My Companion, My Dearest   作:春日むにん

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5-X-Interlude: 洗濯物
5-X-Interlude: 洗濯物


 リーチ地方の森深い山中。長年の往来によって踏み固められてできた細い道の先に、その小さな村はあった。ハイエルフの背丈ほどの板を隙間なく並べた柵に囲まれ、十数戸の藁葺きの屋根が身を寄せ合っていた。近くに川があるらしく、さわさわと心地良い水音が一帯を包んでいた。

 

 わたしの従者テルドリン・セロが背中におぶっていた六歳くらいのリーチマンの少女、モナニアは、村の入り口に母親であるメイリーンの姿を見つけるなり、テルドリンの背中から飛び降りた。彼女は歓声を上げて母親に駆け寄り、抱き留められた。

 

 メイリーンは娘を抱いたまま、神々への感謝の言葉を呟いていた。しばらくそうしているうちに人心地ついたらしく、彼女は、険しい表情を作って娘の頬をつねった。

 

「まったく、ほんっとに馬鹿だよ、あんたって子は! 村の外には出るなって何百回も言ったろ!」

 

 モナニアは涙目になった。

 

「だってえ、つまんなかったんだもん……! とーちゃんばっかりずるいよ」

 

「父ちゃんは遊びに出掛けてるわけじゃない。あたしたちの食べるもんを獲りに行ってるんだよ」

 

「あたしもそれくらいできる」

 

「いーや、無理だね。今日みたいになるのがオチだ。この人たちが助けてくれなかったら、今頃どうなってたと思ってるんだい」

 

 モナニアは拗ねた様子で俯いた。

 

 メイリーンが、スカートにモナニアを纏わりつかせたまま、わたしたちに近づいてきた。

 

「あんたたち、本当にありがとね、うちの馬鹿娘を助けてくれて。お礼と言っちゃなんだけど、一晩泊まっていかないかい?」

 

 モナニアが、一転して、嬉しそうに顔を上げた。

 

 わたしは、奇妙な形の兜と赤いマスクで顔面を覆い隠しているテルドリンと、顔を見合わせた。

 

 街道の傍らに憔悴したメイリーンの姿を見つけたのは、今朝のことだった。朝起きると一人娘の姿が村のどこにも見当たらず、街道に通じる村の道周辺を探し回ってここまでやってきた。彼女の夫は数日がかりの猟に出ていて不在、村に駐在している衛兵も人数不足で手伝うことができない、とのことだった。

 

 わたしたちは、メイリーンを一度村へ送り届け、村から街道までの道を、痕跡を探しながら辿った。テルドリンが、道端の低木の、子供でも届きそうな高さにある枝がわずかに折れているのを見つけた。二人でその先の岩や石のごろごろしている足元の悪い森へ分け入っていき、倒木の跡に空いた大穴の中にいるモナニアを見つけた。足を挫いて動けなくなり、泣きじゃくっていた。テルドリンが穴の中へ降りて地表まで抱え上げ、わたしが回復魔法で足を治した。

 

 そして村に帰ってきた今、太陽は空の真ん中を通り過ぎていた。今から戻っても、今日中の到着を目指していた街道沿いの宿屋までは着けず、野宿になるだろう。

 

「私はどちらでも構わん。お前の好きにしろ」

 

 テルドリンが言った。モナニアが手をぶんぶん振り回した。

 

「とまってって。カニおばけのはなし、もっとききたい!」

 

 テルドリンはモナニアを村へ送ってくる間、子供向けの昔話を聞かせてやっていた。彼女が間もなく彼に付けた渾名が「カニおばけ」だった。言われてみれば、頭から爪先までキチンの装備を身に着けた姿は、マッドクラブなどのカニ類の化身のようにも見える。

 

 モナニアもこう言っていることだし、せっかくだから泊まっていくことにしよう。わたしは答えた。

 

「ぜひお言葉に甘えさせてください」

 

 メイリーンは朗らかに顔を綻ばせた。

 

「良かった! 何もないとこだけど、ゆっくりしていってよ」

 

 彼女は出入り口の扉からわたしたちを村の中に入れ、内側から閂をした。それから、両手を腰に当てて、わたしたちの服を見下ろした。

 

「色々とおもてなししたいところだけど、そうだね、まずは服を洗濯しようか?」

 

 わたしたちの服の、特に下半分は、何日か分の雨や草木の露や泥に塗れていた。結構な汚れ具合なので他の人に洗ってもらうのは申し訳ない。それに、わたしたちはいつも自分の分は自分で洗うことにしている。

 

「ありがとうございます。でも、服は自分たちで洗うので大丈夫です。場所だけ貸していただけますか?」

 

