My Companion, My Dearest 作:春日むにん
身づくろい
小さな村の酒場兼宿屋に集まった村人たちに、モーサルの珍味、沼キノコの干物を売り込み、ようやく何束か買ってもらえたところで、その日の商売はお開きにした。村人たちは、ほどなく酒に酔い、吟遊詩人の奏でる曲に陽気に手を叩き始めた。
わたしが拙い商売をしている間、従者のテルドリン・セロはわたしの傍らに立ち、時折村人とわたしの会話に割り込んで軽口を叩いていた。だが、村人たちのどんちゃん騒ぎが始まると、肩を組もうとしてきた老人の手をやんわりと避けて、どこかへ去っていった。わたしはテルドリンの代わりに老人に捕まり、しばらく彼の老妻と息子たちに関するのろけ話や愚痴を聴くことになった。
話を終えて満足した老人は、テーブルに突っ伏して眠り始めた。今や完全に出来上がっている他の村人たちは、よそ者のわたしのことなど眼中にない。
わたしはテルドリンと二人で借りた部屋に戻った。テルドリンはいなかった。そういえば、彼は先ほど、風呂はどこにあるかと宿の主人に尋ねていた。彼は清潔でいることを好み、風呂に入る機会を決して逃さない。それなのに、蜘蛛の巣や泥や血に塗れ、何十日も同じ格好のまま、なんてことも多いであろう傭兵の仕事を二百年以上も続けてこられたのが、わたしには不思議で仕方なかった。
わたしはしばらく部屋で錬金術のレシピを読んでいた。そのうち、文字を追うのが退屈になったので、気分転換をしようと宿の外に出た。
満天の星空の下、心地良い夜風が吹いていた。宿の入口は、松明を持った衛兵が行き来する街道に直に繋がっている。平和な村だ。ふとそう思った。でなければ、テルドリンはわたしを決して一人にはせず、もしどうしても風呂に行きたかったらわたしを容赦なく部屋に押し込み、こんなに長く風呂を楽しむこともない。わたしにもっと頼り甲斐があれば、彼もぴりぴりせずに済むだろうに、と少し悔しくなる。それでも今のところ、彼にわたしとの雇用契約を解消するつもりがなさそうなのは、ありがたかったし、嬉しかった。
わたしは宿屋の裏手に回ることにした。普段客のやってこない裏手には、使い込まれた掃除道具や、新人の従業員が練習がてら割った薪の山があったり、風呂の煙がもくもく上がっていくのが見えたりして、楽しいのだ。たまに客同士の喧嘩を目撃してしまうこともあるけれど。
宿屋の建物の角から顔を出して、様子を窺った。宿屋の裏手には夜空をそのまま映した小さな池があり、その周りを木立が囲んでいた。池の手前には篝火が灯され、その傍の切り株に、誰かが池に向かい、こちらに横顔を見せる形で座っていた。青みがかった灰色の肌、額から目元さらに頬まで伝う凜々しい刺青、ぴんと尖った耳、黒々となびくモヒカン、つぎはぎだらけの赤茶けた服の上からでも見て取れる、鍛え上げられた体――テルドリンだ。兜と赤いマスク、鎧を足元に置いて、彼は右手で鋭く光る小さな刃物のようなものを頭に当てていた。
どくん、と心臓が跳ねた。それは、刃物のようなもののせいなのか、それとも食事時以外にはお目にかかることのないテルドリンの端正な素顔の不意打ちを食らったためなのか、分からなかった。
「風呂を覗き見に来たのか? 生憎、今は誰も入っていないぞ」
さらに、彼の方からにやついた声で話しかけてきたものだから、わたしは狼狽した。
「違うよ。散歩しに来たの。テルドリンこそ何してるの? お風呂は終わったの?」
わたしは狼狽を隠すために早口で言い、彼に歩み寄った。
テルドリンは刃物のようなものを頭から離し、皮肉っぽい笑顔をわたしに向けた。赤い両目が篝火の光を反射して煌めいた。肌がうっすらと汗ばんでいるのが見て取れた。風呂から出たばかりなのだろう。わたしは一瞬、彼が腰布一枚で風呂に入っている姿を想像してしまい、なぜか頬が熱くなった。
