それから。
斜陰の休日になった。
とある高級レストランの個室に、奈瀬とワールド囲碁ネットの管理人の2人がいた。
「それで、起業しようかという話にはなっているんですけど……私が起業するつもりはなくて」
「……というのは?」
「やっぱり、私はお金を出すわけじゃないですし、お金を出す本人が起業するのが一番いいかなと思いまして」
「本人?」
「はい」
「まさか……本人というのは、ネットの死神shineだったりするのかい!?」
管理人は、少し興奮した様子で言った。
奈瀬は首を振る。
「違います。でもきっと管理人さんも知っている人です。そもそもこうやって、ワールド囲碁ネットをもっと良くしたいと言ったのも、実は私じゃなくて、彼女なんです。彼女が、私に依頼したんです」
「……彼女? となると、女性の方。女性のプロ棋士とかですかね?」
「いえ、プロ棋士ではないです」
「え、じゃあ……誰だろ? 僕は囲碁界には詳しいですが、それ以外のことはあまり知らないので……もしかしたら知らないかもしれません」
管理人は言った。
その時、扉が開いた。
「よっ」
現れたのは、黒髪の美少女。
右手を小さく立てて、気楽な挨拶を奈瀬とかわした。
そう『彼女』とは、今を時めくアイドル、溝口斜陰、その人だった。
奈瀬は苦笑しながら言った。
「知ってます?」
管理人は目を大きくしたまま、固まっていた。
斜陰は、奈瀬の隣に座った。
「こんにちは! ワールド囲碁ネットの管理人さんですよね、話は明日美先生から聞いてます」
「え、しゃ、斜陰!? あの斜陰!?」
「はい、そうです」
「な、なんでこんな有名人がここに!?」
「それは、私がワールド囲碁ネットをより良くしたいから、ですよ?」
「……まさか、あなたが奈瀬さんの言う『彼女』なんですか!? ワールド囲碁ネットを良くしたいって言いだした!」
「この流れで、それ以外ある?」
斜陰は笑顔で言った。
管理人は、状況を理解する。
この目の前にいる斜陰こそが、件の相手なのだと。
「……斜陰の囲碁趣味は、そういう戦略なのかと思ってました。ギャップ萌えを狙うような戦略なのかと。でも、違うんですね。わざわざ、起業しようと思うくらいに、囲碁に傾倒しているんですね」
「ん~、まあ囲碁って面白いし」
「なるほど……できれば一局打ってもらっても?」
「え?」
「囲碁への情熱を確かめたい。ワールド囲碁ネットを渡すに値する相手か、確かめたいのです」
管理人は、折り畳みの碁盤をバッグから取り出した。
「時間があれば奈瀬さんに打ってもらおうかと思って持ってきたのですが、ちょうどよかった」
碁笥も2つ取り出す。
管理人はフタを取り、白石を握った。
何も言わずにそんな行動をした管理人に、斜陰は尋ねる。
「……やるんですか?」
「やりませんか?」
「……ま、せっかくだしやることにするよ」
斜陰は、黒石を2つ置く。
管理人が手を開くと、白石の数は偶数だった。
斜陰の黒番、管理人の白番となり対局が始まった。
「「よろしくお願いします」」
斜陰の初手は、右上隅小目。
そして布石が進行していく。
序盤の進行。
途中で、斜陰は、小目へのカカリに秀作のコスミを放った。
――秀作のコスミは、現代ではやや甘いとされる打ち方。しかし、局面によっては有力な手になるのも事実。この局面でのコスミはなかなかに良いセンス。
佐為は思った。
――しかし、この者。不思議な箱で、碁をできるようにした者と聞く。さすがに、碁への情熱は高い。この布石の数手を見ただけでもわかる。今のユウコさんでは分が悪いか。
パチ、パチ。
パチ、パチ。
局面は進行していく。
序盤はなんとか五分を保ったが、中盤の折衝でスキを突かれてしまった。
