「おい、進藤!」
「なんだよ和谷~」
「大ニュースだ! 聞いて驚け!」
棋院のとある部屋。
和谷はハイテンションでヒカルに話しかける。
「saiだ! saiがまた現れたんだ!」
「――佐為!? ……ってどうせネット碁だろ?」
一瞬大きく反応したヒカルだったが、どうせ偽saiか何かかと思い、すぐに冷静になる。
「ネット碁だが、違うんだ進藤! あの強さは間違いない! saiだ!」
「なんだ? 和谷、ネット碁で負けたのかぁ~」
「あの強さは間違いなくsaiだ!」
「和谷、みぐるしいよ。確かに負けた相手が佐為なら納得だけどな~」
「ホントなんだって! 進藤!」
そのときはまだ、ヒカルは全く真剣にとらえる気なんて、なかった。
※
一か月後。
様子が違うようだ。
ヒカルはアキラと、塔矢名人の碁会所で打っていた。
「キミならもう知っていると思うが、ネット碁にsaiが再び現れた」
「はぁ~お前もか、塔矢。佐為がいるはずねーだろ」
「……キミが言うのならそうかもしれない。しかしあれは、雰囲気の違いこそあれ、sai本人だと僕は思っている」
「はぁ~」
――もし佐為がいるんだったら、真っ先に俺に会いに来るはずだ。だから俺にも会わずに、ネット碁やっているなんてありえない! そもそも俺以外のやつに取り憑くなんてあってたまるか。
ヒカルは最近、確かにネット碁に強いやつがいるという話は聞いていた。
しかし(どうせもう、佐為はいねーんだ……)という気持ちからいつも話半分で聞いていた。
けれども、アキラの言葉でヒカルは真剣にとらえ始める。
「だが、ネット碁のレートは一柳棋聖を抜いて、一位となった。しかもまだまだ止まる様子はない。このままだと、前人未到のR3000を超すだろう」
「レート3000!?」
「ああ、だから今や世界中のトッププロたちがネット碁の世界に入り込んでいる。特に情報に目ざとい中国や韓国の若手はこぞってネットの世界に飛び込み、saiに申し込んでいる」
「……」
ヒカルは黙った。
そんなに強いやつがいるのか、と。
そしてそいつのことを塔矢は確かにsaiだと言っている。
自分の中の佐為を見つけるほどのヤツだ、こいつは。
『昔のキミだ。キミの中にもう一人、いる』
塔矢の言葉が蘇る。
たった2度しか対局していないのに、言い当てやがった。
そんな塔矢が言うのだから、間違いはないはずだ。
――本当に?
ヒカルは若干の恐怖を憶えながらも、衝動的に言い放つ。
「パソコンだ! すぐに確認するから!」
「あ、ああ」
アキラはノートパソコンを持ってくる。
「早く、早く!」
「ああ、少し待つんだ」
「わかーってるって! それでアカウント名はなんだ?」
saiではないのは確かだ。
それはヒカル自身が持っているから。
「シャインだ」
アキラはakiraという名前でワールド囲碁ネットに入る。
「シャインか……英語なのか?」
もちろんヒカルに英単語の知識はない。
「そうだ。光り輝くという意味の英単語だ」
「光り……輝く? ひかる?」
ヒカルはじとっと、嫌なものが頬を伝うような感触がした。
――ははっ、まさか、な。
ヒカルの顔色が少し悪くなる。
しかし、パソコンの画面を見ているアキラはそれに気付かない。
「……進藤、簡単な英単語なはずだ。中学で英語は習っただろう?」
「忘れたよ、そんなの」
「まあ、一部の棋士たちはシャインのことを“シネ”と読んでいるようだが……」
「シネ? どういうことだ?」
「エス、エイチ、アイ、エヌ、イーでshineだ。ローマ字読みするとシネと読めなくもない。芦原さんは、シャインちゃんと一緒にするな! と言って、断固としてシャインと呼ぼうとはしないが……」
「あはは、芦原さんもアイドル好きだったな、そういえば。和谷も碁に命かけているのか、アイドルに命かけているのか、分かんねーくらいだもん」
かなりの割合の人が、国民的アイドル溝口斜陰の大ファンだという事実。
しかしこれは別に、囲碁界に限った話ではない。
日本全体として、無視できない数の人間が斜陰の大ファンであった。
「だが、芦原さんはアイドルに傾倒し始めてから、かなり強くなっている」
「そうなんだよな! 和谷もシャインシャイン言い始めてから、一気に強くなった」
「もしかすると、アイドルのファンになれば強くなるのか?」
アキラは真剣な表情で言う。
ヒカルはその表情にぶぶっと吹き出してしまう。
「塔矢がアイドルのファンになるなんて、塔矢に彼女ができるよりもありえねーって!」
「……それは、どういう意味だ?」
「あはは。それに、村上三段もシャインのファンみたいだけど、全然強くなってねーよ!」
「……くっ」
アキラはパソコンを操作する。
ちなみにアキラは彼女いない歴=年齢である。
しかしまだ高校2年生。
――まだまだこれからだ、僕は! それに今は碁だ! 碁なんだっ!
そんな風に、できた傷を癒しながら、塔矢はパソコンの画面に意識を傾ける。
「進藤、どうやらシャインがいるようだ」
「本当か?」
「ああ、今は対局しているようだ」
画面が現れる。
shineは白。
レートは3150と表示されている。
相手は韓国国籍で、レートは2769。
かなり強いはずなのだが、shineの圧倒的な強さの前では、いささか力不足感が否めない。
「まだ始まったばっかみたいだな」
「ああ」
「だけど、この布石は……何? 見たことないけど」
「シャインは昔のsaiと違って、いろいろと新しい手を試しているようだ」
――ホントに佐為なのか?
ヒカルは疑う。
佐為はいつもバランスの良い布石を好んでいた傾向がある。
佐為の強さの根幹は、バランスの良さだ。
そしてそれを活かすだけの読みと計算。
ヒカルは“表面的な遊びの手”の裏に潜む、shineの実力を見抜こうとする。shineが繰り出す一手一手に注視する。
「その一手は……」
ピキリ……とヒカルの心に何かが刺さる。
「あ……ああああああ」
ポチ、ポチと、一手が繰り出されるごとにヒカルの心は揺れ動く。
「――佐為だ。佐為がいる!! なんで? なんでなんだ!? なんで俺じゃない! なんで!!」
ヒカルの泣きわめくような叫び。
それに対して、パソコンは無情にも、shineの一手をヒカルに伝え続けていく。
「佐為だ。自分の中にいる佐為なんかじゃない! 本物の佐為だ!! うわああああああああああああ!!!」
「進藤! 待て! 進藤!!」
ヒカルは逃げ出した。
パソコンに映る碁は終盤。
黒の逆転の目はもうほぼゼロというところだった。
※
ヒカルは自宅の自室に戻ってきた。
パソコンはある。
ヒカルは屍のように、暗い部屋の中、パソコンを見続けていた。
「佐為……どうして俺じゃないんだ。誰と一緒にいるんだ。なあ、佐為!!」
誰も答えてくれない。
ヒカルはシャインがログアウトすると同時に、ベッドに倒れこみ、眠った。