『ってなわけで、起業してみたら? って言われちゃって~』
夜。
いつもの佐為と奈瀬との対局が終わった後、斜陰は奈瀬と電話をしていた。
結局、男装斜陰に奈瀬が気付くことはなかった。
斜陰は、今日の内容はほとんど知っていたが、知らないフリをして報告を受けていた。
『でも、ワールド囲碁ネットは慈善事業だと思ってやっているんだって。よくわかんないけど、広告費とサーバー代でトントンなんだとか……』
「うん」
『なんか、個人で運営しているのも良くないって思っているらしいよ? 管理人さんがいなくなったら、ある日突然使えなくなっちゃうって』
「……なら、囲碁の組織? プロになるところに、あげるっていうのは?」
『日本棋院は、嫌だって、管理人さんは言ってたよ』
「なんで?」
『トップが古い世代の人たちだからだって』
奈瀬は続ける。
『古い人たちが、トップの組織が、ワールド囲碁ネットを大切にしてくれるとは思えない。よくて現状維持だと思うって』
「ふ~ん」
『ふ~んって、他人事だね……それで、起業するの?』
「ん~、いろいろ改善したいところもあるし……突然、佐為が打つ場所がなくなったら嫌だし。やってみてもいいかも」
斜陰は好意的な反応だった。
しかも、それ以外にも理由はあるようだ。
「それに……」
『それに?』
「私あと少しは、辞めない気がするから」
『辞めないって何を?』
「アイドル」
斜陰は言った。
『えっ?』
「半年くらい前は、ある程度お金稼いだら、アイドルなんて辞めてやるって思っていたんだ」
斜陰は、過去を思い出しながら言った。
「でも――」
――視界に、烏帽子の幽霊が映る。
「ううん、正確にはまだ半年も経ってないなんて信じられない」
『それって囲碁を始めてから?』
「うん」
斜陰は、頷く。
「私、今は、アイドルでやりたいことができちゃったから、今すぐは辞めるつもりはなくなった。だから、お金はむしろあまるかも?」
『じゃあ……』
「うん、お金は私が出すから、起業やってみない?」
斜陰は最後に付け加えるように言う。
「明日美先生が」
『え、私が起業するの!?』
「そりゃそうでしょ? 提案されたのは明日美先生なんだよ?」
『でも、お金を出してくれるのは斜陰ちゃんなんだし、斜陰ちゃんが起業してよ! 私が実際の運営……って何するかわかんないけど、それはするから!』
*
次の日。
タワマンを降りた斜陰の目の前に、いつものようにマネージャーが立っていた。
そして、いつものように黒塗りの車に乗り込んだ。
「休日は楽しめたかしら?」
「う~ん、楽しかったは楽しかったけど、もうちょっと休みたかったよ……」
「また碁をやってたの?」
「そうそう、碁会所に行ってきたよ」
「でも、天下のアイドルが男装しただけでよくバレないものね」
マネージャーは呆れながら、言ったのだった。
「でも、次の休みからは私もついていくから」
「……え?」
マネージャーからの予想外の言葉に驚く斜陰。
「いくら男装しているからって、あなただってバレる可能性はあるし、万が一の時のためにも、私がついて行って、守るから」
「な、なんでいきなり??」
「それだけ、あなたの価値が上がったということよ。いくら日本で治安がすごくいいといっても、可能性はゼロじゃないのよ。そのリスクをほんの少しでも下げた方がいいって判断ね」
「え……」
斜陰はバカじゃない。
だから、マネージャーの言うことは理解できた。
しかし、それは困ったぞ、と斜陰は思う。
(つまり、和谷のアパートには行けなくなっちゃった?)
