斜陰はヒカルの部屋にお邪魔していた。
本当に佐為がいるか確かめたい、一局打てば分かる、とお願いされて対局することになった。
斜陰はただ佐為の導くままに、石を置く。
ヒカルは、パチリと石を打つ。
そして、斜陰はコトリと置く。
親指と人差し指でつまむように持って、置く。私だけが初心者みたい……実際、私は初心者だ。和谷は才能あるって褒めてくれたけど、この二人からみれば、一人だけ赤子が混じっているようなものかな?
佐為もヒカルさんもまっすぐに盤面を見ている。
……私も、盤面を見ているのは同じ。
けど、この中で私だけが傍観者だ。
ヒカルさんの目には、佐為しか映っていない。
佐為の目には、ヒカルさんしか映っていない。
盤面を通して、互いが互いの姿を見ているんだ。
斜陰は、この場で自分だけが、ひどく浮いているような気がした。
けれど、どうしてだろう? 不思議と嫌な気分ではなかった。佐為に導かれるまま、石を置いていくのは、心地よかった。
しっかり寄せまで打ち切って、白と黒の宇宙は完成した。
終局だ。
ふとヒカルの方を見ると、目線は盤上に注いだまま泣いていた。
「……佐為」
ぽつりとヒカルは呟く。
目の前に佐為がいることを理解して。
「佐為っ! なんでいなくなったんだよ! 佐為!」
ヒカルは、斜陰の存在なんて気にせずに話し続ける。
「お前がいなくなって、広島まで行ったんだぜ? それで、お前が本因坊秀策だった時の棋譜もすごい並べて! この間なんか、公式戦で塔矢に勝ったんだ! あと、お前と打った棋譜も全部、紙に書いたんだぜ? まあ、公開はできないけどさ。それと、そう和谷がさ――」
そう、ヒカルは佐為の消えた2年間であったことをずっと喋り続けた。
そして、ひとしきり話したところで、
「話すことがいっぱいだ……」
と締めた。
佐為はヒカルの持つ扇子を指し示す。
(……佐為?)
『ちゃんと受け取ってくれたのですね……』
佐為はしみじみと呟くように言った。
「なんか言えよ! 佐為!」
しかしその声はヒカルには届かない。
しょうがない。
斜陰はヒカルの持つ扇子を指さした。
「ちゃんと受け取ってくれたのですねって、佐為が」
「っ!」
ヒカルは自身の持つ扇子に目線を落とす。
「……夢の中で扇子をくれたのは、ただの夢なんかじゃなかったんだ」
ヒカルは、右手に扇子を握りながら、涙を流した。
『私だって、消えたくなかった。ヒカルの傍にいたかった。けれど、役目は終わったんです』
佐為が言った。
これもヒカルさんに伝えるべきかな。
「それと、佐為も消えたくなかった。ヒカルさんの傍に居たかったって言っているよ? 佐為が私に取り憑いた時も、ヒカルさんを調べてあげるって言ったらすごく喜んでたし」
斜陰は言った。
「そっか……そりゃそうだよな!」
ヒカルは吹っ切れたように顔を上げた。
そしてその後、2局目が始まった。
しかしそれは対局と呼べるようなものではなく、棋譜並べだった。
ヒカルも佐為も丁寧に一手一手確認するように打っていく。
斜陰もなるべく丁寧に打っていった。
『これは塔矢行洋との一戦です。この碁をヒカルに見せるために、神は私に千年の時を永らえさせたのです』
佐為がこの棋譜並べをした理由とは何か?
