くならばそちらの方がマシでしょう。ましてや大部分がどんな思想を抱くか分かっている事。感情を視る広瀬くんならば誰よりも理解している筈。……これは推測に過ぎませんが───」
早坂は、いつも広瀬が鏡の前で見ている「何でも見抜くかの様な眼」で紡いだ。
「偽りに装われた本音を暴ける貴方は、自分も本心でなければ
……今度こそ、広瀬は驚愕を表にする。
自分の本心が推測され、的中される事への驚き。
初めて味わう、何時も自分が行っていた事。
「おや。この推測が正しいとして、それでは一つ疑問を覚えますね」
態とらしく疑問を示す様に視線を上にあげ、人差し指を立てて唇の下に当てる。
「何故貴方は、先程自らを偽ったのでしょう?」
───スカートの中を覗き見る。仮に例えを出す為に行ったとしても、別の手段があった筈だ。確実に見えない方法を取って起き上がらせた彼が行うとは思えない。
更に、早坂は“嘘”を見抜く程度は可能。本気で偽られたのならば難しいが、明確に“嘘”が浮かび上がる瞬間があった。
広瀬が、心理学者とカウンセラーの
早坂が広瀬本人から伝えられた情報は、親の仕事の手伝いをしているという事。またそれを条件に一人暮らしをしているという事。
この事から、広瀬は親の下から離れたかったという可能性が鮮明に浮かび上がる。
そして“息子”と言い放った瞬間に浮かび上がった明確な“嘘”。
以上の情報・推測から考えられる可能性は───
「家族を家族と思えない自分を隠したかった……ですか? スカートの中をわざと覗いたのは、嫌われてそれ以後の接触を避けたかった……。……ああ、なるほど。私が得たい情報を手に入れたのならば、広瀬くんと接触する必要はなくなる。ならばいっそ嫌われて、情報を渡そうとしなかったのですね」
「………?」
先程まで外れる傾向の無かった推測が外れる。
いや、確かに家族を家族と思えない自分を隠したかったのは事実だ。接触する必要性がなくなるなら初めから嫌われる方を選んだのも確かである。
だが「情報を渡したくないから」なんて理由では無く、「本来の自分で嫌われたくないから」だ。
「自分の秘密なんて隠したいものでしょうし、それを探る相手を良く思わないのは当然ですね。半ば無理矢理の勝負ですし、デリカシーが欠けてたかもしれません」
「………」
鈍感だろうか、この子。
一切の嫌悪がないばかりか、この言葉全てが本心で紡がれている。
つまり広瀬が早坂の事を良く思っていないのが事実なのだと本気で思っており、1ミリも好かれているなど考えていない。
てっきりバレているかと思っていた広瀬は毒気を抜かれた様に呆れた表情へと変わり、重い空気は僅かに軽くなる。
「……ま、そうだな。大方間違ってはない。俺は親を親として見れないし、国語の問題が正しいと思えない理由は俺自身の矜持だ」
「テストとしての答えは解っていたけど、わざと外した……と?」
「ああ」
まあ仮に間違えた30点を正解したとて、計458点だ。一点負けてる以上勝ってたとは言えない。
どの道負けてるのは事実だが……そう流し目になるも、それを隠す様に目を瞑って紡いだ。
「人は矛盾する生き物だ」
───何故怒るのか。何故悲しむのか。何故嬉しくなるのか。
理由は人それぞれで、必ずしも想定通りの感情を抱くとは限らない。
何もかもが道理となるならば、広瀬の『感情視』が無くても人の感情なんて容易く見抜けるだろう。
矛盾があるからこそ、人は他人を見抜けない。
「けどな、テストに出る問題は違うだろ? 実際にどう思ってるか分からん感情に、たった一つ明確な答えを出している。問題を改文して、“道理”を作った」
───間違ってはいない。
感情には理由がある。それに辿り着く道筋を作るのは間違っていないだろう。
道に理由があるのなら、それは道理だ。
でも矛盾しない訳ではない。
理由が納得出来る様なモノじゃない可能性は高く、ただただ感情を浮かべる事もある。
誰も彼もが“当たり前”を持っている訳ではないのだ。