「髪を剃ろうとしていたんだ。最近伸び放題だったからな」
彼の右手に握られていたのは剃刀だった。膝の上には水の入った桶と使い古された布切れもあった。
なるほど、確かにここ数日の食事時のテルドリンは、左右の側頭部の剃り上げていた髪が伸び始めて、中央を走る立派なたてがみとの均衡が崩れ、若干、血の気の多い山賊の親玉のような見た目になっていた。ただ、そう見えるというだけで、食事を終えて兜を被りさえすれば、いつもの頼れるテルドリンのままなのだが。
「ふうん。テルドリンは兜被ってるんだから、気にしなくていいのに。わたしなんか二ヶ月くらい伸ばしっぱなしだよ」
わたしはそう言いながら初めて自分自身の状態に思いを馳せ、自分の髪の毛を指先で弄んだ。だいぶ量が多くなって、もっさりしている気がした。
テルドリンは大仰にかぶりを振った。
「だらしのない奴だな。身なりを整えることは己の精神を整えることでもあるんだぞ。他人に見られているかどうかなど関係がない。それに――」
テルドリンはしかめつらしくのたまったかと思うと、不意に言葉を切って、眉間に薄い皺を作り、わたしを見上げた。それに、なんだというのだろう? わたしは彼の言葉の続きを待った。だが、彼はむっつりと唇を噛んで沈黙した。わたしは素顔のままの彼と、いつになく至近距離で見つめ合うことになった。
なんだ、この変な間は。わたしは自分の背骨の一番下から、じわじわと、奇妙な感覚が忍び寄ってくるのを感じていた。少し気を抜いたら、彼の美しいルビーのような両目の中へわたしの心が吸い込まれてしまいそうな感覚。だがそれは決して忌むべきことではなく、むしろ……いや、待て、とにかく、このおかしな空気から抜け出さなければ。
わたしはなんということはない風を装って、軽く首を傾げてみせた。
「よかったら、手伝おうか?」
テルドリンの眉間の皺が深くなった。
「は?」
奇妙な感覚が一挙に立ち消えた。わたしは内心ほっとして続けた。
「テルドリンの髪の毛、わたしが剃ってあげるよ」
テルドリンは憮然とした表情で、剃刀を持った右手をわたしの手の届かないところまで退けた。
「必要ない。いつも自分で剃っているんだ」
「他の人にやってもらった方が剃り残しがなくなって気持ちよくない?」
「私は剃り残しなどしない。第一、お前に任せたら頭を切り刻まれかねん」
わたしはむっとした。いくらなんでも、そこまで言われるのは不名誉極まりない。わたしの武器の扱い方が下手なのを知っているからそんな発言が出るのだろうが、武器を使うのが苦手なのは、緊張して間合いを計れなくなるからだ。安全な場所で剃刀で毛を剃る程度なら間合いも何もない。
「大丈夫だってば。昔の仲間にもやってあげてたから得意だよ。演し物の都合でもっと変わった髪型にすることもあったんだから」
わたしは精一杯まくし立てた。テルドリンはいかにも信用ならないと言いたげに目をすがめていたが、溜息をついて、わたしの右手に剃刀を握らせた。
「……そこまで言うならやってみろ。私の頭に少しでも傷を付けたら、次に受ける依頼の取り分は私が九で、お前が一だぞ」
わたしは無性に嬉しくなって、何度も頷いた。彼が膝に置いていた桶と布切れももらい、池の方へ顔を向けた彼の後ろに回った。
服以外何も身に着けていないテルドリンを眺めるのは新鮮だった。ぴょこぴょこ飛び出している髪の毛を無視すれば、彼の頭は非常に優美な丸い線を描いている。その頭から、これまた優美でしなやかな筋肉に支えられた首が伸び、赤茶色の服の下に隠された逞しい肩に繋がっている。
