溝口斜陰、初段を破る。
囲碁の記事を見ていると、そんな言葉がよく見られる。
それともう一つ、よく見られるのは、
ネット碁に死神現る!
最高レート保持者!
勝率は驚異の9割5分!
そんな記事である。
佐為がネット後の世界に再来してからもうすでに3か月ほど。
shineの名は、囲碁界全体に広まっていた。
そしてこれをシネと読む日本人棋士が続出。
しかし、シネというのは口に出すのはあまりよろしくないということで、通称『死神』と呼ばれていた。
そんな死神は、瞬く間に最高レート記録保持者となった。そして前人未到のR3000を超えた。現在、唯一のR3000代として君臨していた。
もちろんそうなると世界中の猛者たちがほっておくはずもない。
誰でもいいから受けていたヒカルとは違い、斜陰は、どうせやるなら佐為もなるべく強い人がいいでしょ、って思っていたため、大抵戦う相手はその時アクセスしている中で一番レートが高い者との戦いだった。
日本のプロだけではなく、韓国や中国のプロもshineと打つためにネット碁の世界に参入し、そして対局を挑んでいった。
もちろんそれだけの猛者相手ばかりとなると、流石の佐為でも全勝とはいかなかった。
しかしそれでも勝率9割5分オーバー。
これがどれだけとんでもない記録なのか――
――そのことを斜陰は理解していなかった。
しかしこの幽霊がとんでもないレベルということだけは理解していた。
※
和谷は溝口斜陰というアイドルのことが好きだった。
その気持ちは、この前の握手会で、また一段と強くした。
――斜陰が俺を支えている
和谷は強い。
しかし終わりのない碁の世界でモチベーションを維持するのは大変だ。
そんな中で和谷が囲碁へと傾倒できているのは、ひとえに斜陰のおかげだった。
もちろんそんな斜陰大好きな和谷は、斜陰の出たテレビ番組はすべて見ている。
囲碁の対局は見た。
といっても、テレビに最初から最後まで映っていたわけではないし、棋譜も公開されていないようだった。
結果も、斜陰の圧勝だったが、すべての石を殺せたわけではなかった。
だから和谷が斜陰の実力に気付かなかったのは仕方のないところだろう。
むしろ桑原本因坊が気付いたことのほうがおかしい。
すべての棋譜を見せられても初心者同士の碁にしか見えないものなのに、その上、対局の様子は飛び飛びで映されただけ。はっきり言って分かるわけもない。
和谷がそれを見て思ったのは、
――うわ、ひっでー碁だ。こっちのおっさんが初段っていうのも嘘だな、こりゃ。
それだけの感想だった。
――シャインちゃんが囲碁やってくれるのはすごく嬉しいし、これを見て囲碁を始めてくれる人もいるかもしれないけど……肝心の碁の内容はな……
しかしそんな碁に影響される者もいる。
※
和谷は指導碁をしていた。
今は夏休み。
棋士にとっては、子供たちに囲碁を教える絶好の機会である。
和谷も例にもれず、子供たちに5面指しで指導碁をしていた。
一つの対局が終わると、和谷は良かった点や悪かった点を指摘していく。
「ここはすごくよかったね。よく読めてる。あとこの石を捨てる判断もよかったよ」
和谷はなるべく優しく、を心掛けて伝えていく。
「一つだけ気になったのは、このときにここに打ったよね。これはちょっとやりすぎだったね」
悪かった点はどれだけ気になっても一つだけにする。
良かった点は気付いただけ言ってあげる。
それが和谷のスタイルだった。
そして残りの対局に戻る。
最後の一局も終わった。
同じように良かった点と悪かった点を指摘する。
しかし同じようにやっても、結果はその子次第。
それで上手くいかないときもある。
その女の子は反発した。
「この手は、シャインちゃんならどうするかなって思って打ったんです! 私、シャインちゃんにあこがれてて!!」
小学生くらいの女の子は少し泣きそうな眼差しで、和谷を見上げた。
「シャインちゃんに憧れるのは分かるけど……でもこの手はな……」
――なんて言えばいい? シャインちゃんは弱いから真似するな、とか言っちゃうのか?
和谷は斜陰が好きなので、“憧れるな!”なんて言うことはできない。
「俺もシャインちゃんは大好きだよ」
「だ、だよねっ!!」
「でも、そもそもシャインちゃんはそこまで強いわけじゃ――」
「――ふぉっふぉっふぉ」
突然、白髪の老人が現れた。
「おい小僧、その手は面白い一手じゃぞ? まるであの嬢ちゃんのような、な」
それは桑原本因坊であった。
「桑原本因坊!?」
和谷は驚く。
一方、その女の子は自分の手が認められたことが嬉しくて、
「でしょでしょ!!」
とハイテンションで言う。
――でもなんだ、その言い方は……まるでシャインちゃんが強いみたいな言い方だな、こりゃ……
和谷には桑原本因坊の言い方が気になった。
「くくく、不思議か? ならこっからワシが打ってやろう」
桑原本因坊にそう提案されて和谷が断れるはずもなく……
「よろしくお願いします」
そして和谷は負けた。
「まさか……この一手は右下の攻防との兼ね合いになっていたなんて……」
「ふぉっふぉっふぉ」
「でも、このとき、俺がここに打っていたら……やっぱり」
「ならそっから打つか?」
桑原本因坊は左目だけを開いて、和谷を見抜いた。
「よ、よろしくお願いします!」
また和谷は負けた。
「そうかこっちばかり気にすると、今度は地合いの勝負に持ち込まれるのか……」
「ふぉっふぉっふぉ、だからこの一手は面白いじゃろ?」
「おじいちゃんすごい! プロに勝っちゃうなんて只者じゃないね!」
その女の子は桑原本因坊とはわからない。
というかプロに詳しくない系の子だった。
その女の子は席に座ったまま、特等席でその対局を見ていた。
もちろん、プロ同士の対局だ。
ギャラリーもたくさんついていた。
子供だけじゃなく、囲碁好きのおじさんなど、いろいろな人がその対局を囲んでいた。
その中で一人――
(和谷って人、プロの中でも弱いほうなのかな?)
男装斜陰が、見ていたのだった。