(そっか……ここを手抜いて、そっちにいけるなんて)
斜陰はなんとか喰らいつこうとする。
しかし、佐為の読み通り、管理人の棋力は高く、徐々に差は広がっていく。
パチ、パチ。
パチ、パチ。
石が盤を埋めていく。
もう、大きなところは残っていない。
ヨセに入ろうかという段階だった。
どうみても逆転の余地はないと、斜陰は理解した。
「……ありません」
「ありがとうございました。いや~、斜陰さん、本当に強いですね。びっくりしましたよ」
「でも、管理人さんに比べたら……」
「はは、ありがとうございます。けど、奈瀬さんほどではないですけどね。奈瀬さん、どうでしたか?」
管理人は奈瀬に振る。
「管理人さんもすごく強かったですけど、私は斜陰ちゃんの実力に驚いたよ。テレビで打った時も強いと思ったけど、あの時より、確実に強くなっている」
「でも、私、負けちゃったよ?」
「じゃあ、少し検討しよう? たまには私から感想戦をしたいし」
そうして、奈瀬がアドバイスする形で感想戦を行った。
斜陰と管理人の良い手、悪い手を指摘しながら、楽しく感想戦を行った。
「それで、私はどうでしたか?」
斜陰は聞いた。
そもそもこの対局は、斜陰の囲碁への情熱を確かめ、ワールド囲碁ネットを渡すに値する相手か、判断するためだったからだ。
だから、その判断を聞いた。
管理人は言う。
「……その前に、1つ聞きたいことがあって。気になったのは、ネットの死神shineとの関係です。奈瀬さんと打ち始めたのもそうですし、名前も斜陰とshineだから、偶然とは思えないんですが」
管理人の指摘は正しい。
しかし、斜陰とshineの関係は、隠されたものだ。奈瀬でさえ詳しくは知らないのだ。
奈瀬はまずいんじゃないの? と思いながら、斜陰の方を見る。
『どうしましょどうしましょ』
佐為も、まずいと思ったのか慌てだした。
でも、斜陰は慌てなかった。
どうすればいいか知っていた。
左目を閉じて、人差し指を口に当てる。
「ひみつですっ」
アイドルスマイルで、答えた。
きっと。
アイドルは、秘密があるくらいがちょうどいい。
斜陰はそのことをなんとなく理解していた。
「……そうか」
管理人は深く頷いた。
「いいでしょう、あなたに全面的に協力します」
*
その後、いろいろな手続きをしたり、斜陰の実家に書類を送ったりした。
そして無事、斜陰は親からの許可も取れて、役所への手続きも終わらせた。
「いやぁ、思ったより大変だったね」
「斜陰ちゃんも頑張ったとは思うけど、私の方が100倍大変だったんだからね?」
いろいろ面倒なことは基本的には奈瀬がやった。
一部は管理人がやってくれたが、大半は奈瀬だった。斜陰は本当に一部のことしかやらなかった。
「今日も泊りでいい?」
「……別にいいけど、明日も仕事だから」
「分かってるって」
ここは、斜陰のタワマンの自室。
いろいろ手続きするのに、紙で準備しないといけないので、リアルで会う必要があったのだが、いちいちどこかで待ち合わせていたら面倒なので、斜陰は自宅に呼ぶようになっていた。
なお、自宅に呼んだ日は、Asumiとshineとの対局はなくなってしまうが、仕方がない。
「いやーでも本当に起業しちゃったんだね」
奈瀬は書類を眺める。
そこには、たった3人の会社の情報が書かれていた。
「シャインの碁株式会社、社長は溝口ユウコ……ふふっ、面白い」
「……ネーミングセンスないって言いたいの?」
「ううん、すごくいいと思う。でも、これって、世間にバレたりしないの?」
奈瀬は疑問を口にした。
「う~ん、私の本名は知られていないはずだから、大丈夫だと思うけど……」
そうして、ひっそりと天下のアイドルは起業したのだった。