斜陰に佐為が取り憑いてから、3ヵ月ほど経った。
今日は斜陰の休日。
基本的に休日は家に引きこもるのだが、今日は珍しく外に出るようだ。
佐為が取り憑いてから、休日に外に出るのは今日で2度目である。
ド陰キャなので仕方ない。
ちなみに前回出たときは、男装し、芦原と戦い、そしてヒカルと会った。(あれを会ったと表現していいかは、微妙だが)
佐為はあの一件以来、『ヒカルに会いたいです!』と言うことがなくなった。
――ヒカルに私はもう、見えていないのですね。
佐為は諦めていた。
もちろん、佐為にとってヒカルの存在は大きい。
だからといって、佐為がわがままを言っていい理由にはならない。
もう前とは違うのだ。
――今、私はこの子の体を借りて、囲碁を打たせてもらっている。毎日とても忙しいのに、よく打たせてもらっている。休日になるとほとんどずっと私のわがままを聞いてくださっている……これ以上は望むまい。
佐為は幸せだった。
ヒカルとはたくさん打ったが、他の者とはあんまり打たせてはもらえなかった。
でも今はこうして世界中の猛者たちと打ち続けている。
最善の一手の追求。
神の一手を極めるという目標がなくなっても、囲碁への情熱は変わらない。
※
『それで、それで、今日はどこへ行くんです?』
(それはね、ここ)
斜陰は一枚のチラシを見せる。
『大盤解説会ですか! ヒカルと行ったこともありますよ! あ、もしかしてヒカルが出るんですか!?』
(ううん、違うよ)
『え……じゃあなんでですか?』
(それに行きたいのは、大盤解説会じゃなくてこっち)
斜陰はチラシに指さす。
『指導碁……ですか』
(うん)
『ヒカルはいないですね……じゃあなんで?』
斜陰が今日、こうしてやってきた理由。
それは――
(――和谷って人、見てみたいなって思って)
『和谷ですかぁ……』
(ドッキリ的な? 絶対面白いでしょ? だってあの握手会に参加するほど、私のファンなんだよ?)
そう。
斜陰と握手をする時点で、ただのファンではない。
なぜなら、斜陰と握手するには通常の握手券ではダメだから。
プレミアム握手券という、通常の握手券の30倍の値段がするものが必要になる。
それでも一瞬で完売してしまうのが、斜陰の人気の凄まじさだったりするのだが……
(あ、でも、別に正体をばらしたりはしないからね?)
『しかし……和谷も、少々天然なところがありますから……全く気付かないかもしれませんよ』
(いいのいいの、面白ければ。休日だし)
そう。
休日だ。
疲れるようなことはしたくない。
なるべく自然体でいたい。
とはいえ素顔でいけば騒ぎになるのは必至なので、男装している。そういうわけでどうしても声を出さないといけないときは、なるべく低い声で喋るつもりである。
まあアイドルとして歌も歌う斜陰にとって、その程度のことは造作もない。
男装斜陰は、会場の中を堂々と歩く。
そこにアイドルの片鱗は1ミリたりとも見えない。
全体的に黒っぽい格好で、髪の毛はキャップの中にしまっている。顔には大きめのマスクを付けていて、顔はわからない。
その姿は、“少年A”と言った感じで、とても没個性的なものだった。
これを見て天下のアイドルだと分かる人はいないだろう。
そんな男装斜陰は、指導碁のスペースに向かった。
すると何やら人だかりができていることに気づいた。
自分もその輪に入ってみると、中心には和谷と知らない老人がいた。
(あ、和谷だ! それと……あのおじいちゃん、誰? 指導碁のお客さん?)
男装斜陰は心の中で聞く。
『違います、桑原本因坊ですよ! でもまだ本因坊にしがみついているようですね……ヒカルに取られちゃえばいいのに!』
(あんなおじいちゃんもプロなんだ! それと……本因坊? そういえば佐為も本因坊だったんだよね?)
『そうです! あの人が本因坊だなんて、ちょっと嫌です』
(そっか)
斜陰にはよく分からない。
和谷と桑原の対局を見ながら、キャップのつばを整える斜陰。
斜陰はギャラリーの中にひっそりといたのだった。
そして、対局が終わる。
斜陰でも分かる。
和谷の完敗だ。
(和谷って人、プロの中でも弱い方なのかな?)
『そんなことないですよ! あの老人が強いだけで!』
(本因坊? だっけ。それがあるから強いってこと?)
『まあそうですね。本因坊の他にも、名人、碁聖、棋聖、十段、王座、天元というのがあって、この7つをまとめてタイトルと呼びます。そしてタイトルを持っているのはトッププロの証です』
(へー。つまり上位7人の中に入っているってこと?)