 メイリーンは特に気を悪くした様子もなく頷いた。

 

「ああ、いいよ。村の洗濯場に案内してあげる。うちで着替えていって」

 

 自分では口を挟めなそうな話が始まって退屈し始めたモナニアを、友達が待っているという村の広場へ送り出して、メイリーンはわたしたちを村の出入り口に近い彼女の家に迎え入れた。彼女の家には、暖炉や家族三人分のベッドのある広めの部屋があり、そこから食料庫と、風呂場と、トイレに通じる構造になっていた。メイリーンには暖炉のある部屋で待っていてもらい、わたしは食料庫で、テルドリンは風呂場で、替えの服に着替えることにした。わたしが小麦の匂いをさせながら食料庫から出てきたとき、風呂場からはまだ鎧の金具の触れ合う音がしていた。

 

 それでも、メイリーンとわたしが雑談を始めるほどの間を置かないうちに、テルドリンが風呂場から出てきた。彼は、片腕に抱えているいつもの服に似た、薄い布地の服に着替えていた。だが、その上には鎧兜を全てきっちり装備していた。剣まで元通り腰に挿してあった。

 

「着替えてもその格好? せめて兜は外したらどうだい?」

 

 メイリーンは驚いているが、わたしにとってはいつものことだ。テルドリンがひょうきんな声色で答えた。

 

「この格好じゃないと落ち着かないんだ。中身を見られてがっかりされたらと思うとな」

 

 メイリーンはからからと小気味の良い笑い声を立てた。

 

「不細工は旦那で見慣れてるよ。ま、あんたがそうしたいならそのままでいいさ」

 

 わたしたちは村の広場に出た。中央の井戸端に村の子供たちがたむろしていた。リーチマンとノルドが多く、エルフと獣人はいなかった。子供たちの一人がわたしたちに気付き、あっと叫んだ。次の瞬間、彼らは歓声を上げて走り寄ってきた。中にモナニアも混じっていた。

 

「こんにちはー!」

 

「うわーっ! ほんとにヘンテコだ!」

 

「どっからきたの? マルカルス? ソリチュード?」

 

「そのギザギザのとこ、さわっていい?」

 

「かたぐるまして、かたぐるまー!」

 

 わたしは早々に子供たちの輪の外に追いやられた。彼らは目を輝かせてテルドリンを取り囲んでいる。モナニアから早速彼の話を聞いたらしい。

 

 テルドリンは、高くても彼の胸元くらいまでの背丈しかない子供たちを見渡して、肩をすくめた。

 

「威勢のいい連中だ。悪いが、私は忙しい。お前たちの相手をしている暇はない」

 

 子供たちはテルドリンの喋っていることなどどこ吹く風で、彼の背中に飛びついたり、鎧をべたべた触ったりし始めた。

 

「かたぐるましてくれないなら、じぶんでのぼるもん!」

 

「あー、ずるい! ぼくものぼる!!」

 

「ねえねえ、おなかのとこ、すべすべしてるよ! おっきいヘビみたい」

 

「ほんとだ、きもちわる~い」

 

 テルドリンは子供たちの猛攻で身動きが取れなくなりつつあった。メイリーンが苦笑を浮かべてわたしたちに説明した。

 

「ごめんね。いつもこの子たちと遊んでくれてる衛兵が病気で寝てて、暴れ足りないみたいなの。――ほら、みんなどきな。おじさんは忙しいんだから」

 

 子供たちは一斉にぶーぶー言った。

 

「やだー! カニおばけとあそぶの!」

 

「カニおばけといっしょにかくれんぼする!」

 

「フォースウォーンごっこのほうがいいよ~」

 

 わたしは自分の小さい頃を思い出した。わたしが生まれ育った旅芸人一座でも、幼い子供は仕事や訓練がほとんどなく、暇を持て余していた。子供たちだけで放っておいても危ないからと、いつも大人の誰かしらが世話を焼いてくれたものだ。

 

 わたしはテルドリンに提案した。

 

「ねえ、テルドリン。よかったら、あなたは子供たちの相手をしてあげてよ。わたしがあなたの服も洗ってくるから」

 

 テルドリンは、は? と素っ頓狂な声を上げた。続けて、首をすごい勢いで横に振った。

 

「いや、まさかお前に洗わせるわけにはいかん」

 

「どうして」

 

「どうしてって。その、あれだ……お前は私の主人だろうが」

 

 しばしば彼の方が主人であるかのようにわたしに命令したり説教したりするくせに、よく言ったものだ。

 

「わたしたち、そんなお堅い関係じゃないでしょう。いつもお世話になってるんだもん、服くらい代わりに洗うよ」

 