わたしはテルドリンの頭の左半分に指先で触れた。短い毛に覆われた彼の肌は少しぬるついていた。既に油を塗ってあるようだ。テルドリンはかすかに肩を震わせただけで、じっとしていた。わたしは指の腹を、続けて左掌を、テルドリンの中途半端に伸びた髪の中に埋めた。水分を含み、油で滑らかになった彼の毛が、ちくちくとわたしの肌を刺してくる。こそばゆくて面白い。わたしは彼の頭を、犬の頭を撫でるよりやや控えめに撫でてみた。掌がわしゃわしゃする。うわあ、なんだか楽しい! この感触、癖になりそうだ。
「おい、何をしている!」
テルドリンが、顔は池の方へ向けたまま、こめかみをひくつかせて叫んだ。わたしははっと我に返った。
「ごめん! つい夢中になっちゃった」
「何が、夢中になっちゃった、だ。頭を撫でてほしいと頼んだ覚えはない。これ以上ふざけたら剃刀を返してもらうぞ」
ものすごく怒っている。当たり前だ、信用して剃刀を預けたのに一向に取りかからずに自分の頭で遊ばれたのでは、堪ったものではない。わたしは反省して、真面目に取り組むことにした。
「今度はちゃんと剃るから。動かないでね」
わたしは剃刀を桶の水で湿らせると、左手を彼の頭に添え、右手に持った剃刀を彼の襟足に当てた。彼の首の筋肉がわずかに強張ったのが伝わってきた。いくら強靱な精神力を持つ彼だって、他人に髪の毛を剃られるのは怖いのだ。それでも身を預けてくれているのだから、わたしも彼の信頼に応えるために集中しよう。
剃刀を毛の流れに沿ってゆっくりと動かすにつれ、テルドリンの余分な髪の毛がじょりじょりと音を立てて切り取られ、刃の上に積み重なっていく。ある程度溜まったら、剃刀を桶の水の中で振ってから布切れで拭う。一帯を一通り剃り上げたら、今度は同じ箇所に、毛の流れとは逆向きに剃刀を当てる。
わたしは、それから急速に、テルドリンの側頭部を綺麗に剃ることだけに集中していった。じょりじょり、じょりじょりと小気味の良い音が、後ろの宿屋から聞こえてくる雑多な声や物音を清らかに上書きしていく。彼の頭に剃刀を当てるときは、前のめりになり、彼の両肩に両肘を置き、彼の背中に体をくっつける。こうした方が、手元の狂いが少なくて済む。顔も、彼の頭にぐっと近づける。隅から隅までくまなく見渡し、一本の剃り残しも見逃さないためだ。
わたしの作業は、一番の難関である、彼の尖った耳の横に差し掛かった。わたしは左手で彼の温かな耳をそっと畳んだ。その時、テルドリンが肩を跳ね上げたので、剃刀を当てようとしていたわたしの手元が狂った。幸い肌を傷つけることはなかったが、何本かの毛が中途半端に切れて、耳の生え際の溝に飛び入ってしまった。あの溝に細かいトゲや髪の毛などが入ると、恐ろしく痒い。取り払おうと思ったが、わたしの左手はテルドリンの耳で、右手は剃刀で塞がっている。そこでわたしは、タンポポの綿を飛ばすときのように、溝の中へ息を吹きかけた。
「ひっ……!」
テルドリンが、今までに聞いたことのないような素っ頓狂な声を上げ、再び肩を跳ね上げた。肩を動かされたことでまた手元が狂いそうになったので、わたしは心配になって彼の耳元で尋ねた。
「大丈夫? わたしの剃り方、やっぱり怖い?」
テルドリンは、再三肩を震わせて、とげとげしい声色で答えた。
「違う。驚いただけだ。何も言わずに突然息をかける奴があるか」
なんだ、それならよかった。わたしは彼の耳の生え際を確認してから尋ねた。
「髪が耳のところに挟まってて痒いでしょう? まだ残ってるから、もう一回やるね?」
「なっ……、痒くない! 放っておけ、馬鹿」
やけに荒々しい物言いだ。突然で驚いたと言うからわざわざ聞いてあげたのに。まあ、彼が気にならないならとりあえず放っておくか。
わたしは最大の関門である耳の後ろを、長い時間を掛けて丁寧に剃り上げた。そうしてわたしの作業はテルドリンの、エルフ特有の突き出した額の生え際に近づきつつあった。
