斜陰は呼び止めた。
黒髪美人の奈瀬が振り返る。
「明日美――じゃなくて、奈瀬さん!」
「あなたは……もしかして、さっきいた子?」
「そうなんだけど、えっと……」
呼び止めたのはいいが、どう声をかけていいか分からない斜陰。
沈黙が場に流れる。
先に口を開いたのは、奈瀬だった。
「……もしかして、諦めないで、とかそんな感じ? でもごめん。もう無理なんだ」
そう言って、奈瀬は背を向けようとする。
「――楽しかった?」
「え?」
「あの時、えーと、斜陰とテレビで打った時、楽しかった?」
「……でも、私、あの時は、弱いものいじめみたいな碁を」
「僕は楽しかったかを聞いてるんだよ? 和谷はああ言ってたけど、斜陰は本当に心の底から楽しんでいたと思うよ?」
「……」
奈瀬は顔を伏せてしまった。
男装斜陰はそのままの状態で話しかける。
「僕はさ、斜陰と一緒にまたテレビに出てほしい」
「……」
しかし、奈瀬は顔を伏せたままだった。
斜陰は内心思う。
今の格好じゃ、ただの他人。名前も知らない少年Aでしかない。
そんな初対面の人の話を普通、聞くだろうか。
答えは否だ。私が説得するにはアイドルの格好じゃないとダメだ!
しかし、正体をバラすわけにもいかない。
斜陰はどうすればいいかと、悩んでしまう。
「ごめんね、そう言ってくれたのは嬉しいけど……私じゃプロになれないみたいだから」
やはり言葉は響いていない。
どうしようもないのか――
そう思ったとき、奈瀬の悲しそうな横顔が目に映った。
同時に当たり前の事実に気付く。
奈瀬のプロになりたい気持ちは、本物だ。
そして同時に、プロを諦めようとしていることに。
なら大丈夫。
「ちょっと待ってっ!!」
斜陰はメモ帳とペンを取り出して、何やら書く。
そして、その紙を渡す。
「ほら!」
「え?」
奈瀬はその紙を見た。
そこには日時と場所が書かれていた。
「もし、まだ諦められない気持ちがあるなら、ここに来て」
「それって……」
斜陰は真っすぐに奈瀬の目を見る。
奈瀬と斜陰の目が合った。
「一応貰っとく。けど、たぶん行かないよ」
「それでも待ってるから! 絶対にプロになれるから!」
そして、奈瀬は去っていった。
『奈瀬、来ますかね?』
その後ろ姿を見ながら、佐為はひょっこりと尋ねた。
「来るよ、もちろん」
明日美先生の囲碁への気持ちは、佐為にだって引けを取らない。
だから、絶対に来る。
斜陰はそう思ったのだった。
*
奈瀬は、悩んでいた。
辛く苦しい日々。
結局のところ、それから逃げ出したかっただけなのだ。
プロへの気持ちを諦めるために、和谷と打った。
そして、完敗を喫した。
これで辞められる、そう思った。
でも、知らない男の子に渡された紙。
この切符があれば、もしかしたらまだプロを目指せるのかもしれない。そう思ってしまったら、プロを目指すための灯(ともしび)が消せやしない。どうしても残ってしまう。
奈瀬は悩んだ。
しかし、結論は決まっていた。
一週間後、その場所に向かうのだった。
*
その場所は煌びやかな場所だった。
都心のど真ん中のとあるビルの中、エレベーターで高層階へ向かう時からなぜか緊張してしまうような、そんな場所だった。
とある高級レストランっぽいところ。
その入り口で、本当にここで正しいのかな、と思い、でも紙に書いてある通りだし、と何度も繰り返す。
そんな風にグダグダしていると、感じの良い店員がやってくる。
「お客様、どうかされましたでしょうか」
「えっと……ここで待ち合わせをしているんですけど」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「奈瀬です」
「奈瀬様ですね、お待ちしておりました」
そして奥の個室へと案内された。
「明日美先生! 待ってたよ!」
「……え?」
奈瀬は目を見開いた。