「矛盾を否定しちゃダメなんだよ。……いやまあ、別に推理モノによくある矛盾から正解を導く事を否定してる訳じゃないぞ? あくまで感情や思考の問題だ」
「……矛盾は、当然の感情だと?」
「ああ。寧ろ矛盾しない人物を見たいくらいだ。実在するなら、そいつはある種壊れてる」
皮肉げに、今まで見てきた光景を肯定するその言葉。
ニヒルに笑みを浮かべる広瀬を早坂は数秒見つめ、やがて視線を逸らす。
「それはそれとして、広瀬くん。勝負事の件は忘れてませんよね?」
「……何がお望みですかね?」
既に大抵の事は察する程度に情報を渡しただろう。
ならば隠す必要はもうあるまい。何でもこいやと言わんばかりに投げやりな態度で問い掛ける広瀬に、早坂は一言。
「友達になって下さい」
「────」
唖然。表情にこそ大きくは出なかったが、その目は驚愕を示す様に開かれる。
いや、だってそれは───
「……ははっ」
広瀬が抱える“特殊”を知り、家族を家族と思えぬ情なき男と知り。
それで尚、“友達”になれと言う。
大量の悪感情がある。普通とは離れた汚れある過去が存在する。
それで尚、彼女は友達になれと言う。
それは───
「なんだ、まだ友達じゃ無かったのかよ?」
「おや、良いのですか? 私がそうだと言えば、命令権はまた別の物へと変化しますが」
「いやー、自分に嘘を吐くのが苦手な質でして」
けど、素直に感謝するのは何処か照れ臭い。
だから紡ぐ。一切思っていなかった筈の“嘘”を。
広瀬は自分の吐く嘘が嫌いだ。
本心を見抜けるのだからフェアでありたいと思う。
嫌われる為に嘘を吐いた自分を酷く嫌悪していた。
でも、今吐いた嘘は、決して気持ち悪く無かった。
何故だろうか。矛盾している。嘘が嫌いならばそんな事はあり得ない。
だが事実として、決して嫌悪はなかった。
嫌いな筈の嘘が嫌いじゃない。
矛盾した思考───だがそれでいい。
その矛盾こそが、今の広瀬を確立させる。
だから疑問を浮かべてはいけない。そういうものだと胸を張ろう。
「では、別の命令です。……青星くん、私の協力者となって下さい」
「協力者?」
「平たく言えば───会長とかぐや様をくっ付ける為の協力です」
「なにそれ面白そう」
堅物会長と氷のかぐや姫。
だがその実、煩悩に侵されまくりの二人。そんな彼らをくっ付ける為の協力。
興味は溢れ、広瀬は楽しげに笑みを浮かべて立ち上がる。
「ま、拒否権はないしな。……よろしく、愛」
手を差し伸べる広瀬に、早坂は微笑みながらその手を取る。
起き上がり、腰巻きにしたパーカーに付いた埃を払う早坂を見つめ、広瀬はふと思いついた様に言葉を紡いだ。
「俺さ、自分の名前が嫌いだったよ」
「名前呼びは辞めた方がいいですか?」
「いやいや、“だった”だって。過去形。今はそう悪いもんじゃないと思ってる……ってか、寧ろ好きだな」
「……何故?」
嫌いな物を好きになるというのは、それなりに時間が掛かるものだし、何なら一生成り得ない可能性は高い。
矛盾とはまた違う。あくまで道理の通った言葉を紡ぐ広瀬に疑問を浮かべる早坂。
───青星という名前の由来は、ブルースターという花である。
『信じ合う心』という花言葉を基に付けられたその名前は、感情を見抜く眼を持ち嘘に包まれた現実を認識した広瀬にとって皮肉な名前であり、また嫌悪すべき名前だった。
でも。
「─────」
「……?」
ふと視線を早坂に合わせ、首を傾げる彼女に笑みを零す。
片目を瞑り、人差し指を口と鼻の前に立てる。
全世界共通「静かに」というジェスチャーをしながら紡がれる言葉は、最早必然だろう。
「秘密だ」
───嫌悪すべき言葉とはまた別に、愛好すべき花言葉。
「それはズルいですよ」
「ははは、命令権を早く使い過ぎたな。ちょっと待てば暴けただろうに」
「全く……何時か、教えてもらいますからね?」
かつて切り捨て、かつて失くしてしまった“子供”の広瀬。
それを取り戻すかの様に、少年の笑みで広瀬は笑い続けた。
───ブルースターのもう一つの花言葉は、『幸福な“愛”』である。