My Companion, My Dearest 作:春日むにん
わたしは自室の机に両肘を置いて、書き物用の木炭を指先で落ち着きなく回転させていた。ドレヴィス・ネロレン先生から宿題として出された、鎮静の魔法の仕組みについてのレポートの進み具合があまりよろしくなかった。今夜こそは全部終わらせようと思っていたのに、実際にはようやく下書きの半分が終わった程度だ。わたしはそこはかとない悲しみと無力感を振り払うために、ぐっと伸びをした。
「う~ん、なかなかできないなあ」
授業で習って理解はできていたつもりだったが、いざ文章にしようとすると難しかった。日記以外でこんなに長い文章を書くのが初めてで、この魔法をまともに成功させたこともないからかもしれない。
向かい側の椅子で自らの籠手を外し、油を染み込ませた布で入念に磨き上げていた従者のテルドリン・セロが顔を上げた。兜のレンズがいたずらっぽく光った。彼はわたしの下書きをひょいと取り上げた。
「どれ、見せてみろ。……ハッ、綴りが間違いだらけだ。こりゃ、内容以前の問題で落とされるな」
テルドリンの声には愉快そうな笑いが絡んでいた。わたしは予想外の指摘に慌てた。
「ええ、ほんとに? どこが間違ってるか教えてよ、直さなきゃ」
「教えてやってもいいが、その前に一休みしたらどうだ。もうかなりの時間座りっぱなしだぞ」
一休みという言葉を聞くや否や、わたしはとても晴れ晴れとした気分になった。うん、そうだよね、と元気に答え、木炭を机の上に放り出して立ち上がった。わたしは、ブレリナ・マリオンやジェイ・ザルゴのような優等生とは違い、レポートを書くのが好きではない。だからもちろん、こうした提案は迷わず採り入れる。
テルドリンが可笑しそうに続けた。
「前に取ってきたスノーベリーを潰して漬けてあるんだ。水で薄めて飲ませてやろうか」
もちろんこれにも喜んで頷いた。ちょうど喉が渇いたと思っていたところだったのだ。
テルドリンがぴかぴかになった籠手を腕にはめ直して席を立った。わたしは彼の後について達成の間の廊下に出た。達成の間のキッチンはわたしたちの部屋と同じ一階にあり、達成の間に部屋を持っている人なら誰でも使える。
わたしたちが、薄青い光を立ち昇らせている井戸のようなもの――サルジアス先生曰く、建物内の温度を調節するための設備だそうだ――の横を通り過ぎてキッチンの扉の前に立ったところで、扉が勢いよく開いた。見習いのローブを着た大柄な男子学生が硬い表情で飛び出してきた。彼はテルドリンの横をすり抜けようとしたが、肩をぶつけてしまった。
「おっと、ごめんよ」
軽い調子で謝った彼は、自分のすれ違おうとした相手が誰であるかを認識した途端、表情を強張らせた。彼は一瞬瞳を迷うように揺らした後、わたしたちに背中を向けた。
「オンマンド」
わたしが名前を呼んでも、肩に不自然な力が入っただけで、応じることはなかった。彼は大股で自室の扉の前まで歩いていき、キッチンの扉と同じように勢いよく開けて、中へ消えていった。
わたしは独り言のように呟いた。
「オンマンド、まだ怒ってる」
テルドリンが力なく肩をすくめた。
「そうらしいな。ま、放っておいた方がいい。今の私たちが何をやっても、あいつの神経を逆撫でするだけだ」
オンマンドは、ウィンターホールド大学がサールザルの発掘調査を行っていると知った時、その純朴な面差しに怒りの片鱗を見せた。わたしたちがあの遺跡から持ち帰った不思議な球体と、それを発見するまでの経緯の話が拍車を掛けた。大学のほとんどの人がわたしたちのやったことをそれなりに肯定的に受け止め、これからあの球体についてどんなことを調べようかと張りきる中で、彼は断言した。わたしたちのやったことは、ノルドに対する冒涜だと。そして、特にわたしを強く非難した。ノルドでありながらノルドの悲劇の歴史を踏みにじった、裏切り者だと。
