定休日の食事処ナオは静かだ。
休みだから客が来ることはなく、総司もアニからの注意を受けて料理研究に励む事も無いから厨房から物音は立たない。
二階で暮らしているアニもユミルも休みにはよく外出する。
アニは理由も言わずにフラッと何処かに出かけ、ユミルは大概常連客であるクリスタかヒストリアと買い物を楽しんだりしている。今日は予定が付かなくてイザベルと一緒にいろんな店を巡って食べ歩きをするらしい。
どうも食事処ナオでの食事に慣れてしまったせいで舌が肥え、前まで普通だった固いパンに干し肉、薄いスープでは物足りなく感じて来たのだ。
営業中なら客として、仕事中なら賄いで総司の料理を味わえるのだが、定休日はそうはいかない。
そこでユミルとイザベルは食事処ナオの定休日と被ってない出店や飲食店を巡っては、総司の料理の代わりになる店を探し回っているのだ。結果は芳しくないらしい。
兎に角、定休日の食事処ナオは静かで、今日は何時に増して静寂が支配している。
いつもなら居る筈の総司もナオを連れてトロスト区襲撃訓練を見物しようと出かけて行ったので、建物内には一人しかいない。
人の気配はするものの声はせず、小さな呼吸音とペラリペラリと微かに聞こえる紙の擦れる音。
窓より入る日差しで文字を照らして、並び続く列に目を走らせる。
すでに三冊ほど読み切っており、今日中に読もうと思っている本と並んで積んでいた。
ファーラン・チャーチの定休日の過ごし方はいつもこうだ。
朝早くより訪れて夕刻まで総司の書斎で本を読み漁る。
そこらで売っている物より段違いに良い紙質に乱れることの無い文字の列。
良く通っている本屋では見ることの無い作品がずらりと並んでいる。
料理系の本は勿論としてファーランが読んでいる小説や絵と台詞で構成されている“漫画”なるものも多くある。
ここにある小説を読み切ったら手を付けてみる事にしようとは思う。
ふと、文字の羅列によって創り上げられた世界から意識を現実へと戻すと、読書を妨げるような不快感が押し寄せてくる。
朝早くから読み続け今や昼食時。
本を読むことしか考えてなかったので朝食を後回しにしてしまって結果、空腹感で胃が食べ物を欲して鳴き喚き、身体がやけに重く鈍く感じる。
そういえばと今日は人が来るんだったと思い出した。
あまりに本に集中して忘れるところであった。
合鍵を持っているとの事で別段慌てる事も無いが…。
「おやぁ、君が総兄が言っていた子だね」
厨房へとふらりと寄るとそこにすでに人影があり、すぐさま顔には出さずに警戒する。
相手は短めのボブカットに顔の比率に対して大きめの目が特徴的な女性。
前に見せて貰った家族写真に映っていた顔と一致していることからこの女性が総司の従妹なのだろう。
書斎にあった漫画は総司の私物ではなく、この女性に押し付けられたものだとか…。
「ふむ…スラっとした長身に落ち着いた感じの整った顔立ち、姿勢に乱れもないし―――色んな
コスとは一体何なんだろうか?
疑問符を浮かべていると何故か向こうも首をかしげて疑問符を浮かべた。
「んー?もしかしてコスの意味が通じてない?……“攻め”の反対って分かるかな」
「攻め?攻撃の反対なら防御だろ」
「うん、
アハハと苦笑いを浮かべられた後にコホンと咳払いして
「まずは自己紹介を。アタシは
「俺はファーラン・チャーチだ。フロア担当させて貰っている」
「にしても総兄が外人さんっていうかそもそも人を雇うなんて意外だったよ。総兄って料理関係って何でも自分でやるから店も一人でやってると思ってたから」
あははと笑うがあながち間違っていないと思う。
フロアは俺達に任せているが料理に関しては総司一人でやっているし、フロアチーフのユミルが入る前は一人で営業していたと聞いた事がある。
「おっと、忘れない内に渡しておくね」
そう言うと
中には下方が白で上部がオレンジ色と銀色の長方形の物が二本入っている。
受け取ったがこれは…?