そこにいたのは、大人気アイドル、溝口斜陰、その人だったのだから。
「え、えっとお久しぶりです」
「明日美先生固いよ! 私の方が年下なんだし、敬語なんて使わないでください~」
「あ……うん。でもびっくり。まさか来てみたら斜陰ちゃんがいるとは思わないでしょ。もしかして、あの子って弟とか?」
「あー、うんまあそんなとこ」
高級そうな椅子に座る前に、奈瀬は言わなければならないことがあったことを思い出した。
「あの、ごめんなさい! 私、ひどいことをしちゃって。あんな弱いものいじめみたいな碁……」
「でも私は楽しかったけどね~」
「……本当に?」
「うん、もちろん!」
「そうなんだ……でも、やっぱり悪いことをしたから、ちゃんと謝らせてください! ごめんなさい!」
「あ、全然大丈夫」
「ありがとうございます!」
「こっちこそ、来てくれてよかったよ」
「それは、だって、プロになれる可能性があると思っちゃったから。せっかく引導を渡してもらったのに、希望を見せられたら、諦めきれないよ」
奈瀬は悲しそうに、そう言った。
「大丈夫、明日美先生はプロになれる!」
「え、でも……というか、私をここに呼んだ理由って何? もしかしてまたテレビに出てほしいとか?」
「違うよ。理由は1つしかないでしょ?」
「え?」
「明日美先生がプロになるための会議に決まってるじゃん!」
「いや、でも斜陰ちゃん1人だけで?」
この個室には斜陰と奈瀬だけだ。
「もちろん、私が明日美先生を強くできるわけじゃないよ。でもやれることはある」
「というと?」
「最高の師匠に鍛えてもらいます!」
「え? 最高の師匠? 誰?」
「きっと明日美先生も知っている人だよ? 人かな? 人ではないかもしれないけど」
『ひどいです!』
(だって幽霊だし)
「……人ではない? なのに、私の師匠ができるくらい強い人?」
奈瀬は、疑問をそのまま口にする。
「そう、そして私が知る限り世界最強でもある! その師匠はー、じゃかじゃかじゃん、じゃん! shineです!」
「え? 斜陰?」
「私じゃなくて、ネットの死神とか呼ばれてるやつ。私としてはそんな可愛くない呼ばれ方は好きじゃないけど」
「あー、そっちの方かぁ~ってええっ!? あのshine!? 人ではないかもしれないってそういう」
「そうそう」
「斜陰ちゃんは知り合いなの?」
「まあ、そんなとこかな。生身では会ったことないけど」
『ううう……ユウコさんがいじめます』
(いやでも事実だし)
「もしかして碁を始めたのも」
「否定はしない」
「でも、斜陰ちゃんって私の時で2局目って言ってたけど……打ってもらっていたわけじゃないんだ」
「私はずっと観戦。たまに佐為に聞いたりするけどそれくらい。で、この話どうかな?」
斜陰は奈瀬に尋ねた。
「本当ならこれ以上ない話だけど……でも本当に、そんなすごい人が私の師匠をやってくれるの?」
「喜んでやってくれるよ!」
(ね、佐為?)
『ええ、もちろんです!』
そして、メールアドレスを交換した。
「ネット碁でしか打てないし、時間も不定期になっちゃうと思うけど、佐為と打つ時間は前もって連絡するから」
「あ、さっきも思ったけど、sai呼びなんだね」
「shineじゃ私の名前だし」
少し間があって、奈瀬はトーンを落として言う。
「あのさ……斜陰ちゃんに聞くようなことではないかもしれないけど、saiが師匠になってくれたら、私はプロになれるのかな」
「絶対なれるよ!」
(そうでしょ?)
斜陰は自信をもって聞いた。
『いえ、絶対ではありません。奈瀬が自ら努力することが一番大切です。私にできるのは、正しい方向に導くことだけ』
(そっか……)
佐為はそう答えた。
「ごめん、明日美先生。プロになれるかどうかは、明日美先生次第かな」
「そりゃそうだよね、でも最後にもう少し頑張ってみるよ!」
そうして、佐為と奈瀬の師弟関係がスタートしたのだった。