わたしは彼のその言葉を聞いた時、サールザルに穿たれたあの穴から真っ逆さまに落ちていくような感覚を味わった。わたしの軽はずみな行動が、唯一のノルドの同期として信頼を寄せてくれていた彼を傷つけたことが悲しかった。また、サールザルの発掘に対して面白そうとかワクワクするとかいった他人事のような感覚しか持てなかったわたしには、やはり彼や他のノルドたちから同族と認めてもらう資格がないのだろうとも思った。
しかも、なお悪いことに、わたしの想像の中で、サールザルの穴から真っ逆さまに落ちていくのはわたしだけではなかった。わたしの命令に従っただけに過ぎないテルドリンも道連れになっていた。オンマンドとテルドリンは剣の稽古をするくらい仲の良い友人だった。わたしが彼らの仲を裂いてしまったのだ。
テルドリンは、オンマンドの部屋の方を見つめて固まったわたしの肩に、励ますように手を置いた。
「お前がいくら考えたってあいつの機嫌が良くなるわけもない。さっさと一服して綴りの修正を始めようじゃないか」
わたしは、出かかっていた後悔の言葉を呑み込んで、そうだね、と無理に笑った。とばっちりを食ったにもかかわらずこんなふうに前向きに励ましてくれるテルドリンを、これ以上くよくよ悩んで困らせたくはなかった。
そういえば、キッチンから出てきた時のオンマンドは不機嫌そうだった。なぜだったのだろう。その疑問は、テルドリンがキッチンの扉を開けるとすぐに解けた。
キッチンに、サルモールかつウィンターホールド大学の顧問である、ハイエルフのアンカノがいた。より正確には、顧問と、彼が死霊術で操ってサールザルから連れてきたドラウグルが。顧問はテーブルの前の長椅子に腕を組んでふんぞり返って座り、暖炉の前でドラウグルに鍋をかき混ぜさせていた。エルヴズ・イヤーを煎じた薬湯でも作らせているらしく、あの香草に特有の、食欲をそそるような香ばしい匂いが充満していた。
「今度は貴様らか。なんの用だ?」
顧問は上半身をこちらへ捻って尋ねた。彼こそ、オンマンドにとっては諸悪の根源と言えるだろう。サールザルを破壊し、最奥部にあったあの球体を運び出す手筈を整えたのは彼だった。
テルドリンは腹立たしげに答えた。
「あんたにわざわざ話す義務はない。それより、どうしてそのドラウグルをまだ連れている? 一刻も早く灰にしろと忠告したはずだ。そんなものと四六時中一緒にいたら、ますます嫌われるぞ」
顧問は鼻に掛かった声で言った。
「貴様の忠告を聞き入れる義務もないな。此奴は、本来執事や従者が担うべき些末な事柄を任せるのに適している。どういうわけかこの大学の者たちは、見習い以下の実力の学生が従者を持つのは認めても、大学顧問たる私に供をつける気は一向にないようだ。彼らがそのつもりであれば、私としてもそれなりの方法を取るだけだ」
テルドリンは不服そうに鼻息を噴き出した。
「誰もあんたのためにそこまでの手間を掛けられないし、掛けたくもないんだろう。我が儘を言っていないで、自分で適当な者を見繕ってくればいい」
「既に試みた。残念ながら、私に見合う者はいなかった。揃って愚鈍なくせ、悪知恵だけは働き、私を平然と裏切る。その点、此奴は人形に過ぎぬが、私の命じた通り忠実に動く」
「……あんたとまともに話そうとした私が馬鹿だった。――なあ、部屋に持ち帰って飲むか? これでは気が休まるどころか頭痛がしてくる。書けるものも書けなくなるぞ」
テルドリンは吐き捨てて、わたしを顧みた。
わたしはむしろ、あのドラウグルの元気な姿を久しぶりに眺められると思うと嬉しかったのだが、テルドリンが嫌なら仕方がない。
