My Companion, My Dearest 作:春日むにん
予感
蝋燭の薄明かりの中、結構な音量のいびきが隣のベッドから聞こえていた。ホワイトランでわたしの二人目の従者になったリディアだ。彼女は毛布を板敷きの床に豪快にうち捨てて、大の字になって眠りこけていた。寝間着の胸元がこれまた豪快にはだけ、大柄な体に見合った豊かな胸の谷間が露出していた。
一度目に留まると気になって仕方がない。わたしはベッドから起き上がり、床の毛布を拾って彼女の体の上に掛けた。彼女は眠ったまま眉をしかめ、何かむにゃむにゃと寝言を言い、毛布を払いのけた。わたしはもう一度毛布を掛けた。払いのけられた。毛布を掛けた。払いのけられた。……もう何度か繰り返して、諦めた。まあ、この部屋にいるのは彼女とわたしの女二人だけなので、大した問題ではないだろう。
この宿に到着したのは、太陽の丸い底が世界のノドの輪郭にかかろうとしている時だった。ここは世界のノドへの巡礼者を目当てに昔から営まれている有名な温泉宿らしい。建物の裏手にある世界のノドを望める温泉と、山の幸をふんだんに使った料理が売りだそうだ。街の宿屋と比べても遜色ないくらい大きく、盗賊対策に用心棒も雇っていた。
今日は偶然他に客がいなかったため、宿は貸し切り状態だった。夕食後、リディアと一緒に温泉に入ったが、わたしは未だに気詰まりな思いが拭えず、あまりリラックスできなかった。リディアはそうでもなかったらしく、部屋に帰ってからすぐに気持ち良さそうに寝入ってしまった。
部屋の外から、賑やかな笑い声が聞こえてきた。あちら側はまだ宴もたけなわのようだ。わたしの護衛のためにリディアの部下に任じられた男性の衛兵三人と、わたしのもう一人の従者であるテルドリン・セロ。輪の中心になっているのはきっとテルドリンだろう。彼はわたしたちよりずっと年上なので、色々なことを経験していて、とてもお喋りだ。
ついこの前まで、テルドリンの話に耳を傾けているのはわたしだけだったが、ここ数日で急に新しい聴衆を得て、彼は大変満足しているように見えた。衛兵たちはリディアやわたしと同じ年頃の青年だ。彼らは、ホワイトラン衛兵隊の指揮官であるイリレスの姿を見ているからか、一行の中で唯一のダンマーであるテルドリンにも分け隔てなく接し、ふざけ半分、真面目半分に、彼を人生の先輩と仰いでいる。テルドリンが青年たちに囲まれて嬉しそうにしていれば、主人であり友人であるわたしも嬉しい――はずなのだが、どういうわけか胸の中がもやもやする。
わたしは壁に掛けておいた体を拭くための幅広の布を脇に抱えて、リディアを起こさないように、そっと部屋の扉を開けた。メインホールの明るい灯明の光が視界に広がった。中央の暖炉端で、顔の前面を覆う兜を脱いで素顔になった衛兵三人と、キチンの兜を被ったまま赤いマスクだけ外したテルドリンが、エールの入ったカップを片手に談笑していた。
「あれ、従士様。どーしたんです? 眠れないんです?」
童顔の青年がわたしに気付いた。
わたしはぎこちなく微笑んだ。リディアも然り、わたしなんかよりずっとしっかりした身の上の、同じ年頃の青年たちに敬語で話しかけられるのは、いまいち落ち着かない。
「ちょっとだけね」
「もしかして、オレたちの声うるさかったです?」
「ううん、それは大丈夫」
青年は、あ、と声を上げて、他の二人に意味ありげな視線を送り、わたしを見上げた。
「じゃあリディアのいびきと寝相です? マジヤバいっすよね~。野宿のときはフツーなんすけど、ベッドだとムダによく寝れるらしくて。オレ、あいつと当番が被ると仮眠が取れなかったんすよ」
リディアと彼らは衛兵隊の同期だったらしい。リディアだけが実力を買われて別の任務に就き、今では公的には彼らの上司となっているものの、同期のよしみで気楽な仲のようだ。
リディアのいびきやら寝相やらは多分わたしが眠りに就けないことの根本的な原因ではないが、青年たちは勝手に納得した様子だった。最初の青年よりは少し年嵩であろう、がっしりとした顔に立派な顎髭を生やした青年が口を開いた。
「他の部屋が空いているのですから、移られたらいかがでしょうか? なあ、おかみさん、いいだろ?」
