My Companion, My Dearest   作:春日むにん

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4. ニルヤの誘惑

 鍋がコトコトと音を立てている。上品に混ざり合った脂と野菜とスパイスの匂いが小さなキッチンに満ちている。我ながらなかなかの出来のようだ。そろそろ器を準備した方がいいだろう。

 

 住人たちが(おそらくブレリナを除いて)皆食堂に向かい静まり返った大学寮。その片隅にある小さなキッチンで、わたしはテルドリンの得意料理であるモロウィンド風のシチューを一人黙々と作っていた。旅の間に習ったから作り方はすっかり覚えている。それでも本来の彼の手際の良さに比べるとわたしは鈍臭くて、少し手間取ってしまった。

 

 洗い場の桶に入れておいた井戸水で本来の自分のものではない灰色の手指を洗う。テルドリンの手は大きく、力強く、それでいて優美だ。剣を振るい弓を引くための強靱な筋肉に覆われていながら、その輪郭は滑らかな曲線を描き、少しも骨張ったり節くれ立ったりしていない。年齢を重ねているせいで少し目の粗くなっている肌も、なめした皮のような独特の風合いがある。純粋に、綺麗だ。

 

 手を洗い終えて手袋をはめると、食器棚から木の深皿とスプーンを取り出して鍋の前の椅子に陣取った。今や空腹感はわたしの正常な思考を圧迫しそうな勢いでせり上がっている。わたしは腹をさすって自分に言い聞かせた。あと数分待てば、じゃがいもとにんじんがほくほくと柔らかくなる。それまでの辛抱だ。

 

 空腹を紛らすために、わたしは周囲の音に聞き耳を立てた。聞こえてくるのはシチューの煮える音と、料理用の暖炉から響いてくる外の風の音だけ。落ち着きはするが心細いものだ。テルドリンも同じように感じるのだろうか? それとも、彼のことだから、このような状況もそれなりに楽しめるのだろうか?

 

 ふと、遠くの方で、学生寮の出入り口の扉の蝶番がギイギイとこすれる音と、外の空気がごうっと吹き込む音がした。続いて、ブーツの靴底で石の床を思いきり踏みしめているような、いやに居丈高な調子の足音。それは寮の一階の片隅にあるこのキッチンに迷いなく向かってきた。そしてノックもなしにキッチンの扉を開ける。

 

 振り返ると、ハイエルフの学生ニルヤが右手を腰に当て、左手を握り拳にしてわたしを見下ろしていた。

 

「テルドリン。今日は何を作ってるの? 一緒に食べてもいい? もちろん、いいよね」

 

 内心とても焦った。わたしはニルヤが苦手だ。いつも自信たっぷりな表情と仕草で、自分以外の全ての人を見下すような言動を取るからだ。今目の前にいる彼女はその傾向がさらに悪化しているようだった。こちらの意思も確かめず食事を共にすることを宣言しながら、テルドリンに自分の存在を肯定させなければ我慢ならないといった雰囲気でわたしの返答を待っていた。

 

 ときどきニルヤが食堂にいなかったのはこういうことだったのか。わたしは全力で自室に逃げ帰りたい衝動に駆られた。だが、この様子だとおそらくテルドリンは彼女を毎回受け入れていたのだろう。ここで下手に断ってしまったら不審がられる。

 

「ああ、構わない。座っててくれ。もう少しでできるから」

 

 自分が彼女に対してどのような感情を抱いているか悟られないよう、なるべく平坦な声を出すよう努めて、わたしはキッチンに備え付けられたテーブルへ軽く視線を向けた。

 

 ニルヤは動こうとしなかった。彼女は馬鹿にしたように鼻で笑って、左手の握り拳を軽く揺り動かした。拳の中から金属がぶつかり合う小さな音がした。

 

「うん? ゴールドは要らないの? やっと気づいたんだね、あたし相手に下手な商売をするべきじゃないってこと」

 

 テルドリンはこの恐ろしいニルヤからでさえも金を取っていたのか。いつも冒険で得た宝や報奨金は全て山分けしているというのに、どれだけ物足りないのだろうか。いや、ブレリナもわたしを金で釣ろうとしたあたり、ダンマーの人々は労働の対価を得たり与えたりすることに対して厳格なのかもしれない。