渋々頷いたわたしに、顧問がじろりと金色の眼を向けた。
「書き物をする能があるとは思わなかった。新しい魔法の開発でもしているのか?」
ものすごくけなされている気分だ。顧問にそういうつもりはなく、彼から見たわたしの評価を包み隠さず口にしているだけなのだろうけれど。
「鎮静の魔法の仕組みをレポートに書いて提出するんです。疲れちゃって、一休みしに来ました」
素直に答えると、顧問はあからさまな失望の色を整った細面に浮かべた。
「なんだ。その程度のものさえ休み休みでないと書き上げられぬのか」
ウィンターホールド大学の顧問になるくらいの実力のある彼ならばさらっと書けてしまうのだろうが、わたしはほぼ素人だ。どうやら息抜きになるような楽しいお喋りは期待できそうにない。
「まだ慣れてないので。ねえ、スノーベリーを漬けたやつってどこにあるの、テルドリン?」
わたしはにこやかに答えてから、顧問との会話を打ち切るべく、テルドリンに話を振った。何か言いかけたテルドリンの声を、顧問が思いきり遮った。
「目の前の相手に教えを請えるかもしれない、その可能性にさえ思い至らぬとは愚かなことだ。君の発想の貧困さには驚かされる」
こちらこそ、そんなことを彼自ら言い出したことに驚かされた。目の前にいるのがトルフディル先生か同期の学生の誰かだったらそれも考えただろう。このとっつきにくいハイエルフが相手では思いつけるはずもない。
本人にその気があるのなら、聞くだけ聞いてみようか。彼の実力は、サールザルでも、また今この瞬間においても目の当たりにしているのだから。
「教えてもらえるんですか?」
わたしは尋ねた。顧問は片頬をぴくりと痙攣させた。何拍か置いて、彼は気取った様子で目を細めた。
「君は運が良い。あの薬湯は出来上がるのにしばらく掛かる。ほんの少しだけ時間を割いてやろう」
わたしの横でテルドリンが大きく息を吐いた。明らかに呆れられている。でも、この気難しい顧問がせっかく教えてくれるというのだから、一度厚意に甘えてみようと思った。
「じゃあ、ぜひお願いします。下書きを取ってきていいですか?」
わたしの言葉に、顧問は唇を引き結んだ。その両端に皺が寄った。笑っているのか、それとも不満を示しているのかは判然としなかった。彼は椅子から腰を上げた。
「まずは私の手本を傍で見ているが良い。その老いぼれに鎮静の魔法を掛けてやる」
「は!?」
テルドリンが声を裏返らせた。彼は今にも顧問の長身に掴みかかりそうな勢いで食ってかかった。
「何をどうしたら私があんたから魔法を掛けられることになるんだ」
「仕組みを理解させるには、実演しながら解説するのが早道だ。そしてこの場に練習台になれるような者は貴様しかいない」
「ありえん。あんたの魔法を食らうなんぞ御免被る」
「この私が鎮静の魔法ごときで失敗するとでも?」
「能力云々の問題じゃない。あんたを信用できないと言っているんだ」
言い争いを始めてしまった二人の間にわたしは慌てて割って入った。
「テルドリン、落ち着いて。顧問は敵じゃないよ」
顧問はひねくれてはいるものの、進んで人を陥れたり傷つけたりする類の悪意を持っているようには思えない。
テルドリンは腰に手を当ててわたしを見下ろした。
「ああ、確かに敵ではないさ。だが信頼に足る味方にもなりえない。この前から言っているだろう、サルモールに決して気を許すなと。どうして分からない?」
「分かってるよ。でも、せっかく教えてくれるって言うんだもの、いいじゃない。そうだ、テルドリンが嫌なら、わたしが魔法を掛けてもらうよ」
「なんだって! どうしてそういう発想になる。それは、駄目だ。絶対に駄目だ」
テルドリンはきっぱりと言い、それから苛立たしげな溜息をついた。
