時系列は少し戻り、佐為が奈瀬の師匠になった頃。
「私、やっぱりおかしいと思う」
『おかしい? なんのことですかユウコさん?』
「私の休みのこと。私の休みってやっぱり少なすぎると佐為も思うでしょ!?」
基本は週休1日というブラック労働。
もちろん、毎日の労働時間も8時間を余裕でオーバーしている。
完全にアウトなんですけど……
『アイドルという職業は大変なんですね』
「予定詰め込みすぎなんだよ」
ということで。
斜陰は、1つ決心した。
休みを増やしてもらおうと。
「てか、なんならアイドル辞めてもいいんだけど? 佐為もそっちの方がいいでしょ?」
『……私は今でも十分に感謝していますよ。ただ和谷は悲しみそうですが』
「あー」
『それにユウコさんはまだ、辞める気はないのでしょう?』
佐為は、斜陰に聞いた。
「まあね。ちょっと、アイドルの間にやっておきたいことができちゃったから」
そして。
人気アイドル溝口斜陰は、事務所でマネージャーと話していた。
「休みを増やしたい?」
そう。
斜陰は交渉していた。
「そう! 私の休みが少なすぎるから!」
「人気絶頂の今頑張らないでどうするの?」
「それ半年前にも聞いたんですけど?」
「あー、はは、いやぁ、まさかこのレベルの人気がこんなに続くとはね……」
マネージャーも、斜陰の圧倒的な人気がこんなに続くとは思っていなかった。
今や、国民的アイドルとしておじいちゃんやおばあちゃんまで知っているようなアイドルになりつつあるのだ。
「とはいえ、確かに今、斜陰ちゃんに倒れられたりしたらヤバいし、休みを一日増やすくらいなら私の力でもなんとかできるとは思うわ」
「え!? 週に一日ですか!?」
「いえ、月に一日」
「……」
「……」
沈黙が流れる。
とそこで、社長が現れた。
「話は聞かせてもらったよ」
「社長! 勝手に休みを1日増やす約束をしてしまったのですが……」
「いいよいいよ。休みを増やすこと自体は問題ないよ。ただ、恋愛だけは今の間だけはやめてほしいかな。今が斜陰というイメージを世間に浸透させているところだからね。このタイミングのスキャンダルはやめてほしいかな」
「もちろん、恋愛なんてするわけないよ」
斜陰は素で答える。
「私は、碁をやりたんです。だけど、今の休みじゃ十分にやれないから」
「あー、そういうことね。それならむしろウェルカムだよ。碁のできるアイドル路線は、意外と反応が悪くないっぽいかな?」
『アイドルが碁を嗜む時代……私も誇らしいです』
と佐為は言うが――
「――特に年齢層の高いところの男性に刺さっているっぽいよ」
という社長の言葉に、佐為はガクッとうなだれた。
それはつまり、碁を主にやっているのが年齢層の高い男性ということ。
次の時代を背負う子供たちには、碁は一般的なものではないということでもあった。
――しかし、ユウコさんに願うべきではないのでしょう。もっと子供たちに広まって欲しいとは思いますが、これほどネット碁をさせてもらっているのに、さらに碁を世界に広めることなど……
佐為は、斜陰を覗き見る。
その立ち姿は、きらきらと輝いているように見えた。
「それで社長! 相談があるんです!」
「……ほう、何かな?」
斜陰は、社長に言う。
「私、囲碁番組をレギュラーでやりたいです!」
『ユウコさんっ……! まさか!』
(佐為、これは別に佐為のためってわけじゃないよ。私がやりたいからやっているんだ)
斜陰は、心の声で佐為に言った。
社長は、あごに手を当てて、
「囲碁番組、か……」
と考えている。
『……いけますかね?』
(大丈夫、このくらいは大丈夫なはず)
そして、社長が口を開く。
「斜陰ちゃん。碁をやるのは社長としても賛成だから、囲碁番組のレギュラーは大賛成だよ」
その言葉に、斜陰と佐為はハイタッチする。
もちろん、佐為の見えないマネージャーと社長は困惑していた……
「……ごほん、えー。そうだな、いっそ、毎週碁をやる日を作るっていうのはどうだ? 毎週囲碁番組をレギュラーで作って、さらに毎週囲碁をやっているNHK杯? とかいうのの司会にもなるか?」
「え? 囲碁をやる日!?」
斜陰の輝きがより一層強くなったように見えた。
「ぜひやりたいです!」
「あはは、まさか斜陰ちゃんがこんなに碁にハマるなんて思わなかったよ。突然趣味に碁って言い始めたときはどうなるかと思ったけど……」
「碁は面白いからハマるのは当然だよ?」
その大人気アイドルは、心の底からそう言うのだった。
――もしかしたら、あなたなら世界を変えてくれるかもしれませんね。
佐為は碁がもっと人気になる未来を、期待してしまうのだった。