 

 今更やっぱり金をくれとも言えず、わたしは鍋の蓋を開け、お玉で中身を掻き回した。アッシュ・クリープ・クラスターの粉末を入れたために少し黄色くなっているスープが、とろとろとお玉の後にくっついてくる。食べ頃だ。仕方ない、ニルヤの分を先に盛ってあげよう。

 

 深皿を鍋に近づけてシチューを盛ろうとしたとき、右肩と右腕が何か温かくて柔らかなものに包まれた。おそるおそる首を横へ曲げると、ニルヤがわたしの右肩に手を乗せ、わたしの右腕に柔らかな胸を押しつけていた。

 

「うっ、わあああああ!!!」

 

 わたしは今の自分が冷静沈着な老練の傭兵テルドリン・セロの姿であることも忘れて情けない悲鳴を上げ、手に持っていた食器を放り出し、鍋をひっくり返しそうになりながらキッチンの四つ角の隅へと逃げ去った。

 

 ニルヤはあからさまに拒否されたことに驚き、自尊心を傷つけられたようだった。金色の目を妖しく煌めかせながら、ゆっくりとわたしに近づいてきた。

 

「いつもと全然反応が違うじゃない。どうしたの、あの子と喧嘩でもした?」

 

 わたしの両側の壁にどんと手を当てて逃げ場をなくす。ハイエルフは背が高く、ダンマーの中では身長が高めのテルドリンでも、ニルヤからは見下ろされる形になる。そのためすぐ目の前にこんな体勢で迫られて今にも威圧感に飲まれてしまいそうなのだが、次の行動に出そうなニルヤを食い止めるためにわたしは必死で問いかけた。

 

「あの子、とは。わたしの、主人のことか?」

 

「あれ? いつもは名前で呼んでなかった? ああ、昨日の夜うまくいかなかったんだね。それで喧嘩したんでしょ。あの子、今日はいつもと違って少しとげとげしかったもん」

 

 ……なんだ、その妙な言い草は。それでは、わたしがまるで彼と――

 

「できてる、と、思ってるのか?」

 

 絶体絶命な状況であることも忘れて尋ねた。ニルヤはかすかに戸惑った表情を浮かべた。

 

「そうだけど、違った? 大学中で噂になってるよ」

 

 わたしは雷に打たれたような衝撃を受けた。わたしとテルドリンが関係を持っていると、ニルヤだけでなく、大学のみんなが思い込んでいるというのか? なぜ?

 

「違う。絶対に違う。わたしと、彼女、は、そんな関係じゃない」

 

 わたしは首をぶんぶん横に振った。わたしたちをどんな色眼鏡で見たらそのような勘違いを引き起こすのだろうか。ここはテルドリンとわたしの名誉のために、全力で否定しなければ。

 

 ニルヤは思案顔になった。それからピンク色の唇をきゅっと上げて、どきりとするほど妖艶な笑みを浮かべた。

 

「ふうん。じゃあ、あたしがテルドリンと何をしようが、あの子には関係ないってことだね?」

 

 彼女はわたしの鼻から下を覆っているマスクに片手で触れ、その上からわたしの顎を、唇を、頬骨を、鼻筋を、ゆっくりとなぞっていく。全身にぞわぞわと鳥肌が立った。

 

「あたし、一度あなたの顔を見てみたかったの。口元はとってもハンサムだよね――その兜の中にはどんな瞳が隠されているの? 教えて、テルドリン」

 

 ニルヤは頭部を守るキチンの兜を外そうと、兜とマスクの隙間に手を差し入れた。

 

 わたしは動けなかった。テルドリンがニルヤをどう思っているのかも、普段どう接しているのかも分からない。下手に拒絶してしまったら、彼はかえって怒るかもしれない。ここはニルヤに従ってとりあえず兜だけでも外しておくべきだろうか。実のところわたしも、彼の素顔は少し気になっていたのだ。――死にそうなくらい空腹で、おいしそうなシチューもできあがっているのにお預けを食らい、大学の中で一番苦手な人物であるニルヤに理性を飛ばされそうな甘ったるい表情で迫られている、というこの状況に、わたしの頭の中は完全に混乱していた。

