ある日の定休日。
飯田 総司は台所に籠って調理に没頭していた。
いつもなら休日ぐらい休めとアニに叱られるが、本日作っているのは試作兼夕飯と言う事で許しが出たのだ。
作っているのは以前ユミルに夜食で出した事のあるピザ。
前にユミルの口から洩れてイザベルに注文された事で常連客に知られ、メニューには載せないのかと言われていた。
食事処ナオにはいろんな調理器具はあっても窯はなく、当然ピザを作るにもオーブンかフライパンでと言う事になる。
賄いや個人で楽しむ分には良いが、店に出す前提で作っていなかったので、試しにと試作に励んでいるのだ。
店内では試作の完成をまだかまだかとアニにイザベル、ファーランにカーリーが待ち侘びている。
本当ならニコロとライナーも居る筈であったが、青空食堂の弁当作りに定休日の屋台で忙しくて来れずに酷く残念がっていた。
そしてエレン、ミカサ、アルミン、クリスタ、ユミルの五人は日帰りでマーレに渡っている。
と、言うのもジークからフリッツ王家の者が見つかったと報告を受けたのだ。
王女となったヒストリアは動くには時間が掛かり、フリーダも貴族の立場から早々に動けない。
そこでフリーであるクリスタが会いに行くことに。
エルディアに比べて科学が発展したマーレ国に興味を抱いたアルミンは同行を申し出て、続いてエレンとミカサも付いて行くことになり、クリスタが行くならとユミルまでもマーレへと出かけたのだ。
予定通りなら夕飯までに帰って来る話だからそろそろ帰って来るだろうか。
いや、マーレに行く手段は船の為、海の荒れ具合によっては日付を跨ぐことだってある。
なんにしても無事に帰ってくれればそれだけで良いと思いながらピザを焼いているオーブンとフライパンの様子を注意しつつ、次のピザ生地をしっかりと練る。
そうしていると玄関の方が騒がしくなったのを察し、帰って来たのかなと調理の手を止める。
しかし「ただいま」と帰りを知らせる声はせず、代わりにどたどたと慌ただしい足音が迫って来た。
何事かなと視線を向けるとアニが駆け込んできた。
「……ちょっと面倒事」
慌てた様子に火を止め、急ぎ玄関へ向かうとそこにはエレン達に加えて一人の幼い少女が立っていた。
ぼんやりと俯いて地面を眺め、簡素な服装は擦り減りと汚れが酷く、少女自身も汚れていた。
ただ今日昨日汚れたという様子ではなく、数日数週間と長い時間で積み重なった汚れのように見て取れる。
総司を見て説明しようとするもそれぞれが口を開くために聞き取れない。
とりあえず怪我の類でないと安堵し、皆を落ち着かせる為にも手を叩いて大きな音を立てる。
「兎も角その子をお風呂に。お風呂の用意に彼女に合う服が必要ですね」
「風呂の用意してくるよ」
「服買って来る!」
大きな音に驚いている間に指示を出すとアニはお風呂場に、イザベルが服を買いに街へと走って行った。
服に関してはイザベルだけでは不安だったのかカーリーとファーランも付いて行く。
残るマーレに行ったエレン君達には事情を説明して貰わなければと総司は外で帰りを待っていたであろうナオと共に苦笑する。
少女は困惑しながらも期待を抱かずただただ俯いていた。
生まれてからずっと奴隷のような生活を強いられてきた…。
命じられるままただ仕事を仕事を熟し、褒められる事はなくそれが当たり前とされ、都合が悪いと責任を押し付けられて身代わりとされる。
この世界は酷く残酷なのだ。
希望は抱かない。
抱けば抱くだけ無駄で、抱くだけ後で味わう絶望も大きいものとなる。
だから今回血縁者に引き合わせる話が来た時も引き取られる事になっても別段想うところも無かった。
主がただ変わるだけ…。
少女は淡い期待を抱かぬように希望に蓋をして、流されるままに身を任せる。
奴隷として扱われていた集落を離れ、船に乗って国を渡り、辿り着いたのは一件の飲食店兼住居。
これからはここで
まず到着して最初に連れていかれたのは浴場。
真っ白な壁に
掃除をしろと言う事なのかと思ったら、身を綺麗にしろと言う。
どうして?