「子供たちの世話を押し付けておいて言う台詞じゃないだろう」

 

「でも、洗濯より体を動かす方が向いてるでしょう?」

 

「それはまあ、そうだが」

 

「そうでしょう。じゃあ、洗濯物をもらっていくね」

 

「う、うむ……」

 

 彼はただの唸り声だか肯定の返事だかよく分からない声を発した。わたしは都合よく後者と見なした。子供たちの間を縫って彼に近づいていき、腕の中の洗濯物を掴んで、子供たちの輪から抜けた。振り返って見ると、全部上手に掴めていなかったらしく、何か白くてひらひらしたものが何枚か彼の手の中に残り、彼の脇に垂れ下がっていた。

 

「あ、それも持っていかないと。ごめん、投げてくれる?」

 

「これはいい」

 

 即座に拒絶された。わたしは首を傾げた。

 

「なんで?」

 

「なんで? じゃなくてだな――」

 

 その時、テルドリンの周りを取り囲んでいた男の子の一人が、ひらひらしたもののうちの一枚を掠め取った。彼はそれを頭上で広げ、ふわあと興奮気味に溜息をついてから、叫んだ。

 

「ふんどしだ、ふんどし!」

 

 子供たちがきゃーきゃーと黄色い声を上げた。男の子がもう一人、テルドリンの手から垂れ下がっている残りをひったくった。

 

「こっちはシャツだよ! うげ、ヘンなにおいするっ」

 

「おい、返せ!」

 

「やだね!」

 

 テルドリンの手から逃れて、男の子たちは広場の誰もいない方へばらばらに逃げていった。テルドリンは追いかけようとしたが、他の子供たちに行く手を阻まれた。彼らは誰からともなく楽しそうに口ずさんだ。

 

「とられた、とられた、たからもの。とりかえさなきゃ、とりのえさ!」

 

「こんの、腕白坊主どもが……!」

 

 テルドリンが肩を怒らせた。彼の周りに炎が揺らめいているのが見える気がした。

 

 なるほど、あれは下着だったのか。テルドリンは意外と繊細だから、ああいったものを他人に触らせたくないのかもしれない。いずれにせよ、この状態では下着は諦めるしかないだろう。

 

「テルドリン。行ってくるよ」

 

「ああ。まあ、適当に頼む」

 

 テルドリンはこちらへ顔を向けて返事をした。それから、彼を挑発するために声を飛ばしている子供たちに視線を戻し、戦闘時と比べると牛の歩みのような速さで駆け出した。なんだかんだ言いながらも、きちんと子供たちの相手をするつもりのようだった。

 

 

====================

 

 

 村を囲む柵には、わたしたちが最初に入ってきた他にもいくつか出入り口があった。そのうちの一つは、穏やかな流れの川に通じていた。川の際に素朴な出で立ちの人々が腰を下ろしていた。リーチの紋章の刻まれた盾を持った衛兵が、彼らを見守っていた。ここがメイリーンの村の洗濯場のようだ。村人はそれぞれ、衣類や布巾、その他雑多な洗濯物を傍らに置き、洗濯板や川辺の岩で洗濯物を擦っては、桶の中の水に浸して洗っていた。

 

 わたしは、メイリーンを介して村人たちと衛兵に自己紹介をしてから、メイリーンに貸してもらった小さめの桶を川の水で満たし、川の下流の隅に陣取った。メイリーンはわたしの隣に腰を下ろした。

 

「はいこれ。好きに使って」

 

 彼女は、片脇に抱えられるくらいの大きさの、口の小さい壷を差し出した。中はとろりとした液体で満たされていた。灰汁のようだ。

 

「いいんですか?」

 

「もちろん。余ってるから気にしないで」

 

 礼を言って壷を受け取った。薄黄色の液体を数滴、草木に擦って緑色に染まった自分の下衣の裾に落とした。桶の水に浸して下衣を擦り合わせると、白い泡が立つとともに下衣の汚れが薄れていった。その調子で、他のところもしばらく辛抱強く擦ったら、下衣はかなり綺麗になった。

 

 下着と上衣も同じように洗った。いつも一番上に着ているアーチメイジのローブは、特に汚れているところを擦ったり叩いたりするだけに留めた。これで、わたし自身の衣服の洗濯は終わった。

 

 続けて、傍らに積んであったテルドリンの赤茶色の服の上下を手元に引き寄せた。服の表面のざらざらした感触が伝わってきた。

 

「継ぎ当てだらけだね。あんたが縫ってるの?」

 

 ちょうど洗濯の手を止めていたメイリーンが尋ねてきた。わたしは、どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら答えた。

 

「いいえ。テルドリンが自分で縫ってます」

 

