今日は、斜陰の休日。
いつもなら家の中で寝ているだけで終わるのだが、どうやら今日は違うようだ。
斜陰は髪の毛をキャップに仕舞い、マスクを付ける。
「よし」
鏡に映る斜陰の姿は、どこからどう見ても少年のそれだった。
斜陰は自分の男装姿に満足し、玄関を出た。
※
うわ、すごい。
たくさんの子供たちが、真剣な表情で碁を打っている。
大きなホールに、何百人という子供たちが一斉に並んで、真剣に戦っている。
その周りには保護者たちがいるようで、このホール全体の人数は1000人を超えているだろう。
斜陰はその光景に驚き、少し感動した。
――たかがゲームじゃないの?
――囲碁ってそんなに面白いの??
斜陰の心の中で、囲碁というものに対する考え方が変わっていく。
そんな斜陰の心に、佐為は気付いていた。
そして思う。
――私がこうして再び蘇ったのは、ヒカルと同じように、彼女にも碁の素質があるからなのでしょうか?
しかし斜陰は未だ、碁のルールすら知らない。
子供たちの後ろを歩き、見て回る。
『そこの右上隅の攻防、打ち損じると黒が死にます。1の2が急所です』
そして対局者の子供は1の3に打った。
(佐為、どういうことなの?)
斜陰は何のことを言っているのか、さっぱりだった。
『ユウコさん、あなたはまずルールを覚えるところからですね……』
ちなみに佐為は、こうして蘇ってから数日経ったが、一局も指していなかった。
もちろん、打ちたい。
指したいが……“神の一手を極める”という目標はもうすでに佐為の中で一区切りついてしまっていた。
だからこそ、ヒカルの時のように駄々こねるようなことはない。
(佐為、指したい?)
しかし顔には出ていた。
斜陰に気付かれてしまう。
(は、はい)
(そりゃそうだよね。1000年もの間ずっと囲碁をやり続けてきたんだもんね。大好きなんだよね、囲碁が)
(大好き、ですか……好きというより、囲碁は自分の体の一部のような感覚です)
(でも指したいんでしょ?)
(ええ、もちろん。すっごく打ちたいですよ)
(ここに私が今から参加することできないかな~)
何も知らない斜陰はそんなことを言ってみる。
(分かりませんが、やってみる価値はあると思います)
実は佐為も何も分かっていなかった。
2人は運営本部へと向かった。
※
「あの、今からあの中に参加することってできますか?」
斜陰はなるべく低い声でそう言った。
今は男装中である。
「え? もしかして遅刻した方ですか? 今の時刻だともう不戦敗となってしまったと思います。申し訳ありませんが……」
「いえ、遅刻ではなくて、飛び入りみたいな?」
「飛び入りは受け付けておりませんので……」
係りの人は申し訳なさそうに言う。
(断られちゃいましたね)
(まあ普通そうだよね)
(仕方ない……ですか)
佐為はものすごく残念そうに言った。
――やっぱり佐為は碁が好きなんだね。できれば打たせてあげたいけど……
――今日を逃せば、次に打てる機会は一週間は先だ。
――だから今日しかない。
ネット碁のことなんて知らない斜陰は、そう思った。
――でもどうやって?
そのとき、一人のプロが現れた。
「どうしたんだい?」
「あ、芦原先生! この子が飛び入りで参加したい、と言ってきましたが、無理なので断ったところです」
係りの男は芦原六段に言った。
「大会に出たかったのかい?」
芦原六段は少年斜陰に聞く。
「大会はどうでもいいんですけど、碁をやりたかっただけです」
斜陰は答えた。
ちなみに芦原六段は塔矢門下期待の若手である――塔矢六段の陰に隠れているが。
なお佐為が消えてから2年の間に、塔矢は六段まで昇段してしまっている。芦原も2年の間に六段まで上がった。昇段は僅差で芦原の方が早かったが、七段への昇段は確実に塔矢の方が早いだろう。
なぜこの場にプロがいるかというと、指導碁のためである。
大会では勝ち上がり上に行く子がいる一方、2連敗をしてすぐに脱落する子もいる。
そんな子たちのために、プロの指導碁を受けられるシステムがあるのだ。
そんなわけでプロは今日、数人来る予定だ。
その中に進藤ヒカル四段の名前もあった。
ただまだ、その姿は見えない。
まだ指導碁の開始時刻まで時間があるためだ。
真面目な芦原六段は早々と来ているが、ヒカルがそんなに早く来るはずもない。むしろ一番最後で遅刻ギリギリで大慌てでやって来る可能性が高い。
「なら、僕と少し打つかい? まだ指導碁までには時間があるし」
芦原六段は、斜陰にそう返した。
※
打ち方はまるで初心者だった。
親指と人差し指で石をつまんで、置く。
だから芦原六段はすぐに指導碁に切り替えた。
しかし、打てば打つほど相手の実力があることに気付いていく。
――石の筋はしっかりしている。持ち方はあれだけど、案外できるのかな?
