My Companion, My Dearest   作:春日むにん

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5. コレット・マレンスの憂鬱

 遠くから鐘の音が聞こえる。大勢の足音が近づいて、遠ざかっていく。誰かがわたしの体を揺さぶっている。まだ眠っていたいのに、うるさいなあ。一度その手を振り払うと、しばらくまどろみの邪魔をする者はなかった。

 

 どのくらい経っただろう。鼻腔の中に食欲をそそる香ばしいパンと肉の匂いが漂ってきて、がばりと跳び起きた。

 

「ようやく目が覚めたか」

 

 部屋の隅のテーブルで、奇妙な兜を顔の上半分に被った灰色の肌の男、テルドリンがパンを口に運んでいた。パンには切れ込みが入れてあり、焼いた肉の切れ端が挟んであった。

 

 腹の虫が鳴いた。わたしは乾燥してからからになった喉から声を絞り出した。

 

「朝食の時間、始まってる?」

 

「とっくにな。今すぐ走っていけ、でなければ食いそびれるぞ」

 

 わたしは大慌てで寝間着を脱ぎ、壁際のタンスに駆け寄った。

 

「おい。いきなり服を脱ぐなと何度言ったら分かるんだ」

 

「仕方ないでしょう、急いでるの!」

 

 わたしは猛烈な勢いで着替えながら考えた。結局、朝になるまであの音を再び耳にすることはなかったのだと。

 

 朝食を食べ終えた後、わたしはテルドリンを伴って、すれ違う人に道を聞きつつ、回復魔法の教授であるコレット・マレンス先生の執務室の前までやってきた。

 

 執務室の前で、小柄な中年女性が両手を揉み合わせながら左右に視線を走らせていた。彼女はわたしに血走った目を留めるなり、その目をカッと見開き、頬を紅潮させ、鼻の穴を膨らませて、ずんずんと歩み寄ってきた。

 

「あたしに何か用?」

 

 かすれただみ声で彼女は尋ねた。彼女のことは、何度か食堂で見かけたことがある。いつも独りで黙々と、険しい顔で食事を摂っていて、なんだか近寄りがたい雰囲気だった。

 

「コレット・マレンス先生ですか? わたしは――」

 

 わたしが名前を告げるなり、彼女は跳び上がり、わたしの右手を両手でがしっと掴み、わたしの顔を食い入るように覗き込んだ。彼女の血走った目は涙で潤んでいた。目の下には濃い隈が浮かんでいた。寝不足なのだろうか。それに、なんだか息が酒臭かった。

 

「そうよ、あたしはコレット・マレンス。やっぱりあなたがそうなのね、あたしには分かってたわ!」

 

 呆気に取られたわたしを完全に置き去りにして、彼女はまくし立てた。

 

「あたしはね、あなたの話を聞いた時、とっっっても嬉しかったのよ。ついに! 久しぶりに! まともな回復魔法の使い手が現れたってね!

 

 連中はいつもあたしに言うの、回復魔法なんてただの添え物だ、適当に使えばいいじゃないか、きちんと修めたり研究したりなんて馬鹿らしいって。回復魔法こそニルンで最も役に立つ魔法なのに、誰も分かってくれないの! とんでもないことだわ!!」

 

「そ、そんなことを言う人がいるんですか。大変ですね」

 

 わたしは、このままだと彼女と鼻の頭がくっついてしまいそうだと思い、適当に調子を合わせた。回復魔法は八大神の司祭がよく使っていたし、わたしが使えると分かると衛兵などからは普通に羨ましがられたが、魔法使い同士だと事情が違うのだろうか。

 

 コレット先生の、ダンマーでもないのに充血していて赤っぽい目から大量の涙が溢れた。彼女はわたしを、その細い体のどこにそんな力が秘められていたのかと思うくらい強い力で抱きしめた。薬草と酒とインクの匂いが鼻の中に流れ込んだ。

 

「ああ! やっと理解者が現れた! キナレスがあたしたちを巡り合わせてくださったのよ、そうに違いない! あたしたち、いい師弟になれるわ。そうよ、今度こそ、今度こそは絶対に……」

 

 今度こそはなんなのかが気になったが、彼女がその先を語ることはなかった。彼女はわたしを抱擁から解放し、わたしの腕を引いた。

 

「執務室に入りましょう。廊下で話してるとすぐ文句を言われるの。嫌な連中よ」

 

 彼女に引っ張られるがまま、彼女の執務室に入って、彼女が予め自分の机の前に用意してくれていた椅子に座った。執務室は、見た目には片付いていた。ただし、本棚に羊皮紙が溢れんばかりに詰め込まれていたり、本がサイドテーブルの上に大小や向きを全く考えずに積み重ねられていたりして、少し触れば全てが崩れてきそうな危うさが感じられた。

 