服も身も汚いのは解っている。
けど私にとって浴場は掃除する所で、私が汚れを落とすのは季節に関わらず外にある井戸付近。
浴場で身を洗っては汚してしまう。
そう伝えると浴場まで連れて来たアニと言う人は少し頭を抑えて考え込み、ぽんぽんと浴場に置いてあった椅子を軽く叩く。
「服を脱いでここに座りな」
きょとんと戸惑っているとため息交じりに手を引かれ、服を脱がされると椅子に座らされた。
ここからは驚きの連続だった。
「目を瞑りな」と言われて目を瞑ると温かなお湯がゆっくりとかけられて身を濡らし、湿った髪を解すように現れていく。それも洗剤を使ってだ。
髪にも年月を積み重ねた汚れがべっとりと付着しているので中々泡立たたず、お湯で流して泡立つまで何度も繰り返す。
ようやく泡立ち始めると頭皮をマッサージするようにごしごしと洗われ、気持ちよさからうとうとよ睡魔が襲ってくる。
睡魔に耐えているとしっかりと髪についている汚れと泡が流されて眠気が失せた。
目を開けても良いよと言われて瞼をあげると、正面に置かれた鏡にはくすんでいた髪色が鮮やかな髪色へと変貌していた。
汚れが落ちただけだがあまりの変わりように驚きと興奮に包まれて、気のせいか頭が軽くも感じられる。
何より不快なのが普通となっていたべとべととした感じは消え失せてすっきりしたのが良い。
髪を洗い終えたアニはスポンジを泡立てて、肌の汚れを落として行く。
全身をふわふわの泡が包み、こびり付いた汚れが泡を染めては流れ落ちる。
泡もだがスポンジも柔らかくて気持ちがいい。
されるがままに頭も体も綺麗になったところで、今度はお風呂に入るように言われて見た先には、浴槽一杯に貯められた温かで、今まで口にしていた飲み水以上に透き通ったお湯。
本当に自分が入って良いのかと何度も確認を取ったが、変わらぬ答えに不安と安堵を交じり合わせた感情を抱き、存分に堪能した。
芯から温まる。
身体だけでなく心もポカポカと温かだ。
こんな幸福でも良いのだろうかと思ったところで、いつの間にか
しっかりと温まった少女を待っていたのは真っ新で柔らかなタオルと温風が発生する
優しく身体についていた水気が拭き取られ、髪は温かな風で乾かされふわりと靡く。
さらに新しい服と下着まで与えられて喜びよりも戸惑いの方が強くなってしまう。
奴隷の自分に何故こうもしてくれるのだろうか…と。
不安が強まる中、服を着た少女は誘われるまま食堂に向かい、テーブルに並ぶ料理に目を奪われる。
美味しそうと思いながら席から離れた壁際に立つ。
いつもと一緒だ。
奴隷である私はそれを眺めさせられる。
口に出来るのは僅かな食べ残しや残飯…。
「何してんだ?食うぞ」
そんな少女にエレンは顔を顰めつつ、手を取ってテーブル席へと連れて行く。
またも戸惑いながらも座らされた少女は周囲を眺めるばかりで料理に手をつけようとはしない。
その様子に先ほど同様に顔を顰めたエレンが「どうして食べないんだ?」と問いかける。
すると当たり前のように自身が奴隷と言う立場である事と、これまでの
語れば語るたびに周囲の表情が曇る。
「もう良いんだ」
話を遮るように後ろからぎゅっと抱き締められた。
力強く、少し痛くも感じるも温かな人の腕。
「お前は奴隷なんかじゃない」
耳元で囁かれるエレンの言葉が脳髄を駆け巡る。
期待から生まれる感情を思考が堰き止める。
無駄な期待だと…。
抱くだけ無意味だと…。
淡い一時の夢だと…。
そんな少女にエレンは続ける。
「誰にも従わなくていい。お前が決めていい」
期待する感情とそれを否定する思考がぶつかりせめぎ合う。
心音がドクンと大きな音を立て、鼓動が響くたびに希望が顔を出してくる。
徐々に強まる感情にダムのように堰き止めていた思考の壁がぴしりと音を立てて罅が入った。
「待ってたんだろ?ずっと…」
涙が溢れ出して来た。
ポタリポタリと垂れる涙がスカートを濡らす。
止めようとしても止まらず、次第に感情が高ぶって声まで漏らし始めてしまう。
