奈瀬の突然の宣言に、最初に反応したのは伊角だった。
「引導って……奈瀬、本気で言っているのか?」
「……」
奈瀬は伏せたまま、何も言わない。
「前回だって、あと一歩だったじゃないか。今ここで諦めるのか? まさか、親に何か言われたのか?」
「……違う」
「じゃあ、なぜだ」
「……」
奈瀬は理由を言わない。
「伊角さんがやらないなら、俺がやってやる」
「和谷……何を」
和谷は手早く1つの碁盤から石を片付け始めた。
「分かったよ、奈瀬。俺が引導を渡してやる」
「和谷!」
伊角は咎めるように言ったが、和谷も考えを改める気はないようだ。
「あんな碁を打つようならプロになるべきじゃない」
「あんな碁って……」
「斜陰ちゃん相手の碁のことだよっ! 弱いものいじめのような碁だったんだ!」
「それは確かにそうだが、しかし、何か理由があったんじゃ」
「どんな理由があっても、お客さん相手にあんな碁を打っていい理由にならねぇ……プロならな!」
和谷は碁盤の石を片付けた。
「奈瀬、ここでやる」
「……はい」
「互先でいいな?」
そして、和谷が白、奈瀬が黒になった。
「おねがいします」
「……おねがいします」
対局が始まった。
伊角や他のメンバー、そして斜陰もその対局を観戦する。
碁打ちの性か、対局が始まってから口出しするようなことはなかった。
黒の奈瀬は、初手星打ち。
白の和谷は、小目に構える。
和谷も奈瀬もぼやくようなことはなく、碁石の音だけが聞こえるような、静かな空間だった。
互いに、激しくならないような定石を選択し、黒の奈瀬が大場を打ったところで、もう大場は残っていない。
和谷の手が止まった。
――手が難しいんじゃないかな?
奈瀬はここまで、互角、いやこの局面で手が難しいことを加味すれば、若干のリードを奪えていてもおかしくない。そう思っていた。
和谷は少し考えて、カタツキを選択。
――ここでカタツキ……?
奈瀬は一目、ありがたい手のように感じた。
しかし、相手は和谷。いまや明確な格上というべき相手。
しっかりと読みを入れていく。
読んで読んで読んで……それでもなお、真意は分からない。
少し疑問に思いながらも、奈瀬は第一感の対応を選択する。
ひと段落して、再び和谷の手番。
バチリと、和谷は迷いなく打った。
――ここでもカタツキ!?
奈瀬は驚く。
カタツキ……しかも、今まで打っていたところとは別のカタツキ。
「……え?」
奈瀬から声が漏れた。
思った以上に対応が難しいことに気付く。
――いやでも、ここは押さえれば……
奈瀬は打つ。
これで大丈夫だと思ったが。
和谷はノータイムで、さらに別のところに打っていった。
――ここで三々!?
この交換は利かしとみて、初手奈瀬が打った星の裏側、三々に入っていく。
どういうこと!?
いやでも……この石の流れは、ネットの死神shineが試していた手法の一つだったように思える。
難解すぎて、自分では理解しきれていないものを使ってきている。
これは新しい碁だ。
今までの古い碁に捉われている私は、この古い碁で戦っていくしかない。
奈瀬はあくまで自然に応対していった。
そして、十数手進んだところでやっと奈瀬は気付いた。
――そっか、こう進んでみると、最初のカタツキも、2回目のカタツキもすごくいいところにいる。
同時に脳裏によぎる。
すでに悪いかもしれないという考えが。
奈瀬は長考に入らざるを得なかった。
伊角は観戦しながら、思っていた。
――この手順は、死神をよく研究している和谷らしい面白い手順だ。一方の奈瀬はあくまでもオーソドックスな対応。和谷の読み通りの展開だろう。ここで奈瀬の手は広そうだが、どれを選んでも和谷が少し良さそうだ。
斜陰もまた、観戦していた。
(ここで明日美先生の手が止まった? もしかして手がないとか……)
『ふふ、面白い局面ですね』
(佐為、形勢はもう和谷の方がいいの?)