「受け取ったけどこれは?」
「
「食べ物と言う事は料理人ですか」
「
何と言うか似てない。
早口で喋りながら表情がころころと変わる。
総司はほとんど微笑んでいるばかりなので彼女と比べるとまるでお面を被っているように思えてくる。
それにしても“スシ”とは何なのだろう。
メニューには無い名前にファーランは首を傾げる。
「寿司というのはどういう料理なんだ?」
「えっ、お寿司知らないの!?刺身をシャリに乗せて握る日本を代表する料理だよ。世界的にも知られてると思ってたんだけど…うーん」
「知らないといけないのか?」
「いけないと言うか
止める間もなく厨房に入っていく。
いとこと言う事でスルーして良いのか、断固として止めた方が良いのか悩む間には冷蔵庫より調味料を取り出し、米を洗って炊飯器で炊き出していた。
一体どんなものなのかと気になる事からもう止める事もせずにカウンターから窺う。
量を少なくした白米が炊けると奥から
米を混ぜ終えるとクーラーボックスより身のみとなった魚が取り出され、まな板の上に乗せられる。
川沿いでも湖の近くでもない食事処ナオは店で取り扱う魚はリーブス商会が独自ルートで毎朝仕入れてくれているが、輸送している間に鮮度が落ち、食中毒に当たる可能性が高いことから焼くか煮るかして提供している。
だからその魚の身も焼くか煮るかすると思いきや、包丁で切り分けたらそれで準備を終了したのだ。
これにはファーランも驚きを隠せない。
「生魚を使うのか?」
「あ、もしかして刺身嫌いだった?」
「いや、生だと
「大丈夫だよ。最近の冷凍技術は凄くて鮮度がほとんど落ちないんだ。本当なら朝一に仕入れたのを持ってくるべきなんだろうけど店が休みでさぁ…。ま、ここに来るまでクーラーボックスに入れてたから大丈夫だって」
解らない言葉が出てきたが、米を素手で触り始めた事でそちらは吹っ飛んだ。
もし同じことを俺がしたら“笑ってない笑み”を向けられていただろう。
触る前に洗っていたとは言え素手で食材に触れるとか良いのだろうか?
「素手で触るのか?」
「本当に知らないんだね。お姉さん悲しいよ。お寿司ってのはそういうモノなの。まぁ、今では機械で握ったり、ゴム手袋で握るところもあるんだけど」
米を握ると素早く手が動いて米が楕円形に形成され、切り分けた白身の魚を乗せて握り、カウンターに置いた
一連の動きは目で追えていた。
追っていた筈なのだが追えていただけで手早過ぎて何をどうしたのか全く理解が追い付かなかった。
「へい、お待ち。まずは白身の鯛から行こうか」
どう見ても楕円形に整えられた白米の上に“サシミ”なる生魚が乗せられただけにしか見えない。
木製の板の上に置かれた
…美味い。
何気なく食べたのでそこまで味わっていなかった。
けれども美味しいという事だけは脳が把握できなくとも味覚が理解した。
板の上にはもう一つ乗っており、今度は味わう様に噛み締めた。
淡白ながらも甘味を持ち、柔らかくも薄さに対して弾力がある。
このタイだけでも美味いのだが、下のシャリというのはほのかな酸味と程よい甘味を持った甘酸っぱい味付けがされており、タイの旨味を引き立て食感も非常に合っていた。
「美味しいでしょ」
心を読まれたようなタイミングで声を掛けられ、顔を上げれば勝ち誇ったような表情が映る。
しかしそれに対してどうこういう事は出来ない。
確かに美味いのだ。それも非常にだ。
「あぁ、凄く美味しい」
「ふふ、次は
嬉しそうに板に置かれたのは肉のような赤みの刺身を乗せた寿司。
今度は最初っから心して口にする。
一応噛み締めたがこれは噛む必要がなかった。
口に入れ舌の上でホロリと解けたのだ。広がる血の気を僅かに残した味わいと旨味。
寿司と言っても一つ一つでかなり異なる。
同じなのはシャリぐらいだ。
もう一つを味わい、スッと彩華へと視線を向ける。
クスリと笑われた。
「本当に気に入ったんだね。お姉さんは嬉しいよ」
「――ッ…そんなに物欲しそうな顔をしてましたか?」
「うん、とっても」
表情に出ていたとはいやはや恥ずかしい。
温かいお茶で喉を潤し、口の中を一度リセットさせながら自然体を取り繕う。
次に出されたのは“
これは知っている。
よくユミルが食べる奴だ。
マグロより色は薄いが、タイのように白くはない。
赤身に側面の銀色の皮がキラキラと輝く。そして上に黄色薬味らしきものが乗っている。
マスタードかからしかと疑いながら、少し躊躇いながら含む。
辛味は無かった。
あったのは塩サバやサバ味噌でも感じたサバの味に生の為に癖のある臭みが強く広がるが、上に乗っけてあったおろし生姜によって癖をしつこくなくさっぱりとした口当たりへと変えていた。
頬を緩ませながらも気付いた事がある。
口に含んだ寿司の温度が一定なのだ。
冷たい訳でも熱い訳でもない。
