進藤ヒカル四段 VS 和谷義高四段 の一戦が行われていた。
パチッパチッパチッとまるで早碁のような速度で進んでいく。
今日の和谷にはとある負けられない理由があった。
そしてなるべく早く、対局を終わらせたい理由もあった。
――今日の和谷は気迫がちげーぜ!!
ヒカルは和谷の気迫に驚く。
未だかつて、和谷がこれほどまでにヒカルに闘志をむき出しにしたことがあっただろうか。
――勝つ! 今日は絶対に勝つ!!
和谷はヒカルの一手に、読み通りだ! と言わんばかりにノータイムで応手を放つ。
気迫のこもった一手。
早指しで知られるヒカルだが、むしろ今日の対局は全く逆。和谷のノータイム指しのせいで、どんどん時間の差が開いていく。
――正直、心のどこかで和谷には勝てる気でいたぜ……ひどい……
ヒカルは冷静に盤面を見渡す。
悪い。
かなり悪い。
盤面で互角くらい。
ヒカルが黒で、和谷が白だ。
ヒカルはコミの分だけ負けていた。
ヒカルは深く読んでいく。
しかし結論は変わらない。
自分がかなり悪い。
――逆転するのは大変だ……こうなったら一か八か、早碁のまま進めた方がチャンスはある!!
ヒカルは脳裏へ浮かぶ逆転筋を目指して、石を放った。
――あめーぜ、進藤!!
和谷は、ヒカルが深く読んでいた時間、同じように深く読んでいた。
そしてヒカルのその手はその間に考えていた。
和谷、ノータイムの応手。
しかしヒカルもその手は読んでいた。
ノータイムの打ち合いが続く。
そして、昼食休憩前に、対局が終わった。
ヒカルは盤の前で俯く。
「和谷……俺が和谷にプロ試験で勝ったときさ……」
「ああ、あれか」
「お前、俺に『今日の一局は sai並みだったぜ』って言ったよな……あれ、嬉しかった」
「ああ」
和谷はその時の碁を思い出す。
進藤の黒石を殺せば、プロ試験合格というところだったんだ。
そして俺は、黒石を殺せると確信した。黒の生きる道はないと。
しかしあった実はひとつだけ。
険しい険しい道だけど、たった一つだけあった。
今でも思う。
あの石を生かすには、sai並みの実力がなければならない。
和谷はかつての記憶を思い起こす。
「……今日の和谷、saiみてーな強さだったぜ。それも怒った時の佐為だ」
ヒカルが思い出していたのは、かつて佐為と過ごした日々。
大抵いつも容赦ないが、特に怒ったときはひどい。自分の手がすべて読みの範疇だと言わんばかりの手を放ってくる。
「進藤……怒った時のsaiってどういうことだ?」
「そんぐらい強かったってことだよ」
ヒカルは盤にうつむいたまま、答えた。
和谷は少し疑問に思ったが、
「じゃあな」
そう言って、去る――
――――――大切な握手券を握りしめながら。
そう。
和谷が急ぐ理由。
それは応援するアイドルと握手をするためであった……
※
斜陰は天然だが、頭が良い。
だけど、斜陰は天然じゃなく振舞おうと思えば、普通に振舞うこともできる人間だった。
ただしそれには、無茶苦茶疲れる、という注意書きが付くが。
逆に言うと、疲れないためには天然であるしかない。
なので斜陰はなるべく天然な状態でいたかった。
何も考えずにぽけーと過ごしていたかった。
でもそうも言ってられないときもある。
それが、そう。
握手会であった。
長い時間、次から次に現れる男たちと笑顔で握手し続けるなんて、普通じゃできない。
無理だ。
もし天然モードの斜陰が握手会をやろうと思えば、
1人目で、笑顔がはがれ、
2人目で、握手が片手になり、
3人目で、露骨な嫌な顔をすることになるだろう。
ちなみに4人目はない。
逃げ去ってしまうから。
そもそも斜陰はド陰キャなのだ。
他人と次々に握手していくなんて、そんな精神のすり削られるようなこと、できるはずもない。
もちろん、斜陰は抗議した。
抗議に抗議を重ねた。
しかし結局ゼロになることはなかった。
3時間の連続握手。
大変な重労働である。
ちなみに元は、90分の5部編成で7時間半である。
それをなんとか5分の2にして貰って3時間なのである。
そう言うと3時間が少なく感じられるかもしれないが、斜陰にとって握手会の3時間は地獄のように辛い。
自分の素を出してしまえば、握手会なんてできない。
こういうとき、斜陰は逆に何かを考えるようにしている。
何かを考えれば、気持ちが紛れるから。
(あー、この人もサラリーマンなのかな? でも今日は平日なのに……会社休んでいるのかな? 奥さんはいそうな雰囲気だけど、私と握手なんてしていいのかな?)
『あ! でも薬指に指輪はありませんよ! これを付けてなかったら結婚してないってことなんですよね!』
(別に、結婚してるけど指輪付けていない人、結構いるよ)
『そうなのですか?』
佐為はテンション低めの斜陰と違って、なかなかにテンションが高い。
(……次の人は典型的なドルオタ大学生かな。今日はそもそも大学がないのか、それとも休んだのか)
斜陰は次々に現れる自分のファンたちの普段の生活を考えながら、握手していく。
(あ、次の人は結構かっこいいかも。大学生かな? 私と握手するために必死でバイトとかしたのかなー)
茶髪の男が現れる。
『和谷じゃないですか!!!!!!』
ビクッ
突然大声を出した佐為。
斜陰は振り返って、心の中で佐為に苦言を呈する。
(いきなり大声出さないでよ! びくってなっちゃったじゃん!)
『ああ、ごめんなさい。ですが和谷はヒカルの友人で、何度もヒカルと戦ってきた相手なんですよ』
そう。
佐為が消えるまでの間で一番ヒカルと指した相手は、和谷なのだ。
もちろん佐為は除くとして……
和谷は同じ森下門下として毎週研究会で一回は打つ。
それだけじゃない。院生の手合いやプロ試験でも当たった。
ヒカルと和谷は何度も戦ってきたのだ。
ヒカルの急成長の陰には、面倒見のいい和谷の存在も、一役買っていた。
(へー、ヒカルさんの友人……プロだったり?)
『ええ。和谷はヒカルと同じ年にプロになりましたね。年齢的にはヒカルの一つ上です』
(じゃあ高校3年生ってこと? 確かにちょっと大学生というよりは高校生っぽさもあるかも? でもやっぱり、雰囲気が一般人とは違うよね)
「あの――」
和谷は恐る恐る声をかけた。
「あ! あ! ごめんね! ちょっとぼーっとしてた!」
斜陰の意識が、佐為との話から戻ってくる。
「はい!」
斜陰はすぐに切り替えて、笑顔で手を差し出す。
「……」
「……あの、どうかしましたか?」
和谷は斜陰の笑顔に見惚れていた。
そのことを自覚すると一気に顔が熱くなる。
「あ……えー」
和谷は無茶苦茶テンパりながら手を差し出した。
そして斜陰の手をぎゅっと握って、そしてばっと逃げ去るように帰っていった。
『和谷もまだまだ若いですねぇ』
佐為はそう呟きながら、ヒカルのそっち方面はどうなんでしょうか? と疑問に思った。
――あかりちゃんと恋人関係になったのでしょうか?
そんなことを思った。
誤字報告、ありがとうございます(^^)/