碁を打ちたい。
あれからというもの、碁を打ちたくて仕方ない。
けれど、なんとなく、ネット碁の有象無象とはやりたくなかった。
もしひどい碁を打たれたら?
それでこの気持ちを汚されたら?
なにより、佐為とヒカルの碁を汚されるようで。
もちろん、佐為と打つのは選択肢の一つではあった。
でも、斜陰は、なんとなく、それも嫌だった。
というか、一人二役とか、普通はあんまりやりたくないだろう……
ヒカルだって、最初始めた時は、佐為の打つ場所がないからという理由で仕方なくだった。
「ということで、最近は碁にハマっているということですが、何かキッカケとかあったんですか?」
とあるテレビの番組で、MCに質問される。
今までは、この類の質問は困っていた。
佐為という碁が大好きな幽霊が現れて~なんて言えるはずもないし、適当な嘘を言うしかなかった。
けれど、今回の斜陰は本心で答えることができた。
「やっぱり、美しくて広い宇宙のようだと思うからです」
「というと?」
「あの19×19の盤上に、無限の宇宙が――無限の可能性が広がっている。それはとても美しいことだと思ったんです」
脳裏に佐為とヒカルの石の並びを思い浮かべながら、斜陰は答えた。
「そうなんですね。そんな斜陰さんにはですね、今回ゲストが来ています。どうぞ!」
ぶしゃー。
わー、ぱちぱちぱち。
現れたのは、斜陰よりも少し年上――正確には3つ年上の美人の女性、奈瀬明日美だった。
『奈瀬じゃないですか!』
(うわっと。佐為、知ってるの?)
『彼女もまた、ヒカルや和谷と同じくプロを目指し切磋琢磨した者です』
(へー、じゃあ今はプロってこと?)
『そこまでは……私が消えた時にはまだ院生でしたが』
(院生って?)
『プロの卵のことです』
と斜陰と佐為はやり取りする。
そして、奈瀬がプロかどうかはすぐに分かった。
それはMCが奈瀬の紹介をしたからだ。
「えー奈瀬明日美さんは現在、囲碁のプロを目指しておられます。ここでちょっと囲碁のプロになるには、ということでお話させていただきます」
パネルを取り出して、MCは説明する。
囲碁のプロ試験は夏に毎年1回行われ、その上位3名だけがプロになれるとか。
その内容に斜陰は驚く。
(毎年3名だけ!? そんなに厳しい世界なの!?)
『ええ』
佐為は同意する。
「――奈瀬さんは前回は6位ということで、残念ながらあと一歩届かなかったのですが、その実力はプロと遜色ないものでもあります」
MCはそう言った。
『そうですか、奈瀬はまだプロにはなれてないのですね……』
(でも、テレビもなかなかやるじゃん! 次の休日まで待つしかないと思ってたけど、今日碁が打てるとは!)
斜陰は内心テンションが上がる。
ついでに奈瀬に対する好感度も勝手に上がっていく。
「今日は私のために来てくれて、ありがとう!」
斜陰は本心からのアイドルスマイルで、奈瀬に感謝を伝える。
「か、かわいい……」
本気100%のアイドルスマイルを喰らった奈瀬は、ついそう言ってしまう。
「ありがとうございますっ! 奈瀬先生、もしくは明日美先生とお呼びしても?」
「え、あ、はい。どちらでも大丈夫です」
「では明日美先生とお呼びしますね!」
斜陰、ウッキウキである。
「斜陰ちゃんも喜んでくれたようで、頑張ってなるべく年の近くて碁が強い人を探した甲斐がありました」
MCがそういうと、テレビスタッフたちが、わはは、と一斉に笑う。
その様子に、奈瀬だけがビクッと反応する。
奈瀬はテレビ慣れしていないので、当然であった……
特に置石なしで、コミありかコミなしかも言われぬまま、対局は始まった。
斜陰は黒、奈瀬は白を持つ。
――右上隅、小目!
斜陰は、佐為がいつも用いている初手を採用。
一方の奈瀬。
碁盤の前に座ると、精神がだいぶ落ち着いていくことを自覚した。
やっぱり自分は碁打ちなんだね、と内心苦笑いを浮かべながら、反対側の隅の星に打った。
そして、右下隅に小目と、斜陰。
結局未だ持ち方は、初心者のつまむような持ち方だった。
奈瀬は思う。
囲碁好きって聞いてたけど、持ち方は思いっきり初心者ね……
とりあえず、ちゃんと碁になるようには頑張ろう!