彼はカウンターの向こうで明日の朝食の仕込みをしていた宿の主人に声を掛けた。宿の主人が笑顔で振り返った。
「ああ、もちろん。ドラゴンボーンの泊まった部屋だって、末代まで宣伝できるからね。どんどん部屋を替えとくれ」
わたしは慌てて首を横に振った。
「お構いなく。お恥ずかしい話ですが、一人だとかえって落ち着けなくて、眠れないんです」
「……そうだな。眠っている間は無防備だ。誰かが一緒にいるべきだ」
真面目そうな細面の青年がぼそりと言った。
最初の青年が口を尖らせた。
「誰かって、リディア以外に誰がいんだよ」
細面の青年は黙って頭を巡らせた。彼の視線の先には、わたしたちのやり取りを酒をちびちび呑みながら眺めていたテルドリンがいた。
テルドリンがカップを口から離した。エールの水分を纏った紫の唇が暖炉の橙色の光を艶やかに反射した。
胸の中の空洞を大きな手で優しく撫でられているかのような錯覚に陥った。確かに、わたしはテルドリンとよく同じ部屋で眠っていたし、時には寝床を共有したこともある、もちろん深い意味はなしにだ。でも、それは数日前までの話。今は……。
テルドリンが意地の悪い笑みを浮かべた。
「勘弁してくれ。こいつもリディアと同類なんだ。今までは私しかお守り役がいないから我慢してやっていたがな、この先はいぎたない者同士、よろしくやってほしいよ」
ざわつきかけていた胸の内が嘘のように鎮まった。わたしはときどき悪夢を見てうなされる。悪夢の原因はヘルゲンで起きた悲惨な事件だ。深刻な問題なのに、あんなふうに気持ち良さそうに眠っているリディアと一緒くたにされ、いぎたないと言われるのはかなり心外だ。そもそも、お守り役ってなんだ。わたしはむくれた。
「うるさかったら起こしてって言ったじゃない」
「起こしたら起こしたで、眠れなくなったと文句を言って泣きついてくるだろう」
「わたしはそんなことしない」
「寝付けない夜に昔話を聞かせてやったのを忘れたか?」
「それとこれとは別でしょう。というか、テルドリンが話したそうにしてるから仕方なく聴いてあげてたんだよ」
「そのわりには、わざわざ話していないことまで根掘り葉掘り聞いてきたじゃないか」
「それは、だって、気になったから」
「あははは! おもしれー。テリーさんと話してるときの従士様って、反抗期の子供みたいっすね!」
テルドリンに散々からかわれ、さらに最初の青年に追い打ちをかけられて、わたしはますますむくれた。
「もういいよ。わたし、リディアのことはそんなに気にならないから。もう一回温泉に入ってくる。みんなは遠慮しないで話してて」
四者四様の返事を背中に受けながら、わたしはメインホールの隅の扉に入った。
扉の先は脱衣所になっていた。ここで裸になって、温泉のある屋外に出るのだ。屋外へ通じる扉からは温泉の蒸気が漏れていた。わたしは今しがたテルドリンから受けた仕打ちをあっさり忘れ、自然と笑顔になった。温泉は普段の蒸し風呂より断然気持ちが良い。さっきはリディアと一緒で緊張してしまい、満喫することができなかったが、今度こそゆっくりしたい。寝間着を脱いで籠に入れ、屋外への扉を開けた。
まず目につくのは、中央のもうもうと蒸気の立っている一帯だった。古いがよく磨かれている石畳の中に、エメラルド色の半透明の湯が、丸い石でぐるりを囲われて蒸気を湧かせていた。十人ほどで一気に入ってもまだ余裕のある広さだ。
わたしはこの温泉を取り巻く景色を改めて見渡した。宿の壁際には洗い場があった。壁からは、背の高い木の柵が温泉を守るように四角形に連なっていた。柵によってこちら側と隔てられているのは、鬱蒼と茂った森だった。彼方に世界のノドが突き出していた。今夜はよく晴れていて、二つの月と夜空の星の明かりだけでも、この小さな世界の全貌を把握するには十分だった。そのためか、温泉の周りに木のかがりが六つも立てられているのに、使われているのは真ん中の二つだけだった。
温泉の蒸気の、強烈だが不快感のない金属臭が鼻をくすぐった。石畳を渡り、湯に足から順に全身を浸した。まるで大きな海藻が何枚も体に巻き付いているかのような、ぬるぬるした触感に包まれた。このもどかしいような、くすぐったいような感じがたまらない。わたしは湯を掻き分けて、温泉のもう一方の端、森の近くまでしゃがみ歩きをしていった。金属臭に、森から漂ってくる草葉の匂いが混ざった。どこかから虫の鳴き声が聞こえていた。