『残念ですが、そうでしょうね。ですが、碁会所なら大丈夫だと思いますよ』
(それはそうだけど……)
斜陰の表情を見るマネージャー。
「あら、不満そうね」
「別に、そんなことはないけど」
斜陰はそう言って、車の窓から、流れる景色を眺める。
「そうだ、起業ってどうやってやるか知ってる?」
ふと、言った。
「……え? 起業自体は、役所に届け出を出せばできるけど……」
「それって誰でも、簡単にできる?」
「ええ、起業するだけなら、簡単よ。まあ実際に事業を軌道に乗せるのは大変だと思うけど……って私も、別にやったことないし、人づての情報だけど」
「へ~」
なら、とりあえず、事業を軌道に乗せるとか、そんな気持ちはなく、ただ慈善事業をやるくらいの気持ちの斜陰にとっては簡単ということか。
そう斜陰は、思った。
しかし。
「あ、でも、斜陰ちゃんが起業するのは難しいかもよ? だってほら未成年だと、親の同意とか必要なんじゃない?」
「……え?」
親。
それは斜陰にとって、タブーの1つだった。
「ていうか、ここまで答えといてあれだけど、斜陰ちゃん、起業するの?」
マネージャーが疑問を発するが、斜陰には聞こえていなかった。
(親……親……)
斜陰にはいいイメージがまるでない。
『ユウコさん……』
(や、やっぱり、私が起業するのは無理だ。明日美先生にやってもらおう)
*
「ってことで、私には起業は無理です!」
『え~、じゃあ私がやるってこと? って私も19だし、未成年だけどね……』
「でも明日美先生は、両親との関係は良好でしょ?」
『確かにそうだけど……』
そして、奈瀬は言う。
『でも、そうだとしても、どうやって斜陰ちゃんはお金を払うの?』
「え?」
『調べてみたけど、単純に私にお金をくれる場合、数百万円も払っちゃうと税金かかるみたいだし』
「え、そうなの?」
『うん。別の方法だと、投資って形にするのは、やっぱり親の許可が必要みたいだし……』
……。
なかなか、法律というのは面倒だと、斜陰は思った。
そして、今日の佐為による奈瀬の指導も終わり、あとは寝るだけだった。
斜陰は、扉を開けて、スリッパを履いた。
タワマンのベランダ――いや、バルコニーと言った方がいいかもしれないが、そこに足を踏み出した。
「うわ、さぶ……」
季節は冬に差し掛かっている。
夜風は寒かった。
そんな中、斜陰は夜の東京を眺めてみた。
『改めて、人の進歩はすごいですね。こんな高いところに住んでいるなんて』
「……でも、私の心は……いや、なんでもない」
斜陰は眺めていた。
そして、言った。
「やっぱり、私が起業するべきかもね」
『なぜ、とお聞きしても?』
佐為が尋ねる。
「……なんでだろう?」
斜陰は、なぜそう思ったのか自分でも分からなかった。
「せっかく、私のお金で起業するんだから、私が持つべきって思ったのかな」
『確かにそうですね』
「私アイドル辞めたらニートかなって思ってたけど、それよりは社長の方がいいかな? ってのもあるかも」
『ふふ、それもそうですね』
「でも――」
斜陰は言った。
「――どうせ親に許可がいるのなら……って思ったのが一番、だと思う」
斜陰は携帯を開いた。
そこには親と家の番号が書かれていた。
嫌だ、やりたくない。
けれど、斜陰は電話をすることに決めた。
ずっと背を背けてばかりもいられない。
そんな気持ちが、斜陰にはあった。
そして、決めたら、なるべく早い方がいい。嫌なことは早く終わらすべきだ。斜陰は、嫌いなものは先に食べて、好きなものを最後にとっておくタイプなのだ。
電話をかける。
pllllll
pllllll
待ち時間、嫌に緊張する。
pllllll
pllllll
pllllll
pllllll
しかし、無駄に緊張しただけで、家の電話は出なかった。
ならばと、親の携帯電話にかける。
pllllll
pllllll
「あ、もしもし?」
出た。
少し、ノイズが大きいが、確かに親――父の声がした。
「もしもし、ユウコだけど」
斜陰――いや、溝口ユウコは、言った。
『あ、ユウコか! 久しぶり!』
意外にも朗らかな声だった。
「……久しぶり」
『いやー、元気してるか? まあ、テレビで元気な姿は見ているけどな』
「そっか」
『見たくなくても勝手に視界に入ってくるからな~』
……それはどういう意味なんだと言いたくなったが、斜陰はすべきことをすることにした。
「あの、今回はやって欲しいことがあって」
『やってほしいこと?』
「私、起業しようかと思ってて、それで親の許可が必要だから……」
『ああ、そういうことか! なるほどな~、ユウコが電話かけてくるなんて、おかしいと思ったが、そういうことだったか!』
……本当に、この男は、私をどう思っているのだろうか。
いや、昔はこうじゃなかった。
少なくとも私がアイドルをする前は普通の家庭だったのに。
『それで、具体的にはどうすればいい?』
「そっちに書類を送るから、印鑑とかしてくれればいいと思う。ちょっと細かいことは後で、伝えるから……」
『ああ、わかったわかった。でも、家に帰るのはあと一週間は先だから、その後になるけど、それでもいいか?』
「え、あ、うん、大丈夫だけど」
『今、俺たちはハワイに来ているから、ごめんな。冬のハワイもなかなかオツなもんだぞ~、あ、ママとお姉ちゃんも一緒だぞ~』
……。
もちろん初耳だったし、その旅行資金も、私が中学に稼いだお金だろうが、別にいい。
「お願いね」
『おう、任せとけ!』
「じゃあ、ね……」
『おう、またな!』
斜陰は、電話を切った。
結局、パパという言葉も、お父さんという言葉も出なかった。
『ユウコさん……』
「佐為、明日も仕事だから、もう寝ようか」
『はい』
斜陰は、寒いベランダから、暖かい部屋に戻った。
そして、大きなベッドにダイブしたのだった。