初めはその程度の認識だった。
しかし段々とその評価が変わっていく。
少し厳しめの手を打っても、全く動じない。
いやそれだけじゃない。
――石の筋が良すぎる。あまりに良すぎる。綺麗すぎる手ばかりだ。
過度に筋にこだわりすぎているようにも見える。
しかしそれでいて、形勢はずっと五分を維持されている。
――どういうことだ? 俺がそんなに悪手を指しているのか?
実際には、芦原六段は悪手と呼べるほどの手は指していない。
しかし最善手ではない。次善手とか、最善手に限りなく近い手を指している。
しかし最善手ではなかった。
だからこそ、佐為には凝った手を指す必要がなかった。
自然に自然に。
筋に沿って指し続ける。
しかし中盤。
一手だけ、趣の違う手を、その子は放った。
コトリ……
瞬間、芦原六段は気付いた。
――この子は……本気を出していない?
向かい側に座る少年は、マスクで顔が隠れ、表情までは窺いきれなかった。
芦原六段は、指導碁をやめたのだった。
※
芦原六段は指導碁として打つつもりだった。
コミなしの定先だった。
そして結果は、黒の2目勝ち。
自分の負けなのだが、指導碁としては問題ない。
しかしそうじゃない。
あの中盤の一手。
こちらの力量を図るような一手から、芦原は手を抜かなかった。
もちろん早碁だ。
プロの公式戦のような長い持ち時間ではなく、時間制限はないものの暗黙の了解として早碁ではあった。
しかしそれは言い訳にはならない。
早碁こそ実力差が出るものだから。
結果はこちらの2目負け。
コミがあれば2目半勝ちだとか関係ない。
あの局面の時点では、盤面互角だったはずだ。
なのに……負けた。
しかも初心者のような手つきの子に。
芦原六段はその対局者の顔を覗き込んだ。
しかし少年の素顔はマスクで隠れ、見えない。
「君は? まだ中学生くらいだよね?」
芦原は聞く。
「え?」
斜陰には全く分からない。
芦原の表情の意味は分からない。
信じられないような、縋るような表情の意味は。
(えっと、どういうこと?)
(大方、私の碁の実力に驚いているのでしょう)
(あ、そっか。1000年も碁をやり続けたんだから、そりゃ強いよね……相手の人も強いの?)
(相手の方はプロですね)
(えっ!? プロっ!?)
(ええ、まあ)
(じゃあ、そんな人に勝っちゃう私って絶対おかしいじゃん!)
斜陰は即座に席を立った。
(帰るよ!)
そして逃げ去るように、帰っていった。
――変装してて良かったあ。
と思いながら。
※
「芦原先生、芦原先生、もうすぐ指導碁が始まりますよ」
「あ、ああ」
芦原は先ほどの碁の検討をしていたが、そろそろ時間のようだ。
「あの、どうかされたんですか?」
「いや……大したことじゃないんだ」
実際には大したことが起きた。
中学生くらいの子に早碁とはいえ、そして中盤から終盤のみとはいえ、負けてしまうとは。
アキラなら負けても仕方ないとは思えるが……
「はぁ……さっきの子に負かされたんですよ」
「あれ? でもあの子思いっきり初心者みたいな打ち方してましたよね? 指導碁をしてたんですよね?」
「ああ」
「なら別に落ち込むことじゃないと思いますけど」
芦原は“途中から本気を出した”ことを言う気にはなれなかった。