「仕方がない。私が練習台とやらになってやる。いいか、私がもしおかしくなったら、そのときはすぐに逃げろ」
そこまで思い詰めるようなことなのだろうか。少し心配しすぎではないかとわたしは思った。
テルドリンはわたしを脇にのけて顧問を睨みつけた。まるでこれから決闘でも挑もうとしているかのような雰囲気だ。
顧問は勝ち誇ったように唇の片端を吊り上げた。
「貴様の今の状態こそ、まさに鎮静の魔法を掛けるのにうってつけだな」
顧問は短く息を吐き、右掌に明るい緑色の魔力を集めて、それをテルドリンの胸の真ん中に向かって放った。彼の体の表面を緑色の光が走り抜けた。
わたしは固唾を呑んで様子を見守った。ドレヴィス先生が授業で怒らせたスキーヴァーに対して使った時は、まるで大学で飼っているペットのようにその場にごろんと寝転がって、ちょっとかわいかった。テルドリンはどうなるのだろう。
何も起こらなかった。テルドリンは相変わらず、憤懣やるかたないといった空気を体中から発散していた。
「テルドリン? 気分、どう?」
「全く変わらん。見習いでも使える初歩的な魔法にやられるほど私はヤワじゃない」
念のため聞いたら、そんな返事が返ってきた。なるほど、命中しても、彼のように鍛えている者に対しては効かないこともあるのか。わたしが小さな発見に感動している一方、顧問は唇の端を不服そうに下げていた。
「耐性があるのか。モロウィンド一の傭兵などとうそぶいているだけのことはある。ならば、これはどうだ」
顧問は、今度は両手を広げ、真ん中に緑色の魔力を集め、指先を細かく動かした。緑色の中にほんのわずかに赤色が現れて、まるで水の中に数滴落とされた血のように、うっすらと全体に広がっていった。彼は薄暗く濁ったそれをテルドリンに向かって放った。
テルドリンに命中した魔法の塊は、小麦粉をぶちまけてしまったみたいに周りへ広がり、わたしまで霧のように包み込んだので、思わず一息吸い込んでしまった。痛みはなかった。ただ、頭の中に薄い幕が掛かり、わたしの背骨に通っている芯がぐったりとへたれてしまったかのような奇妙な感覚に襲われた。
魔力の霧は間もなく晴れた。
「ハッ、なんだったんだ、今のは。わざわざ気を張る必要もなかったな。あんたの幻惑魔法は私には効かん」
テルドリンの声色には余裕があり、顧問を嘲ってさえいた。彼はなんの変わりもないようだ。
わたしの方はというと、床の上にぺたんとだらしなく崩れ落ちた。力が出なかった。心臓が心地良い鼓動を刻み、全身が火照り、頬が緩んだ。わたしの全てが、強引に惹き付けられていた。わたしにこの魔法を掛けたハイエルフの方へと。
顧問は呆然としていた。その表情はサールザルで何度か垣間見たものとどこか似通っていた。高圧的で堅苦しく、常に誰よりも優位に立とうとする彼に相応しくない、弱気な表情とでも表現するべきか。だが、それが顕れたのはほんの一瞬のことで、彼はすぐにいつもの高慢な顔つきを取り戻した。
「おい、どうした。しっかりしろ」
わたしの肩を掴み、揺り動かすテルドリンの声がひどく遠くから聞こえる。
「心配は要らぬ。これは魅了の魔法――鎮静と同じ幻惑魔法の一つだ。効果範囲が広すぎたようだな。しかも肝心の貴様には効かぬと来た」
対照的に、テルドリンより遠くにいるはずの顧問の声は、すぐ耳元で囁かれているように錯覚した。テルドリンの頭の向こうに見えている顧問の姿が、視界の中でいやに目立って、きらきら輝いている。呼吸が速くなる。苦しい。切ない。なんだ、これは。
「ただごとじゃないぞ。こいつに何をした」
テルドリンはいきり立ち、わたしから離した手を剣の柄に置いた。顧問がぎくりと肩を浮かせて一歩後ろに下がった。