 テルドリンはわたしに続いて執務室に入り、出入口近くの本棚の前に陣取った。あの位置ならわたしたちの会話や魔法の練習の邪魔にはならないだろう。

 

 ところが、コレット先生は彼をじとっと睨みつけた。

 

「ちょっとあんた、さっきからなんなの? 薄気味悪くこの子に付き纏って、どういうつもり?」

 

 そういえば、テルドリンのことを紹介しないまま話が進んでしまっていた。

 

「彼はテルドリン・セロ。わたしの護衛です。何かあったときのためにいつもそばにいてもらってます」

 

「何か? あたしが何か騒動を起こすとでも思ってるの!?」

 

 コレット先生の声が跳ね上がった。わたしは思わず身を縮めた。コレット先生は、はっと目を見開き、あわあわと口を動かした。

 

「ごめんなさい。ああ、驚かせちゃったわ、本当にごめんなさい。あのね、授業はあなたと二人きりでやりたいのよ。そうでないとあたし、緊張しちゃうの。だから彼は外で待たせておいてもらえる?」

 

 わたしはテルドリンに目を向けた。テルドリンはとても不服そうだったが、わたしが頷くと、黙って退出していった。

 

 コレット先生はテルドリンが出ていった後は気分が安定したようだった。彼女は宿題の本の内容についてわたしに質問をした。何しろ急に詰め込んだもので思い出せないことも多かった。正直に覚えていないと言っても、意外にも彼女が怒り出すことはなく、それどころか微笑みさえ浮かべて、早口で答えを教えてくれた。

 

 コレット先生が一通り質問を終えて満足したと思われた後で、わたしはおずおずと言った。

 

「あまり理解できてなくて申し訳ありません。今まできちんと教えてもらったことがなくて、本を読むのも下手なので」

 

 コレット先生は胸の前で手をひらひら振った。

 

「構わないわ。理論なんて魔法を使っていくうちに理解していけば十分よ。この本について、あなたから何か質問はある?」

 

 思いのほか砕けた雰囲気だ。わたしは安心して、ここ何日か不思議に思っていたことを伝えた。

 

「質問というより、感想ですけど。魔力の壁も回復魔法なんですね。この間の授業の時トルフディル先生が教えてくれたので、てっきり変性魔法だとばかり思ってました」

 

 すると、コレット先生は微笑はそのままに、頬をぴくぴくと痙攣させた。

 

「トルフディルは未だにあれが変性魔法の一種だと勘違いしてるのよね。五年前の教授会で回復魔法に分類を変更したのを覚えてないのよ」

 

「分類、が変わったんですか?」

 

 コレット先生はしかめ面になった。

 

「ええ、変性魔法と回復魔法の中間にあるような魔法だから、ときどき変わるの。でも一旦回復魔法に決まったんだから、トルフディルもあたしのお鉢を奪わなくたっていいと思わない? まさか自分の方が教えるのが上手くて学生に人気もあるからって、あたしの代わりに教えてやってるとでも考えてるのかしら? ねえ、どう思う?」

 

「あの……おっしゃってることがよく分かりません」

 

 恐る恐る言った。コレット先生は一瞬ぼんやりとわたしを眺めた後で、慌てて強張った笑顔を作った。

 

「あ、あら、ごめんなさい。大学に入ったばかりだもの、まだ分からないわよね。それで、他に質問や感想はある?」

 

 わたしは違和感を覚えながらも続けた。

 

「ええと、じゃあ……死者撃退系の魔法って、幻惑魔法の恐怖の魔法と似てますよね? こないだドレヴィス先生の授業で習ったんですけど」

 

 コレット先生は鷹揚に頷いた。

 

「見た目は似てるわ。でも実際の原理は全然違うのよ。死者撃退系の魔法は治癒の魔法の応用なの」

 

 わたしは死者撃退系の魔法を使ったことがなかったので、興味をそそられた。

 

「どういうことでしょうか?」

 

「死者は生命力を嫌うの。治癒系の魔法は生命力を活性化させるものだから、それで術者の生命力を活性化させて発散すれば死者は逃げていくのよ。単に相手に恐怖心を抱かせて逃亡させる恐怖の魔法とは根本的に違うの」

 

「……なるほど?」

 

 分かったような、分からないような。とりあえず相槌を打っておいた。

 

 コレット先生はわたしの理解が追いついていないことを敏感に察知したらしかった。彼女の目は変わらず笑みの形に細められていたが、彼女の荒れた唇はわなわなと震えていた。

 

「回復魔法に相応しくないって思ったかしらね? ドレヴィスはそう思ったのね、だからあなたに恐怖の魔法を教えたのよ」

 

 彼女の目は暗い光を帯び、視線はわたしを通り過ぎて何もない虚空を見据えていた。

 