『ええ、今は緒方という者が3冠のようですし、7人もいるわけではありませんが……』
(え? 7つしかないのに、一人で3つも取っちゃってもいいの??)
『そうですね……強ければ、どれだけでも』
斜陰は囲碁の世界のことなんて何も知らない。
今までは、暇な時間にネット碁で佐為に打たせてたくらいである。
「ふぉっふぉっふぉ、次の指導碁の時間が迫っているようじゃし、老いぼれはそろそろ退散しようかの」
「桑原本因坊、ありがとうございました!」
「なんのなんの、気にするな」
桑原が去ろうとすると、ギャラリーは道を空ける。
その様子に気付いた斜陰も慌てて、道を空ける。
「小僧、只者ではないな」
桑原は斜陰とすれ違う直前、足を止めた。
「え?」
「ふむふむ、ほぉ……小娘、と言った方がいいかのう?」
――ッ!? なんで分かったのッ!?
斜陰に衝撃が走る。
桑原のシックスセンスは、斜陰の男装を見抜いただけではなく、その中にただならぬ雰囲気を見つけた。
この雰囲気は――そう、かつて進藤という小僧とすれ違ったときと同じ。
桑原はその記憶を呼び覚まし、尋ねる。
「お主、院生か?」
「いえ、ボクは……ただの一般人です」
「ふぉっふぉっふぉ、なるほどのう。面白いガキじゃ」
桑原は「ふぉっふぉっふぉ」と言いながら去って行った。
そして斜陰は和谷との指導碁をする。
さっきまでは小学生以下対象だったが、今の時間帯は一般の部のようで、他の人は斜陰以外に2人。おばさんとおじさんだった。
斜陰は右端の席に座ると、和谷が声をかけてきた。
「お前、桑原本因坊と知り合いか?」
いきなりタメ口であった。
和谷の性格上、敬語は極力使わない。
ぱっと見、中学生男子の男装斜陰に敬語を使うわけないのだ。
まあ――もし斜陰の正体に気付いていれば、絶対に敬語を使っただろうが。
しかしそれは桑原がおかしかっただけで、斜陰の男装に気付くことはまず、ない。
ちなみに先ほどの桑原の発言で、“小娘”という部分はかなり小声で言っていた。
だからこそ、周りの人はそこの部分を何と言ったかは聞き取れていないし、斜陰の男装に気付く人もいない。
そんなわけで和谷が、桑原と斜陰が知り合いかと思ったのも無理からぬところであった。
一方、斜陰。
「全然、そんなことないです」
ときっぱり否定する。
「ふーん、進藤みたいなことか?」
「進藤って、ヒカル?」
「ああ、そうだ。あいつ、桑原本因坊に一度すれ違っただけで、目付けられたんだぜ。ありえねーよな!」
「へ、へー」
斜陰はそう言いながら、内心ドン引きしていた。
(佐為。も、もしかして、あのおじいちゃん、幽霊が見えるの?)
『わ、わかりませんが……でも見えてはいないと思いますけど』
(そ、そうだよねっ)
「あ、そういえば、和谷さん」
「和谷さんって……」
和谷は斜陰の呼び方に、すごい違和感を感じた。
とはいえ、別に注意するようなことではないか。
そう思う。
「まあいっか」
『ユウコさん、こういうときは普通、和谷先生って呼ぶんですよ』
(へー、そうなんだ)
――だが、断る!
「それで、どうかしたのか?」
「和谷~、実は私――じゃない僕、囲碁打つの初めてなんです~」
「……え?」
もう素の天然がかなり出ちゃっている斜陰は、何も気にせず呼び捨てで話す。
「え? えーと、今までに一度も打ったことがないってこと? 初心者? ルールは分かる?」
和谷は驚き、続けざまに聞いた。
しかし驚いているのは和谷だけではなかった。
『え!? ユウコさん!! どういうことですか!?』
佐為も驚いていた。
(だって、ネット碁で一位なんだよ? そんな人がいたら絶対、騒ぎになっちゃうって! だから今日は私が打つ!)
『でも今まで一度も対局したことないんですよね?』
(まあ、そうだけど……でもどれだけ佐為の対局見てたと思ってるの! 私、一度も打っていないけど、かなりの実力だと思うんだよね!)
『見て学ぶのは、ある程度碁に触れてきた人じゃないと……』
佐為が取り憑いてから3ヵ月。
暇な時間はずっとネット碁で佐為に打たせていた。
その間、自分では一度も打たなかったが、もちろんルールは把握したし、石の筋というのも分かるようになっていた。
「僕、ルールは全然問題ないよ」
男装斜陰は言う。
「そ、そうか」
「うん! 打ったことないけど、多分まあまあ強いと思う」
「それは大層な自信のほどで……」
そして斜陰の初めての囲碁が始まった。