見っとも無く泣き喚く少女をエレンはしっかりと抱き締める。
溜まっていた思いを吐き出すように泣いた少女は、安堵感と泣き続けた疲労から身体が栄養を欲して空腹感を強める。
きゅ~とお腹が鳴き、恥ずかしさから小さな手でお腹を押さえるも音は皆の耳に届いており、恥ずかしさから顔を真っ赤に染める。
「好きなだけ食べて良いんですからね」
そう勧められるまま皿に乗っていた料理―――ピザに手を伸ばして恐る恐る口にした。
薄くも香ばしく弾力のある生地に、熱が加わった事で甘みが増したトマトと濃厚なモッツァレラチーズの味わいが広がる。
ソースはガーリックとオリーブオイルを混ぜたもので、トマトとの相性が抜群だった。
美味しい。
言葉に表せない程美味しく、こんな幸せな食事は生まれて初めてだ。
幸せを噛み締めると言うよりは逃がさないように急くように口に詰め込み、頬をパンパンに膨らませる。
端っこのヘタはカリっと焼き上がって香ばしい。
「美味しいですか?」
優し気に微笑む総司に対して口をきけない分、何度も頷いて肯定する。
もごもごと口を動かし、ようやく呑み込む。
食べきったばかりだろいうのにもっとこの幸福を味わいたく、ゴクリと飲み込むと同時に次へと手が伸びる。
「そんなに急がなくとも無くなりませんよ」と総司が言うものの、隣の席に腰降ろしたエレンもイザベルも勢いよく食べる様子から、周囲は無くなるだろうなぁと笑う。
バクリと食らい付いた少女は味が変わった事に驚き、手にしたピザを見つめた。
生地には深みがあり複雑で豊かな味わいのトマトベースのソースが塗られており、上には脂の乗ったサラミにピーマンの苦味、伸縮性の強いミックスチーズが乗せられ、それぞれの味が合わさったハーモニーを奏でる。
同じトマトを使ったのにその味は全くと言って違う。
自然と頬が緩んで口と手が次々とピザを平らげようと動く。
黒くとろりと甘じょっぱいソースと香り立つ焼き海苔が食欲を刺激し、ごろっと食べ応えのあるソースの浸み込んだ柔らかくジューシーな鶏肉が胃を掴む照り焼きチキンピザ。
クニクニとした弾力のあるイカ、プチっと淡白な味わいの海老、濃縮された旨味が詰まったホタテなどの海鮮類をチーズで纏め上げたシーフードピザ。
ピリッと辛味を持ったざらついた明太子ソースにまろやかさを与えるチーズが一口食べれば癖になる明太子ピザ。
舌触りはなめらかで素朴な味わいを残しジャガイモにまったりとしたマヨネーズ、噛めば肉の旨味の脂と共に溢れるベーコンまでも合わさるジャーマンポテトピザ。
どれもこれも違って美味しく、手も口も止まることなく限界まで胃に詰め込んでしまった。
動く事すら辛くなった少女は隣で同じ状況に陥っているエレンと目を合わせて、幸せ過ぎる現状に強い不安を抱いて口を開く。
「私…ここに居て良いの?」
その問いにエレンを含めた全員の視線が総司に向けられる。
不安に駆られている少女も視線を向けようとしたら急に膝が重くなり、何事かと見下ろすと一匹の黒猫が飛び乗っていた。
「ナァオウ」とひと鳴きすると大欠伸をして膝の上に座り込む。
ナオに気を取られている間に総司は近付いて視線を合わせる。
「貴方はどうしたいですか?」
命じられるのではなく問いかけられた。
言われたことに従うのではなく意思を求められた。
初めての事が続いて起こり、やはり戸惑いが付きまとうもそれが今は心地よい。
「居たい…です…」
少女―――ユミル・フリッツは涙を零しながら、声を大にして自身の意思を伝え、総司たちはその意志を受け止めたのだった。
●現在公開可能な情報
・看板娘
食事処ナオで新たに小さな女の子――ーユミル・フリッツが手伝う事になった。
口数は少ないが小さな体で一生懸命に働く様子は健気で、常連客の中にはお菓子を上げたりして可愛がったりしている。
クリスタなどは血縁者と言う事もあって特に可愛がってはいるものの、ユミル・フリッツは何故かエレンに懐いており、その度にエレンはクリスタより嫉妬の視線を向けられるのだった。