わたしは、温泉の底に尻を降ろし、首の半ばまで湯に浸かった。そのまましばらくじっと待っていると、湯が皮膚を通り抜けて体の芯まで沁みていくような感覚が全身に広がった。今この瞬間に少しの苦しみもなく死ねれば、全く後悔はしないだろう。
わたしはぼんやりと世界のノドを見上げた。タムリエルで一番標高の高い雪山は、薄い雲をショールのように纏い、星の瞬きで周りを飾り立て、濃い藍色の夜の陰りで全身を覆って屹立していた。あの山の頂上付近には、グレイビアードと呼ばれる隠者たちが住んでいる。スゥームの使い方を教えてくれるという話だが、彼らに教わったところで、わたしはまともにドラゴンボーンの力を使いこなせるようになるだろうか。
先ほど、リディアと二人で温泉に入った時のことを思い返す。彼女は寡黙な性質だ。温泉に身を浸すと、良い湯ですね、と呟いた。それから、二、三適当な雑談を交わしたきり、話が途切れてしまった。それならそれで景色でも眺めればいいのに、ひたすらわたしを見つめてくるものだから、なんだか居心地が悪くなってしまい、わたしはつい、ドラゴンボーンとしての自分にあまり自信が持てないことを漏らした。
リディアは身を乗り出し、真剣な表情で、大丈夫ですよ、と言った。次いで、怒濤のように、アカトシュからドラゴンボーンに選ばれることを夢想していたノルドが、彼女自身を含めていかに多いか、つまりわたしがいかに羨まれているかを語り出した。続けて、伝説で語られるドラゴンボーンの中にもわたしのように自信のない者はいたが、修行や実戦を重ねるうちに相応しい能力を身につけ、立派に役目を果たしたことも熱弁した。最後に、彼女はこう締めくくった。だから、従士様もきっと強くなれますわ。ドラゴンボーンに憧れていたあたしたち皆、貴女と一体になるようなつもりでお支えしますもの。
ドラゴンボーンのことを語る彼女の眼差しは、終始、力強く輝いていた。あんな目をしたノルドを今まで何人も見てきた。彼らの目の輝きは、彼らがスカイリムで生き、育んできた、強靱な意志の力――故郷や家族、理想を守るためなら死も厭わずに戦う、不屈の精神を源にしている。わたしには、天地がひっくり返っても手に入らないものだ。
わたしは励まされたふりをして礼を言った。彼女の期待を裏切りたくなかった。
あれからずっと、重苦しい疑問が頭の中に渦巻いている。なぜ、アカトシュはわたしなんかをドラゴンボーンに選んだのだろうか。もっと相応しい人はいくらでもいる。それこそ、リディアや三人の衛兵たちの方がずっと良かった。伝説の中のドラゴンボーンたちは最後には必ず役目を果たした、だって? 役目を果たせないまま死んだドラゴンボーンの逸話を誰も語り継がなかっただけではないのか? 現在のニルンにただ一人しかいないドラゴンボーンのわたしがもし、そうなってしまったら……。
胸がぎゅっと締まった。ミルムルニルの煮え立ったマグマのような声が耳の奥から聞こえてくる気がした。いや、実際に聞こえていたのかもしれない。彼はわたしの意気地のなさを嗤った。わたしの体を乗っ取る日もそう遠くはないだろうと囁いた。
不意に、コンコン、と後ろで音がした。締めつけられていた心臓が危うく止まりそうになった。湯を撥ね飛ばしながら振り返った。脱衣所の扉を誰かが内側から叩いているのだ。
「誰?」
返ってきたのは、聞き慣れた、少しかすれた声だった。
「テルドリンだ。まだ入浴中か? そろそろ交替してもらいたいんだが」
「え? 早くない?」
「馬鹿を言え、もう結構な時間が経ったぞ。私たちも解散した」
自分で感じていたより長いこと物思いに耽っていたらしい。まだ全然満喫できた気がしない。
「さっきみんなと一緒に入らなかったの?」
「ああ、入ったさ。だが、連中は湯に浸かっている間もやかましく喋ってばかりでな。本当の楽しみ方をまるで分かっていない。嘆かわしいことだよ」
要するに、彼も満足できていないらしい。それなら。
「じゃあ、一緒に入ろうよ」