「まー、器用で羨ましい。うちのとは大違いだね。綻び一つ直せやしないんだよ」

 

 メイリーンは快活な笑顔を見せ、再び洗濯桶に両手を突っ込んだ。

 

 わたしはテルドリンの赤茶色の上衣を顔の前で広げた。甘酸っぱい汗と蜂蜜と何かの香辛料の混ざったような匂いが頬を撫でた。普段鎧に覆われている部分は色が濃く、汚れもそれほどない。対照的に、露出している部分には、土や泥に紛れて、さまざまな生物の血が飛び散っていた。

 

 心臓が、どくんと大きく脈打った。戦闘時は回復魔法や召喚魔法を使える以外まるで役に立たないわたしの代わりに、テルドリンは多くの血を浴びる。前の宿泊地から街道でメイリーンに出会うまでのほんの数日の間にも、わたしたちは狼、蜘蛛、ならず者などに襲われ、テルドリンが全て倒した。特に目立つ箇所はその都度、テルドリンが布で拭ったり水場で洗ったりしていたけれど、まだこんなに残っていたのか。

 

 わたしはテルドリンの上衣を桶の中に沈めた。分厚い服は、少しの間水を取り込むことに抵抗したが、押さえつけていると水に馴染んだ。

 

 上衣にまんべんなく灰汁を落とし、布を擦り合わせた。ごそごそと音をさせながら茶色の服は泡立っていった。赤黒い染みが少しずつ薄れていくのが分かった。

 

 ほっとしたのも束の間のことだった。洗い続けるにつれ、桶の中の水は、自分の服を洗った時とは明らかに異なる、赤褐色に変わっていった。同時に、錆のような嫌な臭いが桶から立ち昇ってきた。

 

 全身が怖気立った。赤く染まった水に浸っている両手が、氷のように冷たく硬くなって、動かなくなった。血が、こんなにいっぱい。まるで、手に掛けた死体そのものを洗っているみたいだ。テルドリンはいつもこれを自分で処理していたのか。嫌だ。怖い。耐えられない。

 

 わたしは、強張った手で上衣を取り上げて、傍らの河原石の上に置いた。それから、桶の縁を掴んで、目を反らしながら、水を川に流した。そして、上流から新しく流れてくる川の水で桶を丁寧に洗った。仕上げに、川の流れの上で上衣を絞り、真新しい水を川から桶に汲んで上衣を入れて軽くすすぎ、その水も流した。

 

 上衣を広げてみた。赤黒い染みはまだ残っているが、そこまで目を引くわけではない。十分だ。きっとテルドリンも満足してくれる。

 

 でも——。テルドリンはいつも、わたしを庇って敵の前に立ち塞がり、猛然と剣を振るい、血飛沫と断末魔の声を浴び、怯むことなく次の敵に立ち向かう。わたしはそんな彼を頼もしく思い、畏怖し、感謝する。だが、戦闘が終わった後、死体の折り重なる中に一人立っている彼がわたしの無事を確かめるために振り返った時、最初に心に浮かぶのは、申し訳ないという気持ちだった。言葉に出したことはなかったけれど、彼の傷を回復魔法で治しながら、彼の軽口に笑顔で応じながら、わたしは思っていた。わたしにもっと力と覚悟があれば、他者を殺める役目を彼だけに負わせることはなかったのに、と。

 

 ならば、せめて、この血に塗れた服を洗うことで、彼一人に背負わせていた命を奪うことの重さを、ほんのわずかだけでも、共に背負うことができないだろうか。

 

 わたしは意を決して、桶に水を汲み、既にぐったり湿っている上衣をその中に沈めた。一度目より多めの灰汁を落とし、今度は意識して強めに擦った。再び、赤褐色が続々と染み出してきた。錆の匂いがつんと鼻をついた。

 

 背筋が凍りつき、両手が強張った。逃げたい。もう終わりにしたい。けれど、次々と脳裏に浮かんできた、わたしを守るテルドリンの逞しい背中が、わたしに話しかける彼の優しく掠れた声が、兜を外した彼の穏やかな笑顔が、わたしの胸に不思議な安らぎと温かさをもたらした。大丈夫だ。テルドリンのためなら、このくらい……。わたしは桶の中に広がる血溜まりをまっすぐ見つめて、彼の上衣を洗い続けた。

 

 水を替えて洗うのが四度目にもなると、水の色は自分の服の時と全く変わらなくなった。わたしは今度こそほっと息をついた。しかし、これでお役御免と思うのはまだ早い。わたしは、テルドリンの下衣と赤い布二枚――マスクと腰布、どちらがどちらなのか見分けがつかない――に対しても、血の色が出なくなるまで洗って絞ってを繰り返した。

