『ひどいひどい! まだヒカルの顔も見てないじゃないですか!』
佐為がわめいた。
駄々っ子のように。
もちろん佐為にとって碁を打てたことは嬉しかったが、ヒカルと会うことはそれとは別だった。
そもそも今回、こうやって大会にやって来たのは、ヒカルと佐為が会うためなのだ。
それなのに斜陰は逃げ出してきてしまった。
(でも素性は絶対、知られたくないし)
斜陰は思った。
もし国民的超人気アイドルがプロを負かした、ということが世間に知られれば――絶対面倒なことになる。
てか仕事増える。
ホント、嫌。
今でも無茶苦茶『仕事減らせ! 仕事減らせ!』って言って、週6という事実。
こんな状況でさらに囲碁が滅茶苦茶強いことがバレたら、絶対週7になる。
それは受け入れがたいものであった。
「帰るよ? ね?」
『ですが……まだヒカルと……』
「これやらせてあげるから……いいでしょ?」
斜陰の手には先ほど貰った囲碁のポスター。
その下部には――
これからの時代はネット碁だ!
ワールド囲碁ネットでは世界中の猛者たちと、競い合うことが出来る! もちろん初心者も大歓迎! レーティングシステムを採用し、さらに快適になったワールド囲碁ネットをやらない手はない!
広告があった。
『あ、ネット碁ですね! ヒカルともよくやりました! ネット碁では世界中の碁打ちを一刀両断、百人斬りしたんですよ!』
「やらせてあげるよ」
『え!? ホントですか!?』
はしゃぐ佐為。
そんな様子を、かわいいなぁ~と思いながら見守る斜陰。
二人は会場から駅への道を歩く。
逆方向から、一人の青年が走ってくるのが見えた。
前髪だけ金髪に染めた青年。
「あっ!!」
――間違いない! 進藤ヒカルだ!
斜陰はヒカルの顔をガン見した。
『ヒカル!!』
遅れて、ネット碁を打つ喜びに浮かれていた佐為も気付く。
『ヒカル!!』
佐為はヒカルの前に立つ。
しかし――
「もしかして俺のファン?」
――ヒカルが声をかけたのは、斜陰だけだった。
「でもごめんな! 今、急いでいるから! 今度会ったら色紙書いてやるから!」
ヒカルは走り去っていく。
佐為の体をすり抜けて。
『あぁ……』
佐為は震えた。
『この身がないのが口惜しい』
佐為の涙が零れ落ちる。
「佐為……」
斜陰はどうすることもできなかった。
佐為が泣き止むまでずっと、見守ることしかできなかった。
「ん? 今、佐為って聞こえたような?」
走り去ったヒカルは、後ろを振り返る。
ヒカルはチラリと時計を見る。
「やっべ! もうこんな時間だ! 急がねーと!」
ヒカルは気のせいだと思い、会場へと向かうのだった。
※
斜陰の家(というかマンションの一室)にはパソコンがある。
ほとんど使っていないが……
「パソコン動くかなぁ」
久しぶりすぎて動いてくれるか心配になる斜陰。
半年前に買って以来、使ったのは最初の一週間だけだったような記憶がある。
大丈夫かな?
うぃいいいいいいん
「……あ、動いた」
パソコンはゆっくりと起動する。
2019年のスマホ等に比べると本当に遅すぎる速度で起動する。
しかしここはまだXPの時代。
そのパソコンは最新機種のXP()であった。
お茶を持ってくると、ホーム画面になっていた。
「よし! やりますか! ワールド囲碁ネットっと!」
『あ、文字を打てるんですね!』
「まあ、一応?」
斜陰はタイピングができる。
斜陰はバカじゃない。
可愛いのはそうだが、それだけじゃなく、聡明でもある。
もしアイドルじゃなかったら、地元でトップの進学校に通うはずだった程度には賢かった。
「う~ん、名前かぁ……どうしよう?」
『昔ヒカルとやっていたときはsaiという名前でやっておりましたが……』
「安直だね」
一応、saiという名前で登録しようとしてみるが、案の定“この名前は既に使われています”というシステムメッセージが表示された。
ワールド囲碁ネットはこの2年間で少し変わっている。
まず、名前の被りは禁止。
“偽saiか?”
なんていう和谷の言葉が聞けることはない。
他にレーティングシステムが導入された。
「……でもどうしよう?」
斜陰は悩む。
Fujiwaraや自分の本名であるyuukoは使えなかった。
「shineでいいかな」
しかし、どうやらshineは使えるようだ。
ちなみに語源は、
斜陰→シャイン→shine
というわけである。
『いいんじゃないですか、名前なんて。私は打てればそれで満足ですよ』
「ならいっか」
そしてsai改め、shineがネット碁の世界に再び現れた。
それは塔矢行洋との戦いから実に2年後のことだった。
※
シネ
初めて見たとき、ふざけた名前の野郎だと思った。
――s――h――i――n――e
つまりシネ。
中卒の和谷に英語能力なんてあるはずもない。
しかしパソコンを使うので、shiでシと読むことは知っていた。
シネ
そんな舐めた奴、この俺がぶったたいてやる!
しかしその30分後、和谷はパソコンの画面を見て、呆然としていた。
「そんな……バカな……」
その強さは、トップ棋士たちと遜色ない。
いや、遜色がないどころじゃない。
これは――
――自分が戦ってきた誰よりも強い
そんなことがよぎり、そして即座に否定する。
ありえない。
しかし――
――じゃあなぜ、4年前に現れた伝説の打ち手“sai”のことが、脳裏にチラつくんだ?
しかし、今の碁を見返せば見返すほど、saiがちらつく。
この手も、あの手も、その手も。
まるでsaiだ。
「まさか……」
和谷の声が漏れた。