My Companion, My Dearest 作:春日むにん
わたしは、エイダール・チーズ風味のクッキーに大満足のジェイ・ザルゴと別れ、テルドリンを連れて達成の間と平静の間の人々、それにアーチメイジの居室などを順に訪ねていった。最後に残ったのが、達成の間の一階の、ウィンターホールド大学の顧問であり、サルモールである、アンカノの部屋だった。
「本当に行くつもりか?」
その部屋の扉に手を掛けようとしていたわたしの背後で、テルドリンが尋ねた。
「うん。他の人全員に配って顧問にだけ配らないのも申し訳ないから」
などと言いつつ、比較的近い部屋に住んでいるのに最後まで残していたのは、わたしにも迷いがあったからだ。テルドリンはそんなわたしの気持ちを見透かして、溜息混じりに続けた。
「私たちを散々な目に遭わせた男をそんなふうに思いやる必要はない。放っておけばいいんだ、放っておけば。何度も言っているだろう、あいつは危険だと。これ以上関わり合いになったら、本当に命を取られかねんぞ」
そんな大げさな、と笑い飛ばしかけたわたしの脳裏に、フェルグロウ砦で顔色一つ変えずにかつての同僚を葬った顧問の姿がよぎった。あの時の、体の芯まで底冷えするような金色の目でまた睨みつけられたら、魔法を撃ち込まれるまでもなく血液が凍りついて死に至る気がした。
けれども、冷酷で傲慢なサルモールとしての彼は、彼自身のほんの一面に過ぎないようにわたしには思えた。もう少し交流を持てば、もっと別の一面が見られるかもしれないと、わたしはなぜか期待している。そんなことをテルドリンに伝えたら、君子危うきに近寄らずとかなんとか小言を言われそうなので黙っているけれど。
「ちょっと渡すだけだから問題ないでしょう? あなたもすぐ後ろにいるしね」
テルドリンは、ぴくりと肩を震わせて、わたしを二つの丸いレンズで見つめ、静かに息を吐きながらかぶりを振った。
「ちょっと渡すだけ、か。分かったよ。その『ちょっと』を超えると私が判断したら、すぐさま止めに入るぞ」
わたしは、口うるさい父親と化した彼が一応納得してくれたことに胸を撫で下ろした。
「うん、よろしく。それじゃ、ノックするね」
わたしは、礼儀作法に厳しい顧問の機嫌を損ねないよう、背筋を伸ばし、精一杯の丁寧さを込めて扉を叩いた。ややあって、中からくぐもった声が聞こえてきた。
「誰だ」
わたしが名前を告げると、扉が薄く開いた。顧問の長身がその隙間から覗いた。彼はわたしを冷ややかに見下ろしていた。よかった。いつも通りの顧問だ。ただ、目の下に以前からあった隈が、心なしか濃くなっていた。
「寝不足ですか?」
「は?」
思わず余分な一言が口を突いて出てしまった。顧問は優美な弧を描く眉の間に薄い皺を作って、しばらく使っていなかったであろう喉から、かすれ気味の声を発した。
わたしは両手を胸の前でぶんぶん振った。
「いえ、そんなことはどうでもいいですよね。今日がなんの日かご存知ですか?」
「薄明の月の一六日だ。それが何か」
こんなごく普通の日に、とてつもなく忙しい私を捕まえてどういうつもりだ、とでも言いたげだった。もしかしたら、彼は祝日や祭りの日に頓着しないタイプかもしれない。わたしは早くもへこたれそうになりながら、頑張って笑顔を維持した。
「今日は恋人たちの日なんですよ。だから講義も町のお店も休みになってるでしょう。それで、もしよかったら――」
顧問のつんと上に向けた鼻の穴が大きく膨らんだかと思うと、扉がバタンと閉じた。わたしは凝り固まった笑顔のままその場に突っ立っていた。
「……え?」
何拍か過ぎた頃、わたしはようやく状況を把握した。
「顧問? どうかしましたか?」
わたしは扉をノックした。すぐ向こうで誰かがぎょっと身じろぎをする気配が感じられた。
「きッ、君がそこまで乱れているとは思わなかった。去りたまえ。金輪際、君にかける言葉などない」
なんだか壮絶な誤解をされている気がする。わたしは扉に向かって呼びかけた。