「魅了の魔法だと言っているであろうが。私を殺して魔法を解こうなどと野蛮なことは考えるなよ。貴様の主人は今、私に魅了されているのだ。下手をすれば、私を守るために自ら剣の鞘になろうとするやもしれぬ」
テルドリンが言葉にならない唸り声を上げた。顧問は細い眉を吊り上げて、そのさまを若干緊張した面持ちで眺めていた。テルドリンが害意のないことを示すために腕を体の脇に下げると、顧問はわたしに目を向けた。
「体の自由が利かぬだけで、声は聞こえるな? 本来はその老いぼれに掛けてみせるつもりだったが、一度身をもって体験するのも悪くはなかろう。
ほとんどの幻惑魔法の根本的な原理は同じだ。生物の脳に特定の刺激を与え、心身にさまざまな反応を引き起こす。ゆえに、生きた体を持たないものには通常は効かぬ。例えば、そこのドラウグルのような死者や、ドゥーマー・スパイダーのようなカラクリにはな」
顧問は、我関せずといった様子で鍋を一生懸命かき混ぜているドラウグルをちらっと見た。わたしは心臓を爪で引っ掻かれた心地がした。一旦手に入れた彼の関心がわたし以外へ向くのがかなり不愉快だった。幸い、彼はすぐにわたしに視線を戻した。
「どんな刺激を与えるかによって心身に生じる反応は異なり、結果として、表れる効果も異なる。鎮静は心身の興奮を抑えることで敵意を喪失させる。魅了も敵意喪失の効果を持つことには変わりないが、こちらはある種の興奮によってそれを引き出す。この魔法を掛けられた者は、術者を、非常に――」
顧問は言い淀み、まっすぐ見つめ返していたわたしの目から肩の辺りに微妙に視線を移し、心なしか上ずった声で続けた。
「――好ましい相手であると見なす。そうなると術者を攻撃するのは至難の業だ。強力な術者にかかれば、攻撃できないばかりか逆に術者を守ろうとし、さらに、歓心を得るために嬉々として命令に従うようになる」
顧問は右手をこちらへ差し出した。
「試してみよう。立ちたまえ。ここまで来て、私の手を取るのだ」
へたれていた背骨の芯が急に元に戻った感じがした。わたしは立ち上がり、うずくまっているテルドリンをさっと避けて顧問に歩み寄った。わたしは右手で彼の大きくて乾いた手を握った。背筋がむずむずした。嬉しくて跳んで回りたい気分だった。
「大変よろしい。次は、そうだな、その場で何度か回った後で、私に一礼したまえ」
まさにわたしのやりたかったことを命じられて、ますます嬉しくなった。わたしは顧問の手を握った状態で、左足を軸にして右回りに回転しようとした。
「おわッ!?」
顧問はぼんやりその場に突っ立ったままだったので、つんのめって倒れそうになった。わたしは慌てて彼の体を左腕で支えた。少し重いが、支えきれないほどではなかった。上背があるだけで、テルドリンのような分厚い筋肉はついていなかった。
「わッ、私まで巻き込めとは言っていない。気が昂ぶるとその程度の判断もつかなくなるのかね、君は」
顧問はわたしを振りほどき、耳を真っ赤にして文句を言った。命令通りに動いただけなのに、怒られてしまった。悲しい。嫌われたくない。
「ごめんなさい」
わたしは肩を縮め、上目遣いで謝った。
顧問は目を見張り、鼻の穴を膨らませ、さっと顔を逸らした。彼の視線の先にはテルドリンがいた。テルドリンはいつの間にか立ち上がり、肩を強張らせてわたしたちを見据えていた。
顧問の目尻に皺が寄った。
「何か言いたいことでもあるのか、老いぼれ」
彼の声色が変わった。大学の体制や自分の待遇について不満を漏らすときの皮肉っぽい口ぶりとも少し違う、小馬鹿にしたような、からかうような喋り方だ。それは、わたしの記憶の限りでは、テルドリンにしか向けられたことがなかった。単に見下しているだけならば、そもそも声さえ掛けないだろう。わたしは鳩尾の底が不快に煮え立つのを感じた。
