メールで指定された初めての対局。
現在のワールド囲碁ネットには、レート制が導入された一方、レートのやりとりのないフリー対局も今まで通りできるシステムとなっていた。
夜遅くの自室。
コップを横に置き、準備は万全だ。
奈瀬はパソコンの前で、フリーで対局を待っていた。
「時間はそろそろだけど……」
あのネット碁最強――いや、ネット碁最強どころか、世界最強や歴史上最強とまで言われ始めた『shine』。
そして4年前に現れたsaiと同一人物であることは、和谷などのネット碁の猛者の間では共通認識だった。それにアイドル斜陰も、『サイ』と言っていた。2年前、当時5冠王だった塔矢行洋に勝ち、以後姿を消したあのsaiだ。
そんな生ける伝説と、今――
――ピロリン。
「対局の申し込みっ! ……名前は『shine』っ!」
手合いは、4子局。
すべての隅の星に黒石が置かれた状態で対局はスタートした。
shineの……いやsaiの白石は、奈瀬から見ても、変な手はなかった。あっと言いたくなるような手もあったが、それも打たれてみれば納得だし、自分でも考えれば思いつきそうなものでもあった。
けれど、最初持っていたはずの貯金はガリガリと削られていく。
奈瀬がどれだけ必死に食い止めようと思っても、まるでどうしようもない。
「終局間近……形勢は……私が少し悪い?」
気付けば、形勢はやや不利というところまで来てしまっていた。
当然、そんな状態から逆転などできるはずもない。
ピロリン――
――奈瀬は投了した。
力が抜け、背もたれに体を預ける。
奈瀬はぼんやりと、パソコンの画面を見ていた。
しかし、感慨にふける暇はないらしい。
『Asumiさん、このまま検討します』
shineからのチャット。
今まで一度もチャットに応じたことのないshine。
sai時代には、数度あったようだが、shineとして復活してからは一度もなかったチャットが表示されていた。
『お願いします』
奈瀬はとりあえず、そうチャットを返した。
しかし、shineの対局だ。
世界中から数多の碁打ちたちが観戦している対局だった。
『Wow,shine is chatting?!』
『Hey,what does he say?』
突然の英文。
韓国語や中国語も流れて始めた。
一瞬で場はお祭り状態と化す。
「うわ……チャット1つしただけで、やっぱりsaiはすごい……」
改めて、奈瀬は今戦った相手が世界中から注目される存在であることを再認識した。
プルルルルルル
携帯が鳴った。
電話がかかってきているようだ。
「もしもし?」
『明日美先生、ちょっとこれは想定外だったよ』
「あはは……って、斜陰ちゃん!?」
その声、そして明日美先生と呼ぶのは一人だけ。
「なんで斜陰ちゃんが!?」
『メール交換したときに一緒に電話番号も教えてくれたじゃん』
「えーっと、そっちじゃなくて、なんで突然電話なんかかけてきたの? もしかして斜陰ちゃんも観戦してた?」
『まあ、そんなとこ』
斜陰ちゃんからの電話に驚きつつも、平静を保とうとする。
「でも、すごいよね。たった1つチャットしただけで、すごい盛り上がり」
観戦者は爆発的に増え、チャット欄は高速で流れている。
『う~ん、チャットはダメそうだから、電話で検討するよ。と言ってもあんまり長くするつもりはないけど』
「アイドルのお仕事で忙しいもんね?」
『そうなんだよ~、本当に長くて、短くなるように交渉しようかと悩んでるくらい……』
「やっぱり、大変なんだね……それで検討? って、斜陰ちゃんがしてくれるの? わざわざ?」
『そうそう。佐為は私がいないと何もできないし~……え、でも事実じゃん? 私にしか見えない幽霊だから』
後半は小声で言っていたので、うまく聞き取れなかった。
「え? 今なんて?」
『あ、ごめんごめん、こっちの話』
「でもそうじゃないかって言われていたけど、saiは病気で一人では碁は打てないって本当だったんだ」
『……うんまあ、だいたいそんなとこ、かな~』