*
とある囲碁イベントの会場では、通常では考えられないほどの混雑をしていた。
「アイドルってこんなにすごいのか。最近はイベントもすごい人って聞くし、今回も」
あまりイベントに参加しないタイプの棋士である伊角も、今日は囲碁イベントに駆り出されていた。
「……そうだな」
「どうしたんだ、和谷。珍しく元気がないのか?」
「ちげーよ、ちょっと考えてただけだ」
「なんだ、また斜陰のことか?」
「そっちじゃねーよ、最近saiが奈瀬と打っているらしいことだ」
「そうなのか!? ネットの死神と奈瀬が!?」
「ああ、まず間違いねぇ。奈瀬の方は『Asumi』って名前だし、棋力や打ち筋も俺たちの知っている奈瀬そのままだ」
「……でも、まだ碁を続けているんだね。引導を渡した側でこんなことを言うのもあれだけど、やっぱり一緒に切磋琢磨した仲間として、同じプロになって欲しいからね」
伊角はそう言うが、和谷の考えていることは違った。
「……俺たちはプロを諦めてきた奴を何人も見てきた。家庭の事情とか、周りの環境とか……純粋な碁の実力や才能だけでプロになれるか決まるわけじゃねー」
「つまり?」
「あのときの奈瀬に引導を渡したのは、別に間違ってねーってことだ」
和谷は不満顔でそう言った。
「和谷、お前奈瀬を羨ましがっているだろ」
「うっせー!! そりゃ、俺だってsaiに教えてもらえるなら、弟子入りでもなんでもするさ!!」
と和谷は言った。
思った以上に大声だったことに気付いて、周りを見回す。
「……あ、これ師匠には内緒な」
「あ、ああ、もちろん」
「だが、ありえねーのは、奈瀬の方だ。saiと奈瀬の初対局のときに、saiがチャットをしたんだ」
「saiがチャットを? 確か、新しいアカウントになってからはチャットは一度もしていないんじゃなかったのか?」
「ああ。しかもその内容が『Asumiさん、このまま検討します』だ。もちろん、世界中の観戦者がコメントできるところで、まともな検討ができるわけがない。奈瀬は『お願いします』と返したが、それからsaiはチャットをしていない」
「つまり?」
「おそらく、電話かメールか何かは分からないが、チャットとは別の方法で検討している。その証拠に、いつも対局が終わった後、奈瀬とsaiはすぐには退席せずに留まっている。これは対局終わりに検討しているからだ」
「それが本当なら、俺たちにも聞かせてほしいね」
「それはそうだが、伊角さん。一番重要なのは、そこじゃねーよ」
和谷は真剣な顔つきをする。
「どうやって奈瀬はsaiと知り合ったのか? それに奈瀬はあのとき、俺が引導を渡して帰るところだった。あのままなら、奈瀬は碁をやめるはずだった」
「いや、引導を渡しても簡単にやめられるとは限らないんじゃないか?」
「それはそうだ。俺たちから碁を取ったら何も残らないし、息を吸うように碁をやってしまうからな……だが、それだけじゃねー。あの時、ユウは奈瀬を追いかけた」
「その可能性もあるって言いたいのか? ユウは初対面だったからわからないが、もしかしたらsaiと関わりがあると? 確かに棋風が似ているとは思ったが」
「……伊角さん。前に話したことあったよな。saiの仮説。saiは何らかの理由で一人では碁を打てない。ネット碁をやるには協力者Xが必要なんだ。そして、4年前はXが進藤だった」
「ああ、それは聞いたよ」
「今のXに一人心当たりがある」
和谷は、そして言った。
「今のXは、ユウの可能性がある」
和谷の勘の良さ。
特に囲碁に対する勘の良さは、ユウの秘密にまで届いていた。
そして、同時に、和谷の脳裏にありえない可能性がよぎった。
もしかしたら、ユウはXなんかではなく、sai本人なんじゃないか、とも。
ユウが飛び出していった時、俺も伊角さんも気付かなかった一手を指摘した。あれが偶然起きたとは考えにくい……だとするとユウがsai自身の可能性も……普段は手を抜いているのか?
いや、それはない。あの生意気なユウが、saiとつながるようには思えない。それに棋風が似ていることも、却って違和感がある。saiクラスなら、棋風すら変えて違和感なく演技することくらい造作もないはずだ。
やはり、あの一手だけでユウ=saiとするのは無理がありすぎる。
だが、本当にそうなのか?
あの瞬間だけ、ユウの棋力は確実にsai並みだったように感じる。
そこだけが、和谷の中で大きな違和感となっていた。
だから和谷は最後、付け足すように言った。
「……Xがユウというのは、もしかしたら間違っているかもしれねーが、ユウには何かあるのは間違いがねーぜ」
と。