扉の向こう側が、静まり返った。
しばらく経ってから、わたしは我に返った。どうしてこんなことを提案してしまったのだ。わたしは、最早誰も入ってこないだろうとたかをくくっていたので、全裸だ。テルドリンもきっと裸になって入ってくる。
提案を取り下げなければ。いや、それ以前に、非常識だとかなんとか言われて断られるに決まっているが、わたしがそこまで物を知らないわけではないことを彼に示さなければならない。もう少し待っていてほしいと伝えよう。わたしは脱衣所に近い温泉の縁まで移動した。ところが。
「いいだろう。すぐにそちらへ行く」
テルドリンのくぐもった声がわたしの耳に届いた。続けて、鎧の金具が触れ合ってカチャカチャいう音が聞こえ始めた。なんということだ。
彼との付き合いも長いが、わたしは未だに彼のありのままの姿の首から上にしかお目に掛かったことがない。あの分厚い鎧とごわついた服の下にどんな肉体が隠されているのかとても気になる。って、何を考えているのだ! 今からだって彼に待ったを掛ければいい。それなのに、どうして口が石みたいに重くなって開かず、胸がどきどきしているのだろうか。
「入るぞ」
脱衣所の扉が開いた。わたしは咄嗟に扉に背を向け、湯に体を深く沈め、両膝を抱え脚を胴体に引きつけて、目をきつく閉じた。
石畳を注意深く踏む足音が近づいてきた。それはわたしの左後ろの辺りで止まった。ざぶりと水音がして、左側から大きな揺れが伝わってきた。しばらくすると収まり、代わりに、何か大きな質量を持ったものが湯の中に落ち着いたのが分かった。
「どうした、しかめ面をして。具合が悪いのか?」
気遣わしげな、温かな声でそう問われた。わたしは適当に目をいじるふりをした。
「ううん。目にゴミが入っちゃって」
テルドリンが可笑しそうに息を吹き出すのが聞こえた。
「取ってやろうか?」
「いっ、いいよ。そのうち自然に取れるから。わたしのことは気にしないでゆっくりして」
「ふん。それじゃ、お言葉に甘えるよ」
水音と共に、湯が再び大きくうねった。テルドリンはその場で体勢だけ変えたようだった。彼はいかにも満足げに、とても長い息を吐いた。
それから、いくらか沈黙が流れた。相変わらず心臓がどくどく鳴っていて落ち着かないが、居心地が悪いとは思わなかった。
「リディアとはうまくやれそうか?」
テルドリンが静かに尋ねた。
わたしは、間違ってもテルドリンの姿が目に入らないよう、首を思いきり右側に捻ってから瞼を開けた。夜空の双子の月の片割れ、セクンダが、その身を半分ほど世界のノドの頂に沈み込ませていた。
「どうかな。いい人だとは思うけど、テルドリンみたいには喋らないから調子が狂うよ。仲良くなれればいいな」
「ああいう堅物は初めはとっつきにくいが、一度懐に入れば誰よりも信頼できる友人になる。辛抱強く付き合ってみることだ」
反射的に、テルドリン以上に信頼できる相手はいないと口に出しそうになり、思い留まった。まるで父親の傍から離れたがらない小さな子供のような言い分だ。大笑いされるに決まっている。わたしが、そうだね、と答えると、テルドリンは続けて尋ねた。
「あの三人衆はどうだ? 若くて考えの足りていないところはあるが、悪い奴らではない。剣と弓の腕も確かだ」
どうと言われても。彼らは、彼ら同士かテルドリンを加えて四人で盛り上がっていることが多く、リディアのように一対一で話をしたこともない。それに、テルドリンを独占されているときは、正直あまり良い気分ではない。
「よく分からない。テルドリンみたいには打ち解けられないかも」
小さく湯の跳ねる音がした。テルドリンが手か足でも動かしたらしい。
「そんなふうに決めつけるものではないぞ。機会を見つけて話してみろ。もしかすると、あの三人の内の誰かが、お前の――」
彼は何か言いかけたが、ざらついた低い声で打ち消した。
「いいや。邪推が過ぎるな。図体も頭脳もそれなりに育っているが、心はまだ少年のままだ。話にもならん」
褒めていると思ったら急に酷評し始めた。まあ、テルドリンから見たら、わたしたちは生まれたての雛みたいなものだろう。