テルドリンが低い声で答えた。
「別に。強いて言うことがあるとすれば、そいつがあんたにヘコヘコしているところを見せられるのは気に食わん。それだけだ」
顧問の頬が面白そうに盛り上がった。
「この程度の従順さはむしろ当然とさえ言えるのだがな。私がこの大学の顧問であるのに対し、この者は一介の学生だ。にもかかわらず、貴様ほどではないが、私を少々軽んじている節がある。いっそこの魔法を常に掛けておいてやろうか」
「本気で言っているのなら――」
「はッ、冗談に決まっておろう。いかに私と言えどそこまでのことはできぬ。幻惑魔法は専門外なのでな。
しかし、はした金で雇われた割に、貴様はこの者に随分執着していると見える。実に興味深い」
顧問は金色の目に不穏な光を宿した。しばらく黙り込んだ後、わたしの腰に無造作に腕を回した。体中を巡る血液が歓びのあまり沸騰するのを感じた。だが、完全に浮かれきることはできなかった。顧問の心は相変わらずテルドリン一人に向けられていると知っていたからだ。
彼は歪んだ笑みを唇に浮かべて、わたしの耳元へ顔を寄せ、次なる命令を囁いた。
最後まで聞き終わったわたしは、最早、彼にとって今の自分はただの道具に過ぎないのだと悟った。悔しかった。けれど同時に、彼の命令に従うことは至上の喜びでもあった。わたしはゆっくりとテルドリンに近づいていった。
「な、にを、いったい」
彼は狼狽した声を漏らして後ずさった。間もなくキッチンの壁にぶつかり、まるで壁を通り抜けようとでもしているかのように、背中と腕を壁に押しつけた。
わたしは彼の肩に広がったマスクの裾の上に両手を置き、無表情な兜を見上げた。彼の腕力と敏捷さをもってすれば、わたしなど簡単に振り切れるだろうに、一向にそうする気配がなかった。それに、大して動いたわけでもないのに息が荒くなっていた。わたしは不思議に思ったが、顧問の命令の方が優先だった。
「テルドリン。じっとしてて」
わたしは指先をじりじりとマスクの上方へ這わせていった。マスクの外し方は以前教えてもらった。その後のことは……あまり自信がなかった。でも、その程度で怖じ気づいてはいられなかった。そのまた後のことを考えると、これはほんの序の口に過ぎないのだ。
テルドリンの腕が動き、わたしの肩甲骨のあたりに、彼の手がぎこちなく添えられるのが分かった。わたしは彼を安心させるために微笑んだ。このまま抵抗せず、わたしに一切を任せてほしい。その方が、きっと顧問も喜ぶ。
その瞬間、首の後ろにガツンと衝撃が走った。目の前が暗くなった。体中に満ちていた魔法の力が一気に抜けていくのが分かった。わたしは暗闇の中で宙ぶらりんになったかと思うと、何か温かいものに体を受け止められた。
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瞼の裏側が眩しくて、目を開けた。わたしは見慣れた自室のベッドに寝かされていた。肩まで丁寧に毛布が掛けられ、頭の上には水に浸した布が乗せられていた。先ほどまでわたしがせっせとレポートに取り組んでいたテーブルの前でテルドリンが腕組みをしていた。
わたしは肘をついて上半身を起こした。テルドリンが歩み寄ってきた。
「首や背中に痛みはないか?」
わたしは首を捻ったり、肩を回したりしてみた。異常はなかった。
「うん。なんともない。わたし、どうしたんだっけ?」
テルドリンは腕組みを解いてわたしを見下ろし、硬い声で言った。
「アンカノの魅了の魔法のせいで、私に……襲いかかろうとしただろう。やむをえず気絶させた。悪かったな」