 

 そのとき、学生寮の扉がけたたましく壁にぶつかる音がして、誰かが石の床の上を走ってくるのが聞こえ、キッチンの扉が蝶番の外れそうな勢いで開け放たれた。

 

 わたしの姿をしたテルドリンだった。彼はすぐさま何か喜ばしくないことが起こっていると理解したらしい。

 

「何をやっているんだ!」

 

 険しい顔でわたしとニルヤの間に割り込んでニルヤを押しのけ、彼女から彼自身の体を庇うように立ちはだかった。

 

 ニルヤは少しの間、唖然として所在なさげに立ち尽くしていた。それから明らかに気分を害された様子で、わたしの姿をしたテルドリンを睨みつけた。

 

「あーあ、いいところだったのに。テルドリンのことになると随分と鼻が効くみたいだね。そんなにその傭兵が大事?」

 

 こちらに背を向けたテルドリンから、全身の肌を粟立たせるような気配が伝わってきた。これは以前、彼が歯牙にも掛けていなかった敵からの攻撃で傷を負ったときに発していたのと全く同じ気配だ。テルドリンは怒っている。

 

「八つ当たりにも限度があるぞ、ニルヤ。私はお前にこんなことを許した覚えはない」

 

 ニルヤは、普段のわたしとは似ても似つかないその異様な雰囲気と口調に少し気圧されたようだったが、負けじと言い張った。

 

「あんたに許されようが許されまいが関係ないよ。テルドリンはさっきまで大人しくあたしを受け入れようとしてたんだから」

 

 テルドリンが鋭い視線をわたしに投げかけた。彼が操っているわたしは目だけで人を殺せそうだ。わたしは恐れおののき、慌てて言い訳した。

 

「ご、誤解だよ。いきなり迫られてどうしたらいいか分からなかったんだ」

 

 言ってしまってから、いかにもな台詞だったと思った。傍から見ると、ニルヤとわたしが優柔不断なテルドリンを巡って言い争っているみたいだ。まるで俗っぽい三文芝居のような展開になっている。

 

 テルドリンもその馬鹿馬鹿しさに気づいたのか、ニルヤに向き直り、怒りを抑えた低い声で言った。

 

「……帰って頭を冷やせ。サルジアスなら心配ない、じきにお前の気を引くのに必死になるだろうさ」

 

 なぜサルジアス先生の名前が出てくるのだろうか? とわたしが疑問に感じたのも束の間、ニルヤの顔が真っ赤に染まった。

 

「あんた、どうしてあたしとサルジアスのことを知ってるの!? そうか、テルドリンが教えたんだね。この裏切り者!」

 

 つかみかかってくるかと思ったが、彼女は乱暴に身を翻し、甲高い靴音を立ててキッチンから出ていった。間もなく、大学寮のどこかで扉が荒々しく開いて閉じる音が響いた。

 

 テルドリンは背中を押しつけるようにして守っていた自分自身の体から離れて、げっそりした様子で額に手をやった。

 

「ニルヤが食堂にいなかったから、まさかと思って来てみたら案の定だ」

 

「ご、ごめん、テルドリン……わたし、本当にどうしたらいいか分からなくて……」

 

 わたしは自分の背中に向かって謝った。テルドリンはわたしをちらりと振り返ってからすぐに顔を背け、溜息をついた。

 

「私の姿でそんな情けないことを言うな。とりあえず、テーブルで待ってろ。まだ何も食べていないんだろう?」

 

 彼はわたしが床に散らかしてしまった深皿とスプーンを広い、洗い場へ持っていった。わたしは言われた通り素直に席についた。

 

 テルドリンはすぐに黄色のシチューの入った深皿とスプーンを二つずつ持ってやってきた。それらをわたしの前とそのすぐ隣に置く。

 

「私も昼食が始まってすぐに食堂を出てきたから、ほとんど何も腹に入れていないんだ。悪いが一緒に食べさせてもらう」

 