奈瀬は、どうしてそのsaiが斜陰ちゃんと一緒にいるのか、とかいろいろ聞きたいことはあったが、深入りしてほしくなさそうな感じだったので、詮索するつもりはなかった。
気になるか気にならないかで言えば、もちろん気になるが、saiと打ってもらえるだけでこれ以上ないことだと分かっていたから。
そして、碁の検討が行われた。
『だから、そこはそうじゃなくて、10の3に打った方がよかったって佐為は言ってるよ』
「全然考えてもいなかった。ここはその一手かと……」
そんな感じで検討が終わった。
なお、佐為は、軽めでとお願いされたので、一番重要なところを数点指摘するに留めたのだった。
『あ~、でもよくこんな何の何、みたいな言い方で分かるね? 少しくらいならなんとか追えるけど、十手とか進むともうわけわかんないよ~』
「あはは、これは慣れれば誰でもできるようになるって」
『ん? ……明日美先生』
少しの沈黙の後、斜陰は少し改まった感じで言っていた。
「どうしたの?」
『佐為が、師匠として伝えたいことがあるって』
「え!?」
奈瀬に緊張が走る。
そして電話から、伝えられるsaiの言葉。
『佐為曰く、明日美先生に足りないのは、格上との対戦経験だって。でもこうやって自分と戦うだけじゃ、十分な量の経験は得られない。だから、自分と打てない時は格上と戦って、経験を積んでほしいって』
「それはそうだけど、でもどうやって?」
『ネット碁で少なくともレートが200離れた相手に挑戦し続けて。離れている分にはどれだけ格上でもいいけど、少なくとも200以上の格上の相手をやるように、だって』
「わ、分かった。やってみる」
そうして、奈瀬は、最強の師匠と超人気アイドルとの日々が始まったのだった。
*
ワールド囲碁ネットのシステムでは、格下と戦った方がレートが上がりやすいと言われている。
これは言い換えると、格上と戦うとレートが下がりやすいということ。
そういう状況もあって、奈瀬が対戦相手に困ることはなかった。
奈瀬は四六時中、ネットの猛者――それも明確な格上、つまりプロ級の碁打ち相手にしのぎを削った。
当然、奈瀬のレートは下がる。
しかし、自分のレートが下がりすぎれば、格上狙いを一時的にやめて、レートを適正に戻せばいい。
そして再び格上に挑戦し続けた。
奈瀬は、saiと斜陰というすごい人たちに力を貸してもらっている。
そう思ったら、手なんて抜けなかった。
今までの人生で間違いなく一番真剣に碁に取り組んでいたのだった。
*
「で、これはどういうこと?」
佐為に弟子入りして、一か月が過ぎた頃。
奈瀬は、テレビ局のスタジオにいた。
そこは照明が眩しくて、無駄に天井の高い部屋だった。
「囲碁のレギュラー番組を作ってもらったんです」
「それは分かるけど、なんで私?」
「そもそも、明日美先生。どうして私が明日美先生を囲碁の道に留めたか、分かります?」
斜陰はにやりと笑いながら、そう言った。
そんな笑顔でも、すごくかわいらしいんだね、と奈瀬は若干、現実逃避気味の思考をした。
嫌な予感しかしない。
「つまり、一緒にテレビ番組を盛り上げましょう!」
斜陰はアイドルスマイルで、腕を掲げた。
「あのーですね、ご存じかもしれませんが、囲碁ってインドア系の遊びなのよ。そんなゲームにハマる私は、当然インドア系であって……こういう場所は苦手なのよ」
「そっくりそのまま! そっくりそのままだよ、明日美先生! 囲碁にハマった私も当然、陰の属性! でもこんなに頑張っているんだよ? それに慣れれば、スタッフを風景の一部と思えるようになるよ」
「それはそれでどうなわけ?? スタッフを風景の一部って……」
「でもそのくらいの境地に達しないと、心がパンクしちゃうよ?」
「冗談で言ってる? 本気?」
「私は嘘はついたことないから」
「じゃあ冗談ってことね?」
「そうとは言ってないけど?」
奈瀬は自分がいつの間にか笑顔になっていたことに気付いた。
まだ一か月なんだ。
でも世界の見え方は、全然違っているようだった。
奈瀬の日常は、いつの間にか闇から抜け出し、光り輝くものになっていた。