 

 全ての作業が終わった時、わたしの腕は疲労のために木の枝のように固くなり、ずっと下を向いていた首と肩は悲鳴を上げていた。だが、わたしは満足していた。自分勝手な思い込みに過ぎないけれど、これでほんの少しだけ、テルドリンが背負ってくれていたものを肩代わりできた気がした。

 

「そろそろ村に帰るよ」

 

 メイリーンに声を掛けられた。気づけば、青空はほのかに黄色みを帯び、川に残っているのは数人程度になっていた。

 

 灰汁の入っている壷は渡された時よりも明らかに軽くなっていた。わたしは壺を差し出しながら、恐縮して頭を下げた。

 

「使いすぎてしまいました。すみません」

 

 メイリーンはわたしの背中を豪快に叩いた。

 

「気にしなさんなって。随分夢中で洗ってたもんねえ。あんた、あの人がよっぽど大切なんだね」

 

 メイリーンがなんの気もなしに口にしたのであろうその一言に、わたしは不意を突かれた。もちろんテルドリンは大切な旅の仲間だ。だが、一生懸命に彼の服を洗ったのは、単に彼に対する後ろめたさからではないか?

 

 いいや、違う。それだけではきっと、わたしは自分の両手を最後まで動かし続けることができなかった。わたしに力を与えていたのはもっと別のものだ。その正体を確かめようとすると、甘く、胸を掻きむしりたくなるような衝動が迫り上がってきた。この気持ち——この気持ちはいったいなんなのだろう?

 

 メイリーンは、木々の間にちらつく陽光が眩しいのか、目を細めた。

 

「微笑ましいこった。さ、行こう。あんたたちにとっておきの夕食を作らなきゃ」

 

 わたしはメイリーンと一緒に村へ戻る人の列に続いた。村へ向かっている間中、胸の中を熱くてふわふわした何かが漂っていた。

 

 

====================

 

 

 村の子供たちはまだ元気いっぱいだった。

 

 村の広場の中央辺りで、木の枝を一本ずつ持った男の子が二人、興奮気味に話し合っていた。

 

「くそっ、トレヴァックもつかまった! どうする、もうおれたちしかのこってないぞ」

 

「こうなったら、おとりさくせんしかない。ぼくがあいつを引きつけるから、ヨセフはみんなをたすけにいって」

 

「ラスムス……!」

 

「いいんだ、ぼくは足がおそいから。みんなをたのむよ、ヨセフ」

 

 村の広場に若干突き出している民家の壁の前に、五人ほどの子供たちが立っていた。彼らもまた、広場の中央にいる子供たちと同じようにそれぞれ木の枝を持っている。よく見れば、民家の壁の両端から地面の上に二本の線が引かれ、三本目の線が二本の線と交わって壁と平行に引かれていて、子供たちはその線の内側にいた。牢獄のようなものを表現しているらしかった。

 

 そのすぐ外側で、牢獄内にいる子供たちに味方を近づけまいとしているのか、テルドリンは足を肩幅に広げて悠然と構えていた。両手に子供たちと同じように木の枝を持っていた。

 

「ふはははは、どこからでもかかってくるがいい、小童ども! 二人まとめて叩きのめしてやる!」

 

 テルドリンは両手の木の枝を二刀流の剣士のように振り回し、悪人然としたねっとりした声で叫んだ。うう、と少年たちは圧倒されたように唸り、しかし、次の瞬間にぱっと駆け出した。一人はまっすぐテルドリンの方へ、もう一人は大回りして牢獄の方へ。

 

 テルドリンは、自分めがけて走ってくる少年にブーツの爪先を向け、両手を大げさに振り上げた。雄叫びを上げながら無策で突進してくる少年の肩を、彼は片方の木の枝ですぱんと叩いた。

 

「ぐわぁ、やられたぁ!」

 

「そら、残りはお前一人だけだ!」

 

 と言ってテルドリンが振り向いた時には、もう一人の少年が牢屋の中の全員の体のどこかを手で叩き、子供たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。やったー! という歓声が子供たちから湧き上がった。

 

「カニおばけにかったぞ~! ざまーみろ、カニおばけ!」

 

 モナニアがテルドリンに駆け寄り、木の枝で彼を叩いた。彼女に続いて、他の子供たちもテルドリンを包囲し、彼を木の枝で叩き始めた。鎧で急所が守られているとはいえ、容赦がない。

 

「おい、やめんか、痛い痛い! そら、大人たちが帰ってきたぞ。そろそろ夕食の頃合いじゃないか?」

 

 テルドリンは、三々五々散っていく村人たちに顔を向けた。モナニア以外の子供たちがテルドリンに手を振りながら、それぞれの保護者のもとへ走り去っていった。

 