と。
がしかし、数手後に疑問を感じ、20手ほど進めばおおよその力量が分かっている。
――強い。少なくとも初めてちょっとの実力じゃない。この子、子供の頃から囲碁をやっていたのかな?
奈瀬は対戦相手の少女を覗き見る。
その視線は真剣そのものであると同時に、とても楽しんでいる様子が伝わってくる。
奈瀬が一手を放つと、斜陰は面白い一手を返してくれる。
なんでそんなつまらない碁を打ってるの?
指導碁を打っている自分に、まるでそんな風に問いかけて来ているようにすら錯覚する。
思えば、最近碁を楽しめているのだろうか。
高校を卒業し、院生ではなくなってしまった。
けれどプロになることを諦めきれず、進学も就職もしないで碁に打ち込んだ。
そして今年のプロ試験。
このタイミングで合格できればまだ傷は浅かった。
伊角さんと同じタイミングだし、全然胸を張れると思っていた。
でも、落ちてしまえば、地獄だった。
結果も6位。
昨年の7位から、一応上がってはいるが、まだ合格には遠い。
親には少しくらいはバイトしなさいと言われてしまったが、まだ甘やかされているという実感はある。
でも、それも来年まで落ちるようなら、話が変わってくるだろう。
もう19歳。来年受かっても20歳でプロデビュー、本当にギリギリだった。
だから、囲碁を楽しむとか、そんなのは関係ない。
まず、受からないと始まらない。
楽しむなんて、どうだっていい――
――盤上に黒い石が放たれる。
はっとした。
一目で好手と分かった。
……まずい。
その手が成立してしまえば、5目……いや、10目は損をする。
しかしうまい咎め方もない。
嫌な気分になった。
たった一瞬、この一瞬だけではあるが、こんなアイドルの女の子に上回られた。
すべてを持った子。
でも、碁だけは負けたくなかった。
もちろん指導碁なんだから、今の好手だって別に問題はない。
もしその好手を見つけられなかったら、終わった後で教えるつもりだったとでも言えばいい。
でも、そうじゃないんだ。
一瞬でも上回られたと心が認めてしまっていた。
だから、私のプライドが許さなかった。
何より――
奈瀬は斜陰を覗き見ると、相変わらず本当に楽しそうなことが分かった。
――楽しそうに打っていることが一番気にくわなかった。
奈瀬は本気で打つことを決めたのだった。
*
やってしまった……
奈瀬は後悔していた。
何、年下相手にムキになっていたのだろう。
アイドルにしては強い言っても、奈瀬の本気に耐えられるはずもなかった。
それでも、斜陰は最後まで楽しそうに打っていた。
――そもそも、楽しそうなのは演技だったの?
奈瀬は思う。
そりゃ、アイドルがつまらなそうに碁を打つわけがなかったのだ。
奈瀬が本気を出してから、斜陰の地になるはずだったところがいくつもなくなっていった。
そんなことが繰り返されれば、誰だって楽しいはずがない。
なのに、この子は自分の仕事を全うした。
私にはずっと楽しそうにしていたようにしか見えなかったほどに。
「あの、えっと……ごめんな――」
「――すごいです!!」
しかし、奈瀬の謝罪は、斜陰の言葉にかき消された。
「明日美先生! 本当に強いんですね! 美人で強いなんて最強だと思います!」
「え、えーと。でも、本当に強くて、ちょっと本気出しちゃってごめんなさい」
「いえいえいいんです! 前半は指導碁、後半は本気の明日美先生。一局で二局分も楽しめましたし!」
斜陰は奈瀬の手を取った。
「明日美先生はどうでしたか? 私との碁は楽しかったですか?」
奈瀬は、思い返す。
本気の私相手に、手が縮こまることなく、工夫した一手で返してきたことも。
面白いと感じる手もいくつもあった。
そして、その手にどう返すかを考えるのは――そう、悪くなかった。
「ええ」
「それは良かったです」
と頷く斜陰。
「斜陰、さんは……子供の頃から囲碁をされて?」
奈瀬は、気になっていたことを聞いた。
「いえ、全然初心者ですよ? 始めたのは3か月か4か月前ってくらいです」
「えー!? それでこんなにも打てるんだ! えっと……普段はプロに習ったりとか? よく打つんですか?」
奈瀬はさらに質問を重ねた。
「いえ、普段はネット碁で観戦ばかりしています。実際に打つのは今日で2度目ですね」
と答える。
「は、え、は……?」
奈瀬は開いた口が塞がらないのだった。
奈瀬を出したくなってしまった・・・