「テルドリン、上向いて」
テルドリンは顔と地面がほぼ平行になるまで顔を上向けた。彼の立派なたてがみのような髪の毛がわたしの胸をくすぐった。胸の奥の方が少しそわそわした。
テルドリンは目をきつくつぶっていた。額から眉間にかけて走る皺は、彼の眉骨の上に乗っている筋肉が張り詰めていることを示していた。額の生え際も、これまた油断ならない部分なのだ。わたしは今まで以上に彼に体を密着させ、彼の顎を左手で支え、自分の胸に彼の頭を押しつけた。
「むぁ!?」
テルドリンの喉から間の抜けた声が漏れた。彼は体全体を震わせ、目を見開いて、逆さまの状態でわたしをきつく睨みつけた。
「おい、お前――」
ちょうど彼の額に剃刀を近づけていたわたしには、彼のお喋りに応える余裕も、余分な動きを許す余裕もなかった。
「ちょっと黙って、動かないで。すぐ終わるから」
テルドリンはあからさまに不服そうに両目と唇を閉じた。わたしは彼の顎から手を離し、彼の秀でた頬骨からこめかみにかけてを左掌で包み込むようにして、剃刀を額の生え際に走らせた。剃り進めるにつれ、彼の顔つきは不服そうなものから、何やら苦しそうなものへと変わっていった。苦しそうと言っても、痛みを我慢している様子はなさそうで、しかも唇の端はなぜか微妙に緩んでいたので、わたしは特に気にせず剃り続けた。
真ん中の黒髪の生え際まで剃り終わった。わたしは彼の頭を元通り正面に向かせ、耳の付け根を含め、あちこちに残っていた細かな毛を指先で丁寧に払い、彼の頭の左半分をよく観察し、掌で隅々まで触れて、剃り残しがないことを確認した。正直に言うと、ざらざらしていて大変触り心地が良かったので、余分に何周か撫で回してしまった。その間、彼の体は小刻みに震えていた。くすぐったかったのかもしれない。
最後にもう一度全体を見渡して、わたしはぽんとテルドリンの背中を叩いた。
「はい、終わったよ。次は右側ね」
ところが。テルドリンは背を向けたまま、後ろ手で器用にわたしの腕を掴み、わたしを彼から一歩遠ざけた。それから、掌を上向けた。ぶすっとした声で彼は言った。
「剃刀を返せ。残りは自分でやる」
わたしは、ええ~! と不満たっぷりに声を上げた。
「せっかく半分できたのに。もう半分もやらせてよ、なんか気持ち悪いじゃない」
「諦めろ。これ以上お前にやらせたら、私の方が保たない」
わたしの剃刀の使い方はそれほど危なっかしいのだろうか。旅芸人時代もよく使っていたので、慣れているつもりだったのに。ショックだ。自信をなくした。
彼の不興を買ってまで残り半分を剃りたいとも思わなかったので、わたしは彼に大人しく剃刀を渡し、退散することにした。
テルドリンはわたしが剃った左半分を確かめるように触っていた。わたしが片足を宿屋の方へ向けた時、彼はやはり全くこちらを振り返らないまま、ぼそりと言った。
「その、なんだ。まあ、それなりに上手いと思うぞ。ありがとう」
彼の少しかすれた温かな声を聴くと、現金なもので、わたしは途端に自信を取り戻した。
「どういたしまして。言ってくれれば、またいつでもやってあげるよ」
テルドリンは何も答えなかった。わたしは軽やかな足取りでその場を離れた。宿屋の角を曲がるときにテルドリンの方へ目をやると、彼はまだ右半分には手をつけずに、夜空を反射して輝く小さな池をぼんやりと眺めているようだった。
わたしはトイレを借りて宿の部屋に戻った。それから机の上に置いておいたレシピのメモを取り上げて、瞼が重くなるまで読んでいた。テルドリンはまだ部屋に戻っていなかった。だが、少し前まで彼の頭や背中に触れていたためか、彼がすぐ傍にいないことに珍しく不安を感じずに、わたしは一人であっさり眠りについた。
-了-