「また明日ね~、カニおばけ~!」

 

「ああ、また明日。……やれやれ、この村の衛兵は大変だ。寝込むのも無理はない」

 

 テルドリンはそうひとりごちた後で、彼の様子を微笑ましく眺めていたメイリーンとわたしの方へ近づいてきた。その後ろをくっついてきたモナニアは、メイリーンのスカートに抱きついた。

 

「随分遅かったな。お陰でフォースウォーン役を何十回とやらされた。くたくただよ」

 

 テルドリンの声は、言葉とは裏腹に満ち足りていた。いつもより薄い生地の服を着ているので、両脇に汗が滲んでいるのが分かった。

 

 メイリーンが、自分の家の洗濯物の入った大きな桶を片脇に抱えて、もう片手をわたしの肩の上に置いた。

 

「この子があんたの服をそりゃあもう丁寧に、ありったけの愛情を込めて洗ってたもんでね」

 

「え、そ、そんなんじゃないです!」

 

 わたしは咄嗟に否定した。愛情を込めて? あれは、決してそういうことでは……。テルドリンに誤解されては困る。さらに何か弁解しようとして焦ってテルドリンを見上げると、彼は、にやついた声で言った。

 

「意外だな。私はてっきり、お前が錬金術の素材でも見つけて、洗濯そっちのけで採取に夢中になっていたんじゃないかと思ったよ」

 

 わたしの焦りは跡形もなく吹き飛んだ。相変わらず失礼な物言いだ。わたしが洗濯物を放置して錬金素材を集め始めるはずが、ないとも言い切れないのが困る。

 

 メイリーンがけらけらと笑った。

 

「ここらへんには生憎、腹の足しにもならない雑草しか生えてないよ」

 

 彼女はモナニアの手を引いて歩き始めた。

 

「さあ、とっとと服を干して、夕食にしよう」

 

 わたしたちは広場を後にして、メイリーンたちの家の裏に案内された。家の軒先と、間近に生えた木々の枝との間に何本かの紐が張られていた。紐はわたしの目線と同じくらいの高さにあった。この紐に洗濯物を掛けていくのだ。

 

 モナニアが家の壁際に寄せられていた木の足場を引っ張ってきて、自分の家の洗濯物を干すのを手伝い始めた。テルドリンとわたしは端にある紐を共同で使うことになった。

 

 テルドリンは、わたしの持っている桶の、一番上に重ねた彼の衣服一式を取り上げた。彼は上衣を広げると、かすかに息を呑んだ。その姿勢のまま、こちらへ顔を向けた。

 

「適当でいいと言っただろうに。どうしてここまで」

 

 いつもより色の薄いマスクの向こうから聞こえてきた彼の声は、驚きと戸惑いに満ちていた。わたしは、こんな反応をされ、なおかつ質問まで飛んでくると思っていなかったので、彼以上に驚き、戸惑った。どう説明したらいいだろうか。迷った末、メイリーンとモナニアに聞こえないよう、小さな声で答えた。

 

「綺麗にしたかったの。わたしがもっと強ければ、あなた一人がこんなに汚れなくても済んだのにって思って」

 

 テルドリンは、感情の窺えないガラスの両眼で少しの間わたしを見下ろしていた。それから、広げていた上衣を紐に掛け、横や下から引っ張って形を整えながら、低い声で言った。

 

「私はお前に護衛として雇われている。お前に代わって敵の血を浴びるのはごく当然のことだ。お前以前にも、そうした役割は何十回と引き受けてきた。だから、気にする必要はない」

 

 極めて事務的な口調だった。わたしは、喉に小石が詰まったかのような息苦しさを覚えた。ごめん、と言おうとして唇を開いた。その時、上衣を布挟みで留め終えたテルドリンが、わたしに向き直った。

 

「だが――ありがとう。ここまで綺麗になったのはいつぶりか分からない。どうせすぐに汚れるからと、諦めていたんだ。明日、腕を通すのが楽しみだよ」

 

 彼の声は、穏やかで、柔らかく、温もりに満ちていた。聞き間違いではないかと思った。けれど、彼は確かにそう口にしていた。

 

 心臓がどきどきと脈打った。今度のそれは、血を洗い流していた時に感じたものとは異なり、心地良かった。その心地良い心臓の脈動は熱を生み、その熱が全身へ広がり、一番目立ってしまうであろうわたしの頬をも無慈悲に火照らせた。

 

「それは、良かった。どういたしまして」

 

 そう応えながらも、わたしはテルドリンを直視することができず、誤魔化すように自分の洗濯物を干し始めた。お礼を言われただけなのに、どうしてこんなに嬉しいと思ってしまうのか、分からなかった。