『……ええ、奈瀬の次の一手次第でもありますが、平凡な手では基本的には奈瀬が悪いです。大きくは離れていないので、まだまだ勝負はここからでしょうが……』
(平凡な手では? って何かあるってこと?)
『とある一手だけ、奈瀬が良くなる順があります』
(え!? じゃあ、その手順を打てれば)
『ええ、ですがそれは非常に難解な手順です。途中で一手でも間違えれば、むしろ奈瀬の方が悪くなってしまう。そんな手でもあります』
奈瀬の長考は続いた。
――この局面がまだ悪くないとしたら、一手だけ、ある。
しかし、読み切れない。
自分の実力では、まるで読み切れない。
それでも奈瀬は、その手を打った。
「これしかない!」
「それはっ!?」
和谷は考えてもいない一手に、一瞬はっとした。
「いや、しかし……」
少し考えて、対応する。
奈瀬も一手一手時間を使いながら、手を進めていった。
(佐為、この手ってもしかして)
『ええ、最善手順ですが――奈瀬が一手一手時間を使っているのが気になります。確認のために時間を使っているならいいのですが……』
そして、佐為の不安は的中した。
『いけません!』
(え?)
奈瀬がとある一手を放った時だった。
『そこではなく、もう一路遠くに打たないといけないのです!』
(もう一路? でもそれじゃあバラバラに……)
『深く読むと、ギリギリで繋がっているのです。やはり、見えていないとしたらこの手だとは思っていましたが……おそらく、この手は誰も見えてないのでしょう。それほどに難しい手ではありました』
(え、でもじゃあ明日美先生が間違えたってこと?)
『そうなります。この手順を読み切れぬままに打ってしまった代償は重くつきますよ』
(そんな……)
そして、和谷は奈瀬の一手を完璧に咎めた。
それはもうすでに逆転の余地がないほどに。
「……ありません」
奈瀬は、力なく告げた。
「ありがとうございました」
「……和谷、ありがと。私はプロになれないって分かったから」
そう言って、ふらりと立ち上がり、玄関に向かった。
伊角はその弱弱しい背中に、言葉をかける。
「奈瀬! 本当に諦めていいのか!?」
「じゃあ今日みたいな碁でプロになれるって本気で思っているわけ!?」
奈瀬は振り返り、そう言い放った。
「それは……」
言葉に詰まる伊角。
奈瀬の瞳からは、涙がこぼれていた。
「……みんなもありがと。じゃあね」
奈瀬は力なくそう言って、帰っていった。
一方、部屋には沈黙が流れた。
その中で沈黙を破ったのは、男装斜陰ユウだった。
「和谷は本当にこれでいいと思っているの?」
「いいも悪いも、奈瀬が決めることだしな」
「違う……」
「え?」
「違うよ! 才能あるのに引導渡しちゃダメでしょ!?」
「才能って……そりゃ、あるかないかで言えばあるだろうが」
直後。
斜陰は黒石を持って、
パチン!
と、とある地点に叩きつけた。
そのまま、急いで部屋を出て、奈瀬の後を追うのだった。
「ユウの奴、あんな熱い奴だったっけ?」
和谷は斜陰が出て行った後の玄関を眺めながら、そんな風に呟いた。
「あ、もしかして、奈瀬のこと好きになったとか?」
「……和谷、この手」
伊角は、その黒石が打たれた場所を呆然と見ていた。
「ん?」
「これ」
「ああ、なんかユウが叩きつけて行ったけど」
「この手って、奈瀬が暴発した手順で……この手があるなら」
「は? そんな手があるかよ」
伊角と和谷で局面を再現する。
「こうしたら?」
「それならこうで」
「……じゃあ、こうなら?」
「それもこれで問題ないんじゃないか」
「……」
和谷はその手が成立していることに気付いた。
「まさか」
「ああ、この手があるならむしろ和谷の方が悪い」
斜陰は奈瀬の後を追った。
(読み切れなかったのに打ったっていうことは、読み切って打つよりも才能が必要だと思う! それに、明日美先生にはまた一緒にテレビに出てほしいから!)
「待って!」
奈瀬を呼び止めたのだった。