 テルドリンはわたしの隣に腰かけ、スプーンでシチューを掬って口に運んだ。そして心底感心したように言った。

 

「お前一人で作ったにしては上出来だ。錬金術が得意なだけあるな」

 

 いつもならとても嬉しく感じるであろう彼の褒め言葉も、わたしの姿で言われると妙な気分になる。

 

 わたしはスープと肉と野菜をバランスよくスプーンの中に収めて口元に運ぼうとした。

 

「おい。マスクをしたままだ」

 

 テルドリンに注意された。そうだ、まだ彼のマスクを外していなかった。しかし、どうやって取ればいいかよく分からない。顔の周りをあてもなく触っていたところ、テルドリンの(つまり、わたし自身の)手が伸びてきて、わたしの(つまり、テルドリンの)指を掴んだ。

 

「ここだ。よく覚えておけ。お前がブレリナを地道に待っているつもりなら、その間は私の体で飲み食いするんだからな」

 

 彼はわたしの指をキチンの兜の内側へ導く。ちょうど耳のあたりにマスクを引っかけるくぼみのようなものがあった。彼が布をつまんで上へ引っ張ると、左側は難なく外れた。

 

 わたしは彼を真似て右側で同じことをした。鼻先からマスクをずり下ろす。キッチンのぼんやりと暖かな空気が直に肌に当たった。

 

 わたしは彼に礼を言って、改めてシチューに手を伸ばした。

 

 

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 自分で作ったシチューとテーブルに置いてあったパンで十分に腹が膨れると、わたしは、既に食べ終えて膝に手を置いてぼんやりしていたテルドリンに聞いた。

 

「ニルヤとはときどきああやって一緒に食事をしてるの?」

 

 テルドリンは頷いた。

 

「ああ。あいつが馬鹿みたいなことで落ち込んでいるときにな。……言っておくが、食事以上のことはしていないぞ」

 

 彼は弁明するような、それでいてどこかわたしを責めるような調子で二言目を付け足した。

 

 先ほどの過剰なまでの反応でそれはよく理解できている。もっとも、食事以上のことをしていても彼の自由なので、問題を起こしさえしなければわたしは一向に構わないのだが。

 

「本当に悪かったよ。ああいうの慣れてなくて、叫んで逃げ回っちゃったんだ」

 

 素直に打ち明けると、テルドリンは手のかかる子供を見るような目でわたしを見て、噛んで含めるように言った。

 

「そうじゃないかと思っていた。ああいう手合いには大げさに反応しては逆効果だ。その場限りの感情に動かされているだけだから、冷静に受け流した方がいい」

 

 そんな忠告をされても、いきなりどうにかできるものでもない。その方面に疎いわたしが如才なく立ち回れるようになるためには、たぶんテルドリン以上の経験値が必要だ。すなわち今から二百年以上は生きなければならないということで、人間のわたしには無理だ。

 

「努力はするけど、うまくいかなかったらテルドリンのところまで逃げるね」

 

 わたしの答えにテルドリンは諦めたように笑った。

 

「ああ、それでいい。取り返しのつかないことになるよりマシだ」

 

 テルドリンは席を立ち、二人分の食器を重ねて洗い場に向かった。ざぶり、と水の零れる音に続いて、ざりざりと何かをこすっている音がする。桶の水を食器にかけ、石鹸で泡立てた布で木の皿の表面を拭っているのだろう。

 

「さっきサルジアス先生がなんとかって言ってたのはなんだったの?」

 

 わたしがもう一つ気になっていたことを質問すると、皿をこする音が止まった。

 

「……あれは、あー、お前が知らなくてもいいことだ」

 

 テルドリンの声はなんだかぎくしゃくしていた。

 

「でも、大学の人たちの事情はなるべく把握しておかなくちゃ、仕事の依頼が――」

 

「いいんだ。知らなくても全く問題ない。お前にはまだ早い」

 

 すげなくかわされた。テルドリンはわざとらしく鼻歌を歌いながら皿洗いを再開した。その件に関してはこれ以上の詮索は無用、ということらしい。わたしは釈然としない気分になりながらも、空になった鍋を抱えてテルドリンの隣に立った。

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