 

 

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 軽やかな鳥の鳴き声が耳に届いた。目を開けると、頭上にある、藁を固めて造られている突き出し窓の隙間から、白い光が家の中に差し込んでいた。穏やかな寝息が家の中に広がっていた。

 

 わたしは、一晩借りたメイリーンの夫のベッドから降りて、暖炉の前で毛皮にくるまって横になっているテルドリンを眺めた。体はこちら側を向いているが、兜とマスクを着けたままなので、起きているのか眠っているのか判然としない。

 

 昨日干した洗濯物が乾いているかが気になった。起き上がり、家の戸をそろそろと開けて外に出た。何羽かの鳥が上空を飛び去っていくところだった。早朝に草木についた露が温まりつつある空気に溶けていくときの、みずみずしい匂いが漂っていた。太陽が顔を出しているとはいえ、少し肌寒かった。

 

 家の裏手に回った。洗濯物は斜めに照りつける橙色の太陽の光に染まっていた。一番の難物であろうテルドリンの服に近寄り、上衣の胴回りに触れてみた。まだほんの少し湿っていた。この程度なら、朝の光ですっかり蒸発するだろう。

 

 ふと気になって、服の表面を観察した。目についた汚れは昨日確かに全部落としたはずだった。だが、朝の光に照らされると、あの時は全く気付かなかった古い血の痕が、ところどころに残っているのが分かった。それらは、わたしが彼と出会うよりももっと前についたものだろう。わたしが知らないどこかで、わたしが知らない誰かを守るために挑んだ、わたしが知らない戦いの中で。それらの痕跡を完全に消すことは、わたしにはできない。

 

 突然、一陣の風が前方から吹いてきた。テルドリンの上衣がわたしの顔から鳩尾辺りまでを押し包んだ。咄嗟に上衣の背中へ両腕を回した。テルドリンの服が吹き飛んでしまわないかと思ったのだ。

 

 風はほどなく収まった。考えてみれば、布挟みで固定したから、よほど強風でなければ吹き飛ぶ心配はないのだった。

 

 それなのに、わたしはまだテルドリンの上衣を手放していなかった。少し湿った分厚い服からは、昨日、彼の服を広げた時よりも濃厚な匂いがした。もはや繊維の奥まで染みついて取れないのであろう、汗と蜂蜜と香辛料を絶妙に混ぜ合わせたような彼の芳香と、空気から移った草木の匂い、それに、ほんの微かに感じられる鉄臭さ。それらが一気にわたしを包み込んだ。彼の逞しい肉体が間近にあるような気さえした。わたしは上衣を引き寄せた。そうすることで服の両腕がわたしの背中に回り、まるで彼に抱きしめられているように錯覚した。全身に快い痺れが広がった。

 

「どーしたの?」

 

 唐突に、誰かの声がすぐ隣から上がった。わたしは服を手放して飛びのいた。モナニアがくりっとした目を面白そうに見開いていた。

 

「モナニア。いつからここに?」

 

「ドアのおとがしたから、ついてきたの」

 

 モナニアはさらにわたしに尋ねた。

 

「なんでカニおばけのふく、くんくんしてたの?」

 

 わたしがテルドリンの服の匂いを嗅いでいたのはなぜか。……なぜ? なぜって、それは……。わたしは寝起きの頭を精一杯働かせて、思い出した。

 

「生乾きになってないか気になったんだ」

 

「なまがわきってなあに?」

 

「まだ乾ききってなくて、触り心地や匂いが少し気持ち悪いってこと」

 

「ふうん。きもちわるかった?」

 

 わたしは咄嗟に、真逆の嘘をついた。

 

「うん。気持ち悪かった」

 

 モナニアは、眉間と鼻の頭にぐちゃっと皺を寄せた。

 

「やっぱりね。カニおばけのふんどしも、すごくヘンなにおいがしたもん」

 

 子供という生き物は、恐ろしいほど怖いもの知らずだ。いくらなんでも、さすがにテルドリンの下着の匂いは嗅ぎたくない。いや、そもそも彼の上衣の匂いだって別に嗅ぎたいと思って嗅いだわけではなく、不可抗力で嗅いでしまっただけだが。

 

 表で家の戸が開く音がした。土を踏みしめる足音が近づいてきて、家の角からメイリーンが現れた。

 

「二人とも、こんなところにいたんだね。おはよう。内緒話でもしてたのかい?」

 

 わたしが会釈をした横で、モナニアが元気いっぱいに叫んだ。

 

「おはよう、かーちゃん。ふたりでね、カニおばけはヘンなにおいがするねっていってたの!」

 