「あの男は以前から死者撃退は幻惑魔法か召喚魔法に分類するべきだって言ってた。原理を考えれば回復魔法以外の分類はないのに。ドレヴィスはフィニスと結託してあたしをここから追い出そうとしてる。あたしの大切な弟子を奪おうとしてる。でもあたしはあの男の思惑通りにはならないわ、ええ、絶対に」

 

「あのう、コレット先生?」

 

 コレット先生は弾かれたように肩を震わせて、彷徨っていた両目の焦点をわたしに合わせた。

 

「あ……ああ、ごめんなさい。貴重な授業の時間をドレヴィスの悪辣さを嘆くのに使っちゃいけないわね。

 

 本について他に質問がなければ、そろそろあなたの魔法の腕前を見せてもらおうかしら。大まかなところはファラルダから聞いてるけど、細かく確認して授業の進め方を決めたいの」

 

 それからわたしは午前いっぱいを彼女と二人で過ごした。ようやく解放された時にはぐったりと疲れていた。何しろ、少し気を緩めると彼女の妄想が始まってしまうのだ。かなり気を遣った。

 

 コレット先生の執務室の外に出ると、テルドリンは扉のすぐ横の壁に寄りかかっていた。彼は苦笑の絡んだ声で囁いた。

 

「どうだった、と、わざわざ聞く必要もないか。前途多難だな」

 

「しばらくはね。慣れれば大丈夫だよ、たぶん」

 

 半ば自分に言い聞かせるように希望的観測を口にした。それから、テルドリンが今日の午後いっぱいは大学の外に出かけると宣言していたことを思い出した。

 

「もう出かけるの?」

 

 塔の階段の方へ向かいながら尋ねた。テルドリンは後ろをついてきた。

 

「部屋に荷物を取りに行ったらな。夜には帰ってくる」

 

「そっか。わたしは午後は休みだから、部屋か図書館で自習してるよ」

 

 わたしたちは階段を降り、廊下を突っ切って塔の外に出た。空模様はあまりよろしくなく、薄灰色の空に、汚れた羊毛を薄く裂いて伸ばしたような雲が広がっていた。今にも粉雪が舞い始めそうだった。

 

 食堂の前までやってくると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。昼食の時間を告げる鐘はあともう少し経たないと鳴らないだろう。

 

 わたしはテルドリンを振り返った。

 

「あのさ、よかったら教えてほしいんだけど。どういう用事なのか」

 

 テルドリンはおどけた声色で言った。

 

「私が娼館で遊び呆けてくるのではないかと心配になったか? あるいは鉱山で日雇いの助っ人でもやるのかと?」

 

「そっ、そんな心配はしてない。何をしようとテルドリンの自由だよ。そうじゃなくて……」

 

 本来、わたしの護衛から解放されている間の彼の行動に興味を持つべきではない。でも、ウィンターホールドに到着した時の彼の態度は奇妙だった。それに、例の部屋の問題もある。昨日は彼を引き留めるのに必死で、今朝までに何も起こらなかったら気にしないと約束してしまったけれど、そうあっさり割り切れるはずもない。

 

 どう伝えようか迷っているわたしをテルドリンはじっと見下ろし、先ほどまでとは打って変わって静かな、かすれた声で言った。

 

「安心しろ。命の危険があるわけでも、お前に迷惑を掛けるわけでもない。それに、一度きりだ。ほんの一度きりでいいんだ……それで私は満足する」

 

 謎かけのような言葉だった。わたしの問いへの答えにはなっていない。それでも、これ以上追及したら踏み込み過ぎのような気がして、わたしは口を閉ざした。

 

 空気が沈みかけたところで、テルドリンはいつもの陽気な笑いを飛ばしながら歩き出し、すれ違いざまにわたしの背中を叩いた。

 

「ハハハ、まだあの部屋を怖がっているのか? 臆病者め。万一その妙な音が聞こえてきたらオンマンドの部屋にでも逃げておけ。不安なら、はなから図書館にでもこもっているがいい。用事が終わって帰ってきたら、すぐに迎えに行ってやる」

 

 わたしは縋るような気持ちで念押しをした。

 

「ほんとに? 迎えに来てくれる? 怖くなくなるまで一緒にいてくれる?」

 

 テルドリンは兜とマスクを着けた顔だけこちらに向けて、フッと軽く息を噴き出した。

 

「ああ、そうするよ。大きな赤ん坊のお守りはもうこりごりなんだがな。雇われてしまった以上、せめて一人歩きができるようになるまでは世話をしてやろう」

 

 その時、昼食の時間を告げる鐘が鳴った。あちこちの塔から待っていましたとばかりに色とりどりのローブを着た学生や教職員が飛び出してきた。

 

「それじゃ、私が帰るまで大人しくしているんだぞ。例のカジートの機嫌を損ねて丸焼きにされないようにな」

 

 テルドリンはかすれた声に笑いを滲ませ、大股で歩き去っていった。

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