もちろん、ヒカルがこの碁を覚えているか確認するためなんかじゃない。
佐為はこの碁を通して、ヒカルに問うべきことがあったからだ。
パチリ。
コトリ。
黒のヒカルと、白の佐為。石が盤上を少しずつ埋めていく。
そしてあと少しで終局というところで、ヒカルの手が止まった。
盤面はぱっと見、白が僅かに勝っているように見える。
実際、黒を持っていた塔矢行洋は、この碁に敗れ、プロ引退までしたのだ。
でも実は、この局面、唯一の逆転の一手があった――
――佐為は問いかける。
過去に縋り、本来の棋譜と同じように負けるのか。
未来に向け、神の一手を目指すのか。そして、佐為に勝ち、佐為を超えるつもりがあるのかを。
ヒカルは、盤面を見つめる。
その目に迷いはなかった。
「俺だって神の一手を目指すんだ!」
黒石が力強く、放たれる。
それは、本来の棋譜にない手――オキだった。
そんなヒカルの一手に、佐為は満足げに頷いた。
……実は、佐為がこの碁を並べたのには、もう1つの理由があった。
佐為は斜陰の方を覗き見る。
――ユウコさんにも感じるものがあったようですね。
斜陰は佐為に導かれ石を打つ度に、とても美しい盤上の宇宙を感じ取っていた。
佐為の千年の碁の集大成とも言えるものに、ただのゲーム以上の何かを感じたのだった。
「ごめんな、付き合わせちゃって」
気付けば日は落ちていた。
棋譜並べをした後は、佐為とヒカルは何局も打ち続けた。
たまに斜陰が佐為の言葉を伝えて、ヒカルが泣く。
そんな風に時間は過ぎていった。
「佐為もごめん、心配かけるような真似をしちゃって。俺、手合いに出るよ。そしていつか佐為のように、未来に碁をつなぐんだ」
ヒカルさんの言葉に、佐為は満足そうに頷いた。
『でも、1つだけ。ユウコさん、伝えてもらってもよろしいですか?』
(何?)
『私が見ただけでも、塔矢アキラや和谷に迷惑を掛けました。おそらくもっと。ですから謝るべきは、現代に生きる彼らに謝ってほしいんです』
そして、斜陰は最後にその言葉を届けることにした。
「ヒカルさん、佐為が謝るべき相手は自分じゃないと、そう言っていますよ」
「っ! そうだなっ! よっしゃ! 善は急げだ!」
ヒカルはバタバタとリュックサックを持ってくる。
「母さ~ん、ちょっと行ってくる~」
「ちょっとヒカル、こんな時間からどこへ~?」
「じゃあな……っと、名前も聞いてなかったな」
ヒカルは、男装斜陰の姿を見た。
斜陰はしかし、首を左右に振る。
「まだ、佐為が必要なの?」
斜陰は尋ねた。
今日の私は佐為の碁を見せただけ。『私』という存在は、二人の会話に参加していなかった。
だから、今ここで私の名前を答えることは、佐為のオマケとして答えることに他ならない。斜陰の返答はそのような意味が込められていた。
ヒカルは首を振る。
斜陰の意思は伝わったようだ。
そして、ヒカルはニッと笑った。
「佐為! またネット碁やろうぜ! それにお前も、プロを目指すなら師匠になってやってもいいぜ?」
そう言って、ヒカルは飛び出ていった。
……へ? プロ??
確かにヒカルさんはプロになったかもしれないけど、私がプロになることは絶対にない、と斜陰は思う。
「あの子は……最近は落ち着いてきたかと思っていたけど、まだまだねぇ」
とヒカルのお母さんがやってきて、ため息をつく。
ヒカルは行った。
斜陰も帰ることにした。
「僕も失礼します」
「ごめんね、せっかく来てもらったのに」
「いえ、気にしないでください」
これは社交辞令じゃない。
本心でそう思っている。
ヒカルさんは吹っ切れたみたいだけど、それは佐為も同じなんじゃないかな?
佐為の消え方は、双方にとって不満の残るようなものだった。
それが今日、溶けてなくなった。
『さぁ、ユウコさんもプロを目指しますか?』
佐為が見たこともないような挑戦的な笑みを浮かべている。
まさか佐為までそんなこと言ってくるとは。
(佐為だって、もう終わりでいいの? 神の一手、目指してもいいんだよ?)
秋の夜。
私と佐為の関係は再スタートしたような、そんな気持ちだった。