「はははっ、そんなに大声で言ったら、おじさんに聞こえちまうよ」

 

「やっぱり、カニおばけのしょうたいはカニなんだよ。だからあんなにくさいんだよ」

 

「はいはい、そうかい。さあ、お腹が空いてきただろう。朝食の準備をしよう」

 

「うん!」

 

 二人は手を繋いで家に戻ろうとしている。彼らに続こうと足を踏み出すと、朝の澄んだ空気がわたしの鼻腔に流れ込み、奥に残っていたあの上衣の匂いの最後の一粒を押し流していった。わたしは、ほっとしたような、物足りないような気持ちを抱えて、仲睦まじい親子を追いかけた。

 

 

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 テルドリンとわたしが村を出立するときまで、モナニアの話題は、彼女を含む子供たちとわたしの間でテルドリンの匂いについての評判が芳しくないこと、それによって彼がカニの化身であるという彼女の仮説に説得力が増すことに終始した。

 

 メイリーン親子と村の子供たちの見送りを受け、彼らの姿が見えなくなるまで遠くまで来ると、テルドリンはむっつりと拗ねた声色で呟いた。

 

「毎日風呂に入って、上等の香油も塗っているのに、そんなに臭いか。私の服を丁寧に洗った本当の理由はそれだったのか?」

 

 まさか彼がモナニアの話を真に受けていたとは思わなかった。わたしは首を横に振った。

 

「わたしは臭いなんて思ってないよ。ただ、服が生乾きだから少し気持ち悪かっただけで」

 

「気持ち悪いとまで言われるとは。やはり気を付けていても加齢による臭気は防ぎきれんか」

 

「気持ち悪かったのは、あなたじゃなくて生乾きの服なんだけど」

 

「ああ、慰めは結構だ。これからはなるべくお前のそばに寄らないようにする。緊急時だけは許せよ」

 

 一生懸命否定しているにもかかわらず、テルドリンはわたしから大げさなほど距離を取ろうとしている。なぜか胸がぎゅっと締まって、苦しくなった。

 

「だから、違うってば!」

 

 わたしは彼に歩み寄った。わたしが洗った上衣に包まれた彼の二の腕に、鼻の頭を軽くくっつけて、わざと大きな音を立てて鼻から息を吸った。今朝と同じ、わたしの全身を芯から痺れさせるような彼の匂いが、本物の彼の温もりと肉の厚みを伴って、わたしの中に入り込んだ。

 

「な――」

 

 テルドリンは肩を強張らせてその場で固まった。わたしは彼の二の腕から顔を離し、キチンの兜とマスクに覆われ、表情の窺えない彼を見つめた。

 

「うん、全然臭くないよ。ほんとに臭いと思ってたら、こんなことできないでしょう。これで信じてくれる?」

 

 昨日と同じかそれ以上の勢いで頬が火照っているのが自分でも分かった。だが、今度は勇気を振り絞って、彼から目を逸らさなかった。

 

 テルドリンは少しの間、呆けたようにわたしを見下ろしていた。それから、咳払いをしてなおも言い募った。

 

「信じてやらんこともないが、しかし――」

 

「本当だよ。むしろ、すごくいい匂いがする」

 

 反射的に口に出したその言葉があまりに危うい響きを持っていることにわたしは狼狽し、慌てて適当に付け足した。

 

「……その、わたしの父さんみたいで、落ち着くっていうか」

 

 口に出してみて、案外的を射ているかもしれない、と思った。しばらく前から感じていたテルドリンに対するこの気持ちは、家族のように信頼できる相手と一緒にいられる安心感から来るものだったのかもしれない。なんだか少し違う気もするが、それ以上考えてはいけない気もした。

 

 これで丸く収まるかと思いきや、テルドリンは先ほどよりもさらにむっつりとした不機嫌そうな声色になった。

 

「ふん。やはり好ましくない臭いがするんじゃないか」

 

「え、そんなことないよ。なんで?」

 

「子供は父親の匂いを本能的に嫌うというだろう」

 

「わたし、父さんの匂いを嫌だと思ったことないけど」

 

「自覚がないだけだ」

 

「無意識に嫌だと思ってたら、さっきみたいなことはできないでしょう」

 

 それから、わたしはさらに拗ねてしまったテルドリンを宥めながら、こっそり、いつもよりも近い距離を保った。そうすることで、彼の誤解を完全に解きたかった。それに、草木や土の匂いに混じって、彼の体から発される匂いがわたしの鼻腔の中へ入り込み全身に行き渡る感覚を、もう少し味わっていたかった。

 

 

 

-了-

 

 

 




 この章のあとがきは活動報告に書きました。ご興味があればどうぞ。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=339295&uid=271887
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