「あの、わたし、顧問にプレゼントを渡しに来ただけです」
向こう側でもぞもぞ動く気配があり、扉が再び薄く開いた。
「……贈り物を。恋人たちの日にか?」
顧問は、わたしを何か珍奇な姿形をした生き物でも見るような目で見下ろした。わたしはすさまじい居心地の悪さを感じた。
「はい、そうです。そういう日だと聞いたので」
「ふん。度胸だけは褒めてやっても良い。しかし、その灰臭い老いぼれまで連れてくるとは何事だ」
何事って、わたしが従者であるテルドリンを連れていることの何がそんなにおかしいのだろうか。わたしはテルドリンを顧みた。彼はこちらを見据えながら腕組みをして、脚を片側に広げ、キチンのブーツで石の床をとんとんと苛立たしげに叩いていた。助け船を出してくれそうな雰囲気ではない。
「ええと。テルドリンも一緒に作ったから、一緒に届けにきた? という感じですかね?」
自分でもよく分からないまま適当な理屈をこねてみた。顧問は切れ長の目を見開いた。
「君らが、二人で一緒に作っただと……。手作りなのか?」
正確に言えばオンマンドと三人で作ったのだが、顧問がなぜか事の次第を飲み込むのに手間取っているようなので、とりあえず黙って頷いておいた。
わたしはふと、顧問の耳が赤くなっているのに気付いた。それは徐々にこめかみと頬、首筋にも広がろうとしていた。顧問は一方の眉と下瞼をぴくぴく痙攣させ、落ち着きなく口を開けたり閉じたりしていた。やがて、彼の口から、怒濤のような文句が溢れた。
「そんなことで私が君らを受け入れるとでも思ったのか。少し良くしてやったからといって、思い上がるのも大概にしたまえ。そもそも私はこの大学の顧問で、君は落ちこぼれの学生、そこの老いぼれと来たら員数外の野蛮な傭兵だ。釣り合うところなど何一つない。しかも、君だけならまだしも、その男も入れて三人で、とはどういうことだ!?」
どういうことだと聞きたいのはこちらの方だ。彼が何を言っているのかさっぱり分からない。わたしはさすがに説明を求めようと声を上げかけたが、突然腕を掴まれた。彼は扉を開け放ち、わたしを部屋の中に引きずり込もうとしていた。
「入りたまえ! 君らには一度はっきり教えておく必要がある。分を超えた望みを持つことがどんなに馬鹿馬鹿しいか――」
わたしは、今度は背後から肩を掴まれ、後ろへ引き寄せられた。顧問の手がわたしから無理矢理剥がされた。背中から左腕にかけてに誰かの逞しい腕が回され、温もりを帯びた硬い鎧の表面に体が押しつけられた。
わたしはテルドリンの左腕に抱き留められていた。テルドリンは右腕で剣を抜き放ち、顧問の鼻先に突きつけていた。彼は、溜まりに溜まった腹の底からの怒りを一挙に集めたかのような声を、マスクの下から迸らせた。
「思い上がっているのはどちらだ。私たちはただ貴様に菓子を渡しにきただけだ、大学の他の連中にしたのと同じようにな!」
顧問は剣を突きつけられてのけぞり、一気に青白い顔色になったその姿勢のまま、は? と弱々しい息を吐いた。
「菓子、を?」
テルドリンはわたしを腕の中から解放し、わたしが持っていたチョコレートタルトの入った袋をもぎ取った。彼はその袋を顧問の胸に、顧問を半ば突き飛ばすようにして、押しつけた。顧問は、まるで顔のすぐそばで大きな音を出されて驚かされたかのような表情を浮かべていた。
「ありがたく食うがいい。どうせ他に恵んでくれる奴もいないんだろう」
テルドリンはそう吐き捨てた。呆然としながらチョコレートタルトの袋だけは受け止めた顧問を、テルドリンは乱雑に部屋の中へ追いやり、扉を閉じた。扉の向こうでどたんばたんと音がして、間もなく静かになった。
テルドリンは長い長い息を吐いた。それから、わたしの肩を軽く叩き、自室へ戻ろうと促した。表情が見えなくても、彼がげっそり疲れきっているのが如実に感じ取れた。
「だから言ったんだ。放っておけばいいと」
テルドリンが呟いた。わたしは、何がどうしてああなったかは未だに分からなかったが、そうだね、とだけ答えた。