わたしは少し考えてから、一連の出来事を思い出し、間抜けな悲鳴を上げて毛布をめちゃくちゃに引き寄せて頭から被った。とてつもなく恥ずかしくて、彼の顔をまともに見られなかった。
「ごめん、ほんとにごめん! あの時は何も考えられなかったの。もちろん、今は全然平気、魔法も全部抜けてるから。だから、その」
わたしが落ち着くまでしばらく部屋から出ていてほしい、というのが本音だったが、それはあまりに自分勝手だ。わたしは毛布を放り出し、テルドリンが立っているのとは反対側に降りて、裸足で部屋の扉の方へすたこら駆けていった。扉を開けようとしたわたしの肩をテルドリンの赤茶色の手袋が掴んだ。
「どこへ行くんだ」
身が縮むような思いがした。わたしは顔を背けて、彼の手を振り払った。
「散歩。屋上で外の空気を吸ってくる」
「今夜は安静にしていた方がいいと思うが」
「それなら図書館」
「私の言っていることが分からないのか? こんな遅くに出歩くのは危ない」
「じゃあ、お風呂かトイレ。ねえ、なんでもいいけど、ちょっと一人になりたいの。いちいち口出ししないでよ」
そっぽを向いたまま、きつい言葉を投げつけてしまった。
テルドリンは、やや置いて、深い溜息をついた。
「はなからお前をつけ回すつもりはない。私はずっとこの部屋にいる。気が済むまで行ってくればいい」
わたしの考えていることなどすっかりお見通しのようだった。わたしは恥ずかしさに加えて申し訳なさで胸がいっぱいになり、大人しく頷いた。
扉を開けて出ていこうとしたわたしの背中を、テルドリンのかすれ声が追ってきた。
「あのサルモールのところへだけは絶対に行くなよ。万一出くわしたらすぐに逃げろ。さっきのように操られたくはなかろう」
そんなことは考えてもいなかったのに、言われた途端にそうなることを思い描いてしまい、わたしは立ち尽くした。先ほどの出来事をなぞるように想像すると、蘇った。魅了の魔法に掛かっていた時の、苦しくて、切なくて、それなのに満たされている、あの感覚が。
テルドリンは、わたしが彼の忠告に耳を傾ける気があると勘違いしたのか、重ねて言った。
「お前もさすがに懲りただろう。あの男は危険だ。今後は、私か、他の十分な実力のある者が傍にいない限り、あの男に近づくのはやめろ。いいな?」
わたしは、歩き出しながら、うん、分かった、と半分上の空で答えた。
というのも、顧問が最後にわたしに何を吹き込んだか、どうしても思い出せなかったからだった。その後のわたしの行動からしてきっとろくでもないことだったのには違いない。でも、少しその手の場面に出くわすだけで大騒ぎして退学だなんだとのたまう彼が、いったい何を考えてそんな命令をしたのか? 見当がつかなかった。そして、例え見当がついたとしても得をすることはなく、なんならすごくモヤモヤした気分になりそうだった。
わたしはトイレへ行くためにキッチンの前を通り過ぎた。顧問は既に自室に帰ったらしく、何人かの学生が楽しそうにお喋りをしている声が扉の向こうから聞こえていた。
-『魅了の魔法』了-
この話のあとがきは活動報告に書きました。ご興味があればどうぞ。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=269777&uid=271887
また、テルドリンが主人公を気絶させずアンカノの企てが達成されてしまうバッドエンドifも書きました。R-18です。別シリーズの2話目にアップしましたので、ご興味があればどうぞ。
https://syosetu.org/novel/195429/
なお、上記シリーズはパスワード限定公開であるため、閲覧時はパスワード入力が必要です。パスワードのヒントはこのシリーズの目次ページもしくは活動報告に書いてあります。