よくよく観察してみると握る時間が違うような…。
観察しながらも次々と新たな寿司が出される。
一つのシャリに円形の刺身が二つ乗せられた“ホタテ”はぷにっと柔らかながらも弾力があり、味の濃いネタが続いたので主張し過ぎない控えめな味わいが口の中を落ち着かせてくれる。
“イカ”という白身以上に純白の刺身はとろりとなめらかな食感が特徴的で、噛めば溢れる旨味と一緒に味覚に絡みつく。
常連となったニファがよく頼むものより大きく横開きに開かれた“エビ”は、しっかりと焼かれて噛み応え十分で濃い海老の味が甘酸っぱいシャリともタレの醤油とも合う。
魚の刺身ではなかったが卵焼きが出された時には目を疑った。塩気の強い卵焼きとシャリが合うのか不安だったが、卵焼きは塩気ではなく優し気な甘味が強く、甘じょっぱさをなめらかに包み込む様な卵の食感と甘味が良い。しかも卵から出汁が溢れて口内が潤う。
温かいお茶を飲み一息つく。
「寿司って言うのは本当に美味いな」
「そう言って貰って嬉しいよ」
まったくこの寿司というのは美味し過ぎる。
一つ一つ違って飽きる事がない。
腹さえ膨らまなければ何時までも食べられそうだ。
これを今まで知らなかったのは悔やまれるところだ。
満足気に息を吐き出し、もう一口お茶を飲む。
「最後は巻き寿司を作るところなんだけど、巻き寿司はまだ出来ないんでハマチとえんがわ、トロで勘弁してね」
最後と聞くと惜しく感じるが腹も結構溜まっているのでちょうどいいだろう。
まずはハマチを食べると肉厚な身を噛み締めると濃厚な脂の旨味と甘味がじゅわりと広がる。肉ほど脂濃くなく甘味は強い。どちらかというとこちらの方が俺の好みだ。
“エンガワ”というのはイカのように純白な身で、いくつも横向きに切り込みが入れられていた。
含むとコリコリとした弾力に噛めば溢れる脂の旨味。そしてエンガワとシャリの間に葉が差し込まれており、葉の独特な青っぽさが味わいに深みを与える。
「えんがわは炙ったらしっかりとした食感を残しつつ、脂身がとろけるように柔らかくなって噛めばとろりと蕩けるんだよね。なにより温かいから味も増してもっと美味しくなるんだよぉ」
口で軽く説明されただけなのだが、想像しただけでゴクリと喉を鳴らしてしまった。
これがそれほどに美味くなるのか。
期待の眼差しを向けると非情に残念そうに笑う。
「あー、ごめんね。バーナーの位置が分かんなくて…」
「―――ッ!?い、いや」
物欲しそうにしてしまったかと恥ずかしそうに顔を伏しつつ、最後のトロへと視線を移す。
赤く艶やかな身に網の目状の脂が広がっている。
………これは生魚ではなく生肉ではないのか?
美味しいのだろうと思いつつも、少し不安を過らせながら口へと入れた。
柔らかいとか解けたとかレベルではない。
――溶けた。
本当に噛まずに舌上で溶けたのだ。
広がる濃厚過ぎるマグロの旨味と、比べ物にならないほどの脂の量。
これは美味いというか凄いというかまた別物である。
大満足なファーランはふと思った事を口にする。
「寿司はこの店では出せないのだろうか」
「う~ん、無理だと思うよ。寿司は生魚だから入荷の量とか気にしないと余るか足りないかするからね。寿司屋のように提供するのはちょっと」
「そう…ですか」
少し…いや、かなり残念に思えた。
食事処ナオで提供する料理になればまた味わえると期待を持ってしまっただけに、食べれないと分かった落差が激しい。
「あぁ…でも数量限定して海鮮丼とかならワンチャンいけるかな」
「海鮮丼?」
「丼に酢飯を入れて、その上に何種類の刺身をのせる丼物だよ」
「―――ッ…分かった。帰ったら総司に言ってみよう」
この日以来、数量限定で海鮮丼と一部刺身が解禁されたのである。
メニューが増えた一番の理由は、いつも落ち着いているファーランが饒舌に説得しようとしてきてからで、覚えのある早口に総司は彩華に連絡を入れるのであった。
あと、海鮮丼と刺身は生魚を使っている為に“度胸試し”と呼ばれるようになり、とある人物が食べさせられることになるのだがそれは別のお話で…。
●現在公開可能な情報
・総司の血縁者
・飯田 彩華
総司の父方の妹の娘。
家が近かったので昔から兄妹同然に育って来た。
料理は好きだが総司程料理馬鹿ではなく、ちゃんと趣味の時間や身体の休息もちゃんと行っている。
趣味は衣装作りにコスプレしたりさしたりすることである。
コスプレする時だけ化粧をするが普段はまったくしていない。
祖父の味を覚えている総司に味が近づいたかを見て貰いに度々訪れている。
・飯田 源治
源爺と呼ばれている総司からしたら父方で、彩華からしたら母方の祖父。
面倒見は良いが口は悪く、口よりも先に拳骨を落とす人物だった。
寿司職人としての腕はかなりのもので彩華の目標である。
総司と彩華曰く、寿司よりもカツ丼作りのほうが上手かったとか…。