それよりも、どうしてテルドリンは、わたしがリディアたちと仲良くなれそうかなんてことを気にするのだろうか。これから先も行動を共にしていれば、そんなことは自ずと分かるだろうに。
夜空の星の瞬きが鈍くなった気がした。
「わたしの従者を辞めるつもりなの?」
喉から漏れた声は、自分でもどうしたのかと思うほど、か細く、震えていた。テルドリンがびっくりしたように声のトーンを上げた。
「そんなはずがなかろう。いったいなぜそんなふうに思った?」
「だって、リディアたちのことを聞くから」
「はあ? お前が新しい仲間とうまくやっていけるか気にするのは当然だろう」
「子供に言うみたいなこと言わないでよ。仲良くなれそうなら勝手に仲良くなるし、駄目なら適当に折り合いつけるよ」
テルドリンは、人情に厚く世話焼きな性格が高じて、頼りないわたしを子供扱いすることもままある。でも、今のはそうではなかったとわたしは感じた。彼自身も気付いていないようだけれど。
ミルムルニル戦の後、ドラゴンズリーチの一室で彼があの約束を交わしてくれなかったら、わたしはわたしではなくなっていた。今だって、彼がわたしのもとを去れば、たちどころに精神が崩壊してしまいそうだ。しかし、あの約束は、あの場でわたしの正気を保っておくための優しい嘘だったのかもしれない。彼にはわたしと一緒に世界の存亡を懸けた戦いに挑む義務はない。彼が自らの命の危険その他を鑑みて、以前の雇い主に対してしたのと同じように袂を分かちたいと言ってきたら、わたしは受け入れなければならない。
それなら、せめて今だけは彼の優しさに縋っていたい。
「ねえ、もうちょっとそっちに寄ってもいい?」
テルドリンが身じろぎをしたのが、水音と湯の微かな動きで感じられた。
「ああ、構わんが。急にどうした? 一人で長居しすぎて寂しくなったのか?」
わたしはそろそろと左側へ移動していった。ぎりぎり触れないくらいの距離で止まろうと思ったが、未だにそっぽを向いていたので距離感を誤ったらしい。みっちりした感触の大きな塊が左の肩から腕にかけてに触れた。
「あっ……!」
わたしは小さく声を上げた。慌てて離れようとしたら、力強い腕がわたしの背中から右腕へと回され、体を引き寄せられた。左の耳元で、かすれた声が囁いた。
「体が異様に熱いぞ。まさかお前、休憩もせずにずっと入っていたのか?」
彼の張り詰めた肉体がわたしの体に密着する。ぬるぬるした湯がわたしたちの間をすり抜け、滑らせ、互いの肌を擦らせ合う。いったいどことどこが触れているのだろう。それも判らないくらいに気が動転し、心臓の鼓動が急激に速くなった。
「え、う、あ、」
「しっかりしろ。早いところ湯から上がって水を飲もう」
彼の太い指がわたしのどこかを擦り上げた。激しい電流が体の奥まで走り抜けた。
「ひぁっ!」
「へ、変な声を上げるな! 落ち着け!」
そんなことを言われたって落ち着いていられるわけがない。わたしは無我夢中で両手を彷徨わせ、最初に触れたどこかを掴んだ。
「うぐ?!」
なんだかむにゅむにゅしている。いつか触ったことがあるような気がするけれど、いつだったか。
「や、め、ろ……!!」
体に纏わりついていた湯がざばんと落下する感覚があった。続いて、びたびたびた、という水っぽい足音に合わせて世界が大きく揺れ、バキャ、ドキャ、と何か固いものが壊れた音が二回。
「おい、水をくれ! それから塩の塊と、できれば濡らした布と氷を――」
宿の主人らしい女性の素っ頓狂な悲鳴が上がった。
「ぎゃーっ! なんて格好してるの!? お湯の中で何してたのよ!!」
「何もしてない! 早く水を!」
「なんの騒ぎ、ぅえっ、おわあぁあっ!!? 変質者の襲撃か!?」
「変質者じゃない! テルドリンだ!」
「へえ。やはり従士様とはそういう関係で……」
「誤解だ!!」
騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたらしい衛兵の青年たちの声も聞こえてきた。
わたしはすさまじい頭痛に襲われ、意識を失おうとしていた。ただ、わたしの傍らにずっとテルドリンがいることだけは伝わってきた。それが無性に嬉しくて、わたしは意識が途切れるまで、へらへらとだらしなく笑っていた。
-了-